第1083回 もののあはれという、日本人の運命の受け止め方

 

 コロナウィルスで、かつて経験したことのない重い空気が世界を覆っている。

 私は、2015年10月に発行した風の旅人の第50号で、次号の告知として、「もののあはれ」を発表したものの、その底深いテーマの前に途方にくれ、そのままになってしまっていた。

 日本人が、昔から大事にした感受性、”もののあはれ”の真意は何なのか、その起源はどこにあるのか?

 日本は、地震、火山噴火、台風など天災が多いところなので、そうした人智を超えた力の前で運命に逆らうような抵抗をしてもどうにもならない。ならば、その運命の受け止め方をどうするのかが日本人の精神にとって重要なこととなり、それが、”もののあはれ”という美意識に洗練されていった。単なる諦めではなく、はかない宿命だからこそ、隅々まで神経を行き届かせる思いやりという愛が成熟していくというように。

 そして、ギリシャ彫刻のような完全なる形を愛でるだけでなく、崩れていくもの、傷ついているもの、揺らいでいるもの、そこはかとなきものを愛するという繊細な感受性を磨き上げていった。

 そうした日本の”もののあはれ”の源流を探るために日本各地の聖域に足を運ぶたびに感じることがある。それは、古くからの日本の聖域は、エジプトやギリシャと異なり、風雨や植物に侵され、明確な形が残っておらず、ほとんど気配だけが漂っている状態であること。

 ほとんどの場所が、「夏草や つわものどもが 夢の跡」という芭蕉の俳句の世界なのだ。芭蕉は、そこに漂う気配と自分の想像力で、いにしえの人々に深く心を寄せていた。

 日本人は、そこにある物だけではなく、そこにある物の背後のことを強く意識する気質がある。その気質は、自然風土が育んだものか、自然風土によって洗練されていった文化風土によって、日本人の気質が育てられたのか。

 実際に、「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行の歌を、我が事のように追体験できる人は多い。

 そして、私は、日本の聖域を訪れながら、そこにある物自体をデジタルカメラで撮影したが、単に今そこにある物が写っているだけで、西行が、かたじけないと感じるようなものは何も写らなかった。

 そのため、私は、原初的なピンホールカメラによる長時間露光という方法で、その場の空気を念写することにした。そして、その写真を見ながら、古代に思いを馳せ、文章を綴ってきた。

 なぜピンホールカメラなのか。

 まず、250分の1秒というカメラの超高速のシャッター速度が、自分が今そこで実際に見ている感覚と合致しているのかという疑問があった。

 というのは、たとえば私が巨大な磐座を凝視している時、その磐座の背後で風に揺れている木々の枝や葉は目に入っていない。私の感覚は、ただ揺れ動く気配だけをとらえている。にもかかわらず高速シャッターで撮られた写真は、全てを停止させ、葉脈まで見えそうな描写力となる。それは素晴らしい技術の結果ではあるが、そういう技術力に意識がいくと、磐座への意識は半減する。

 「なにごとの おはしますかは知らねども」という感覚は消えて、そこにある物の存在の主張が強すぎるという結果になるのだ。

 さらに、そういう高速シャッターを実現させるのは、弱い光でも強く吸い取るレンズの力だ。

 しかし私は、以前から、たとえば望遠鏡でとらえたとする宇宙の果ての映像を信じることができない。レンズというのは、企業の開発者が作っているのだが、製造過程において見え方を調整していく。なので最終的に、人間が見たい映像が得られるようにレンズは調整される。そして誰が見たいのかというと開発者の好みというより、開発者が同時代のニーズに配慮していくということになる。なので、たとえば、時々オールドレンズが人気になったりするが、人間が見たいように見せる映像ばかり見ていると、けっきょく飽きてしまうからだと思う。

 そして、宇宙の果ての映像というのは、レンズとコンピューターと、赤外線その他の電波の観測結果を合成したものであり、あらかじめ人間が想定している範疇のものを恣意的に出現させているにすぎないと思わざるを得ない。とくに、近年、ブラックホールを映像で捉えたというニュースが伝えられて話題になったが、少し前のヒッグス粒子の発見の大騒ぎと同様、とても胡散臭い。レンズを仲介にした映像というのは、私たちが信じているほど、”ありのまま”ではない。

 似たような理由で、私は、真実探求の誠実なスタンスとされる実証主義も、あまり信用していない。例えば考古学において、歴史的証拠が発見されたと大きく発表される時の多くは、あらかじめそういうものが出てきて欲しいとという願望の範疇、つまり専門家による説明可能なものが多く、その想定からズレていて誰にも説明できないものは、発見されていても、イレギュラーなものとして脇に置かれたままになっていることがある。

 本当は、そのイレギュラーとされているものから歴史を組み立て直さなければいけないかもしれないのに、それができる専門家はいない。そして、そういう新たな組み立てを邪魔する専門家も多い。自分たちの積み上げてきた研究の前提が崩れ、なかにはポジションを失う人もいるだろうから。

 真実の探求といいながら、実際には、古代ギリシャプロタゴラスなど詭弁家たちと同様、自分のポジションを守るために、他人を説得し状況を自己に有利なように展開する方法の探求をやっているにすぎないと思わされることも多いのだ。

 海外においては、エジプトのピラミッドより7000年も古いトルコのギョベクリ・テペ遺跡の発見や、日本においては、鉱山の歴史を500年も遡らせる徳島の若杉山遺跡の鉱山の坑道の発見(これまで日本の鉱山の始まりは8世紀の奈良時代とされ、大和朝廷の時代も邪馬台国の時代も、鉱物は輸入に頼っていたとされていた。)などは、これまで教科書で習った歴史をひっくり返す可能性がある。

 学説というのもまた、”つわものどもが 夢の跡” なのだ。幻であり、”数を尽くして変を極め、形に因りて移りゆくもの”(列子)である。

  そして、このたび、私は、もののあはれ源流を辿る足跡を一つに束ね、一冊の本を制作した。

 こちらのホームページでも、PDF画像ではあるけれど、その内容の全てをご確認いただくことができます。

 https://www.kazetabi.jp/sacred-world/ 

www.kazetabi.jp

  ただ、私が行ってきたような時空を超えた旅は、単なる情報提供ではなく、その空気をいかにリアルに体感していただけるかが重要なので、やはり、紙媒体でないと伝わりきれないものがある。

 ”もののあはれ”というのは、目だけでなく、手触りや香りなど全ての感覚を総動員して物事の背後にある何かにアクセスして心中に立ち上がる世界のリアリティであり、それを、西行は、”かたじけない”とした。

 それは、世界から身にあまるものを受け取っているという感覚で、日本人が昔から美徳としてきた謙虚さの本質もそこにある。

 現在、世界中を大混乱に陥れているコロナウィルスは、現代人が失っている謙虚さと関わることで、混乱をよりいっそう深刻なものにする可能性がある。

 もちろん、生命は大切だ。しかし、古代から賢人は、この世に生と死があるのではなく、生も死も変化の一つの相にすぎないと言っており、一つの相にすぎない生をどう大切にするかが鍵になる。

 限りある宿命の前に諦めて開き直るのではなく、また大切にするのだと主張して、単に執着するのも道理に反している。

 限られたものであってもそれを受け取れることに対して、かたじけないという気持ちが生じないようでは、生命を大切にしているとは言えない。生命を大切にしているかどうかは、生命に対する作法が、摂理にそったものかどうかによって示される。

 

第1082回 神の使者、ライチョウと、水越武さんの写真。

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 写真家の水越武さんの新著、「日本アルプスライチョウ」が、手元に届いた。

https://www.shinchosha.co.jp/book/315233/

 本当に素晴らしい! ここ最近見た新著の写真集のなかで、もっとも素晴らしい。

 写真集としては小さなサイズだけれど、この小ささで、これだけの深さと広がりが出ている写真集は、めったにないと思う。

 素晴らしい写真というのは、小さなサイズでも十分に説得力があるのだと、改めて思い知った。

 水越さんとは、水越さんの拠点である屈斜路湖畔でも何度も一緒に過ごしたし、知床とかオホーツクの流氷も一緒に行ったので、いつ聞いた話かわからないけれど、神の鳥、雷鳥をずっと追い続けているという話をされていた。

 水越さんは、ヒマラヤをはじめスケールの大きな自然を被写体にするとともに、手のひらサイズの小さな自然世界を広大無辺に捉える写真家でもあり、そこが一般の山岳写真家とは異なるところだった。

 水越さんは、山を外側から撮るのではなく、山の内側の世界に入り込み、山の息吹と一体となり、それじたいを生きながら、その世界と一体化して撮影している。だから、撮られた写真は、綺麗なだけの山岳写真や自然写真ではなく、水越さんの魂と、山や自然の魂が合わさったものになる。

 それは、他ではなかなか見ることができないものだ。

 その水越さんがライチョウを追い続けているというだけで、ライチョウの神話性が、より特別なものとして私に伝わり、深く記憶されていた。

 そして、その神話性は、いったいどういう形でアウトプットされるのかと夢想した。

 それが今回、このような形で具体的に出てきた。

 この本は、もちろん、図鑑のようなライチョウの写真ではない。

 ライチョウを介して、まさに神が作り上げた世界が、顕在化している写真集だ。

 様々な神話の中で、鳥に限らず、猿や狐など色々な動物が、神の使者として登場する。

 神の使者というのは、いったいどういうものかわからないまま、私たちは、神の使者という言葉を使っている。

 神の使者というのは、その存在の背後に、神が作り上げた世界の本質を見せてくれるものだ。そういう意味では、優れた匠もまた、神の使者であり、水越さんもまた、一人の写真家であるというより優れた匠であり、神の使者であると思う。

 そして、今改めて、そんな神の使者のような人と、多くの時間を過ごさせていただけたことの有り難みを深く感じることとなった。

 思えば、2002年の冬、写真家の野町和嘉さんに背中を押されるようにして、風の旅人の創刊準備に入った時、野町さんに企画書を見せた創刊号のテーマが、「天空」だった。

 当時の私は、写真家のことは野町さんしか知らなかった。その野町さんの仕事場の書棚にあったのが水越さんのヒマラヤの写真集で、私がふとそれに手を伸ばすと、「天空がテーマなら、水越さん、いいんじゃない」とアドバイスされ、さっそく水越さんに連絡をとり、屈斜路まで会いに行った。

 水越さんが作った蕎麦を召し上がりながら、「どんな雑誌を作ろうとしているのですか?」とか聞かれ、まだ具体的なものは何もないのに私の話に耳を傾けてくれた水越さんは、私が選んだポジ写真のオリジナルを20点ほど、初対面にもかかわらず預けてくれた。デュープではなく、オリジナルのポジをそのままドサっと雑誌編集のために預けてくれるというのは大変なこと。なにせオリジナルは、その一点しかない。しかも、水越さんのシャッター数を非常に少ない。

 今回、新しく出版されたライチョウの写真集のなかでも、とても印象的な水越さんの文章がある。

 「私は、息を潜め、しばらくの間、静かにライチョウと対峙していたが、せめて写真1枚だけでもと、そっとシャッターを切った。するとライチョウは「ガアアー」とひと鳴きして飛び立ち、鋭く切れ落ちた滝谷に吸い込まれるように姿を消した。至近距離で無神経にカメラを持ち出した自分の行動を恥じ、呆然と立ちすくんだ。」

 オホーツクの流氷を撮影する水越さんに同行した時に、氷のアーケードの向こうに沈んでいく太陽を撮るために早くから場所取り合戦を繰り広げている大勢の写真愛好家とはまったく異なる行動をとる水越さんの姿を見ているのでよくわかるが、写真というのは、その人の心構えが如実に現れる表現行為であり、素晴らしい写真であるかどうかの違いは、写真家の魂がどれほど伝わってくるか、その一点だけと言い切ってもいいぐらいだ。

 そして、魂というのは、その人が持続し続ける心構えなのだ。

 持続する心構えが整った写真家の写真というのは、こんな小さなサイズでも、無限の広がりと奥行きがある。それは、神が作った宇宙も同じで、100億年光年彼方を望遠鏡で探らなくても、ミクロのなかにも、宇宙の神秘と本質が漲るように宿っているのだから。

https://www.shinchosha.co.jp/book/315233/

第1081回 歴史的転換期の中のコロナウィルス騒動

 現在起きているコロナウィルス騒動で、専門家が、もしアメリカで何も対策を講じなければ、死亡率が爆発し約1,000万人が死亡するとシミュレーションをしている。アメリカ人の約75%が感染し、4%が死亡した場合、それは1,000万人の死亡、つまり第二次世界大戦でのアメリカの死の約25倍になるのだと。

 そうした数字を示されると、説得力があるように思わされるが、この分析で使われている死亡率の4%という数字は、感染が判明している人(症状がある程度重くて病院に行ったりするから判明する)のうち、これまで亡くなった人の数で算出されているわけで、もしも症状が出ておらず病院に行っていない感染者数が膨大だったら分母が大きく変わってくるので、死亡率が4%という前提が狂う。

 さらに現在まで亡くなった人の多くは高齢者と持病のある人で、その死亡率を、健康な若者も含めた人口の全体に当てはめているのも、いくら危機感を煽るためだとはいえ矛盾している。

 はっきりしたことはわからないが、アメリカでコロナウィルスに感染している人は、症状の出ない人も含めて、もうすでに何千万人に達していて、それらの人々は免疫を持っている可能性だってある。

 アメリカでは最近になって急に感染者数が増えているが、それは急に感染が広がり始めたからではなく、これまで発熱などの症状ぐらいでは誰も病院に行かず、検査が行われていなかっただけだろうし、インフルエンザで亡くなったとされている14000人以上の人も、コロナウィルスの検査をしていなかっただけで、本当の死因はわからないのではないだろうか。

 専門家は、データーをもとにシミュレーションをしているわけだが、その数字に大きな影響を与える不確定要素を無視して数字を作り出している。

 抽象的な数字は人に恐怖を与えるが、閑散とした街中の様子は具体的な不安感へとつながる。飲食店などを経営している人にとって経営悪化の具体的恐怖は、はるかに大きいものがあるだろう。

 そうした近未来のこととは別に、今回の騒ぎが、今後、長い目で見た時に、どのような社会へと導いていくかが気になるところだ。

 経済状況が急激に悪化し、治安も悪くなり、国民の不満を外に向けるために対外戦争を始めるなどという、第一次世界大戦第二次世界大戦のあいだの状況にならないとは言い切れない。アメリカでは銃の売れ行きが伸びているというし。

 そんななか、フランスの農相が自宅待機から農作業への切り替えを市民に提案しているというニュースに興味を持った。

 というのは、もしかしたらコロナウィルス騒ぎをきっかけに、現代社会の一部の人は、古代ローマ帝国が時間をかけて衰亡していった軌跡を辿っていくのかもしれないと、ふと思ったからだ。

 古代ローマが滅亡した理由として、映画などではネロやカリギュラの暴政や、市民の堕落などがよく描かれているが、実際は、ネロやカリギュラが生きたAD1世紀頃、ローマは最強で、もっとも繁栄していた。古代ローマの終焉はもっと後のことで、いくつかの段階を踏んでいった。

 まず、人々が都市を離れて地方へと移住していった。金融システムの崩壊など抽象的な経済への信頼感がなくなり、自分の手で食べ物を生産することを選択する人々が増えていったのだ。そうすると必要以上のものを生産する必要がなくなり、鉄器などを使った大規模生産でなく木器などで生産する人も増えた。そうして全体の生産量も減っていった。それに伴い人々の欲心が減退していき、その頃から、キリスト教の普及が広まった。

 ローマが最強で凶暴な存在だった時、弾圧されていたキリスト教は、人民の心が穏やかになるとともに急激に広がり、AD313年にコンスタヌティヌス帝によってキリスト教が公認され、392年にテオドシウス帝によって国教となった。すると、さらに人々から欲心がなくなり、当時、北方から家族や家畜とともに大規模に集団移住していたゲルマン人が、すぐそばに定住し土地を耕し始めても、諍いが生じず共存するようになった。

 教科書で学ぶ476年の西ローマ帝国の滅亡は、ゲルマン人傭兵隊長が皇帝を退位させたことによる形式的なものにすぎず、ローマ人とゲルマン人の戦争の結果ということではない。

 ローマ帝国内では、少しずつローマ人とゲルマン人は融合して大地に根付いた暮らしをするようになり、ヨハネ至福千年の神への感謝をきっかけにしたロマネスク巡礼や十字軍が起こるまで、それぞれの土地から動かず生きていくようになる。そしてローマ帝国時代に用いられていた高度な技術は、ルネッサンスまで忘れ去られる。

 ルネッサンスのきっかけは、巡礼や十字軍によって、人々が他の世界と交流を始めたことにある。人の動きとともに技術や知識の交換が行われ、眠っていた欲心が呼び覚まされていった。ロマネスク巡礼が行われていた頃は、安全で旅することが簡単だった。しかし、その後、犯罪が増え、旅することは、とても危険なことになっていく。

 ロマネスクの巡礼拠点が、やがてゴシック都市になり、人々が集まることで伝染病が流行り、ペストで半分以上人命が失われたとされる。そうしたカタストロフィの後、人間の自立が始まる。ノアの洪水の後、生き残った人の祖先が、バビロンの塔を築くように。

 そして、その傲慢さに対する神の裁きで言葉が乱れる。多言語になるということではなく、情報化社会、抽象化社会になって意思疎通が難しくなることで、その後に、ソドムとゴモラ最後の審判の時代となり、欲心と執着のないアブラハムが神に祝福される。

 歴史は繰り返されているのだ。

 現代世界もまたバビロンの塔以降の言葉の乱れの世界=最後の審判の時代。経済から何から何まで、極限まで抽象化が進んでいて、抽象化の中で各種のシミュレーションが行われ、そのシミュレーションに自分の人生や生活を合わせていくことが余儀なくされている。

 経済の行方を左右する金融などは、その最たるものであり、それを守るためだけに、日銀は12兆円もの大金を、今年一年で投じると宣言した。

 国民一人あたり10万円、4人家族なら40万円に該当する金額だ。

 その結果、日銀は、今年中には、累計で50兆円もの大金を日本の上場企業の株に投入することになるが、日本の東証1・2部やマザーズジャスダックなどの市場に上場しているのは約3600社にすぎず、そうでない日本の企業は、全体で 400万社になる。日銀が資金を投入しているのは、ごく一部の企業だけなのだ。(もちろん、中小企業は下請けとして、それらの上場企業に従属しているわけだけれど、今のような非常時に、従属先から助けてもらえるわけではなく、むしろ、脅かされて無理なことを強要されたりする)。

 われわれの年金の積立金も、株式市場で運用させられているから、それを減らすと大変なことになるということで日銀が株価を支えているのだろうが、簡単に12兆円と言うけれど、日本の公共事業6.9兆円と、教育科学5.6兆を足した総額に近い金額だ。結果、日本の上場企業の5割において日銀が大株主になっている。こんな状況は、もはや健全で自由な株式市場とは言えない。

 日銀の買い支えを嘲笑うように、今回のコロナウィルス騒ぎで、株価がジェットコースターのように急激に上がったり下がったりを繰り返している。

 世界中で経済が停止する深刻な状況にも関わらず、3月25日、日経平均が急激に上がり、上昇幅は歴代5位で、1994年1月以来26年2カ月ぶりの大きさだという。

 このように株価が大きく変わる時、エコノミストなどが、政府の景気対策を評価して株価が上昇機運だなどと発表するが、その3日後あたりに急落すると、景気対策に失望しての売りが続くと平気で言う。まったく信用できない専門家の言葉。

 投資家が、”景気対策”に本気で希望をもったり失望したりしているのではなく、政府の動きに合わせて、巨額なマネーを持つヘッジファンドが、一斉に仕掛けているだけのこと。

 株価が23000円くらいだった時に空売りも含めて一斉に売り浴びせていたヘッジファンドは、株価が16000円くらいまで下がれば、いつ買い戻しても莫大な利益が得られる。

 そして、政府の発言などに合わせて一斉に買い戻して、株価が19000円とか20000円くらいまで行けば、またいつ売っても莫大な利益が得られる。そして、またジェットコースターのように下がる。

 そうしたことを繰り返せば繰り返すだけ、先に動き始めるヘッジファンドばかりが儲かり、後からついていく人たちは損をするばかり。

 現代、世界のトップ62人の大富豪が、全人類の下位半分、すなわち36億人と同額の資産を持っているらしい。

 現在、世界の総資産額ランキングの上位には、Amazonジェフ・ベゾス氏の約14兆6千億円を筆頭にマイクロソフト創業者、ビル・ゲイツ氏の約9兆1000億円、メキシコの通信王カルロス・スリム氏の8兆9000億円、投資家ウォーレン・バフェット氏の8兆3000億円、日本人でも、柳井氏の2兆4千億、孫正義氏の2兆3千億と天文学的な資産金額が並ぶ。もちろん、その簡単には売れない自社株の価値も資産の中に入ってはいるものの、それらの巨大資産をもっている人たちは、お金を銀行に預けているはずはなく、ヘッジファンドにどっさりと預けて運用させている。

 そういう裕福な人たちの巨額のマネーを預かって運用しているヘッジファンドが手をつないで、一斉に売ったり買ったりすれば株価は急激に動き、最初に仕掛けることのできる彼らに必ず儲けが出る。裕福な人たちはさらに裕福になって富の格差は天文学的な数字となり、裕福な人たちに小判鮫のようにくっついている輩が、そのおこぼれに預かる。

 世界が何かしらの危機に直面するたびに貧富の差は広がり、富裕層な人たちのお金を政治家が期待しているから世界から危機がなくなることはない。実際の危機がない状態になると、架空の危機をつくりだす。不安や有事こそ富裕層にとって最大の稼ぎ時で、これは現在に限らず、歴史を通じていつもそうだった。

 現代人は、こうした抽象的世界を進化だ、人間の現実だと思わされているが、そんな抽象的な出来事の繰り返しで本当に生きていると言えるのか。そういう感覚を持つことは、生物として自然のことだと思う。

 抽象ではなく具体的に生きることを手探りし始める人が、今回のウィルス騒動によって、きっと増えていくだろう。そうすると、どうなるのか。

 人類は滅亡するのではなく、古代ローマ人が辿ったように活動範囲は次第に縮小していき、性質も静かに穏やかになり、消費意欲も減退する。経済至上主義の世界から見れば衰退とか後退ということになるが、心の問題に焦点を当てると、十分に満ち足りていたかもしれない。

第1080回 黙示の時代

 
 台風被害や大規模な山火事の後にパンデミック、ここにイナゴが地上を覆うような状況にでもなれば、黙示録の世界ではないかと思っていたら、バッタが大発生していた。https://tocana.jp/2020/03/post_148608_entry.html
 現状の勢いでは1日に35000人分の食物を食い荒らしていて、さらなる繁殖によって新たな群が形成されつつあり、被害の拡大が懸念されている。
 その被害は、アフリカから中近東、インド、中国にまで広がっていきそうだとか。コロナウィルスの脅威によって人間の移動は厳しく制限されて、まるで別世界のような状況になっているが、バッタの大群は地球上に広がりつつある。現時点ではコロナウィルスの感染者数が少ないと判断されているアフリカなどでは、バッタ被害による食糧危機の不安が広がっている。
 今、起こっていることは、聖書の黙示録に近似しているが、黙示録は、人類の滅亡を示しているのではない。なぜなら、その後にも人類の歴史はつながっているのだから。
 黙示録は、神による人類の審判である。だから、黙示の時代の後、人類にどういう転換が起こっていたかを認識している必要がある。
 聖書における黙示の時代、悪徳と頽廃の都ソドムとゴモラが天からの硫黄と火で滅ぼされた。その光景を見ていたのがアブラハムで、彼は、聖書の中で「信仰を持つ人すべての父」とされている。
 アブラハムで示される人物の特徴を一言で言うならば、執着とエゴのない人物だと言えるだろう。放浪の人生を送り、神に試されて、最愛の息子イサクさえ殺害しようとしたが、”エゴ”のないことが証明され、神に止められた。(この子殺しの設定という神の審判の物語は、邪悪な心による子殺しではなく、神によって試されているわけで、世襲の政治家による歪んだ世の中を見ればわかるように、人間のエゴに対する神の究極の審判が、”身内びいき”に対して向けられている)。
 日本でも、645年の大化の改新の直前、第35代皇極天皇天智天皇天武天皇の母)の時も、黙示録のような記録が残る。
 642年10月、大地震が4回。11月〜12月には雷声が20回、643年、東北の隅を除いて、ほぼ満天五色の雲に覆われ、地上には青い霧が周囲一面にたちこめた。(この霧は火山噴火による亜硫酸ガス?)、二月下旬、暖冬気味の気象が一挙に寒冷化。4月末まで異常な寒さ。7月には水が腐って虫が大量に死んだ。8月、池の水が藍色に変色し、腐った魚が3〜4寸ほどの厚さに積もる。この年は花が咲かなかったため、ハチミツがとれない。人々は刹那的になり、踊り狂い、珍しいものに散財。猿たちが、食を求めて人里を徘徊した。政変があり、山背大兄王が自殺した。5色の雲が天を覆ったが、やがて黒雲に代わった(噴火?)。
 数日前、3.11の福島原発事故に関するテレビを見ていた時、平安時代に起きた貞観津波のことを、津波対策の想定に入れる必要があったのに、東京電力の上層部が、そのことを無視し、かつ、保安局も、対策の徹底を求めなかった事実が報告されていた。
 貞観津波というのは、平安時代の869年、宮城から福島にかけて巨大津波に襲われたことである。貞観の時代は、津波だけでなく富士山で、歴史的記録に残る最大の噴火が続いている(864〜866)。その時の噴火で、現在の青木ヶ原の樹海などができたとされている。
 また、この時、甲斐国で、富士山を鎮めるために浅間神社が築かれている。
 この貞観の時代というのは清和天皇の治世で、清和天皇の孫にあたる源満仲が、京都で政争に巻き込まれるのに嫌気がさして、また住吉神の神託を受けて、摂津の多田の地に移って、そこを拠点にして清和源氏が発展していく。源頼朝や、足利尊氏武田信玄など、清和源氏は、この時に始まる。
 巨大津波や富士山の大噴火があったことが、どういう影響を与えたのか正確にはわからないが、これを起点に、中央から地方へ、貴族から武士の時代へという流れができた。
 歴史の教科書では、これらの因果関係のことは、あまり書かれていないかもしれない。
 
 

第1079回  無為自然


 困難極まりない状況に直面している時、その困難に翻弄されないように、これは試練であり自分は天に試されているのだと、自分に言い聞かせる時がある。

 そして、天に試されているならば、天に対する応えは、どういう答えが正解なのかと考える。

 もちろん、何事においても絶対的に正しい答えというものはないが、それでも困難に向き合うために答えを選択しなければならないという状況がある。

 そして、その答えというものが、現代社会で多くの人が共有している通念や常識、たとえば「命は大切」とか、「助け合うことが必要」とか、「弱者を支えなければならない」など、その言葉を口にしていれば誰にも非難されない耳障りの良い答えでは、とてもすまないという究極の事態がある。

 そういう苦しい局面に追い込まれれば、ただ自分の殻に閉じこもって落ち込んだり、自暴自棄になったりという方向へと、心が傾斜していく。

 そういうギリギリの状況の時、壊滅的な方向へと崩れ落ちていくことを避ける方法は、一つしかないと思っている。

 その方法は、「命は大切」とか、「助け合うことが必要」とか、「弱者を支えなければならない」といった、現代社会では良心のお墨付きのようになっている言葉、だからこそ、その欺瞞に反発を覚えて破壊的衝動を一部の人の心に生じさせる言葉を無化してしまうもの。

 それは、「自然の摂理に従う」という、いにしえの昔から人間が繰り返し説き続けてきた心構えではないかと思う。

 人は誰でも必ず老いて死ぬ。いったい何に対して醜く執着して、抵抗し続けるのかと。

 現代人を除いた全ての生命は、そのことを潔く弁え、人類の歴史よりも遙かに長い時代を生きてきている。

 長く命をつないできた生物の種としての生存戦略はシンプルで、シンプルだからこそ普遍性を持ち、時代環境の変化に関係なく機能してきた。

 その戦略とは、次世代に負担をかけないこと。次世代の健やかさだけを願うこと。

 人間も、かつては三世代後のために木を植えることが当たり前だった。そうした心構えが時代を超えて連綿と続けられてきた。

 凶暴に見える肉食動物でさえ、必死に獲得してきた餌は、まずは次世代に与える。たとえ自分が飢餓状態にあっても。

 彼らは、自分の食が減り、少しずつ痩せ衰えて死に至ろうとも、それを自然の摂理として潔く受け止めている。その運命にジタバタと抗うことはしないし、そうした姿勢を見せつけられると、種の違いを超えて、人間である我々も胸を打たれる。胸を打たれるのは、今日の社会に蔓延する飾られた言葉を無化する真実がそこにあり、自分の潜在的無意識が、その真実に反応しているからだろう。

  もしも今、人間が試されているとすれば、人間という種全体として、そうした自然の摂理と、自分たちの在り方にどれだけの乖離があるかを自覚しろということだろう。

 自然の摂理に反することというのは、地球環境破壊という外面の現象的なことだけではない。全てはつながっており、全ての現象の根元となる人間の内面の状態がどうなのかということ。

 もちろん、そこには、経済優先の考えによる過剰な消費主義や、効率主義なども含まれるが、さらにその根元に横たわっているのは、一体何なのか?

 もしも、自分の生命や生活への執着よりも、次世代の健やかさだけを願う人間の数がもっと多ければ、世の中はきっと、今よりも健やかになるだろう。とりわけ有権者の多くを占める高齢者の価値観が変われば、政治も変わらざるを得ないだろう。

 そして、結果として、次世代の、大人や高齢者に対する尊敬の念も、より強くなるだろうし、だからこそ、その心構えが模範となって、さらなる次世代に引き継がれるだろう。

 高齢者の死が極端に恐れられて、次世代の活動が極端に抑制されるような種が、過酷の環境世界で、生き延びられるはずがない。

  

第1078回  日本の古層(24) 元伊勢と鬼伝説の大江山(3)

(前回の続き。)

 

 政治に陰陽五行道を取り入れた天武天皇の時代の頃に定められたであろう近畿の五芒星のことを前回の記事で書いたが、その五芒星のど真中、平城京の傍に日葉酢媛の御陵を含む佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)がある。

 紀元4世紀の後半から5世紀初頭の大和政権と関わりの深いこの古墳群を中心点として、伊勢神宮、丹後の皇大神社、淡路の伊奘諾神宮などの位置が定められ、近畿圏を取り囲むように呪符としての五芒星が作られた。

 しかし、この五芒星の中心点の佐紀盾列古墳群は、天武天皇の時代よりも200年ほど古いわけで、天武天皇の時代に、それ以前の古代の聖域が、再び重んじられたということになる。

 ならば、この佐紀盾列古墳群の位置はいったいどのように定められたのか?

 その時代の古墳の造営に携わっていたのは土師氏であり、その代表的人物の野見宿禰の”野見”は、”野”と”見る”という言葉の組み合わせで、古墳を作るにあたって、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定という意味があるのだと、前回の記事で書いた。

 なので、佐紀盾列古墳群の位置もまた、考えに考え抜かれたものということになる。

 そこに隠された考えは、この地図から少し読み取れるような気がする。

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 近畿のど真ん中、十文字が交わるところが日葉酢媛の御陵。そのラインの北が若狭媛、若狭彦神社、南が、熊野本宮大社を通って本州最南端の潮岬。  西北の斜め45度のラインの方角が、タニハの鬼退治の舞台で、久美浜の須田、日葉酢媛の母の土地。その逆の方向が、奈良の宇陀。水銀で有名な所だが、神武天皇八咫烏の導きによって、到達した場所。  日葉酢媛の御陵から西にのびるラインの西端の赤いマークが、鬼ケ嶽、その東に一丁ぐろ古墳、備前車塚古墳。青いマークは、西から鬼ノ城、造山古墳、吉備津神社。ライン上の神戸のところが西求女塚古墳。  日葉酢媛の御陵から西に斜め45度のラインは、藤井寺応神天皇綾、和歌山の日前宮。 このラインの逆方向にあるのは、岐阜の方県津神社、安曇野の八王神社。  日葉酢媛の御陵から真東が、三重県津市の安濃津、そして伊豆下田の伊古奈比咩命神社。藤井寺応神天皇綾の真西が仁徳天皇陵、真東が黒塚古墳。


 奈良の佐紀盾列古墳群から同緯度の真西に行ったところは吉備の国だが、この地図のポイントの一番西の端が鬼ヶ嶽で、その東が一丁ぐろ古墳、さらに備前車塚古墳があり、神戸の西求女塚古墳がある。この三つの古墳は全て前方後方墳で、北緯34.70で佐紀盾列古墳群と同じ緯度の上に並んでいる。

 一丁ぐろ古墳は吉備で2番目に大きな古い前方後方墳、そして備前車塚古墳と西求女塚古墳は、3世紀に建造されたと考えられるが、かつては卑弥呼の鏡と騒がれたこともある三角縁神獣鏡が大量に出土している。備前車塚は11面、西求女塚は7面。この二つの古墳よりも大量の三角縁神獣鏡が出土しているのは、ヤマトの地の黒塚古墳(33面)と椿井大塚山古墳(36面以上?)という、ともに3世紀の古墳出現期の建造の前方後円墳古墳で、それ以外の大量出土は、奈良の新山古墳の9面、福岡の石塚山古墳の7面と一貴山銚子塚古墳の8面くらいである。

 これらの古墳の中で、前方後方墳は、なぜか佐紀盾列古墳群と同緯度のライン上に位置する備前車塚古墳と西求女塚古墳だけである。

 前方後円墳は、大和政権の勢力下にある地域でのみ見られるが、前方後方墳は、前方後円墳に比べて圧倒的に数が少ない。東日本には多く存在するが、西日本では出雲から美作、播磨にかけての地域に多く存在する

 備前車塚古墳と西求女塚古墳のように、前方後方墳でありながら、椿井大塚山古墳や黒塚古墳など初期古墳の造営に関わった権力者の影響があるとみなされる三角縁神獣鏡が数多く出土している理由を、どう考えればいいのだろうか? 

 しかも、その二つの古墳が、第11代垂仁天皇から第13代成務天皇までの初期大和政権と関わりの深い奈良の佐紀盾列古墳群と、同緯度のライン上に位置しているのである。

 さらに興味深いことは、備前車塚古墳と一丁ぐろ古墳の間には、鬼ノ城がある。この地域は、吉備の鬼退治伝説の舞台となったところなのだ。

 伝承によると、温羅と呼ばれる鬼が、飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配した。温羅は地元に経済的な恵みをもたらしたものの、先住民と何かしらの揉め事を起こし、吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。

 この鬼ノ城の東10km、備前車塚古墳から西に12kmほどのところに吉備津神社が鎮座するが、そこが鬼退治の前線基地だったとされる。

 その鬼退治の後であろう5世紀前半、吉備津神社の西5kmのところに、全国では第4位の規模の巨大古墳(全長350m)、造山古墳が築かれる。

 さらにその50年ほど後の5世紀中旬、造山古墳の西3.5kmほどのところに全国10位の規模の作山古墳(全長282m)が築かれるので、この時期、ヤマト王権の支配が、完全に吉備に及んだと考えられる。

 日葉酢媛の御陵がある奈良の佐紀盾列古墳群の位置は、日葉酢媛の母の拠点、タニハ(丹波・丹後・但馬)に崇神天皇が派遣した丹波道主や、その父、日子座王の鬼退治と関わりが深いように思われるが、西方向の吉備においても、同じ崇神天皇が派遣した吉備津彦による鬼退治と関わりがあるような気がする。

 そして、鬼というのは、備前車塚古墳など前方後方墳と関わりのある人たちの可能性がある。

 また、佐紀盾列古墳群から北東の方角、現在の岐阜市方県津神社(かたがたつじんじゃ)があるが、ここの祭神は、なんと川上摩須郎女命なのである。日葉酢媛の母親を祀る聖域が、出身地の久美浜の須田から見て、ちょうど90度東側にも設けられているのだ。

 しかも、奈良の日葉酢媛の御陵と、この方県津神社を結ぶラインを延長すると、信濃安曇野の大王神社に至る。ここは、八面大王を祀るところだが、八面大王は、安曇野に伝わる鬼のことである。かつて安曇野を治めていたが、奈良時代後半から平安時代にかけて全国を支配下に置こうとする朝廷に征伐されて殺されたが、蘇りを恐れて身体をバラバラにされたという話が伝わる。八幡大王は、その後、安曇野の守り神になったとされる。(奈良時代よりも古い時代に、その物語の下地が古代にあったかもしれない)。

 そして、奈良の日葉酢媛の御陵から、安曇野とは逆方向にラインを伸ばしたところには、和歌山の紀ノ川下流日前神宮國懸神宮が鎮座している。

 この場所は、初代神武天皇の東征で、神武天皇がヤマトの地に入ろうとした時、激しい抵抗を見せた名草戸畔(なぐさとべ )の拠点である。名草戸畔もまた、殺された後、頭、胴、足が切り離された。

 日前神宮國懸神宮でもともと祀られていたのは五十猛神であり、この神は、樹木の神であるとともに、造船、航海安全、大漁の神である。つまり、海と深く関係している。

 現在、日前神宮國懸神宮は、かつて五十猛神が祀られていたであろう中心部(南向きの鳥居の正面)は閉ざされ、その両サイドに、日前神宮國懸神宮の二つの社殿がある。1つの境内に2つの神社があるという形をとっている奇妙な神社である。

 

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日前宮の南向きの鳥居をくぐって歩いていくと、この部分にくるが、この先は閉ざされている。そして、この場所の右と左に別れて、日前宮と国懸神宮が鎮座して鏡を祭神としている。五十猛神は、この閉ざされた場所の先に祀られていたと考えられる。

 しかも、その2つの神社が、ともに鏡を御神体としており、この二つの鏡は、伊勢神宮内宮の神宝である八咫の鏡と同等のものとされ、そのため、日前と国懸の神は、準皇祖神の扱いをうけていた。

 もう少し詳しく説明すると、天岩戸の伝説のなかで、アマテラス大神を岩戸の外に導き出すために鏡が作られたが、最初に作った鏡は出来がよくなかったので用いられず、それが和歌山の日前神宮、国懸神宮に納められ、うまく出来た鏡が、伊勢神宮に納められたという物語になっている。

 つまり、日前神宮、国懸神宮は、伊勢神宮と同じバックグラウンドを持つが、権威になり損ねた存在ということになる。

 さらに五十猛神が、この場所から追い出されたのは、社伝によれば、第11代垂仁天皇年のことで、その後、現在は厳かな鎮守の森にすぎない「亥の杜」に遷座し続け、713年、亥の森の近く、現在の立派な伊太祁曽神社遷座し、名神大社となった。

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第11代垂仁天皇の頃、日前宮から移され、奈良時代元明天皇の頃まで五十猛神が鎮座していた亥の森。

 

 713年というのは、これもまた平城京への遷都と『古事記』を完成させた元明天皇の治世である。

 海と関わりの深い五十猛神は、長いあいだ地元の人の間で地道に祀られていたのだが、五芒星の中心に都を移した元明天皇の時から国家レベルで尊重されるようになるのだ。

 もう少し地図を追ってゆくと、日葉酢媛の御陵から真西に進むと、三重県の県庁所在地の津市だが、ここは、古代、安濃津と称し、中央政権にとっても重要な港で、博多津、坊津(鹿児島県)とならんで日本三津(さんしん)に数えられていた。

 さらに、東に行くと、伊豆半島の下田に伊古奈比咩命神社がある。ここは、三嶋神の旧鎮座地(古宮)であるという伝承がある。

 現在、静岡県三島にある三嶋大社は、『延喜式神名帳に記されている場所の伊豆国賀茂郡とは違っている。伊豆国賀茂郡は、伊豆半島南部・伊豆諸島のことであり、伊古奈比咩命神社こそが本来の三嶋大社であるという説がある。

 日葉酢媛の母親、川上摩須郎女命の出身地の久美浜須田に、鉱山関係と思われる金谷という土地があり、そこにも三嶋田神社があり、川上摩須郎が崇敬していた。

 三嶋というのは、神武天皇がやってくる前にヤマトの地にいた豪族の名でもあった。

 神武天皇は、日向の地から東征に同行させた息子ではなく、ヤマトに入った後に結ばれた媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)との間に生まれた子を世継ぎとしたが、

ヒメタタライスズヒメは、出雲系とされる事代主と、摂津の豪族、三島ミゾクヒの娘のあいだに生まれた子である。

 三島ミゾクヒは、ミのつく耳神とも言われ、彦座王に征伐されたクガミミノミカサなどと同じく南方系の金属器と関わりの深い海人である可能性が高い。すなわち、弥生時代を拓いた海人、古代安曇氏かもしれない。

 また、奈良の日葉酢媛の御陵の真北の7kmほどのところは、京都府精華町で木津川のほとりであるが、ここは、崇神天皇四道将軍のもう一人である大彦命が、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の反乱を鎮圧し、討ち取った場所である。

 武埴安彦命の妻の吾田媛(あたひめ)の吾田というのは、鹿児島の大隅半島を拠点にする海人で、阿多隼人として知られる。

 最後に、日葉酢媛の御陵から東南に伸びるライン上にあるのが宇陀。ここは、古代から水銀の産地として有名だが、熊野に上陸した神武天皇が、ヤタガラスに導かれて到着した所である。

 古事記によれば、この地には、エウカシ・オトウカシという豪族がいた。神武天皇は両者のところに八咫烏を派遣して服従するように伝えたところ、オトウカシは、この命令にすぐに従って側近となったが、エウカシは最後まで抵抗し、最後は殺される。彼の遺体は引きずり出され、切り刻まれてしまう。ちなみに、神武と導いた八咫烏は、三島ミゾクヒだとされ、下鴨神社の祭神、賀茂建角身命と同じだと考えられている。

 こうして見て行くと、日葉酢媛の陵の位置は、崇神天皇の鬼退治の場所、反乱を鎮圧した場所や、海人の拠点と重なる。

 初代神武天皇は、戦いの後、ヤマトの地にいた人々と婚姻関係を結び、和合した。

 神武天皇の世継ぎは、双方の血を受け継いでいるのである。

 これは、大国主命の国譲りの時も同じで、タカムスビの神は、「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と告げる。

 第10代崇神天皇の時の丹波道主命も、久美浜の豪族、川上摩須郎の娘を娶り、二人のあいだに生まれた日葉酢媛が、ヤマト王権の世継ぎとなっていくのである。

 戦いの後の和合の象徴として、日葉酢媛の御陵の位置が定められた。そのように想像してしまうほど、日葉酢媛の御陵と、鬼退治の舞台など先住民の拠点と、ラインで強く結ばれている。

 日本の歴史は、戦いの後、勝者は敗者を絶滅させたり、彼らの聖域を破壊するということを行わずに、たとえば婚姻という形で和合を行ってきた。だから、現在でも、時代ごとに異なる古墳が、16万とも20万とも言われる規模で残っている。

 大国主や初代神武天皇や第10代崇神天皇が実在したかどうかはわからない。しかし、彼らの物語の中には、日本の歴史の根幹の部分が象徴的に示されている。

 ちなみに初代神武天皇と第10代崇神天皇は、記紀による両者の敬称は、「はつくにしらすすめらみこと」、すなわち初めて国を治めた天皇ということで同じである。

  そして、5世紀、第15代応神天皇が即位する時、時代は大きく動く。中国の五胡十六国の混乱時代、治水感慨や織物など様々な技術を持った秦氏や、韓鍛治の忍海氏など新たな技術を持った渡来人が大挙してやってくる。

 応神天皇の母、神功皇后は、日葉酢媛の曽孫にあたる第14代仲哀天皇ヤマトタケルの息子)の皇子、忍熊皇子たちと戦って勝利する。

 大古墳の建造も、日葉酢媛の御陵のある佐紀盾列古墳群から河内に移る。

 しかしながら、その時もまた、興味深い和合の痕跡が象徴的に残されている。

 日本で2番目に大きな前方後円墳応神天皇綾は、日葉酢媛の御陵と、和歌山の日前・国懸神宮を結ぶライン上に位置しており、さらに、応神天皇綾は、応神天皇の息子の仁徳天皇綾(日本一巨大な古墳)と、それらよりも200年近く前に築かれ33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳と、まったく同緯度の東西ライン上に位置しているのである。

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world

  

第1077回 日本の古層(23) 元伊勢の鬼伝説の大江山(2)

(前回の続き)

 日葉酢媛が亡くなった時、野見宿禰垂仁天皇への助言によって、殉死の代わりに埴輪を埋めることが始まったと記紀に書かれている。

 野見宿禰は、古墳の造営に携わっていた土師氏の祖とされ、”野見”という名は、”野”と”見る”という言葉の組み合わせだが、古墳を作るにあたって、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定という意味があると考えられている。 

 その日葉酢媛の古墳とされているものは、奈良の平城京のすぐ北の丘陵地にある佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)の中にある。この古墳群には、4世紀末から5世紀前半にかけての巨大前方後円墳があり、日葉酢媛以外には、日葉酢媛の孫にあたる第13代成務天皇の古墳がある。また、その南2.5kmのところに垂仁天皇陵もある。初期大和政権と関わりが深いと考えられているこの巨大な古墳群は、丹波道主と河上摩須良の血を受け継ぐ日葉酢媛と関係がある皇族たちのものだ。

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奈良の平城京のすぐ北にある日葉酢媛の御陵。

 しかもこの場所は、三重の伊勢神宮大江山皇大神社から同距離(約90km)である。それだけでなく、伊吹山熊野本宮大社、淡路の伊奘諾神宮とのあいだも同距離であり、この佐紀盾列古墳群を中心軸にして綺麗な五芒星が描ける。

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富士山と島根の出雲大社を結ぶラインは同緯度の東西であり、そのライン上に、近江の伊吹山ヤマトタケルが荒ぶる神に屈したところ)、京丹後の皇大神社(鬼伝説の大江山の場所)が位置する。センターラインは、北から、若狭彦、若狭媛神社、京都、奈良、藤原京の傍の畝傍山熊野本宮大社、本州最南端の潮岬。淡路伊奘諾神宮と伊吹山の結ぶラインの延長上が、信濃穂高神社(安曇氏の祖神を祀る)。伊勢神宮と丹後の皇大神社を結ぶラインの延長上が、久美浜の須田。この地の安曇氏と思われる豪族、河上氏と丹波道主が同盟関係を結んで日葉酢媛(垂仁天皇の皇后で、ヤマトタケル倭姫命につながる)が生まれる。日葉酢媛の御陵は、この五芒星の中心点にある。

  この五芒星の意味するところは何か? まるで飛翔する白鳥のようにも見える図形だが、日本各地に残る白鳥伝説と何か関わりがあるのではないか?

 大江山皇大神社は、鉱物資源と鬼退治で知られた場所だが、伊吹山もまた、鉄資源の豊かな鉱山である。そして、東征の後に荒ぶる神の退治のために立ち寄ったヤマトタケルを退け、死に至らしめた場所である。ヤマトタケルは、伊吹山から離れた後、伊勢に向かうが、その途中で亡くなる。

 淡路島の伊奘諾神宮は、信濃の安曇氏の拠点、安曇氏の祖神を祀る穂高神社伊吹山を結ぶラインの延長上にあり、伊勢神宮は、上にも述べたが、丹波道主命の妻で日葉酢媛の母となる河上氏の拠点の久美浜の須田の地と、大江山皇大神社を結ぶラインの延長上で、さらに、伊勢神宮と淡路の伊奘諾神宮は、同緯度の東西ライン上にある。

 大江山皇大神社伊吹山も、同緯度の東西ライン上であり、このライン上には、富士山と島根の出雲大社があり、それぞれ、伊吹山皇大神社からの距離が同じである(約210km)。

 そして、熊野だが、長野県安曇野市熊野神社で、毎年8月に御船祭りが斎行される。さらに、久美浜湾に面した聖山、甲山の山頂に熊野神社があるが、これは、河上麻須良によって築かれた古社とされる。この神社の名、熊野が、久美浜の地名ともなっている。

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久見浜湾。右側の山がかぶと山で、山の斜面に大の文字が描かれる。この山頂に日葉酢媛の祖父にあたる河上磨須良が創建した熊野神社がある。夏至の日、久見浜湾の傍にある神谷神社(日葉酢媛の父の丹波道主命を祀る)に立つと、このかぶと山の山頂から朝日が昇る。

 このように熊野という呼び名には、海人との関係がうかがえるが、紀伊半島の熊野もまた、豊富な船材と良港に恵まれ、古代から海を舞台に活躍する人々の拠点だった。平安末期の源平の戦いにおいて、源平両方と関わっていた熊野水軍の活躍も知られている。

 そして、熊野本宮大社は、明治時代まで社殿が築かれていたのは熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」だが、この場所は、本州最南端の潮岬と、若狭の若狭媛、若狭彦神社を結ぶライン上にある(東経135.78)

  若狭媛神社、若狭彦神社の祭神は、海神に助けられた山幸彦と、山幸彦と結ばれた海神の娘、豊玉媛である。

  こうして見ていくと、この五芒星は、大和朝廷とされる勢力が、戦ったり、後に同盟を結んだ相手と関わりが深いことがわかる。

 そして、国を束ねる拠点が、この五芒星のセンターライン上に置かれていた。初代神武天皇の御陵のある畝傍山(飛鳥と藤原京のそば)、奈良、京都である。 

 平城京は五芒星の中心点の佐紀盾列古墳群のすぐ傍、京都は、伊吹山と淡路の伊奘諾神宮、丹後の皇大神社と三重の伊勢神宮を結ぶラインの交点にあたる。つまり、五芒星の構想の後に、正確に位置決めが行われている。

畝傍山は、センターライン上ではあるが、五芒星との位置関係はない。おそらく、五芒星が構想される前の時代の聖域だからだろう。)

 さらに、伊勢神宮と富士山、淡路の伊奘諾神宮と出雲大社の距離もほぼ200kmで同じだが、それぞれの方角は、伊勢神宮から富士山が夏至の日の太陽が登る方向である。(夫婦岩の二つの岩のあいだに富士山が位置し、夏至の日、富士山から太陽が昇ることは知られている。)。その逆に、伊奘諾神宮と出雲大社の位置関係は、夏至の日に太陽が沈む方向なのである。

 さて、ここからが肝心なところだが、アマテラス大神を皇祖神で神々の最高神として位置づけたのは、壬申の乱で勝利した天武天皇で、それ以前は、タカミムスヒが皇祖神だったとする研究者は多い。

 壬申の乱の後、天武天皇は、大改革を行い、中央集権的な国づくりを進めた。

 天武天皇が編纂を進め、死後、持統天皇によって引き継がれた飛鳥浄御原令が689年に施行されたが、その法令の上で、『日本という国号』、『天皇という地位・称号』が公式に設定されることとなった。

 天武天皇がアマテラス大神を日本の最高神とし、伊勢神宮を最高位とした理由は、壬申の乱の時にこの神に助けられたからとか、農業に恵みを与えるからとか、いろいろな角度から説明されているが、この謎の五芒星にもその真理が隠されている。

 この五芒星は、太陽の運行状況とも関係しているのだが、この世の秩序を表すのに、太陽がもっとも相応しいと考えられるのである。

 この謎の五芒星が意図的なものであるとすると、それができたのは、おそらく天武天皇の時代から、五芒星の中心に位置する平城京への遷都を行った元明天皇の時代の7世紀後半から8世紀前半である。なぜなら、この五芒星の中に位置する伊勢神宮が、この場所に定まったのは天武天皇の時であり、それ以前は、同じ伊勢でも、現在の伊勢神宮から冬至の日に太陽が沈む方向に30km離れた瀧原宮だったからだ。つまり天武天皇が、五芒星の位置関係に合わせて伊勢神宮の位置を適切な場所に動かしたということになる。

 天武天皇というのは、陰陽道に通じた天皇だった。陰陽道というと平安時代に活躍した安倍晴明が有名だが、『日本書紀天武天皇の巻には、「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が記されている。

 天武天皇が自ら式盤を以って占うほどの陰陽五行思想に造詣が深く、天文や「奇門遁甲(きもんとんこう)」という占術の達人であったと伝わる。

 そして、天武天皇は、史上初めての「占星台」を設置させている。 つまり、天文を観察し吉凶を占っていた。さらに、676年に「陰陽寮(おんみょうりょう)」という官僚組織を設け、陰陽五行思想を正式に政治に取り入れる。

 古墳時代の終わりから飛鳥時代に至る6世紀、中国大陸から「陰陽五行思想」が伝来していた。

 陰陽五行思想とは、宇宙のすべてを「陰」と「陽」の二元論で説く「陰陽思想」と、万物を「木」「火」「土」「金」「水」の5つ元素で説く「五行思想」の2つが合体した自然哲学である。

 そして、五芒星はあらゆる魔除けの呪符であり、近畿の五芒星は、かつての敵も味方も含めた呪符となっているのだ。

 元明天皇が遷都した平城京は、その呪符に守られるように中心点に位置付けられているのだ。

 しかし、ここからが謎めいてくる。なぜなら、平城京遷都の前に、この場所には佐紀盾列古墳があった。

 それは、陰陽五行道が日本に入ってくる前の時代である。ということは、もともと存在していた佐紀盾列古墳を軸にして、五芒星の位置関係が定められたということになる。

  丹後の久美浜の安曇氏や、丹波道主の息長水依媛の父にあたる鍛治の神、天之御蔭命(あめのみかげ)とつながる第11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛を祀るこの場所が、天武天皇にとっても、元明天皇にとっても大事な場所だったということになる。

 それは、一体なぜだろうか?   (続く)

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world