第1250回 自然放射線と、古代の聖域

 

付知峡(岐阜県中津川市付知町


 環境省のホームページで、日本地質学会に
よる大地の自然放射線量の地図が紹介されている。

 原発事故で放射線のことが大きな問題になったが、われわれの身の回りには、もともと宇宙線や大地などに由来する放射線があり、その自然放射線量は、場所によって大きく異なっている。

 その自然放射線量は、地下のウランとトリウムとカリウムの濃度から計算によって求めることが可能なのだという。

 古代には、こうした地図は存在していなかった

と思われるが、この地図を見ていて不思議なのは、日本の主な聖地と、自放射線量の強いところと重なっていることだ。

自然放射線マップ(日本地質学会)

 生駒山地島根県の出雲、安芸の宮島、丹後の竹野川下流域、丹後の籠神社周辺(天橋立)、諏訪、愛媛の大山祇神社周辺、糸魚川から松本に至るところ、そして特に岐阜県放射線量が高い。

フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線と、中央構造線が交差する場所にある諏訪湖。この一帯も、自然放射線量が多い

 岐阜県は、花崗岩の大地が広がっており、木曽川などは白い石がゴロゴロしている河原が続く。

 浦島太郎の伝承地である寝覚めの床も、花崗岩の大地が木曽川に削り取られた場所だが、ここは、地中から二酸化炭素もブクブクと発生している。

寝覚めの床(長野県木曽郡上松町

 岐阜というのは、歴史の表舞台には出ていないが、とても不思議なところで、たとえば縄文時代の祭祀道具である石棒は、日本でもっとも多く出土している。

 石棒は、主に関東から東北、北海道にかけて多く発見されている縄文時代の祭祀道具で、西日本には、あまり存在しないが、地理的に東西の境界の岐阜で、非常に多く見られるのだ。

 日本アルプスを源流とする水が、岐阜県を流れる木曽川長良川などの巨大河川を通って伊勢湾へと流れ込むが、現在の濃尾平野は、古代は陸路で移動できるようなところではなく、水運が欠かせなかった。

 日本の東と西のあいだを移動するうえでも、水上交通に頼らざるを得なかったが、ここを拠点としたのが尾張氏で、前回のエントリーの浦嶋太郎の件でも触れたが、京丹後の海部氏と同族だった。

 この豊かな水と岩が、岐阜県の風景の特徴だが、それにくわえて目に見えない自然放射線量が、人間にどんな影響を与えてきたのか。

龍神の滝(岐阜県中津川市川上)

 ちなみに放射線と聞くと、原発事故のことが頭を横切って不安になるが、原発事故の放射線の問題は、内部被曝だ。放射性物質がミクロの粉塵などを通して体内に取り込まれると、その場所から放出され続ける放射線が細胞にダメージを与え続ける。

 しかし、ラドンなど水に溶け込んだり気体化した状態に含まれる放射線は体内にとどまらず抜けていくのだという。そうでなければ「ラジウム温泉」は閉鎖しなければいけない。古代から、ラジウム温泉は身体に良い効果があると知られていたわけで、理由はよくわからないが、体内に止まらず通過していく放射線は、身体に良いエネルギーを与えるのではないか。

 だとすると、地中深くから生じている自然放射線は、身体に良いのかもしれず、自然放射線が強いところに聖地が重なっている理由も、そのためかもしれない。実際に、現在においても敏感な人は、そういうところに足を運ぶと、癒されたり気分がよくなる。

 癒しの島で人気のある屋久島も島全体が花崗岩だが、身体に具合の悪い人が島に滞在し、本当に病気が治ってしまったという話も聞く。

 アメリカの先住民の聖地も、ウラン鉱脈などがあるところが多く、おそらく自然放射線が強いと思われる。

 そのアメリカ先住民が伝えてきた教えは、地面を掘ると災いが起きるということだった。

 実際に、近代になってウランの採掘のために地面を掘り起こして、放射線の問題が発生した。

 つまり地中深くにウランがある場合は、身体に良い作用があるが、掘り起こして粉塵とともに放射性物質が地上に出てくると、災いが起きるということを、先住民は知っていたのだ。

 ちなみに、京都で一番自然放射線量が強いのは、比叡山大文字山の間だが、この両山は、天台宗の山門派(比叡山延暦寺)と寺門派(三井寺)の拠点であり、麓には、白川温泉郷という関西随一を誇るラジウム温泉がある。

 この比叡山大文字山のあいだが、祇園のところで鴨川に合流する白川の源流で、花崗岩の大地を削って流れるために白い砂が運ばれる。この白い砂が、中世、銀閣寺などの石庭に使われていた。

 中世の石庭は、視覚的にも「宇宙」を象徴しているが、白川の砂を通して、水の循環だけでなく、放射線という宇宙由来のエネルギー循環が組み込まれている。

 地球は厚い空気に包まれ、その空気が、銀河系や太陽などから降り注ぐ放射線量を抑え込んでいるが、大気の外は、放射線という強力なエネルギーが充満している。

 環境問題で必ず出てくるのが、二酸化炭素の排出の問題で、近年では、牛のゲップに含まれているメタンガスが目の敵にされている。

 そうした警鐘が、ゆきすぎた文明的生活の抑制につながるのならばいいのだが、自動車などで、ハイブリッドカーすら認めないという偏狭で一面的な強硬論には、逆に恐ろしさや不安を感じる。

 だって、今でもアメリカや欧州などで大停電が起きたり、日本でも政府から節電の呼びかけが頻繁に出る状況で、全てが電気自動車などになったら、一体どうなってしまうのか。タービンを回して電気を作るための仕組みじたい、エネルギーロスが前提になっており、石油を電気に変えるより、石油をそのまま使った方が、エネルギー効率は良いはずだ。

 気候変動について温室ガスのことばかりが声高に叫ばれるが、気候変動は、実際には偏西風の影響を受けている。

 偏西風の仕組みについて完全に解明されているわけではないが、地球の回転と、熱帯地方と極地方の温度差で生じると説明されることが多い。しかし、それだと、偏西風が高度とともに強くなり、ジェット気流とよばれる帯を形成している理由がうまく説明できない。

 高度が高いということは、空気が薄いということで、空気が薄いということは、大気の外の強い放射線の影響を強く受けるということでもある。

 だとすると、太陽から放出される太陽風(陽子)や、銀河から飛び込んでくる宇宙線(電子)の量が変われば、偏西風も影響を受ける可能性があるのではないか。

 宇宙レベルで見れば、地球上の大気の層や地殻など、あまりにも薄い。

 宇宙と地球内部のあい

だには、その薄い層があるだけで、宇宙のエネルギーは、両方のあいだを、あたりまえのように循環しているのではないか。

 理論では解明できなくても、古代人は、肌でそのことを感じていたのだろう。

 だからこそ、それを敏感に感じられるところを聖域にしたのではないかと思う。

 

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ピンホール写真で旅する日本の聖域。

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第1249回 浦嶋太郎の物語の背景について

寝覚めの床(長野県木曽郡上松町)。浦嶋太郎が玉手箱を開けた場所という伝承がある。

 現在の古代研究においては考古学が柱になっているが、考古学は、新しい発見のたびに、それまで正しいとされていた答えが変更になるので、これ一つでは、心もとない。地域に伝えられている伝承も踏まえる必要があるが、伝承も改変されている可能性が高く、そのことを考慮していなければならない。

 これ以外に、地理や地勢から想像を広げていくというアプローチの仕方は、学会ではあまり行われていないのだが、地理や地勢は古代と現在で大きく変わっておらず、現在でもその地を訪ねることで、古代のことを偲ぶことができる。

 この方法は、実証主義者が行うように証拠によって正しい答えを確定させていくという方法ではなく、これが絶対に正しいとは言えないものの、連想によって、そうではないだろうかという想像の幅を広げ、考察を深めていくためのものだ。

 こうした連想の展開は、何か一つの正しい答えに収斂していく方法ではないから、近代社会の価値観からすると、とりとめがない、などと批判されるかもしれないが、その連想は未来への橋渡しにはなりうる。正しい答えというものは、時とともに置き換えられてしまうが、連想の輪は広がっていく。多くの神話は、そのように連想が積み重なることで形成されており、神話に書かれたことは、一つの史実の記録ではないだろう。

 たとえば、聖書の中の世紀末の描写として、人間の堕落と戦争と飢餓と洪水と疫病などが記載されていたとしても、それが必ずしも同一地域に集中していたとは限らない。

 たとえば、現在のように、ロシアとウクライナの戦争、パキスタンの大洪水、エチオピア北部の深刻な飢餓、世界に広がる新型コロナウィルスといった異なる地域の出来事について、世界が共有すべき現状として人々に記憶され、後の時代に神話的に伝えられていくということがありうる。

 日本の伝承においても、誰もが知っている浦島太郎の物語は、明治以降、近代の価値観(近代社会における教訓など含め)を反映し、大幅な改変が加えられている。

 しかし、その原型となる物語はある。そうすると、歴史研究家は、その原型の物語が、どこで起きたことなのか突き止めようとし、その証拠を探して答えを確定させようとする。

 たとえば、万葉集などには、浦嶋太郎の物語の舞台が「すみのえ」であると伝えられるが、その「すみのえ」が、丹後の網野町であるとか、いや大阪のことだという議論になる。

 果たしてそうだろうか?

 浦島太郎の物語も、いろいろな要素が象徴的なモチーフとなって組み合わさった物語かもしれない。そして、そのように物語を組み合わせた人たちがいたとしたら、それは、同じバックグラウンドを持つ人たちだろう。

 現在の世紀末的現象にしても、上に述べたような各地で起きている戦争、飢餓、洪水、疫病などを、自分ごととして受け止めている人ならば、一つの物語に束ねて、この時代の出来事として後世に伝えようとするかもしれない。エチオピア北部の饑餓やパキスタンの大洪水のことが別世界の出来事で自分には関係ないと思っている人は、そういう意識にはならないので、この時代を後世に伝える要素は、ファッションの流行とか、世間で評判のイベントとか、目の前にある現実に限定されるだろう。 

 海辺を舞台にした浦島太郎の物語は、当然ながら、背後に海人の存在があると思われる。海人の活動領域は、石器時代および縄文時代から、かなり広範囲に広がっていた。それは、産地を特定できるヒスイや黒曜石が、日本各地だけでなく、大陸にまで伝わっていたことから実証されている。

 それゆえ、海人のことを考えるうえで、特定地域ではなく、その活動の全体像に想像の翼を広げていかなければ、真相には近づけない。

 この地図は、浦島太郎の伝承と関わる地を示している。

 この地図において近畿を中心にして描かれる菱形の頂点のうち、丹後半島の浦嶋神社、木曽の寝覚めの床、香川の荘内半島紫雲出山には、浦島太郎の伝承が残る。そして、吉野の丹生川上神社の近くには浦島太郎の物語と似た伝承が残っており、京都の保津川渓谷を挟んだ地域は、浦島太郎の祖先に位置付けられる月読神の聖域が日本でもっとも集中する場所である。

 菱形から少しずれた位置にある愛知の知多半島の真楽寺には、浦島太郎を案内した亀の墓とされるものがあり、九州の壱岐島にある嫦娥島は、現地の伝承では竜宮城とされている。

 一般的に、8世紀に成立した『丹後国風土記』が、浦島太郎の物語の原型とされている。丹後の浦嶋神社から真東に220kmの所が木曽の寝覚めの床であり、ここは、日本五大名峡の一つとされ、​​木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた奇勝である。ここに浦島堂があり、この場所で浦島太郎が玉手箱を開けたとする伝承が残る。

寝覚めの床の浦嶋堂

 また、丹後の浦嶋神社から南西に220kmのところ、香川県荘内半島紫雲出山周辺も浦島太郎伝説の残る土地で、紫雲という名は、玉手箱を開けた時に立ち上った煙からきているとされる。木曽の寝覚めの床は、花崗岩の渓谷だが、紫雲出山は、山全体が花崗岩でできている。

 不思議なことに、丹後の浦嶋神社から香川の紫雲出山までと、丹後の浦嶋神社から木曽の寝覚めの床までの距離は、等しく220kmだ。

 さらに、香川の紫雲出山から真東に220kmほど行ったところは吉野川の源流付近で、ここに丹生川上神社の上社がある。

 この丹生川上神社の上社の東14kmのところ、吉野川の支流の丹生川流域に丹生川上神社の下社が鎮座するが、この丹生川流域にも、浦島太郎の物語と似た伝承が残っている。

 それは、黒淵の乙姫の物語で、飛び込んだ淵の底には竜宮があり、乙姫がいたという物語。丹生川は蛇行しているため、淵が多く、しかも流れの底が深く黒々としているから黒淵という名がつけられたという。

 吉野の丹生川上神社の上社から木曽の寝覚めの床までも約220kmで、浦島太郎と関わりがありそうな四つの地点を結ぶと、一辺が220kmの菱形になる。

 ちなみに、丹生川上神社は、社伝によれば、神武天皇の東征の時、天神地祇を祀り戦勝を占った地とされる。

 こうした伝承が残っているのには何か理由がある。神武天皇が史実であれ神話上の人物であれ、日本の将来を決定する一大決戦において、丹生川上神社で戦勝を占ったというのは、丹生川上神社と深い関係のある勢力の後ろ盾を得たことを示している可能性が想像できる。それはおそらく、海人勢力のことだろう。

丹生川上神社(上社)の夢渊

 そして、この四つのポイントを結んだラインの交点は、京都と亀岡をつなぐ保津川渓谷だが、この渓谷の西の亀岡は、日本でもっとも月読神(浦島太郎の祖先とされる)を祀る聖域が集中するところで、渓谷の東の京都の桂川沿いには、歴史上重要な月読神社が鎮座している。

 なぜ、京都の月読神社が歴史上重要なのかというと、487年、壱岐島からこの地に月読神が勧請され、その時、亀卜という卜占がもたらされ、この亀卜が、後の朝廷内の「まつりごと」において重要な役割を果たすようになるからだ。

 亀卜というのは、亀の甲羅で占いをすることであり、重要な会議や祭りなどの日取りや時間を決める場合なども、これによって行われた。

 ここに、浦島太郎と関係する「亀」が出てくる。

 そして、丹後の浦嶋神社では、浦嶋子は、月読神の子孫であるとされ、浦嶋神社では、浦嶋子と月読神が祀られている。

 また、京都の月読神社は、現在、松尾大社の摂社となっているが、松尾大社は、もともとは本殿背後の磐座が聖域であった。そして、現在の本殿の裏に、松尾山から湧く水が流れ落ちる滝があり、ここに、ミズハノメという神が祀られている。この聖域は、本殿の主祭神である大山咋命おおやまくいのみこと)を祀り始めた時期(701年)より古いと思われるが、このミズハノメ神は、上に述べた吉野の丹生川上神社の祭神である。

 ミズハノメ神は、一般的に水の神とされるが、そうではなく、おそらく丹生(辰砂)と関わりの深い神、丹生都比売の別名ではないかと思われる。

 

京都の月読神社の旧鎮座地。左背後に見える愛宕山のあたりから保津川渓谷となり、亀岡に抜ける。

 丹後の浦嶋神社の周辺、舞鶴や、間人の竹野川流域にも丹生という土地があり、木曽の寝覚めの床の北には、大丹生岳がそびえる。

 丹生(辰砂=硫化水銀)の鉱床は、日本列島を南北に分断する中央構造線の周縁にあることが知られている。

 中央構造線は、日本列島の下にある四つのプレートが押し合い引き合うことで生じた大断層だが、中央構造線の北側は、太平洋側のプレートから押し込まれて隆起した土地であり、地下深くで時間をかけて冷えて固まって花崗岩の大地となる。そして急激に隆起すると、その熱によって変成する。こうした地質帯が東西に伸びる中央構造線の北側は、領家変成帯と名付けられている。

 

長野県大鹿村中央構造線博物館より

 そして、地図を見ればわかるように、浦島太郎の物語と関わりの深い木曽の寝覚めの床、吉野川流域、香川の荘内半島は、ともに花崗岩が特徴的な土地だが、この領家変成帯のなかにある。

 浦島太郎の物語は、話の内容からして海辺の物語であるが、実は、海人と関わりの深い物語であり、海人は、船の防腐作用のある丹生(辰砂=硫化水銀)を求めて、中央構造線上を移動していた。

 神功皇后新羅遠征の物語でも、丹生都比売が、戦いに勝利するために、船を朱で塗るべしと神託を下すが、朱というのは、硫化水銀=丹生のことである。

 木曽の寝覚めの床は、木曽川流域であるが、木曽川の流れは、伊勢湾まで通じており、木曽川下流域は、古代、尾張氏の拠点であった。そして、尾張知多半島の​​真楽寺には、浦島太郎が助けた亀の墓がある。

 また、尾張氏は、系図のうえで、丹後の海部氏と同族である。

 木曽川は、源流まで遡っていけば、奈良井川とアクセスし、松本盆地へと抜けるが、盆地への入り口に平出遺跡がある。ここは、縄文時代から古墳時代平安時代に至るまでの複合遺跡だ。

 

平出遺跡(長野県塩尻市

 この平出遺跡の場所は、中央構造線フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線が交わる地域で、すぐ南が諏訪で、すぐ北が、海人の拠点だった安曇野である。

 松本盆地は、古代、広大な湖だったとされる。

 そして、安曇野の北は、ヒスイの産地である姫川が、日本海糸魚川まで流れており、糸魚川から京丹後まで海路でつながっている。

 愛知を拠点にしていた尾張氏と、京丹後を拠点にしていた海部氏が系図の上で同族というのは、伊勢湾から木曽川奈良井川を経て松本盆地安曇野、姫川とつながり、糸魚川から京丹後に至る海人ルートを共有していた勢力がいたということである。

 姫川のヒスイが朝鮮半島や沖縄、北海道まで伝えられていることからして、尾張氏や海部氏という氏族名がつく前から、この海人ルートが存在していたのだろう。

姫川源流

 また、上に述べたように、九州の壱岐島から月読神と亀卜が京都へと勧請されたのだが、壱岐島の華光寺の古い記録では、壱岐島にある嫦娥島が竜宮城とされている。

 壱岐島は、当時、海人の拠点であるとともに、大陸という異郷への玄関口だった。浦島太郎が亀の案内で訪れた常世のイメージとも重なってくる。

 そして、浦島太郎の物語の舞台は、万葉集などで「すみのえ」とされているのだが、「すみのえ」というのは「すみのえ神」=「住吉神」とつながる。

 Sacred world 3でも紹介したが、住吉神というのは、丹生都比売と同じである。

 丹生都比売神社の言い伝えによれば、吉野の藤代の峯に鎮座していた丹生都比売が、神功皇后新羅遠征の出発前に神託を下した。そして、住吉神社神代記によれば、神功皇后の勝利に貢献した住吉神は、もともとは吉野の藤代の峯にいたが、場所を移りたいと言い、藤の筏で大阪湾を渡って明石の藤江に流れ着いたと記録されている。

 つまり、神功皇后新羅遠征の前、吉野の藤代の峯にいた丹生都比売は、戦いの後、住吉神となって吉野川沿いから瀬戸内海へと拠点を移したということになる。

 ゆえに、壱岐から京都に、亀卜とともに伝えられた月読神を祖先に持つ浦島太郎は、上に述べたように、船の防腐剤となる丹生(硫化水銀)を求めて中央構造線にそって移動していた海人との関係があるように思われるが、その物語の舞台が「すみのえ」だというのは、大阪とかどこかの「住吉」の地名に限定された物語ということではなく、すみのえ=丹生との関連を暗示している。

 実際に、丹後の浦嶋神社の近く、竹野川流域や、舞鶴に、丹生という土地があり、木曽の寝覚めの床の北には、大丹生岳がそびえる。 

 古代、丹生と関わりの深い海人は、辰砂(硫化水銀)=朱を求めて、瀬戸内海から畿内吉野川流域、そして、木曽川から諏訪方向へと伸びる中央構造線周縁に足跡を残した。そして、この海人が、瀬戸内海を通って、壱岐島から月読神と亀卜を畿内へと伝えた。

 なぜ瀬戸内海と月読神が関わってくるのかというと、瀬戸内海というのは、満潮時と干潮時では潮の流れがまったく異なり、エンジンのない船で航海するためには、月を読む=潮を読むことが、必要不可欠だからだ。

 浦島太郎の伝承は、この海人の活動と深く結びついているのではないかと思われる。

 それにしても不思議なのは、浦島太郎に関わる場所が、地理的に精度の高い配置になっていることだ。

 一辺が220kmの菱形の形は偶然にそうなったと言えるだろうか?

 4本の斜線によって囲まれた菱形は、池沼に自生する水草を文様化したという説もあるが、縄文時代の土器にも刻まれている。

 日本に限らず、海外においても、菱形は聖なる形として用いられており、仏教壁画では無数の菱形の中に仏が描きこまれている。

 さらに、丹後の浦嶋神社と木曽の寝覚めの床は東西ライン上にあり、木曽の寝覚めの床と、京都の保津川渓谷を通って香川の荘内半島に至るラインは、冬至のラインである。

 冬至もまた、日本に限らず、古代世界において生命の再生の日として重要なる転換点であり、古代の聖域は、この冬至のラインにそって配置されていることが多いのだが、木曽と京都と香川の距離は、かなり離れている。広範囲に活動していた海人は、独自の天体観測技術や測量技術を備えていたのだろうか?

 そして、浦島太郎の物語の関連地4地点で形成される菱形のど真ん中の保津川渓谷の東西が、浦島太郎の先祖にあたる月読神の聖域の集中地帯であることも、偶然なのか、計画的なことなのか。もしかしたら、月読神が最初に勧請されたこの場所を拠点に、浦島太郎の物語に関係する4つの場所の選定が行われたのかもしれない。

 最後に、竜宮城の3年が実際は数百年だったという浦島太郎の中のエピソードは、いったい何を象徴しているのか?

 これは想像でしかないが、瀬戸内海流域で活躍した海人、紀氏や越智氏は、朝鮮半島の経営に携わったり、新羅との戦いの際は、最前線に立っていた。

 当然ながら、大陸に渡って新しい文化や知識、暮らしぶりを経験している。そして、その異郷世界は、見るもの全てが新鮮で、時を忘れる。

 それに対して、海人の地元の暮らしは、何百年と変わらない。人々は世代交代を繰り返していくが、暮らしぶりや風景はずっと同じである。

 紀氏、越智氏、尾張氏などの海人は、古代、戦いや交易などで重要な役割を果たし、娘を天皇に嫁がせていたものの、中央において政争に巻き込まれないポジションにいた。どちらかといえば、中央の権力者が、海人の力を必要として。海に囲まれた日本において、大陸と交流し、物資を運んだり人を運んだりするうえで、船がなければどうしようもなかったからだ。

 しかし海人にとっては、海の恵みが豊かな日本においては、中央のまつりごとの中心にいるよりも、海人の地元で、時の流れに身をまかせて、自由に生きた方が幸福だったのではないかと思う。

 なかには中央に残って権力争いに巻き込まれた者もいただろうが、苦い教訓しか残さなかったのではないか。

 浦島太郎は、目新しい世界で時を忘れて有頂天になっていたが、ふと、かつての営みを思い出し、竜宮城を去って地元に戻ってきた。

 その時、自分が時の流れからかけ離れた存在であることを思い知らされた。

 そんな自分を不幸と感じ、竜宮城の世界と縁が切れることを承知で、玉手箱を開けて、時の流れの中、つまり自然の中に戻っていった。それが海人にとって本来のあり方だった。

 竜宮城の世界の出来事を、現代文明の営みに置き換えることもできるだろう。

 人類の歴史を振り返っても、自然に即した営みが長く続いた後、短期間のうちに文明が築かれるが、そうした文明は長くは続かず、また人類は自然に即した営みの中に戻っていき、その状態が長く続いていく。

 「かぐや姫」の最後は、帝が、かぐや姫が残した不死の薬を敢えて飲まず、それを燃やした煙が、富士山の山頂から煙のように立ち上っていく。

 「浦島太郎」においても、乙姫からあずかった玉手箱を開けなければ竜宮城(常世)に戻れたのに、開けてしまったため、煙とともに浦島太郎は現実の中へと引き戻され、老いて消えていく定めを受け入れる現世の人間となった。

 かぐや姫や浦島太郎の物語の終わり方には、「もののあはれ」のスピリットが流れており、それが日本人の心に働きかけ、長く残り続けるものとなっている。

 日本史の中の「もののあはれ」文学の代表は、紫式部源氏物語であるが、源氏物語のなかにおいても、浦島太郎の物語の舞台である「すみのえ」=住吉神が重要な役割を果たしている。

 落ちぶれた光源氏は、海人の営みが描かれている明石と須磨の地に流れていくが、この地の住吉神の加護を受けることが、人生の転換となる。

 そして光源氏は、第41帖の「幻」の話のなかで、静かに表舞台から消えていく。光源氏が消えた後も源氏物語は続いていき、第54帖で終わるまで、住吉神を崇敬する明石一族を中心に話が展開していく。

 光源氏は、源氏物語の主役ではあるが、その光は、明石一族という影を浮かび上がらせる存在なのだ。紫式部が、源氏物語を書き始めたのは、第12帖の須磨と、第13帖の明石からとされており、紫式部の頭には、最初からその構想があったのだろう。

 日本の「もののあはれ」文化の底流には、どうやら、「すみのえ」と関わる海人が深く関わっているように思われる。

 

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第1248回 この時代に、なぜピンホール写真なのか?

 愛媛県今治市で、鈴鹿芳廉さんの展覧会が行われています。(2022年10月23日まで)

www.city.imabari.ehime.jp

 この展覧会期間に合わせて、今治市で、鈴鹿さんと私でトークを行ない、私が撮ったピンホール写真のスライドトークも行います。

 場所は、今治市の玉川近代美術館で、2022年9月25日 14:00 〜 15:30となります。

 テーマは、「この時代に、なぜピンホール写真なのか!?」 

 シャッターもレンズもなく、約0.2mmの針穴を通る光で撮影された白日夢のような写真は、スマホ写真だと削ぎ落とされる物事の気配が写り、その気配が、人々の記憶の深層に働きかける。それは一体なぜなのか? 

 詳しくは、こちらをご覧ください。

www.city.imabari.ehime.jp

 

 鈴鹿さんは、私が、ピンホール写真を始めるきっかけになった人です。

 鈴鹿さんのピンホール写真の写真集「WIND MANDALA」において、文章を書く依頼を受けた時、最初はあまり気乗りがしませんでした。 

 私は、風の旅人の編集で、数多くの写真家の写真を見てきましたが、鈴鹿さんは、写真家ではなくアーティストとして活躍されていて、それまで鈴鹿さんの作品を観たことがなかったということと、風の旅人の編集部で、それまで何人かのピンホール写真を見ていて、あまり良い印象を持ってなかったからです。

 表現方法は、テーマにそって選ぶべきもので、そのテーマを表現するうえでの必然性を感じさせない方法論では心に訴えてこないのです。それまで観てきたピンホール写真は、方法論のユニークさと、描写の面白さを、競うようなものばかりでした。

 しかし、とりあえず写真を見て判断してほしいと鈴鹿さんに強く説得されて、鈴鹿さんが撮ったピンホール写真を見ました。そして、観た瞬間、テーマと方法論の合致を感じ、すぐに文章を書けると感じ、実際に、短期間のうちに、かなりの文章量で書き上げました。同時に、自分が心の中に温めていたテーマを表現する方法は、これかもしれないと閃きました。

 その閃きを得てすぐ、自分でもピンホール写真を撮り始めました。それが、 Sacred world 日本の古層のプロジェクトです。

 

www.kazetabi.jp

 

 2016年の秋から、時間が許すかぎり日本の様々な地に足を伸ばし、ピンホール写真を撮り続け、ひたすらこれに没頭しており、6年前の閃きは、間違いなかったと思います。

 6年前まで、約15年にわたり、日本および海外の、時代を代表する写真家たちの写真を、見尽くし、選択し、編集構成を行い続け、それらの凄い写真は、脳裏にしっかりと焼き付いてしまっています。

 そうしたなか、数人の写真家に、「写真を観る目が養われているのだから、あなたも自分で写真を撮ればいい」などとアドバイスを受けたけれど、凄い写真の数々が脳裏に焼き付いているので、カメラを持ってファインダーを覗いた瞬間、自分が撮っても意味がないとすぐに思ってしまいました。カメラを変えれば違ってくるかと思い、色々試したけれどダメ。

 まず、ファインダーを覗いて画面を切り取ることが、生理的にダメだった。当たり前のことだけれど、ファインダーの中の世界は、あまりにも狭い。世界のごく一部を恣意的に切り取ることになる。だから、その一部だけに対して相当な思い入れがないと、本気で撮れない。

 鬼海弘雄さんのポートレートのように、今、自分の目の前にある人物に、強烈に引き込まれるほどの感覚が、自分にはない。

 自分の興味関心は、どうにも、今、目の前に見えていないものに向いている。これを写真で表す場合、ムードに流れた印象的なものは世の中に溢れているのだけれど、私は、目に見えていないけれど本質的で実態のある何かにアクセスしたいという思いが、かなり強い。

 風の旅人の最終号となった第50号で、次号の告知としたまま未完に終わってしまった「もののあはれ」も同じで、単なるムードや情感で「もののあはれ」を解釈したり表現することは、簡単だし、多くの人がすでにやっている。

 しかし私は、「もののあはれ」は、もっと本質的で、実態を伴い、かつフィロソフィーのあるものだと思っている。

 つまり、どちらかといえば中庸な性質で奥行きや広がりのある世界を伝えるうえで、明瞭さや精緻さを誇る最新機器は、あまりふさわしくなく、そのため、自分で写真を撮る気になれず、宙に浮いたような状態にいた。

 そうした時に、ピンホール写真の可能性に気づかせてくれたのが、鈴鹿さんの表現だった。

 この仏様の写真は、昨年、鈴鹿さんが移住した今治市に遊びにいった時、鈴鹿さんが懇意にしている仙遊寺の和尚の許可を得て、長らく秘仏だった千手観音像を、かなりの長時間露光で撮らせていただいたもの。

 後ろに引けない狭い場所で、ピンホールカメラにはファインダーがないから、どこからどこまで写っているのかわからず、国宝級の仏様に何かあったら大変だと、長時間露光のあいだ、息をひそめて三脚の横に立っていた。結果的に、これまで経験したことがないほど、仏さまの近くで、長時間、無の境地で仏様と向かい合う形となったのだが、写真を現像した後、まさに、その向かい合っていた時のありがたい感覚が、写真として表されていたので、自分でも驚いた。

 自分が恣意的に切り取った写真ではなく、まさに、ブラックボックスに流れ込んできたものを有り難く頂戴した、という写真になった。

 ピンホール写真というのは、そういう邂逅の賜物だという気がする。

 鈴鹿さんの口癖も、「出会い」であり、仙遊寺の和尚との出会いなくして、今治に移住する決断もなかった。

 人生の道筋は、自分で選んでいるようでいて、実際は、その多くが何ものかの導きによるものだ。そして、一つの導きが、次の導きにつながって、展開していく。

 私は、40歳になるまで、自分が雑誌を創刊するとは考えてもいなかったが、ある日、写真家の野町和嘉さんに、日本にはろくなグラフィック雑誌がないから、あんたが作れ、みたいに強迫され、その流れに乗った。

 それまで写真家のことをロクに知らなかったけれど、風の旅人の創刊をきっかけに、写真の世界にどっぷりはまるようになった。

 自分がピンホール写真を撮るなんてことも、鈴鹿さんと出会うまでは考えもしなかった。

 そして、ピンホール写真を本にまとめていくということも、10年くらい経ってからと漠然と思っていたが、鬼海弘雄さんに写真を見せたところ、すぐにでも本にしろと、またまた強迫され、その流れに乗った。

 自分で予定や計画を立てると、自分の頭のなかにある情報に限定されたなかで、物事を考えなければならない。

 外からやってくる何かを掴むことは、自分が、自分の限界を超えていくうえで大事なことかもしれない。もちろん、そのための準備が必要だけれど、その準備は、できるだけ邪念なく、欲心にとらわれることなく、また依存心も捨て、濁りなく判断できるように心を整えておくことが、一つの重要なポイントだという気がする。

 これは写真も同じで、自分の恣意的な考えで写真を撮ろうとすると、自分を超えた何かにつながっていくことも少なくなる。

 ピンホール写真の良いところは、そうした恣意性をできるだけ捨て、自分でも気づかず、認識すらしていない何ものかを素直に受け入れるような感覚で撮ることだろう。

 

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ピンホール写真で旅する日本の聖域。

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第1247回 諏訪に秘められた古代の謎

諏訪湖の朝日)

 諏訪のことは、まだよくわからない。諏訪のことがわかれば、日本古代の謎が、もう少し解けるかもしれない。

 謎の一つは、国譲りの神話のなかで、タケミカヅチに敗れたタケミナカタが諏訪の地を出ないことを条件に許されるのだが、そのことは、いったい何を意味しているのかがわからない?

 国譲りの神話は、日本の古代においてもたらされた新しい秩序のことであり、タケミカヅチの言葉でいえば、「力の強いものが全てを牛耳るウシハクの国から、情報知識を皆で共有するシラスの国への移行」ということ。

 だとすると、諏訪地方だけが、ウシハクのままでよいということだろうか? なぜだろうか? 一つ考えられるのは、農業地としての適正であり、諏訪を中心としたエリアは、農業以外の、つまり縄文時代から続く営みを、続けてもよいということだろうか?

 タケミナカタの母親は、ヒスイの女神、奴奈川姫だが、縄文時代、諏訪の北を流れる姫川流域のヒスイは、朝鮮半島、北海道、沖縄まで流通していた。

 だとすると、タケミナカタは縄文の何かを象徴しているとも考えられるが、諏訪に残る伝承では、タケミナカタは、この地に先住していた洩矢神を祀る人々にとって侵略者として位置付けられている。

諏訪湖から外に流れ出す川が、天竜川だが、そのほとりに、洩矢神社が鎮座する。諏訪地域に入ってきた勢力と先住の洩矢の勢力が衝突した場所とされる。)

 しかし、その後、諏訪の地は、タケミナカタの後衛が政治と祭祀の支配者となって世襲するが、その世継ぎは、ミシャクジ神の神おろしによって正当なものとなり、その神おろしは、洩矢の神職者によって行われる。

 つまり、タケミナカタの後裔は、古代から諏訪の地に伝えられてきたスピリットを引き継いでいくということになる。

 諏訪は、中央構造線という日本列島を南北に分断する大断層と、日本列島を東西に分断するフォッサマグナの西端の糸魚川・静岡構造線が交差する場所に位置し、大地の下にエネルギーが充満している。そして、この地に近い八ヶ岳で産出する黒曜石は、縄文時代、石器に加工されて日本各地に流通していた。

 諏訪大社は4つの社で構成されるが、諏訪湖の北の下社の春宮と秋宮の祭神は、八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、この女神は、諏訪の北の安曇野の地と関わりが深い。

 本宮とされる上社の祭神がタケミナカタで、ここの本殿は、パビリオンのように諏訪4社の中で最も立派だ。

 しかし、肝心なのは、前宮である。ここが最も古く、かつては祭事の中心地でもあった。本来は洩矢氏の本拠地であったともされ、この場所で、上に述べた神おろしの即位儀礼が行われた。

諏訪大社 前宮。諏訪大社4社のなかで、もっとも古く、祭祀の中心だった。)

 前宮の現在の祭神は八坂刀売神だが、もともとはミシャクジ神だったという説もある。

 前宮の神域を流れる水眼川は、湧き水の源流から近く、昔からご神水として大切にされた。中世の頃まで、ここに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。

諏訪大社 前宮の神域を流れる水眼川。背後に見えるのが御柱。)

 前宮の鳥居から本殿までの中間点くらいのところ、水眼川の近くにケヤキの大木があるが、ここに御室社の小さな祠がある。中世までは、ここに半地下式の土室(つちむろ)が造られ、成人儀礼を行った現人神の大祝や、神長官以下の神官が参篭し、ミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをしていた場所だ。

 そして、この前宮でもっとも重要な聖域、それは諏訪の地でもっとも重要であるということになるが、それが鶏冠社(けいかんしゃ)で、御室社から西に100mほど歩いた民家の入り口にある。

左:前宮の神域にある御室社。ここに半地下式の土室(つちむろ)が造られ、成人儀礼を行った現人神の大祝や、神長官以下の神官が参篭し、ミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをしていた。

右:前宮の神域にある鶏冠社。諏訪の聖域でもっとも重要。タケミナカタの後裔とされるものが、大祝という現人神になる成人儀礼が、ここで行われていた。世継ぎとなる童が、この鶏冠社で、神が降りるという大きな石(要石)の上に立たされ、神長官による秘法が行われ、童にミシャクジ神がおろされた。それが、大祝の即位式だった。

 

 鶏冠は、楓の葉に似ているので、古くは、「かえでのやしろ」と呼ばれた。

 タケミナカタの後裔とされるものが、大祝という現人神になる成人儀礼が、ここで行われていた。世継ぎとなる童が、この鶏冠社で、神が降りるという大きな石(要石)の上に立たされ、神長官による秘法が行われ、童にミシャクジ神がおろされた。それが、大祝の即位式だった。

 ミシャクジが何かというのは、いろいろな議論があるが、諏訪は御柱で知られている。そして、御柱は、縄文時代の石棒に通じるものが感じられる。

 縄文時代は、石棒に神をおろしていたのかもしれない。

 実は、京都の向日山は、桓武天皇長岡京を築き、継体天皇が弟国宮を築いたところで、向日山の上には、弥生時代の遺跡と、3世紀後半という古い時代の前方後方墳である元稲荷古墳が築かれている。

 そして、ここに鎮座する向日神社の本殿を1.5倍の大きさにしたのが東京の明治神宮である。つまり、京都の向日山は、日本の古代から現在まで、秘められた歴史の謎を連綿とつないでいる場所なのだが、ここにも「鶏冠町」(現在は、かいでちょう)という地名があり、発掘調査で銅鐸の製造場所であったことがわかった。さらに、この向日山は、西日本では珍しい縄文時代の石棒の製造地であった痕跡も発見された。つまり、縄文と弥生の祭祀道具の製造場所だった。

 諏訪と京都の向日山は、ともに日本の古代が重層的に重なっているところであり、そこに鶏冠という名が残っている。鶏冠は、古墳の埴輪にもある。

 天の岩戸の神話では、アマテラス大神を外に引き出すために、常世の長鳴鶏(とこよのながなきどり)を岩戸の前で鳴かせた。

 夜明けを告げる鶏は、時代の曙とも通じる意味が重ねられていたのかもしれない。

 

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第1246回 「いのちの居場所」について

未来も過去も、無限に小さくしていくと現在となり、無限に大きくしていくと時の流れそのものになります。ズームインとズームアウトの振り子のような視点は、時間という概念に束縛されずに「わたしたちは現在をどう生きるかと考えるには大事なことだと思います。」 稲葉俊郎                                

 この夏に発行された『いのちの居場所』稲葉俊郎著は、久しぶりに、本気で人に勧めたくなる本だ。

 今から書く文章は、この本の紹介文というより、現在のコロナ禍のなか、是非とも多くの人々に読んでもらいたいという私の強い思いを反映したものである。

 この本は、現在、世界中を覆う天災、戦争、疫病という世紀末的状況のなかで、「バイブル」に値する内容を伴っていると思う。

 バイブルは、権威ある書物や自分が生きる指針となる座右の書というレベルで解釈されているが、古代に編纂されたバイブルに書かれている内容は、黙示録なども含め、人類が作り出した世界に様々な矛盾と軋轢と混乱が生じている極限期に、生きることの原点に立ち返ることによって魂の救済を求めようとする言葉である。

 このように書くと、なにやら宗教じみた説明になるが、統一教会の問題だけに限らず、本来は人間を救済するための宗教が、人間を、よりいっそう分断するために使われてしまう原因も同時に考えておかなくてはならず、その思考の鍵も、稲葉氏の『いのちの居場所」に秘められている。

 たとえば「いのち」という言葉一つとっても、世間に流通している「いのちの大切さ」という言葉の "いのち”と、稲葉氏が「いのちの居場所」で伝えようとする "いのち”は、質的にまったく異なるものだ。気をつけなければいけないのは、世間に蔓延している「いのちの大切さ」という言葉に対する認識をもとに、稲葉氏の『いのちの居場所」もまた、その「いのちの大切さ」を伝える本だと表層的に受け止め、気分的な共感にとどまってしまうと、それは、人を思考停止に導く宗教と似たものとなる。

 愛とか平和といった言葉も同じで、稲葉氏の「いのちの居場所」は、そのように世の中で消費され尽くして本来の意味が見失われた言葉の真意を、再認識、再発見するために創造された場でもあり、その真意を理解するためには、一つひとつの単語の定義よりも、文脈が大事になる。

 読む人が、その文脈の真意を少しでも深く理解しようという意識を持つことが、本当の理解につながる道であり、その理解へのステップが、自分の中に内在化している力の発動につながり、その力こそが、自分を救う力になる。

 だから私は、この『いのちの居場所』について書く際に、一般的な書評のように、本文中の言葉を抜粋して組み立てるということをしたくない。

 できるだけ文脈を読み解いて、その解釈を私の言葉で伝えるという努力をしたい。

 同じことを別の言葉で言い換えることができるかどうかで、その人の理解度がわかる。もしかしたら、理解のボタンの掛け違いを起こしているかもしれないが、大事なことは、すぐにわかったつもりになるのではなく、少しでも理解に近づこうとするプロセスであり、そのプロセスを踏むことが、表現されたもの、そして表現した人への敬意だと思う。その敬意に、正しいも間違いもない。とくに、芸術作品と向き合う時は、この敬意こそが、もっとも重要だろう。

 この本の著者、稲葉俊郎は、今この時点のおいても、1日に100人のコロナ感染者と向かい合う現役の医師である。

 この2年半のあいだ、医療の専門家から様々なメッセージが発信されてきた。眠る時間も惜しんで働いている人たちが訴える医療現場の困難や、感染予防のための呼びかけなどを、ほぼ毎日のように私たちは耳にしてきた。

 そして、コロナ問題の厳しい状況を訴えることは、一人でも多くの人の命を救うことにおいて大事なことでもあろうが、そうした訴えが、時には分断を生み出してきた。自粛によって多大なる犠牲を強いられる職種もあれば、逆に潤う職種もある。年齢や、日頃の健康状態によって明らかに重症度が違ってくる。立場が異なれば見解も異なり、一方が自分の立場を守ろうとすればするほど、別の立場の人と軋轢を生む。

 コロナの問題に限らず、似たようなケースは、私たちが生きる世界にたくさんあるが、この切羽詰まった状況のなか、医療現場の最前線で奮闘しながらも稲葉氏は、そうした対立概念や分断をいかにして解消していくかということに心を傾けていた。

 その鍵になる視点は全体性であり、自分が対峙しているものの全体性を掴むことが、問題解決の糸口になり、救いにつながるという確信を彼は持っている。

 誰しも人間は、苦境に陥った時に、視野が狭くなりがちで、目の前のことしか見えなくなり、今この瞬間の困難から逃れることに必死になる。

 自分を守ろうとする為、他のものを攻撃することもあるし、苦しみから逃れるために自らを殺してしまうこともある。

 自分を救おうとする行動が、裏目に出ることの方が多く、その負のスパイラルが、人間世界に様々な矛盾と軋轢を増大させていく。おしなべて、全体性を見失い局所的な領域に固執しがちな人間の性ゆえのことである。

 稲葉氏の念頭には、常に、この負のスパイラルからの脱出のことがある。だからこそ、自分が直面している目の前の嵐に巻き込まれて翻弄されてしまわず、コロナ禍の激烈なる医療現場で働きながら、この「いのちの居場所」を書き上げることができた。

 そのように、自分が置かれている苛烈な状況に囚われてしまわない意識の回路を持っていることが、彼自身においても、心の荒みに陥らない力となっている。どんな逆境においても、その逆境の現場である局所的な領域に心が囚われてしまうと、人間の心は荒む。その局所的な領域から、どのように意識を脱出させるかが肝要であり、自分一人ではできなくても、適切な案内人がいることで、それは、より多くの人にとって可能なことになる。

 医療従事者は、そのような案内人でなければならないと稲葉氏は信念を持っているし、『いのちの居場所」のような表現物が、この世に存在する理由も同じだと彼は考え、そのことが、この本を書くモチベーションになった。さらにそのモチベーションが、コロナ禍の混乱において彼の精神を平静に保たせる力となった。

 この本の中で、「全体性」という言葉が多く出てくるが、全体性は、広がりだけを指しているのではない。

 「前に進めないと思える時は、自分の足元を、自分の存在の底をとにかく掘り続けるしかない」と、稲葉氏は言う。

 深いところに降り立った時に、つながる全体性というものがあるのだ。

 また、困難に直面した時には、原因探しや犯人探しをしたり、あの時にこうしなければよかったという後悔など、過去に向かう意識に拘泥するのではなく、今自分に起きていることは、この先のどんなことのための準備なのかという未来に向けた視点を持つことができれば、人生の苦難は、人生の深い意味に転化するといった意味のことを書いている。

 この文章は、空間的な全体性ではなく、時の流れの全体性のことを伝えている。

 つまり彼の言葉の”全体性”は、地面の上の空間的広がり(目に見える領域)と、深さ(目に見えない領域)と、時間の流れを含んだ、4次元的な時空ということになる。

 稲葉氏は、東大医学部で学び、東大病院の緊急医療現場で働き、現在は軽井沢に移住し、地域医療の現場を自分の仕事のコアにしている。

 これまでの経歴から、彼が頭脳明晰であることは間違いないが、それとともに心臓カテーテルの技術においても絶大なる信頼を置かれている優れた専門家である。

 しかし彼は、頭や技術という物差しを重視しすぎることへの警戒心を強く持っており、身体の声や、人間の感じる力といった科学の範疇で説明できない領域を、とても大事にして、むしろそれらを自分の仕事の軸にしている。

 そして、従来の医療の固定概念の枠内で解決できないものがあると認識し、福祉や芸術、教育、家庭環境その他、あらゆる角度から人間を救う方法を見出そうとしている。そのため、彼は、忙しい医療業務の合間に、京都の能楽師のところに通い続けて稽古を続けているし、山形ビエンナーレでは、芸術監督をつとめた。軽井沢の地元でも、福祉関係その他の領域との連携を模索し、実践している。

 彼にとって、医療の仕事が主で、他は趣味とか気分転換というようなことではなく、全てが本気で深くつながっている。

 私は、稲葉氏が東大の医学生の時からの付き合いで、現在、彼は43歳だから20年近く、彼のことをよく知っている。

 彼は、東大医学部で授業を受けていた時から、医療に対する彼の考えと学習内容とのあいだに違和感を抱いており、当時、そういう話も聞いたことがあった。

 「自分がなりたい医療者のイメージとは違うと感じることが多々あった。いのちを理解することは、とてつもなく広大で深遠なものであるけれど、医学部という医療のプロを養成する場所では、そうした広大な世界の局所的な部分に固執しているように思っていた」と、新著のなかでも述べているが、彼の特別なところは、そうした自分の心の声にしたがって、必ず実践行動に結びつけるところだ。それは、彼が、自分の心の深いところから生じる声や、行動するという身体的実践を、無視できない体質をもっているからだろう。

 世の中を上手に生きていくだけであれば、そうした逸脱的行為は、逆に不利に作用することがある。アカデミズムをはじめ、権威的な組織においては特にそうだ。しかし、自分の心の声に蓋をすることは、何よりも不自由に生きることであり、稲葉氏にとって、その不自由こそが人間を蝕む原因であり、救いのためには、その不自由を取り除くことが、最善の”くすり”だと彼は考えている。

 東大時代の稲葉氏は、医学部で学びながらも、他の学部の授業でも学び、他の学部の学生と連携し、総合的な「生命学」のようなものを編もうとしていた。

 その当時、私が編集発行していた「風の旅人」は、ビジュアル面のことを賞賛してくれる人が多いが、文章コンテンツが重要で、創刊当初から、白川静さん、養老孟司さん、河合雅雄さん、川田順造さん、日高敏隆さん、松井孝典さん、安田喜憲さんなど、歴史、文明、脳科学、生物学、動物行動学、宇宙科学、環境学、人類学に深く通じる人々の言葉による文理融合を目指し、その通底するテーマは、森羅万象と人間だった。

 学生時代の稲葉氏も、この文理融合の精神を備えた人物だったので、風の旅人を、創刊号から毎号、丁寧に熟読してくれており、東大の仲間たちの集まりの場に私を呼んでくれたこともあった。お金がない時は、昼食を一回抜いてでも風の旅人を買った方がいいとも言ってくれた。

 私は、風の旅人という場において、専門領域が違う人たちでも、深い井戸を掘って地下水脈に到達している人は、その地下水脈でつながっているという考えをもとに編集を行っていた。そうした人たちの言葉は、理系と文系の違いは重要でなく、いずれにも、本当の意味で、「いのち」が宿っている。しかし、大半の人は、その本当の「いのち」の理解のプロセスを踏むことを、「難しい」からと忌避しがちで、そういう難しい努力をすることなく親しめる「いのち」と題されたもので安心する。しかし、その安心が救いとなればいいのだが、局所的なところへの安住欲求でしかない場合が多く、そうなると、その安易な安心と安住を脅かすものに対して敵意や嫌悪を感じるようになる。つまり、本来は、全体性を包み込むはずの「いのち」が、分断を生み出す原因となるという皮肉なことが起きてしまう。

 稲葉氏の「いのちの居場所」という本は、非常に洗練された美しい文章で、前向きな魂によって書かれているから、現在、前向きの状態でいられる人にとっては、とても共感しやすいものになっている。

 しかし、稲葉氏は、困難の大きさゆえに「後ろ向きの状態にならざるを得ない人」にも言葉を届けたいと願っているから、単なる共感で止まらないよう、具体性による説得力で、いのちのことを重層的に浮かび上がらせようと試みている。この重層性こそが、高次化であり、むしろ後ろ向きの状態の人の方が、わかったつもりになって安易に共感するということがなく、その重層性と高次化の過程を踏まないと納得感を得られないので、もし、その納得に達することができたら、「後ろ向きの状態の人」の方が、より深く理解しているということになる。 

 実は、このたびの稲葉俊郎の新著「いのちの居場所」を読む前、私は大きな期待を抱いていなかった。その理由は、稲葉氏との付き合いは長いし、対談なども行ったことがあるし、これまで彼の文章のいくつかを読んでいたので、自分にとってそれほど新しいものがあるとは思わなかったからだ。つまり、本を読む前から、彼に共感してしまっているので、その分、わかったつもりにもなっていた。

 私は、彼が20代の時、彼の文章を風の旅人でも掲載しようかと検討し、彼が気合を入れて書いた文章を読んだことがあった。

 しかし、20代の稲葉氏は、インプット力は凄まじいものがあったものの、アウトプットにおいて、そのインプットしたものを自分のものに消化できていなかった。

 それはしかたがないことで、その時点で彼は、自分の壮大なビジョンとフィロソフィーを具体的に実践する場を持たず、それゆえアウトプットが観念寄りにならざるを得なかったのだ。

 それでも彼は、東大病院の緊急医療現場で働き、東大病院の中で、医療に関する自分のフィロソフィーを具体化したいと願い続け、試みも行ったが、巨大組織ゆえに、その実現は困難だった。

 そのジレンマから彼を大きく転換させるきっかけとなったのが2011年の東北大震災だった。

 彼は、被災現場の人々のために働きながら、自らが求める医療の在り方を、身をもって捉え直し、それを具体化するために行動に出た。

 まず、その頃から彼は、能楽の稽古のために定期的に京都に通い始めた。能楽という、死の側から、こちらの世界を見る眼差しを獲得していくことが、いのちに対する彼の思考の奥行きを拡張した。

 その後、彼は軽井沢に拠点を移した。自然と切り離された対症療法の医療(リペアだけを目的としたファクトリーのような医療現場と、彼はたとえている)では、いのちの救済につながらないという自分自身の内面の声にしたがって。

  そこに、このコロナ禍が襲い、医療の現場は戦場のようになった。しかし、彼は、この困難な状況を、いのちに関する自分の実感と考察を深める場に昇華させた。

 こうした生身の経験が、彼の言葉を、より高次化へと導いた。

 稲葉氏が20代の時は、彼の明晰な頭脳が、彼の身体を上回っていた。しかし、今は、身体が頭脳に追いついて、抜いていこうとしている。「いのちの居場所」からは、そんな彼の質的な変化が伝わってくる。

 変化という言葉はふさわしくないかもしれない。彼は、20代の時から本質的には何も変わっていない。しかし、お米が目に見えない菌という「いのちの働き」によって、古代人が神との紐帯とした酒になるように、稲葉氏の言葉もまた、歳月を経て、熟成し、発酵し、向こう側の世界とつながるものになっていった。

 「いのちの居場所」を読みながら、驚きを感じていたのは、彼の言葉が、この高次化と深化を遂げていたからだった。

 そして私は、言葉の深さ、表現物の深さは、その人の生き様の深さを反映するということを再認識するとともに、言葉や表現の高次化は、その人が抱き続けているビジョンの高邁さを反映するのだということを再確認した。

 知識の量、技術の上手さだけでは、たどり着けない深さや高さがある。

 表現物の評価付けにおいて、新しさとか奇抜さ、面白さなど、わりと表層的なことが尺度になっている今日の世界だが、洞察の深さやビジョンの高邁さこそが最も重要である。しかし、その深さや高さを読み取れない選者が多い。

 これは、表現物における問題というより、科学を絶対的な基準としてきた社会の問題でもあった。

 稲葉氏は、この本の中で次のように述べる。

 「(学校の)先生が言っていることも正しいかどうかわからない、教科書にそって教えていても、その教科書自体が本当に正しいかどうかもわからない。科学的、客観的な証拠とされたものも、時代が変われば、その内容自体が変わってしまう。そうした変化しうるものが、あたかも絶対的な正しさの根拠として用いられている」と。

 科学的判断では、洞察の深さやビジョンの高邁さは測れない。それは、計測するものではなく感じ取るものだから。

 だから、感じる心よりも科学的な物差しを優先しがちな人は、表現物を評価する際においても、客観的な証拠のようなものを欲する。どれだけ多くの人が、いいね!をしているかとか、構図や文体が新しいかとか個性的かとか、テーマがこの時代にそっているかとかと。

 「未来も過去も、無限に小さくしていくと現在となり、無限に大きくしていくと時の流れそのものになります。ズームインとズームアウトの振り子のような視点は、時間という概念に束縛されずに「わたしたちは現在をどう生きるかと考えるには大事なことだと思います。」

 冒頭に掲げた稲葉氏の言葉。この短いセンテンスは、彼のフィロソフィーが到達した境地を端的に示している。

 彼は、さらりと書いているが、古今東西の東洋と西洋の哲学者が、存在論について膨大な言葉を駆使して書き連ねてきたが、その存在論の核心と、東西のフィロソフィーの融合が、稲葉氏のこの短い詩的なセンテンスの中に凝縮している。

 ここに抜き出したズームインとズームアウトのたとえは、ほんの一例であり、「いのちの居場所」という本の中には、稲葉氏の四次元的な広がりを持つ思考と実践の軌跡が織り込まれている。

 「いのちの居場所」は、世界中が新型コロナウィルスというミクロの生命体との付き合い方で大騒ぎになっている現代において、医療従事者から発信された、もっとも本質的に優れた、そしてもっとも重要な、言葉のアウトプットだと思う。 

 さらに、この『いのちの居場所」は、ミクロの生命体との付き合い方の問題が、病気の単なる予防や治療のことにとどまるのではなく、現在の、そしてこれからの人間の在り方の問題につながることを認識させる架け橋になっている。

 そう認識すると、現在、ミクロの生命体が世界を混乱に陥らせているのは、人間に、そのことを気づかせるためなのだと、心の持ち様に変化が起きる。

 政府主導の色々な対策によってコロナを封じ込めることができたとしても、その結果、近代の病といえる分断的思考が、より支配的になってしまうことを私たちは懸念しなければならない。

 上にも述べたが、個人も社会も、様々な問題の根本には、局所的なことへの執着による全体の分断がある。

 この分断された状態から全体性を回復することが病を治すことであると稲葉氏は考えているが、それを個人の力で成し遂げられる人は、極めて希である。

 個人の思考は、堂々巡りに陥りやすい。だからこそ、道先案内人が必要であり、医療従事者も、芸術家も、その道先案内人であることで共通している。

 「いのちの居場所」のような形ある表現物もまた、道先案内人になりうるもので、その使命を強く感じて、稲葉氏は、毎日、多数のコロナ感染者を診察しながら、必死でこの本を書き上げた。

 医療現場で働いている人も、コロナに怯えながら自分や身内を守ることだけに必死の人も、ぜひとも、「いのちの居場所」で示されている世界を体感していただきたい。

 人は誰でも自我の殻を幾層にも身にまとっている。その自我の殻を脱ぎ捨てていくことも高次化と深化だ。なぜなら、自我の殻を脱ぎ捨てていくことで、局所的な視点は面から立体、さらに時間を超えた世界へと広がり深められるからだ。その高次化と深化こそが、人間にとって真の意味で自由であり、救いの道である。

 この分断から全体性への視点の転換がなければ、真の意味で他者への寛容や愛も成り立たない。局所的な執着を愛だと錯覚してしまうのも人間の性だが、それは典型的なエゴである。

 稲葉氏も書いているように、今、私たちの目の前にあるものは、死者からの贈り物であり、長い歳月をかけたつながりの中で、多くの死者たちから渡されてきたものである。

 知識や文化だけでなく、水や空気や風景も。こうして使っている言葉もまた。

 いのちとは、生も死も含んだ全体性であるはずなのに、生の視点だけから見てしまうと全体性が把握できない。

 そして、自分も死者の側に回る時が必ずやってくる。その時、死者から受け取ったものを次の世代へと渡していくために自分が生きているということを、生きている時から悟っていないと、自分の死が、虚しいものになってしまう。そうしたつながりを考えないかぎり、なぜ命が大切なのかという謎は解けない。

 「いのちの大切さ」という言葉の意味が、「コロナという忌まわしき病気」のために人を死なせてはいけないということにすぎなければ、いのちを局所的にしか見ていないという視点を、より強化して固定するだけとなる。

 その局所的な視点こそが、人を救いから遠ざけるのだ。

 医療も芸術も、人間の、そして世界の、全体性を取り戻す営みである。

 

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日本人とはなにか? われわれは、どこから来て、どこへ行くのか?

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第1245回 事物を記録することと、時間や場を記憶化することの違い

 

 私は、ピンホール写真は、中判フィルムを使っている。

 ピンホールカメラは、ファインダーもシャッターもないので、構図とか露光時間は、経験によって、だいたいこのくらいだろうと、あたりをつけて行なっている。

 最初は、どの場所が写っているのか、どのくらいの時間、針穴をあけておけばいいのかわからず、失敗も多かったが、6年間、ピンホールカメラだけで撮り続けているので、露光時間とかフレームでミスすることはほとんどなくなった。

 ファインダーや液晶画面で画像を確認して、シャッター速度と絞り値はカメラ任せで撮影し、すぐその後に撮った画像を確認できる最新のデジタルカメラとは撮影に対する心構えやスタンスがまったく異なってくるが、ピンホール写真は、現像した後、自分が思っていた以上に、よく撮れていて驚くことも多い。

 よく撮れているというのは、キレイに撮れているということではなく、写真を通して、その場に佇んでいた”時間”が、蘇ってくることだ。

 250分の1とか500分の1という人間の生理感覚ではとらえきれない高速シャッターで場面を切り取るカメラではなく、長時間、露光するピンホールカメラは、露光しているあいだ息を止めているよう集中している。集中して何か作業をしているわけではなく待っているだけなのだが、世界から何かを受容しているような瞑想的な集中であり、それが不思議なことに、針穴を開けて光を取り込んで焼き付けられた画像と何かしら呼応するものがある。

ものすごい風で、立ってられず、地面に平伏すようにして長時間露光し、ピンホールで撮った東尋坊

 


 話は変わるが、富士フィルムが販売しているチェキという昔のポラロイドフィルムと同じ原理のカメラがある。

 私は、写真に関わる仕事をしていながら、チェキのことをよく知らず、若い人のファッションアイテムだとしか認識がなかった。

 しかし、最近、親しくしている複数の写真家から、スマホカメラ全盛の時代なのに、チェキが若い人のあいだで非常に売れていて、それが世界的に広がっていると聞いて驚いた。

 1998年から販売を開始したインスタントカメラ“チェキ”は、2000年当時は、全体の9割が日本で売られていたらしいが、世界100か国以上の国と地域で販売され2018年には国内外における年間販売台数が1,000万台を突破しているのだという。

 チェキの描写は、銀塩フィルム特有のもので、最新のデジカメに比べて緩い写りだが、ユーザーからは、その場の空気感が写っていると好評のようだ。

 チェキで撮った写真は、パソコンでの修正がほぼ不可能という特徴があるうえ、1カットが70円とか80円もするらしく、”自分の思い通りになりにくい”という点で、最新機器のトレンドと逆行している。

 これまでまったく関心のなかったチェキについて、色々聞いていると、がぜん興味が出てきた。

 自分もチェキを買って作品作りをしようなどと思わないが、私がピンホール写真に取り組んでいる理由と、重なってくるところがあるのだ。

 スマホカメラもそうだが、映像分野は、より画像が鮮明になったものを進化だとみなしている。消費者に新しい商品を買ってもらうために、以前より画像が鮮明になったことが強調される。

 写真は近代の技術が生み出したもので、それゆえ近代社会の価値観が反映されることになるが、近代社会は、より明確さを求める価値観の上に築かれてきた。

 明確であることが世界の実態を忠実に表すために必要なことであると、科学万能の時代の人間は考え、科学者は、より明確な答えを求めて研究を続けている。

 しかし、明確であることは、本当に世界の実態に即したことだろうか。

 世界は、明確に線引きできるように分かれておらず、あいだに無限のグラデーションがある。私たちの心もまた、個人的な表面意識や潜在意識だけではなく、人類の記憶として引き継いでいる深層意識が、複雑精妙に積み重なって作られている。

 明確であることは、人間の都合によって整理しやすくしているだけにすぎないのではないか?

 テレビのコメンテーターにおいても、明確な意見を述べている人が頭がいいと思われがちだが、明確な意見を述べている人は、自分の立ち位置を固定して、その立ち位置を正当化するための情報材料を集めているだけだから、実は、あまり頭を使う必要がない。それゆえ、いつも同じことを言っている。これは、政権批判を売りにしていたメディアの社員の典型だ。

 私は、現在、ピンホールカメラで古代の聖域を撮影しながら歴史について考えることを続けているのだが、最近の歴史家は、「考古学的証拠がないものは、どんな説もイデオロギーだ」と言う人が多い。

 イデオロギーという言葉が出てくるのは、太平洋戦争の時に、戦争の正当化のために歴史観が利用されたことへの反省からきているのだが、証拠を突きつける正当化も怖いところがある。

 たとえばカメラは世界の一部しか切り取れないが、一つの場所に笑っている子供と泣いている子供がいても、泣いている子供だけをクローズアップして撮れば、その場所が悲しい場所だと主張することが可能になる。

 また、記録と記憶の問題もある。

 現代社会では、記憶違いもあるということで、記録の方が重視される。

 歴史に置き換えると、考古学的成果は「記録」であり、神話は「記憶」に該当する。

 以前、考古学的発見の捏造が世間を騒がしたことがあったが、たとえ捏造でなくても、一つの記録は、次の新たな発見によって覆される可能性があるわけだから、記録をもとにした思考の限定は、間違いのもとになる。

 それに対して、記憶は、神話もそうだが、曖昧なところが多く、どう解釈するかという問題がある。

 一人ひとりの記憶の場合も、その時の環境、条件によって変わってくる。だから神話は、書かれている事実を追うのではなく、そこにどういう人間心理が関わっているのかを読み取ることが重要になる。

 読み取る力は、洞察力や想像力と言い換えることができるが、機械が便利になりすぎると、人間から洞察力や想像力が奪われていく。 

 昔の写真家は、天気や光の状態を読み取って、絞り値やシャッター速度を決めていた。経験に基づく洞察力や想像力が実力の違いになった。しかし、最新のカメラでは、そんなことは必要なく、機械に任せていれば、誰でも適切な絞り値とシャッター速度で鮮明な写真が撮れる。

 しかし、それらの鮮明な写真は、心に引っかかるところがなく、いいね!と言われても、すぐに飽きられてしまうが、なぜそうなってしまうのか?

 おそらく、写真に限らず飽きてしまうものは、人間の想像力や洞察力に働きかけるものがない。

 心に引っかかる時というのは、想像力や洞察力が駆動している。何なんだろう?とか、なぜなんだろう?とか、未知の領域にアクセスする回路が少し開かれている。

 そして人間の記憶に長く留まり続けるのは、この、何なんだろう? なぜなんだろう?という感覚である。

 男女の付き合いにしても、学歴や職種や収入や体型といったものを重視する人は、「明確な記録」を自分の判断基準にする人だ。結婚詐欺師に限らず、どんな詐欺師も、そうした人の特徴を利用する。そして「明確な記録」を判断基準にする傾向が強い人は洞察力が磨かれていないケースが多いから、意外と簡単に騙されてしまう。

 それに対して、何なんだろう? なぜなんだろう? なんか気になるなあという曖昧な感覚を大事にする人がいて、こういう人は、「明確な記録」でマウントを取ろうとする人を警戒するので、詐欺には引っかかりにくい。

 人間は、人類のことを知能生物だと思っている。

 鋭い牙も爪も、分厚い毛皮も、強靭な足腰も腕力も持たない人類が、今日まで生き延びてきたのは、確かに「知能の力」によるのかもしれないが、その「知能」とは、どのような能力を指すのか?

 動物の場合は、本能的な直感力を失うと滅びに直結する。動物の本能的直感力に該当するのが、人間の想像力や洞察力だ。

 そして人間の想像力や洞察力が、動物の直感よりも生存のために強みを発揮するところは、一つの事象を、他の事象と連関させたり応用したりできるところだろう。

 この力によって、人類にとっての一つの経験は、一つの教訓だけで終わらず、他の無数の経験とつながって重層的な教訓となる。人間の「知能」の特徴は、この重層性にある。

 実は、神話の複雑さというのは、この連関や応用が積み重なった重層性にある。

 神話の中の一つのシーンは、ただ一つの事実の記録を示しているのではなく、一つの出来事が、想像力や洞察力によって、他の記憶的出来事と結び付けられている。この連関と応用のことを想像したり洞察することなく、神話を単なる事実証拠として扱うと、「神話は空想の産物にすぎない」と結論づけられてしまう。

 チェキが、なぜ若い人のなかで人気になっているのか?

 チェキを使う人は、写真の上手さを人に褒めてもらうことが目的ではなく、撮った写真を仲間と共有することが前提になっている。

 共有したいものは、場であり、時間であり、記憶だ。だから、明確な記録性よりも、その場、その時の空気感が大事になる。

 後になって振り返る時、自分の記憶に働きかけてくるものは、細部の明瞭さではなく空気感だからだ。

 古い家族写真などを見ると、神話的だと感じることが多く、その理由もよくわからないまま、私は、その感覚にできるだけ近づこうとして、古代の聖域をピンホールカメラで撮り続けてきた。 

 そして、チェキの写真もまた、古い家族写真に通じる空気感があるが、それが、若い人たちを中心に、世界的に人気であるという事実は、いったい何を示しているのか。

 曖昧なところが残っている方が、人間の心に長く残り続ける。神話もまた、同じ理由で、千年を超えて語り継がれている。

 近代社会は、様々な分野で明確さを重視したが、それは結果として、より明確なものを求める欲求を刺激しただけで、記憶の中に長く残り続けるものや、時代を超えて語り継がれるものを、減少させていっただけなのかもしれない。

 明確な記録で整理された世界に対する違和感が若い人の中で大きくなっていくと、神話的な世界が復活する可能性がある。しかし、気をつけなければいけないのは、神話が政治的に利用されることだ。詐欺的な行為を行なっている新興宗教も同じだ。

 それらに共通していることは、神話の単純化と明確化によって人間の想像力や洞察力を失わせるものであり、それはもはや神話ではなく、複雑さや曖昧さに対する耐性が弱い人を洗脳する手段でしかない。

 

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第1244回 多くの人は、耳を傾けないだろう話

京都市太秦 蛇塚古墳

 おそらく、多くの人は、耳を傾けないだろう話。

 しかし、多くの人が、自分には関係ないと思っていても、最後には自分と深く関係してくることがある。

 おとといから、長男が彼女と京都観光に来ており、いわゆる名所は既に行ったことがあるようなので、昨日、太秦周辺を案内した。

 日本でも有数の石室の規模を誇る蛇塚古墳とか、広隆寺とか。

 広隆寺弥勒菩薩の半跏思惟像は、日本国内でも特に人気の高い仏像の一つで、国宝彫刻の第一号として教科書にも取り上げられ、飛鳥時代を代表する彫刻として誰でも知っているものだ。もし、東京の国立博物館などで展示があれば、モナリザがやってきた時のように人出がすごいことになると思うが、なぜか広隆寺は、いつもひっそりとしており、いつ訪れても、半跏思惟像の前に座り込んで長時間、過ごしている人がいる。

 広隆寺の近くに帷子ノ辻がある。辻は、十字路のことだが、六道の辻のように冥界への入り口である場合が多い。

 帷子ノ辻もそうで、帷子(かたびら)は、ひとえの衣服で、人が亡くなって入棺する時に着せる死に装束でもある。

 太秦帷子ノ辻は、平安時代嵯峨天皇の皇后で絶世の美女だったとされる橘嘉智子が、「自分の死後は亡骸を埋葬せず、どこかの辻に捨てて鳥や獣の餌にして、その朽ち果てていく様子を絵にするように」と言い残し、実行された場所と伝わる。

 その皇后の遺体の朽ちていく様子を9つに分けて描いたとされる「九相図」が今に残っている。

 橘という名は、県犬養氏の改名であり、県犬養三千代が、藤原不比等の後妻で、聖武天皇の皇后となった光明子を産み、二人のあいだの子が女帝の孝謙天皇だ。

 さらに県犬養三千代藤原不比等と一緒になる前に産んだ娘、牟漏女王が、藤原北家の祖である藤原房前に嫁いで、その子孫が、藤原四家の中でもっとも栄えた藤原北家になった。

 孝謙天皇は結婚せず、世継ぎを生まなかったため、県犬養(橘)の血統は絶たれたが、その後、橘嘉智子が嫁いだ嵯峨天皇が、桓武天皇が亡くなった後の政変に勝利して即位し、二人の子が皇統を継ぎ、橘嘉智子の血縁である藤原北家が勢力を持つようになった。

 その後しばらくは、橘嘉智子の産んだ子や孫が皇位を継ぎ、藤原北家が朝廷内で権勢をふるう。

 古事記の編纂を含め、藤原氏の栄華を、藤原不比等の陰謀云々で説明する人が多いが、そんな単純なことではなく、県犬養(橘)氏が、大いに関わっている。

 この藤原氏の栄華に大きな陰を落としたのが、10世紀の菅原道眞の祟りだ。

 菅原道眞の祟りによって多くの有力藤原氏は勢力を失い、唯一繁栄したのが、菅原道眞と親しかった藤原忠平の子孫であり、この一族は、菅原道眞の祟りを利用し、さらに貴族に代わって勢力を増大させていった武家源氏とタッグを組み、貴族の時代の最後の輝きとなった。それが藤原道長だ。

 ゆえに、藤原道長の時代というのは、藤原貴族の絶頂のように思われているが、事実としては、道長と持ちつ持たれつの関係だった清和源氏の勢力拡大を許すことになり、貴族から武士の時代への転換を加速させることになった時代ということになる。

 この転換のきっかけの菅原道眞は、日本三大怨霊の一人であるが、彼を重用して政治改革を進めようとしたのが宇多天皇だった。

 宇多天皇は、もともとは源氏の身分であり、天皇になる予定ではなかったが、急遽、なんらかの政治的力が働いて天皇になった。その政治的力が何だったかを考えるためには、菅原道眞の怨霊騒ぎで何が起きたかを確認すればよく、結論から言えば、律令制の終焉だ。道眞の祟りを非常に恐れたのが宇多天皇の孫にあたる朱雀天皇の母であり、この時代を機に、律令制の根幹であった班田収授は行われなくなった。

 そして、宇多天皇の母親は、渡来人の東漢系当宗氏

(坂本氏系)の班子女王(はんしなかこじょおう)で、彼女の父が、桓武天皇の第12皇子、仲野親王で、彼が帷子ノ辻と関わってくる。

 当時、朝廷は財政難だから、第12皇子なんか養ってくれない。そのため、仲野親王は、財力のある渡来系氏族の後ろ盾が必要だったのではないかと思われる。そして12皇子という世継ぎから遠い人物を支援する側にも、当然、魂胆がある。

 仲野親王東漢氏系の女性のあいだに生まれた班子女王(はんしなかこじょおう)は、後の光孝天皇に嫁ぐことになった。

 光孝天皇は、天皇になる予定の人物ではなく、55歳までのんびりと生きていたが、陽成天皇が廃位されて急遽、天皇にされた。これは、光孝天皇天皇に相応しい人物であったからではなく、彼の息子の宇多天皇への道を作るためであり、光孝天皇は、その3年後に死んだ。

 このようにして、12番目の皇子である仲野親王を支援した東漢氏系の氏族は、宇多天皇の即位によって報われることになる。

 菅原道眞の重用と、その改革。旧勢力の抵抗と菅原道眞の九州への左遷、その後の道眞の祟り騒動、そして律令制の終焉と新勢力の台頭は、一連のものだ。

 もともと有名な坂上田村麻呂をはじめ、軍事勢力であった東漢氏(坂本氏)は、武士が台頭する時代、武士の中に組み込まれていった。初期清和源氏の武力部門は、東漢氏系の坂本氏が担っていた。

 後の時代、源義経をかくまった奥州藤原氏は、藤原秀郷の末裔とされているが、男系の系譜では東漢氏系の坂本氏である。名門の藤原の名を継ぎ、坂本は表に名前が出ないようにしたのだ。

 こうした後の時代の流れからも、宇多天皇と菅原道眞(怨霊騒ぎ)による改革で律令制が崩壊していった背景に、桓武天皇の12番目の皇子である仲野親王を支えた東漢氏系氏族がいたとしても不思議ではない。

 この仲野親王の古墳とされるものが、橘嘉智子が死んだ後に自分の遺体を放置せよと言い残して、それが実行された帷子ノ辻に築かれている垂箕山古墳とされる。

 皇室系の墓ということで、宮内庁が管理しているが、これが本当だとすると、橘嘉智子の遺体が放置された時期の前後に、この場所に古墳が築かれたことになるが、それはありえない。

 なぜなら、この古墳は巨大な前方後円墳で、桓武天皇も、その息子で皇位を継いだ嵯峨天皇を含め、円墳であるし、垂箕山古墳は、皇位を継いだ人物の墓よりも巨大だからだ。実際に、この古墳の建造は6世紀とされ、仲野親王よりも300年も古い。近くにある巨大な横穴式石室の蛇塚古墳と近い時代である。

 この古墳と仲野親王が結び付けられている理由は、おそらく、この垂箕山古墳がある帷子ノ辻が、仲野親王を支援した勢力(東漢氏系)の拠点であり、その勢力の中心人物の古墳が、6世紀に築かれていた。そして、その勢力が支援した仲野親王が、この古墳に合葬されたからかもしれない。

 しかし残念なことに、天皇の皇子の古墳だと宮内庁が決めてしまっているため、考古学的調査を実施して調べることができない。宮内庁が、歴史を止めてしまっている。

 ちなみに、近くの蛇塚古墳は、太秦周辺に秦氏の痕跡が多く残っているので、一般的には秦氏のものとされているが、それはたぶん違う。渡来系=秦氏というステレオタイプの発想が世の中には多いが、垂箕山古墳との位置関係から、東漢氏系のものではないかと思われる。秦氏系関係でこれほど巨大な石室を持つ古墳は存在しないのに対して、東漢氏は、蛇塚古墳のような巨大石室の古墳を築いている。その代表が、蘇我馬子の墓でないかとされる石舞台古墳をしのぐ国内最大級の石室を持つ真弓鑵子塚古墳(飛鳥檜前)だ。石室以外にも、東漢氏の手によるとされる石庭も、いくつか残っており、巨石を扱う技術に長けていた可能性がある。

 それはともかく、この垂箕山古墳の脇に少し入って、息子たちに軽く説明をしていた。

 すると、通りすがりの年配のご婦人が、「入ってはいけないんですよ」と大きな声を出す。

 その根拠は、古墳の入り口に、宮内庁管理という看板と、「むやみに立ち入りを禁ず」とあることだ。

 しかし、明確な天皇陵と違い、古墳の周りに厳重に柵があるわけではない。宮内庁も、実際に皇室系のものかどうかわからないためか、天皇陵のように「立ち入り禁止」とせず、「むやみに」と付け加えている。「むやみ」に、というのは、無分別の行動を禁ずるということであり、古墳の脇で、歴史の話をすることが、無分別であるはずがない。

 でも、そのご婦人は後に引かない。それで、「この古墳がどなたのものかご存知ですか?」と聞いたら、「知りません。でも、ダメなものはダメでしょう」と言う。理由はよくわかっていないようだが、ご本人は、自分を正義だと思って、言っている。

 つまり宮内庁というお上が、なんか理由はよくわからないけれど、ダメと言っているみたいだから、ダメなんだよと。

 私は、立ち入り禁止ではなく、むやみに立ち入りを禁ずの意味を説明し、誰の古墳とされているか説明し、なぜここにあるのかを若い二人に話しているのですよ、一種の歴史の研究調査ですよ。と答えたら、「調査なら仕方ありませんね」と言い、引き下がった。

 古墳の前にお住まいの住民は、庭に出て何かしていたが、私たちの行動に何か言うわけではなく、なぜか通りすがりのご婦人が、非難してきた。

 この長文をここまで読んだ人はほとんどいないだろうが、なぜこういう話を持ち出したかというと、けっきょく、物事にじっくり向き合わず、ちょっとかじっただけで、ダメとか良いとか自分の中で決めつけてしまっている人が多いことが懸念されるからだ。

 今のコロナ騒ぎのなかにも似たようなケースがある。

 人との距離を置いているのに、炎暑のなかマスクをしていないだけで、怪訝な顔でこちらを見たり。

 民主主義というのは、ある意味で怖い。無知なまま流されやすい膨大な人を味方につければ、強権を発揮できる。ダメなものはダメなんだよと。それこそ、どこかの国を悪者に仕立てることも可能だし、政治とは別に日常的なことでも、「あの家の子には近づいてはダメよ」みたいなことも起こる。

 人間の悪や間違いというのは、多くの場合、こうした「かってな思い込み」「かってな決めつけ」ではないかと思う。それがとくに厄介なのは、その思い込みや決めつけを、学者などを権威化することで行われること。

 戦時中には、必ずそれが行われるし、コロナ禍でも同じだ。

 歴史の権威です、などと持ち上げられてメディアに登場する人の話も、その大半が、いい加減なものだ。

 

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