第1287回 古墳の形と、国譲り神話と、鬼退治の関係。

 第1285回のブログで、前方後方墳前方後円墳の違いを、弥生時代「方形周溝墓」と「円形周溝墓」の違いの延長と捉えて説明した。一人の王が軍事や祭祀など全権を担う統治システムと、複数人物による分権統治システムの違いではないかという仮説を立てて。

 そして6世紀に入り、全国的に前方後円墳前方後方墳が作られなくなり、近畿では奈良盆地の丸山古墳(第29代欽明天皇陵と考えられる)が突出した巨大さを誇り、それ以外の地域では、関東と九州だけに前方後円墳が多数作られる状況となったが、それは、この時期になってようやく、奈良盆地を中心とする勢力の統治範囲が、九州と関東以東を除く地域に及んだことを示すのではないかと考えた。

 従来のヤマト王権説だと、3世紀くらいからヤマト王権の支配領域が少しずつ日本中に拡大していき、前方後円墳がその支配領域を示していると説明されるが、当時の日本は統一文字を持っておらず、広範囲に渡る統治のためには、法令などの整備や、税金を徴収するにしても記録文章が必要であり、そうした文字を持たない統一国家は、世界中を見渡しても存在しえなかった。さらに、4世紀後半くらいまでの日本は騎馬も持たなかったとされており、だとすれば、山に覆われた広大な日本全体を軍事的に統治し続けるのは困難だった思う。

 実際に、ヤマト王権の直轄地とされる屯倉(みやけ)は、5世紀には畿内に限られており、全国的に拡大されたのは、第26代継体天皇即位後の6世紀のことである。

 なので、前方後円墳の全国的な広がりは、ヤマト王権の支配地域の拡大というよりは、弥生時代の円形周溝墓の延長としての前方後円墳が象徴する統治の仕方(一人の王が全権を担う形で、その地域を治める)の普及であり、それに対して前方後方墳は、複数の埋葬者がいた弥生時代の方形周溝墓の延長で、軍事と祭祀など役割分担による統治の仕方を表しているのではないかという考察が、第1285回のブログで書いたことだった。

 そして、次なる段階の7世紀になると、古墳の形に大きな変化が生じる。

 大王級の墓が、すべて方墳となるのだ。

 聖徳太子の父とされる第31代用明天皇の方墳と、第33代推古天皇の方墳は、大阪の太子町に築かれ、第32代崇峻天皇陵は、明治になってから宮内庁桜井市倉梯岡上陵としたが、学者のあいだでは、桜井市にある大型方墳の赤坂天王山1号墳であるというのが定説となっている。

 そして、第34代舒明天皇の最初の墓は、2017年の調査で、明日村にある日本最大級の方墳である小山田古墳である可能性が高まった。

 第30代敏達天皇に関しては、宮内庁が太子町の前方後円墳である太子西山古墳としているが、考古学的に疑問が多く、学者のあいだでは、太子町の長方形墳の葉室塚古墳が真陵であろうとする説もある。

 いわゆる聖徳太子の改革として後の時代に評価される時期、第31代(もしくは第30代)から第34代の大王の墓が、方墳になっている。

 そのことについて専門家は、方墳というのは、その時代に勢力を誇った蘇我氏系の王の墓だと安易に整理してしまっている。

 しかし、舒明天皇蘇我蝦夷が擁立に関わっているものの蘇我氏との血縁は全くない。

 この時代に築造された大規模の方墳が存在する場所において、興味深く、不可思議な事実がある。

 第1285回のブログでは、前方後方墳が築かれた場所を地図で示した。

 その中で、3世紀という古墳出現期の古墳としても最大規模の二つの前方後方墳である京都の向日山に築かれた元稲荷古墳と神戸の西求女塚古墳が、同じサイズの同じデザインで、しかも、近隣に縄文時代の石棒や弥生時代の銅鐸など古代からの祭祀道具とか関わりの深い場所があることを伝えた。この二つの古墳と日本最古の前方後方墳の近江の神郷亀塚古墳が、冬至の太陽の日没ライン上に配置されているということも含めて。

 さらに、神戸の西求女塚古墳から冬至の太陽の日の出ライン上に、三角縁神獣鏡などが大量に出土した葛城の新山古墳(かぐや姫伝承の里)が築かれ、上記の4つの前方後方墳のあいだが全て50km間隔であること。その上、葛城の新山古墳から冬至の太陽の日没ライン上に日本最大の西山古墳(天理市)があり、そのラインの中間に、鏡作神社(田原本町)があり、この神社の神宝の鏡が愛知県犬山市前方後方墳である東之宮古墳から出土した鏡と同じ型であるなど、前方後方墳の配置に関しては、かなり規則性に基づいていることが地図上の事実から明らかに伝わってくる。

 その地図に、7世紀の大王クラスの方墳の位置を重ねたのが、下の地図だ。

 これを見るとわかるが、興味深いことに、前方後方墳の配置と、7世紀の大王クラスの方墳の配置の関係に、規則性が見られる。

 黒いマークは、3世紀からの古い時代に築かれた前方後方墳(島根の松江だけが、かなり遅く6世紀になってから前方後方墳が築かれた)であり、紫のマークが7世紀前後の大王クラスの方墳である。

近畿の部分を拡大すると、こうなる。

 紫のマークが7世紀に築かれた方墳だが、西の端が、大阪の太子町の用明天皇陵と推古天皇陵と敏達天皇陵の可能性の高い葉室塚古墳の集中地帯、真ん中が明日香村で、舒明天皇が最初に埋葬された小山田古墳(右)と、被葬者が不明だが、その規模などから大王クラスと考えられ舒明天皇の妻である斉明天皇陵の可能性も指摘されている岩屋山古墳(左)がある。そして、東側が奈良県桜井市崇峻天皇陵だ。

 前方後方墳は、冬至夏至のラインに添って配置されているが、7世紀の大王の方墳もまた、そのラインと平行して配置されている。

 また、明日香村の岩屋山古墳は、下段部は方形で、上段部は現在は存在しないが八角形であったと考えられており、舒明天皇が改葬された段ノ塚古墳と同じだ。 

 つまり、段ノ塚古墳と岩屋山古墳という、天智天皇天武天皇の父母にあたる大王の陵墓は、下段が方墳、上段が八角墳という二つの形式の融合タイプで、次の時代の大王クラスの墳墓である八角墳とのあいだを繋いでいるとも言える。

岩屋山古墳の石室

飛鳥の石舞台古墳は、7世紀の大王クラスの方墳で、蘇我馬子の墓とされる。

 こうして見ると、古墳の形は、「蘇我氏系」や「物部系」と氏族の違いを特徴付けるものではなく、弥生時代の方形周溝墓と円形周溝墓の違いのように、統治の在り方と関わっているように思われる。

 聖徳太子の時代の古墳で、方墳ではなく円墳であるが、大王級の豪華な副葬品が出土して話題になったのが、斑鳩にある藤ノ木古墳で、ここは、穴穂部皇子の墓の可能性が高いとされる。

藤ノ木古墳

 この穴穂部皇子という人物が、歴史の大きな分岐点にいる。

 学校の教科書では、飛鳥時代蘇我氏物部氏の戦いは、仏教をめぐる対立から生じたと単純化されてしまっているが、この戦いの本質は、そんなところにはない。

 この対立のキーマンは、穴穂部皇子である。

 穴穂部皇子は、第30代敏達天皇崩御した時の葬儀で、「何故に死する王に仕え、生きる王である自分に仕えないのか」と言ったとされる。

 その後、蘇我馬子が推す用明天皇が即位したため、穴穂部皇子物部守屋と結託した。そして、炊屋姫(敏達天皇の皇后で、後の推古天皇)を犯そうとした。この一連の暴挙のなかで、蘇我馬子は、「天下の乱は近い」と嘆いたとされる。

 用明天皇は、即位後1年で病気になり、さらに翌年の587年に崩御してしまったので、物部守屋穴穂部皇子天皇に立てようとして、炊屋姫(推古天皇)を奉じた蘇我馬子とのあいだに戦いが生じた。この戦いで、物部守屋穴穂部皇子も滅ぼされることとなった。

 この流れからわかるように、蘇我と物部の戦いは、仏教をめぐる対立というよりは、穴穂部皇子天皇にするかどうかの戦いだった。

 穴穂部皇子は、敏達天皇の死後、なぜ、炊屋姫(後の推古天皇)を犯そうとしたのか?

 皇后を犯せば、次の皇位が約束されるわけではない。

 穴穂部皇子推古天皇も、そして用明天皇も、第29代欽明天皇の子である。しかし、母親が違った。

 穴穂部皇子の母親は小姉君で、用明天皇推古天皇の母親は堅塩媛だった。どちらも蘇我稲目の娘であるが、小姉君と堅塩媛は、母親の出身が違っていたのだと思われる。

 その証拠はないのだが、洞察するための鍵はある。聖徳太子の母親の穴穂部間人もまた小姉君の娘であり、蘇我と物部の戦いの最中、穴穂部間人は、京都の丹後地方の間人に隠遁していた。その場所が、母親の小姉君の里だったからだと考えられている。

 そして、この丹後の間人には、もう一つ重要な伝承が残っていて、それは、堅塩媛の子である用明天皇の皇子である麻呂子親王が鬼退治を行った時、その鬼を追い詰めた場所とされているのだ。間人の海岸にある安山岩の柱状列石の巨岩である立岩が、鬼を封じ込めた場所ということになっている。

 この立岩のそびえる海岸に、穴穂部間人と、幼い聖徳太子の像が立っている。

 麻呂子親王が鬼を追い詰めた場所が、穴穂部間人と穴穂部皇子の母親である小姉君の里なのである。つまり、鬼と小姉君の実家が重なっている。

 堅塩媛の血を引く麻呂子親王が、小姉君の血を引く穴穂部の勢力を攻撃したことが、鬼退治の伝承となっており、この戦いは、蘇我氏と、物部氏穴穂部皇子連合の戦いでもあった。

 これは二つの勢力のあいだの単純な権力争いではない。なぜなら、蘇我馬子は、穴穂部皇子を滅ぼした後、穴穂部皇子の同腹の弟にあたる崇峻天皇を即位させている。しかし、この崇峻天皇が暗殺され、蘇我馬子が推す推古天皇が即位したため、この一連の出来事は、横暴なる蘇我馬子の陰謀によるものだと整理されてしまっているのだ。

 しかし、推古天皇の時代、聖徳太子蘇我馬子が推し進めた政治は、17条憲法を通して、党派を作ることを否定し(第1条)、物事は独断で行ってはならない(第17条)と敢えて強調される政治であり、むしろ、和を尊ぶものだった。

 蘇我氏天皇の側近になったきっかけは、蘇我稲目が、自分の娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇に嫁がせたことだが、何の実績もない一豪族が、二人の娘を簡単に天皇に嫁がせることができるとは思えない。

 蘇我稲目は、大きな勢力を背景に持つ女性と結ばれ、その娘が堅塩媛と小姉君であったのだろう。そして、二人の娘の母親は、それぞれ異なる勢力の出身であった。

 第29代欽明天皇は、この二つの勢力出身の娘と結ばれ、それらの勢力を味方につけることで、300mを超える当時としては圧倒的な大きさを誇る前方後円墳の丸山古墳に象徴される権力を身につけた。

 しかし、欽明天皇の死後は、その二つの勢力のバランスが崩れやすい状況となった。 

 欽明天皇の子供には、堅塩媛との子である用明天皇炊屋姫(後の推古天皇、小姉君の子である穴穂部皇子崇峻天皇、どちらの娘の子でもない敏達天皇がいたが、敏達天皇が第40代天皇として即位し、炊屋姫を皇后とした

 そして、その敏達天皇が亡くなった時、穴穂部皇子が、「自分こそが王だ」と主張し、炊屋姫を犯そうとした。小姉君の実家の勢力を背後に持つ穴穂部皇子が、堅塩媛の実家の勢力を背後に持つ炊屋姫を犯して我が物とし、二つの勢力を自分の元に置くことを企んだ、と考えられないだろうか。

 そのため、その暴挙を阻もうとする蘇我馬子の勢力と対立が起き、蘇我と物部の戦いへと発展した。その時に、麻呂子親王が鬼退治という形で、物部と穴穂部に関わる勢力を丹後半島の端へと追い詰めた。

 穴穂部皇子を滅ぼした後、蘇我馬子は、同じ小姉君の子である崇峻天皇天皇とした。

 蘇我馬子にとって小姉君と堅塩媛は母親違いの兄妹で、崇峻天皇を要にして両勢力の調整を模索したが、最終的に崇峻天皇は暗殺された。蘇我馬子の横暴として後世に伝えられているが、他の豪族たちも納得のうえとも言われ、崇峻天皇に、穴穂部皇子に似た何かしらの問題があった可能性が大きい。そうでないと、崇峻天皇の殺害後に蘇我馬子が、聖徳太子推古天皇とともに、”党派を作ることや独断を否定する”政治を行うとは思えないのだ。  

 穴穂部皇子の穴穂部というのは、もともとは、ヤマト王権に奉仕する大王直属の集団であり、とくに近畿圏に、いくつかの拠点があり、賀名生とか、穴太などとも表記される。

 穴穂部間人の出身地とされる大阪府八尾市や、京都府亀岡市滋賀県大津市などが代表的な場所だ。もともとは、渡来系の技術者集団だったと言われる。

 穴穂部皇子の墓とされる斑鳩藤ノ木古墳の副葬品のなかに、金銅製鞍金具が見つかっており、これは、鮮卑式のものとされる。鮮卑というのは、中国において北魏を建国した北方系の騎馬民族である。そして、この北方民族は、漢民族からは「胡」と呼ばれていた。

 そして偶然なのか必然なのか、麻呂子親王が退治した鬼の中に、「胡」という名前が見られる。

 中国北方系の民族の日本への渡航は、古来、九州ではなく、若狭湾周辺から新潟にかけてだ。(奈良時代以降、高句麗が滅んだ後に興隆した渤海国との交易で使われた港は福井県敦賀だった)。

 もしかしたら、穴穂部皇子の背後には、この勢力がいたのかもしれず、彼の母親の小姉君の里が若狭湾に面した丹後の間人であることや、この場所に鬼が封じ込められたという伝承とつながってくる。

 そして、麻呂子親王とともに鬼を退治した勢力が何だったのかというと、それは、穴太という名前が今も残る京都の亀岡において、蘇我と物部の戦いの後の7世紀初頭、突然多く作られた石棚付き石室を持つ古墳の特徴から、西瀬戸内海や、和歌山の紀ノ川に拠点を持つ海人であった可能性が高い。石棚付き石室を持つ古墳は、これらの地域に特徴的な古墳だからだ。

 穴太という名の残る亀岡は、もともとは穴穂部皇子を支える勢力の拠点で、この場所から、北の丹後半島へと追い詰められていったのではないか。

 欽明天皇の父親の第26代継体天皇が即位する前も、皇位にブランクが生じた時、大伴氏や物部氏が次の天皇に推挙したのは亀岡を拠点とする倭彦王であり、倭彦王が、陰謀を警戒して逃げ出さなければ、皇位の正当が、継体天皇の血統ではなく亀岡の豪族に血統になる可能性もあった。

 亀岡の地は、保津川渓谷の反対側が京都市の嵐山から松尾になるが、松尾に鎮座する月読神社は、壱岐島から畿内にもたらされた最も古い月読神社である(487年創建)。月は潮の満ち干を支配するが、瀬戸内海は、鳴門の渦潮をはじめ潮の干満の影響が極めて大きな内海であり、潮を読まずして航海ができなかった。海人と関わりが深い物語の主人公である浦島太郎は、月読神の子孫という設定であり、月読神は、海人にとって大事な神様であったと思われる。

 京都の京田辺市に鎮座する月読神社も、海人の隼人の拠点であり、隼人舞発祥の地とされる。

 奈良県五條市吉野川沿いに阿田という場所があり、ここも隼人の居住地であったが、京都の月読神社の鎮座地(現在の場所は洪水で移されたところで、もともとは、桂川西芳寺川の合流点だった)の地名は、今も、神阿田である。

 つまり、京都の月読神社は、明らかに海人と関わりの深いところだった。

 この月読神社の境内摂社として、聖徳太子社と、御船社が鎮座しており、御船社は、国譲りの物語の副将である天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を祀っている。聖徳太子社が鎮座していることから、おそらくこの場所が、亀岡を拠点とする穴穂部の勢力を追討する海人部隊の前線基地だった可能性がある。

 そして、天鳥船神が、この月読神社の境内に祀られているのは、この戦いが、いわゆる「国譲りの戦い」であったからだ。

 古事記の中で、オオクニヌシに国譲りを迫るタケミカズチの言葉は、

 「なんじがうしはける葦原中国は、天照大御神の御子が知らす国であると任命された。汝の考えはいかがか?」

 あなたの国は、「うしはく」だが、これからは「しらす」の国にするために、自分が高天原の使者としてやってきた、ということをタケミカヅチは言っている。

 「うしはく」というのは、強い者が独占して国を治めることで、「しらす」というのは、「知らしめる」で、情報の共有化と、役割を定め、協力して国を治める意味だと解釈されている。

 蘇我と物部の戦いによって、穴穂部皇子物部守屋の勢力が打ち負かされた後、大王の墓は、方墳になる。

 そして、その7世紀は、九州や関東でも、前方後円墳にかわって、方墳が増える。

 おそらく、この時代の方墳は、憲法17条で示されている精神が反映されたもので、独断と徒党を否定する政治体制を象徴しており、それは、弥生時代の方形周溝墓や、その延長上にある前方後方墳と同じだと考えられる。

 国譲りの物語の中でタケミカヅチオオクニヌシに告げる「しらす」の思想を表明するものが、方墳なのだ。

 古事記というのは、推古天皇の時代までが描かれているのだが、古事記の中の「国譲り」の話は、ヤマト王権以前に遡る出来事ではなく、推古天皇の頃の政治改革のことを象徴的に物語っているのだろう。

 つまり、この物語で国譲りを迫られる出雲というのは、穴穂部皇子に象徴される独断と徒党で行われる統治であった。過去においては、オオクニヌシの国づくりに象徴されるように、地域をまとめて発展させるうえで、独断的な強いリーダーシップが求められた時代もあった。

 弥生時代が終わり、前方後円墳の数が全国的に増えていく段階は、いわゆるヤマト王権の時代と言われているが、その時は日本全土がヤマト王権によって統一されていたわけではなく、各地域は、地域ごとの有力なリーダーが、「うしはく」という、強い者が全ての実権を担う方法で治めていた。その時代こそが、オオクニヌシの国づくりの時代なのだ。

 前方後円墳の後円部分の竪穴式石室は、権力者が死んで天に上って神になって、その地域を守るという思想が反映されたものである。ゆえに、地域を守る神は地域ごとに異なる。そうした「宗教」の肥大化が古墳の巨大化であり、とくに祭祀を行う前方のスペースが、時代とともに大きくなっていった。

 それに対して、蘇我馬子が政治の中に組入れようと努めた仏教の思想は、「仏の前に平等」であった。「うしはく」という状態が全国的なものになると、それぞれの地域が異なる神を奉じて互いに戦う状態になる。そうした個別の神を無力化するためには、仏の前に平等と説く仏教が叶っており、蘇我馬子や、聖徳太子は、その仏教の力を「しらす」の国への移行に活用しようとしたのではないか。

 聖徳太子の時代、方墳がメインとなった大王の古墳は、646年、大化の改新に含まれる薄葬令によってさらに規模を縮小することが求められたが、8世紀初頭、律令制の始まりの段階において、八角墳という世界でも日本だけの特殊な形の古墳が大王の古墳として採用された。

 八角形は、四方八方に等しく行き渡る律令制の精神を象徴しているのだろうか?

 これは、聖徳太子の時代からはじまった「しらす」の国への移行の到達点だった。

 しかし、その頃から、天皇崩御した際には仏教によって弔われるようになり、巨大な祭祀空間および政治的シンボルとしての「古墳」は消滅し、ただの墳墓になった。

 

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第1286回 日本の近代化を促進させたもの

10年以上前、風の旅人編集部で働いていた中山慶が、現在、地域社会活性化と異文化交流を軸にした仕事を、京都の京北地方を拠点に行っている。

 日本各地で様々な地域社会活性化の取り組みが行われているが、中山慶が行っているプロジェクトで私が興味深く感じているのは、異文化交流を軸にしていることで、とくに海外の人たちに日本の風土や伝統などを知ってもらうという取り組みが、その地域に暮らす日本人自体の、地域や日本のことをより理解するための道筋になっている。

 海外の旅をディープに経験したことがある人なら多くの人が共通認識として持っていると思うが、異国の地で出会う人たちから日本のことを色々と質問されて、自分がまったく日本のことを理解していないと痛感することがある。そうした経験が、帰国後、日本のことを深く学ぼうとする動機になったという人も、けっこういるだろう。人に対して説明をしなければいけない局面に立つことで、人は、自分の無知を思い知らされるのだ。

 地域社会活性化においても、”経済的側面”だけを見ていても、本質的な問題解決には至らない。

 外からの刺激(公共投資など)で経済を活性化させて働き口を確保しても、長続きしないからだ。 

 理想は、その地域の出身者でも移住者でも構わないが、そこで生きる人たちが、その地域に深く関心を寄せ、そこで生きることを面白いと思い、質素ながらも充実した暮らしができるような仕事を、その場所で作り出していくことだ。

 それにしても、現在の日本人は、日本および自分が住んでいる地域のことについて、歴史や地理や地勢など、ほとんど何も知らないという人が非常に多い。

 情報も教育も、中央官庁や東京を中心とするメディアが牛耳ってきたので、各地域の違いなど考慮せずに全国画一的なものが地域に送り届けられ、押し付けられている。そのように個別の違いについて無頓着にさせる啓蒙が、日本的な情報伝達における特徴だとも言える。

 この特徴は、果たして、古代からずっとそうだったのか、それとも、ある時期にそういうシステムが作られたのか?

 一つ明らかなことは、明治維新によって、現在に至るまでの日本の在り方が、整えられたということ。

 昨日、中山慶が新妻を連れて私の家に来て、色々話をしたのだが、その時、海外の学生に対して日本の近代化について英語で伝える授業を彼が行うことになっていて、その際、東京で日本の近代化を示せるような場所を一箇所だけ案内することになっているのだが、どこがいいか?と相談があった。

 一般的な学校の授業ならば、たとえば国立歴史民俗博物館に行くことで、文明開化の様子や産業化における様々な事物を見ることができる。しかし、それらは近代化の現象にすぎず、現象というのは移ろうものであり、近代化の現象は、今も移ろいながら様々な様相を出現させている。

 「日本の近代化」について知っておくべきことは、そうした個々の現象ではなく、その構造であり、なぜなら、その構造が、現在を生きる私たちが意識していないところで、私たちの価値形成や生き方に大きな影響を与えているからだ。

 なので、東京で一箇所だけ、「日本の近代化」について、その本質を感じてもらい、思考を触発させるための場として相応しいのは、「皇居」ではないかと私は思い、そう伝えた。

 江戸時代までは目に見える政治の中心であった江戸城が、明治で「皇居」になった。

 日本のど真ん中に広大な空間が広がり、そこで何が行われているのか、日本人ですらよくわかっていない。これはいったいどういうことなのか?

 そして、そもそもの話として、近代化とは何であるのか?

 近代化の柱の一つは、近代的土地所有だろう。封建時代は、耕作者が、その土地を耕す権利を持っていたが、収穫に応じて年貢を納めなければならず、その土地を離れることも、売ることも、子供への相続の際に分割することもできなかった。

 近代的土地所有は、耕作者の土地の所有権を認め、土地の売買を可能なものにした。そして明治維新政府は、地価を定め、税金として地価の3%を現金で国家に納めさせるようにする制度改革を行った。

 その税金負担に耐えられない人は土地を売って賃金労働者になり、土地を買って広大な土地の地主になった者は、小作農を雇い、作物を売って現金をためたり、その土地で農業以外のビジネスを行い、同時に現金を金融化し、様々な産業に投資した。こうして、経営者と賃金労働者の格差が生まれたが、このシステムによって産業化が促進された。

 産業革命は、近代的土地所有制度によって起きる。ヨーロッパにおいては、フランス革命など市民革命によって封建制度は崩れ、近代的土地所有へと移行し、その後、産業革命が起きた。

 欧州において封建制度を崩壊させた力は、革命であり、これは、農業生産力の向上による農民の力が高まったことによって起きた。つまり、下からの変化だった。

 しかし、明治維新の近代化は、そうした革命のプロセスを経ない上からの変化だった。

 ペリーの黒船が来航して以来、欧米列強の脅威に晒されていた日本で、欧米に対抗できる国づくりを行わなければいけないと考える頭の良い人たちがいた。

 しかし、一つの国の制度を根本的に変えることは簡単なことではない。

 強引に制度を変えても、国民は、長年染み付いた「慣習」や「常識」を、そう簡単に捨てることができない。

 明治維新政府は、国民の慣習や常識を入れ替えて国家体制を大きく変えるために、様々な改革を行っていったが、その要に置かれたのが天皇だった。

 まずは、1867年の大政奉還で、天皇統治権を奪い取ったのではなく、徳川将軍が、天皇統治権を返還するというストーリーから始まり、1868年、王政復古の大号令五箇条の御誓文が続く

 この内容は、1.政治は会議を通して人々の意見によって行われるべきである。2.身分の上下に関係なく心を一つにして国家の政策を論じて行う。3.全ての人が、(努力次第で)それぞれの志をとげられる状況にし、人々のやる気をそぐようにはしない。4.これまでの偏った狭い因習にとらわれず、普遍的な摂理に基づくこと。5.広く世界から学び、その知恵によって、新しい国づくりを大成する。

 これが明治政府の基本方針であるが、新しく始める政治が天皇による独裁政治ではないことを示し、太平洋戦争後、吉田茂首相が、この五箇条の御誓文こそが日本の民主主義の原理であると述べた。

 しかし、この御誓文は、明治天皇天神地祇を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式で行われた。

 そのうえで1869年の版籍奉還。日本中の土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還し、天皇の下にある中央政府が、土地と人民を支配するという仕組みになり、税金を徴収し、国家的事業を行うこととなった。人民に、農業・工業・商業の自由を与え、産業化の促進につなげた。

 そして、1889年、大日本帝国憲法の発布。これによって天皇統治権の責任者とされ、「神聖不可侵」な存在であるとされた。 

 明治政府が、この新体制を国民に周知させるために行ったのが、1890年の教育勅語だった。

 教育勅語も、明治天皇が、教育の基本方針を示すという形がとられ、学校儀式などで奉読され、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理となった。

 朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をおはじめになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にこゝにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦むつび合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘きずいきままの振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚あまつひつぎの御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゝに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。

 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

(1940年 文部省図書局が発行した「教育に関する勅語の全文通釈」)。

 この教育勅語の内容は、この国の教育の基本方針が、道徳倫理の教育であることを示しており、学問を修め業務を習つて知識才能を養うのも、社会や国家にとって善良有為の人物となるためであるとし、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくすことを求める。そうした心構えは、天皇に対して忠良な臣民であるばかりでなく、祖先から伝えられてきた美風にそったものである。としている。

 これはまさに太平洋戦争にまでつながる新生国家日本のバイブルと言える。

 そして、大日本帝国憲法の第1条では、「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」とした。

 近代化の道を歩みはじめる日本の統治の要に、「万世一系」という言葉が用いられているのだ。

 天皇の古代からの永続性を、天皇の正統性の根拠であるとしたわけだが、その永続性の中身は、国民にとっては神秘のベールに包まれている。そして、その神秘性こそが、日本人にとっての説得力となり、日本の近代化の求心力となった。

 欧米にとっての近代的思考は、17世紀、最後の宗教戦争といわれるドイツ30年戦争に志願し、絶望したデカルト、世の中に広まっている色々な考えに盲目的に追従することを否定したうえで、自分の理性の力で、真理を見極める方法として提示した「方法序説」を起点としている。

 めいめいが「自分の考え」を深めるために学習し、自分の権利と義務についてもしっかりと考え、不条理に対して異議をとなえ、それを抑圧する権力と戦い、革命によって自由を勝ち取り、近代化は進められてきた。

 それに対して日本の近代化は、社会や国家にとって役に立つ人物となるために学習し、自分のことより大義に基づいて勇気をふるって身を捧げることが祖先から伝えられてきた美風であると教えられて、そういう道徳と倫理を備えた国民の総合力が欧米列強に対抗するための国力となり、そうした国作りこそが、日本の近代化ということであった。

 こうした美風を強いてくる力は、具体的なものより、神秘的なものの方が、いっそう権威的な力を帯びる。

 たとえば寺の秘仏なども、もったいをつけて30年に一度の公開とかにした方が、多くの日本人に有り難がられ、その威光の維持につながる。

 ”含み”は、日本の伝統的コミュニケーションかもしれない。

 そして、日本人の多くは、今でも「理屈を超えた力」を尊重しており、デカルト的な近代的思考に、あまり馴染んでいない。

 皇居という日本の真ん中の広大な空間は、一般の日本人にとって無窮の空間である。それは、面積という横広がりの大きさだけでなく、その中で行われている神秘的な祭祀が、はるか昔から続けられてきたものらしいという、どこまで続いているのかよくわからない時間的な広がりを備えているからだ。

 日本の近代化のエンジンは、この無窮の力であり、万世一系」という個人の見識を超えた”有難い”天皇を軸にするという仕組みのなかに仕込まれていた。

 

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第1285回 前方後円墳と前方後方墳の違いについて

 

 (愛知から信州までの塩の道、三州街道沿いの月瀬の大杉。長野県最大の巨木で、推定樹齢は1500年とも1800年ともいわれる。つまり、古墳出現期から、この街道沿いで世の移り変わりを見てきたことになる。)

 新潟の糸魚川からは千国街道、愛知県の岡崎からは三州街道、この二つのルートで長野県の松本盆地に至る道は、古代、塩の道だったが、塩だけでなく海の幸と山の幸が行き来していた。

 三州街道は、伊勢湾へと注ぐ矢作川を遡り、途中、陸路を挟んで河川を乗り継いで、古代、馬の飼育が盛んに行われていた長野の伊那谷まで出られ、ここから諏訪や松本に向かうことができる。

 この半年ほど、私は、日本海側や太平洋側から長野県の松本に至る幾つかのルートを辿ってきた。日本海側からは姫川や千曲川を遡って、東海方面と長野のあいだは、アルプスあたりを水源とする大河を遡って。

 そして、このネットワークの要にあたる松本に、西暦3世紀中旬、前方後方墳弘法山古墳が築かれた。

弘法山古墳

 この古墳は全長66mで、古墳のサイズはそれほど巨大ではないが、弘法山の上に築かれ、松本盆地を見下ろし、北アルプスを望む眺望が素晴らしく、実際のサイズよりも巨大な印象を受ける。この古墳からは、主に愛知県で作られていたと考えられているS字甕と呼ばれる非常に薄く軽い土師器が出土しているので、東海地方と関わりが深いと考えられる。

 前方後方墳は、前方後円墳に比べて、その分布に地域的な偏りがあるが、その分布を探っていくと、明らかな法則が見られる。

前方後方墳の分布。黒いマークは、古墳出現期に築かれた前方後方墳の幾つか。

 この地図を見ればわかるように、前方後方墳は、東海と関東に多く、両地域を結ぶ静岡にも幾つかあり、それ以外では、北陸、近畿の中央部、岡山に特に多い。

 前方後方墳の集中地帯は、島根県を除いて、西暦3世紀という古墳出現期の古墳が、前方後円墳ではなく前方後方墳になっているところが多い。

 そして、広島や山口などの西瀬戸内海や四国、そして九州の筑後川上流の二基と対馬以外には、前方後方墳が存在しない。

 前方後方墳が存在するところは、海上交通もしくは河川交通の要所だが、内陸部で気になるのは岡山の美作と、福島の会津周辺だ。美作は、鉄の産地で、会津は、磐梯山周辺が金の産地であり、会津は、多くの河川が出会う場所でもある。

 前方後方墳に関しては、幾つもの説があるが、比較的知られているのが、ヤマト王権が地方豪族の序列を可視化するために、前方後方墳前方後円墳よりも下位の勢力に築造を許可したものだとする説と、奈良を中心とした邪馬台国連合は前方後円墳を築造し、東海地方を中心とした狗奴国連合は前方後方墳を築造したという説だが、この二つの説と当てはまらない事実が多数ある。

 その一つが、日本最大の前方後方墳天理市の西山古墳で、ここはヤマト圏の物部氏と関係の深い石上神宮のすぐ傍であり、前方後方墳が東海地方を中心とした狗奴国連合のものという説では説明できない。

 さらに、京都の向日山の元稲荷古墳は、3世紀という古墳前期の古墳の規模としては大型の100mクラスの前方後方墳だが、すぐそばに、ほぼ同じ時期で同じサイズの五塚原古墳という前方後円墳がある。両者の勢力は拮抗しているように見え、前方後方墳が、下位の勢力のものだとは説明できない。

元稲荷古墳

 3世紀は、前方後円墳前方後方墳も、大きさにさほど違いはなかった。

 前方後円墳前方後方墳も、後円と後方のところが埋葬空間である。つまり、この部分は、弥生時代の「方形周溝墓」と「円形周溝墓」の延長にある。

 弥生時代の周溝墓は、その地域の有力者の墓だったが、この墓に祭祀空間が合わさった形が前方後円墳前方後方墳である。古墳時代、亡くなった有力者は天に上り神となって地域を守るという「宗教」が誕生し、そのための祭祀が重要になった。その祭祀を行ったところが前方の部分であり、古墳出現期は、バチ型と言われるように小さなスペースだったが、古墳が巨大化するとともに、前方部分の祭祀空間が特に大きくなり、埋葬空間の後円より遥かに大きくなった。それは、時代とともに祭祀の力が、より重要になっていったからだろう。

 だとすると、前方後円墳前方後方墳の違いは、埋葬部分の形の違いであり、それは、弥生時代の「方形周溝墓」と「円形周溝墓」の違いからきている可能性がある。

 方形周溝墓は、瀬戸内海東部沿岸で出現し、近畿から愛知、岐阜に広がり、さらに関東にまで広がっていくが、西瀬戸内海には普及しなかった。しかし九州では、後に前方後方墳が築かれた筑後川上流付近に、方形周溝墓が築かれている。こうして見ると、前方後方墳の範囲と弥生時代の方形周溝墓の場所は、かなり重なっている。

 それに対して、円形周溝墓は、岡山県や香川に出現し、近畿に伝わったが他地域へは広がらなかった。

 方形周溝墓と円形周溝墓の違いは、墓に埋葬される人数の違いで、円形周溝墓が基本的に一人なのに対して、方形周溝墓は、複数の人が埋葬されていた。

 つまり、その地域をまとめるうえで、円形周溝墓のある地域は、祭祀や軍事など全ての権限が一人に集中し、方形周溝墓は、複数の人に分散していた可能性がある。

 だから、弥生時代において円形周溝墓がそれほど普及しなかった理由は、一人の独裁者ではなく複数のリーダーによってまとめられていた地域が多かったからではないか。

 もともと母系社会の日本は、今でもそうだが、一人の人間に全ての権限が与えられる西欧の絶対王政のような統治システムに馴染まないところがある。

 そして古墳時代に入った当初、関東や中部、北陸や東海などに築かれた前方後方墳でも、複数被葬者のものがあった。しかし、一人のリーダーが地域の全権を担うという新たな統治手法に少しずつ取って変わり、そうした統治方法を象徴する前方後円墳が、全国へと広がっていった。

 前方後円墳の全国的な展開は、ヤマト王権の支配が全国に広がったというよりも、一人のリーダーによって統治されるという仕組みが、全国の各地域に広がっていったということではないだろうか。

 もともとは、地域ごとに統治の仕方が違うだけで、前方後方墳前方後円墳のあいだに序列があったわけではなかった。

 その一例として、古墳時代前期の古墳から多く出土する三角縁神獣鏡のケースを確認したい。

 かつては卑弥呼の鏡と言われ、ヤマト王権が、この鏡を使って地方の豪族との同盟関係や従属関係を深めたなどと言われた三角縁神獣鏡だが、この説が当てはまらないケースが多く出てきた。

 三角縁神獣鏡は、京都府木津川市の椿井大塚山古墳から36面、奈良県天理市の黒塚古墳から33面と、二つの前方後円墳から大量に出土している。

 この鏡が、日本各地の多くの前方後円墳から出土したのは事実だが、前方後方墳の一部からも大量に出土している。

 奈良県北葛城郡の新山古墳からは三角縁神獣鏡9面など34面の銅鏡、向日山の元稲荷古墳と同規模、同形の神戸の西求女塚古墳からは三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡、岡山市備前車塚古墳からは三角縁神獣鏡11面が出土している。 

 また、愛知県犬山市にある前方後方墳東之宮古墳は、副葬品として、銅鏡11面のほか、玉類130点や、鉄剣などの鉄製品が多く出土しており、同時代のヤマトの前方後円墳と比べても劣らない豊かさを誇っているのだが、出土した三角縁神獣鏡4面は、それぞれ同じ型から作られた同笵鏡が日本国内の古墳から出土しているだけでなく、そのうち1面が、奈良県田原本町に鎮座する鏡作神社の神宝である鏡と同じ型から作られたものである。

 鏡作神社は、その名のとおり、古代、鏡の製作と深く関わった神社であり、この地域に、鏡を製作した集団が居住していたと考えられている。

 そして、この神社の祭神は、天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)で、この神は、東之宮古墳がある愛知の古代豪族、尾張氏の始祖でもある。

 そもそも、三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡と騒がれた理由は、この鏡が、他の種類の鏡と比べて数が多く、西暦240年に卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を賜ったという魏志倭人伝の記述が、この鏡に該当するのではないかと考えられたからだ。

 しかしながら、その後も三角縁神獣鏡の発見が相次ぎ、100枚をはるかに超えてしまったことや、中国から同じ鏡が発見されていないこともあり、三角縁神獣鏡は、日本国産であろうとする学説が有力だ。

 もし、この鏡が国産ならば、それは、奈良県田原本町の鏡作神社のあたりで作られていた可能性が高く、鏡作神社の神宝である鏡と同じ型から作られた鏡が出土した犬山の東之宮古墳が、何かしらの鍵を握っている。

 3世紀のほぼ同じ時期に、同じくらいのサイズで前方後円墳前方後方墳が築かれ、どちらの古墳からも、三角縁神獣鏡が出土している。

 日本でもっとも三角縁神獣鏡が出土した椿井大塚山古墳は、奈良盆地ではなく、木津川流域に築かれている。二番目に多い黒塚古墳は、ヤマトの地の大和川上流部に築かれている。

 そして、黒塚古墳の近くの纒向遺跡奈良県桜井市)が、初期ヤマト王権の拠点と考えられており、ここに、古墳出現期の前方後円墳が多く築かれ、そのため、前方後円墳が、ヤマト王権を象徴するものだとみなされるようになった。

 その説に基づいて、奈良盆地三輪山の近くに築かれている大型の箸墓古墳が、邪馬台国=奈良説の人々を中心に、かつては卑弥呼の墓などとされていた。

 しかし、考古学的な調査から、箸墓古墳は、卑弥呼の時代(3世紀前半から中旬)より新しく、3世紀後半、もしくは4世紀中旬だという説もある。

 纒向にある古墳出現期の前方後円墳は、石塚古墳、ホケノ山古墳、東田大塚古墳だ。

 ホケノ山古墳の心臓部である埋葬施設の中央から「石囲い木槨」と呼ばれる埋葬施設と舟形木棺が見つかっているのだが、石囲い木槨という構造は、讃岐・阿波・播磨地域で多く見られることから、この前方後円墳には、瀬戸内海東地域の勢力が関与していると想定される。埋葬施設は、被葬者と直接関わる部分なので、この古墳の被葬者は、ヤマトの地の豪族ではなく、瀬戸内海東部の勢力である可能性が高い。

 纒向遺跡じだい、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、その範囲も九州から関東にいたる広範囲であるため、各地域の勢力が、何らかの理由で、この地を軸にして連合していたと想定することもできる。

 しかしながら、纒向のホケノ山古墳の被葬者のように、東瀬戸内海と関わりの深い勢力は、弥生時代から円形周溝墓を築いており、一人が全権を担う統治システムを選択していた。

 もしかしたら、渡来系の人々の影響が強かったかもしれない。その当時、中国では北魏など北方の騎馬民族が王朝を築いたが、騎馬民族は、日本古来の母系制と異なり、家父長制を採用し、全権を担う王が集団を率いていた。

 この統治システムを象徴する円形周溝墓が築かれていた東部瀬戸内海は、播磨地方の加古川由良川を通って若狭湾へと通じ、若狭湾は、朝鮮半島北部の高句麗など騎馬系の民族の出入り口だった。

 いずれにしろ、東部瀬戸内海や奈良盆地で採用された一人の王が全権を担うという統治システムに基づく前方後円墳が、少しずつ全国に広がっていくのだが、この状況に大きな変化が見られるのが6世紀だ。

 5世紀末頃から、古墳の埋葬施設が、縦穴式石室から横穴式石室に変わる。

 前方後円墳の縦穴式石室は、基本的に一人を埋葬するものだったが、横穴式石室になると、一つの石室の中に複数の石棺を収めるようになった。そうなると、一人の権力者が死んで神となって地域を守るという価値観が後退する。

 その宗教観の移行期の最終段階において、近畿には、欽明天皇の古墳とされる超大型の丸山古墳が一つだけ築かれ、全国的に前方後円墳が作られなくなるが、北九州と関東に前方後円墳が比較的多く作られ、島根県の松江にだけ前方後方墳が作られるという不可思議な状況になる。

欽明天皇の古墳と考えられる丸山古墳。墳丘長318mと、この時代の古墳としては際立った大きさであり、石室の広さは、全ての古墳の中で最大である)。

 前方後円墳が、一人の人物が全権を担う政治システムの上に築かれたものだと仮定すると、の6世紀になって初めて、関東と九州を除く全域を奈良盆地に拠点を置く勢力が一つにまとめ、関東と九州は、別々の実力者が、それぞれの地域を治めていたということではないか。

 関東と九州のあいだの全域をまとめるために擁立されたのが、欽明天皇の父、第26代継体天皇だ。

 継体天皇は、それ以前の天皇とは血統が異なり、近江高島という海人の安曇氏の活動の痕跡が残る場所で生まれた豪族だった。

 そして、即位後、新羅に6万という大軍を送る指揮をとる。その時の大将が、近江毛野であり、その名からして、継体天皇出身地の近江の豪族である。

 6世紀になって、朝鮮半島に、新羅という国が正式に成立し、南方の任那に侵攻を続けていた。新羅の興隆は、高句麗が中国との国境を脅かすようになり、中国王朝が、高句麗の南にあたる場所の豪族を支援してきたからだった。この時の新羅と中国王朝の同盟が、日本の悩みの種となり、それは、663年の白村江の戦いの敗戦まで続く。

 継体天皇が擁立されたのは、新羅との戦いにおいて、船を作り兵や物質を運ぶ海人の力が必須で、継体天皇の背後に、その海人勢力がいたからだと思われる。

 継体天皇が、即位した後も奈良の地に入らず、木津川や桂川の流域を拠点に宮を築いていたことが古代史の謎とされ、奈良の豪族を警戒したためなどと説明されているが、そうではなく、もともと、この河川交通と関わりを持つ勢力だったからだろう。

 また、継体天皇が築いた弟国宮は、3世紀に巨大な前方後方墳である元稲荷古墳が築かれた京都の向日山であり、ここは、弥生時代の銅鐸製造の跡や、西日本では珍しい縄文時代の石棒製造の跡も発見されているなど、古代から重要な聖域だったと思われる。

 桂川と鴨川の合流点のすぐそばであり、桂川宇治川、木津川の合流点(かつては巨鯨池と呼ばれる湖があった)も近く、向日山は、古代の水上ネットワークの要でもあった。

 だからかどうか、桓武天皇もまた、ここに長岡京を築いた。

 継体天皇が即位し、新羅に対する本格出兵を行った527年、九州で磐井の乱が起きた。

 九州には、この時期においても前方後円墳が多く築かれており、磐井の墓とされる岩戸山古墳もまた墳丘長135mという巨大な前方後円墳だが、もしも前方後円墳ヤマト王権の古墳だとすれば、磐井の乱の説明が複雑になり、だから、これまでの学会では、この件について説明できていない。

 しかし、前方後円墳は、一人の権力者が全権を担って地域を治めたことの象徴だとすれば、磐井は、九州の一部地域を治める実力者だったということで、その磐井の勢力が、継体天皇政権と対立したという説明が成り立つ。

 この6世紀に、島根の松江だけで前方後方墳が作られていた。島根に前方後方墳が多くあることから、前方後方墳が古代出雲の象徴だと考えている人が多いが、島根の前方後方墳は、他の地域よりもかなり遅く、5世紀末になってから築かれ始めた。

 島根は、全国的に前方後円墳前方後方墳が増えていくあいだも、方墳を作り続けていた。そして、方墳からの出土物を見ると、吉備、周防、丹後、越の土器などが混ざっており、遠隔地の勢力が手を組んでいた状況が分かる。

 出雲という地名は、島根に限定されず、各地に残っている。

 島根と岡山は、弥生時代に他地域に先駆けて青銅器祭祀から弥生墳丘墓を舞台とする儀礼へと転換したのだが、この儀礼で用いられる「特殊土器」の分布は、土器を作り出した吉備や出雲・大和とその周辺に限られることから、これらの地域は互いに交流を持ちながら、地域形成を進めていったと考えられる。

 島根は、朝鮮半島にも近く、渡来人の窓口であったために、この地域を重要視した他の地域の実力者は、この地域を力づくで支配するのではなく、おそらく婚姻などを通じて相互の交流を深めていたのだろう。

 島根県雲南市の加茂岩倉遺跡から、一カ所の出土としては全国最多の39個の銅鐸が見つかり、荒神谷遺跡からも、同じく一ヶ所の出土としては全国最多の358本の銅剣が見つかった。いずれも、全国から持ち込まれたものだった。これだけ多くの銅剣や銅鐸がここにあるのは、この地の支配者の権力の大きさによるものではなく、各地との連携の深さを表しているのではないだろうか。

 だから、6世紀に島根だけに前方後方墳が築かれた理由も、島根が近畿の勢力と対立的な存在だったというよりは、近畿とは異なるシステムで地域を治めながらも、継体天皇欽明天皇の政権と深い連携を維持していたからだろう。

 このように各地域との連携を維持する力は、海人ネットワークだと思われる。

 古墳の出現期、この勢力は、前方後方墳の配置にも地域間ネットワークを反映させ、両地域の結びつきを意味あるものにしようとした形跡が見られる。

 たとえば、先日も紹介したように、群馬、諏訪、東海を経て、京都の向日山の元稲荷古墳と神戸の西求女塚古墳という前方後方墳を結ぶ冬至の日没ライン上には、縄文時代に遡る重要な遺跡が数多くあり、このライン上に、日本最古の前方後方墳である神郷亀塚古墳(滋賀県東近江市)も築かれている。

(東から、赤城山赤城神社)、道訓前遺跡と滝沢石器時代遺跡、坂本北裏遺跡環状列石、縄文時代の遺跡が多く、なかでも巨大石棒が特徴的な佐久、諏訪湖岐阜県関市の塚原遺跡(縄文草期、縄文中期、古墳時代の遺跡があり、そのあいだ、2500年ずつ遺跡が存在しない)、東海最大の縄文遺跡である荒尾南遺跡、日本最古の前方後方墳である神郷亀塚古墳、日本最大の銅鐸が出土した大岩山、向日山、如意谷銅鐸、巨石の祭祀場である越木岩神社、西求女塚古墳。)

 向日山の元稲荷古墳と神戸の西求女塚古墳は、古墳出現期を代表する巨大な前方後方墳だが、この二つは同じサイズ、同じ形であり、両地域のあいだに深い関係が考えられる。

 西求女塚古墳が築かれている場所は、古代、大阪から船で西国に向かう時の最初の宿泊港であった。また、西求女塚古墳から1.5km北の篠原縄文遺跡からは石棒や遮光器土偶が発掘され、さらに1.5kmほど東北の桜ヶ丘遺跡からは大量の銅鐸が出土しており、ここもまた縄文に遡る聖域だった。

 西求女塚古墳の石材は、阿波国紀伊国からも運ばれ、地元の土器は出土せず、祭祀に用いられたと考えられる土師器は、山陰系の特徴があった。この古墳を築いた勢力が、出雲、四国、和歌山などと深い交流をもっていたと想像できる。

 そして、深い関係があると思われる神戸の西求女塚古墳と京都の向日山古墳の二つの前方後方墳と、日本最古の前方後方墳である近江の神郷亀塚古墳は、同じライン上で、それぞれ50kmずつ等間隔に位置している。

 さらに、神戸の西求女塚古墳から、冬至の日の出ライン上、東に50kmのところが、三角縁神獣鏡9面など34面の銅鏡が出土した北葛城の新山古墳なのだ。

 しかも、この新山古墳から夏至の日の出ライン上に東6kmのところが田原本町の鏡作神社で、さらに東6km行くと、日本最大の前方後方墳である天理市の西山古墳がある。

(上のライン、西から西求女塚古墳、ヘボソ塚古墳(愛知県犬山の東之宮古墳三角縁神獣鏡と同じ型の鏡が出土)、長法寺南原古墳(同じく東之宮古墳三角縁神獣鏡と同じ型の鏡が出土)、元稲荷古墳、日本最古の神郷亀塚古墳。下の黒いマークが北葛城の新山古墳、東に6kmのところが鏡作神社、さらに6kmが、日本最大の前方後方墳、西山古墳)。


 不思議なことはまだ続き、神戸の西求女塚古墳から真西(北緯34.70)に行くと、三角縁神獣鏡11面が出土した岡山の最古級の前方後方墳備前車塚古墳があり、同じライン上の西に、都月坂古墳群、一丁𡉕古墳1号墳と、岡山の前方後方墳が並び、その西の端の島根県益田市の四塚山古墳群は、古墳としての形を留めていないのだが、三角神獣鏡が発見されており、これが、上に紹介した愛知県犬山の前方後方墳である東之宮古墳から出土したものと同じ型から作られたものである。

 こうした精密な位置関係は、とても偶然とは思えない。

 そして、さらなる不思議は、北葛城の新山古墳から、神戸の西求女塚古墳という、ともに3世紀に築かれ三角縁神獣鏡を多く出土した前方後方墳を結ぶ夏至の日没ラインを伸ばしていくと、岡山の美作の前方後方墳の集中地帯を通り、6世紀に日本国内で例外的に前方後方墳が集中的に作られた島根の松江に至るのである。

 

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第1284回 日本語の柔軟性と、議論の深め方について

昨日、ワールドカップを見ようと思ってamebaテレビをつけたら、「議論」についての議論を行う討論番組があった。

 この番組の中の議論は、それぞれが知っていることをアウトプットする状況説明と状況分析でしかないのだが、一般的に議論が合意形成を目指すものだとして、議論が必要かどうか、この社会で議論というものがが成り立つかどうか、ということへの合意形成をしたところで、それは、けっきょく議論好きのための議論でしかない。

 議論は言葉によって行うものだが、まずは、その言葉というものが、いったいなぜ、どういう歴史的背景の中で存在しているのかという根本的な問いから考える必要があるのではないかと思う。

 そもそも言葉というのは、それが使われる時や場所によって、その役割も、その使われ方も違う。

 議論好きの人たちの中では、議論向きの言葉の使い方をしようとするし、それに長けたものがイニシアチブを握る。しかし、そのイニシアチブが、議論好きでない人にとっての説得力ということにはならない。

 説得力のある人というのは、議論のうまい人ではなく、時と場に応じた言葉の使い方ができる人だ。

 そして、言葉というのは、それが使われている国によって構造が違うのだが、文法構造の違いは思考構造の違いでもあるので、そのことを踏まえずにグローバル化云々を論じても、それは、どれか一つの思考の癖に偏った考え方にすぎない。

 中国語と英語の文法はどちらもSVO。英語と中国語は、主体的な行為を前に押し出す。日本語は、基本的にはSOVで、どうするのかという結論が後になる。

 SやVを前面に打ち出す言語構造は、雑多な民族が混じり合った共同体にとって必然だったと思う。相手は、何考えているかわからない人、というのが前提だから。

 日本語に限らず、世界中で、人の流動性があまりなかった地域の共同体では、SVOではないところが多いが、現在のような価値観が錯綜とする時代に議論とか対話を行う際、SV0言語でなかったり、SV0言語の思考に慣れていない者には困難が伴う。

 しかし、日本語というのは、語順にとらわれない柔軟性があるから、英語的なSV0構造のなかで思考の訓練を受けると、日本人でも、SVO構造で思考したり、話ができたりする。 

 英語や中国語の思考構造の場合、日本語のような柔軟性に欠けて、主体的な行為を前に押し出すことを互いにやり合う。しかし、人間というのは賢いもので、対立が酷くなるとヤバいという危機意識も働くから、ウィットに富む表現や、外交手腕を洗練させる。中国とアメリカのやり合いは、日本人的思考で是非を判断することは難しい。

 日本人(日本語)の場合、対立や軋轢を防ぐための伝統的方法は、SやVをさらに抑制し、Oだけを共有するという暗黙知だった。その結果、日本語の会話は、Oだけで成り立ってしまうところがある。阪神タイガースの岡田監督の「ああ、もうあれや」とか。

 Oだけでも成り立つ日本語は、SVOにもでき、そういう思考のトレーニングをすると、外国人とも対等に議論や対話ができるが、そのトレーニングは、言語の習得だけではない。

 自分の考えを人に伝えて理解してもらわなければならないという場面を多く持つということ。簡単に、いいね!と理解してくれそうな相手への発信ではなく、それが難しそうな相手に対しても大事なことを伝えなければならないという状況を多く踏んでいる人は、思考特性や言語の使い方を、それに向くように変化させることができる。

 スタートアップを行う人は、いろいろな人を説得しなければいけないから、当然、そうした能力が重要になる。学者や政治家や、企業内においても、派閥の論理の中でやっている人と、そうでない人とのあいだに、言語能力や思考能力の差が出る。その差は、シンポジウムなどの発言や、対談などにはっきりと現れる。

(言語力は、単なる語学力や、いわゆる西洋ロジックということでもなく、たとえば経験と思考をうまく重ねて使うなど言葉による説得力だ)

 そうした思考能力や言語能力を総合化する力が、編集力だと思う。

 編集を、雑誌や本の分野や、映画や音楽などのように素材をつなぐ”作業”と限定的に捉えている人が多いが、どんな分野の仕事であれ、今日的な複雑な状況で良い仕事をするためには、この編集力が重要。編集力は、ある目的のために立場や価値観や主張などの異なる者達を束ねる力で、そのための思考と言語の訓練が不可欠だし、さらに、言語に限らない各種の方法を選択し、それらを融合させた力が最大になるように努める。

 サッカーの監督の力も、編集力だ。かつては個々の選手の能力で試合の勝負が決まってしまっていた時代もあっただろうが、個々の能力が均衡してきた現代においては、監督の編集力が問われている。

 そして、編集において最も重要な力は、説得力と調整力だが、実は、活力(前向きの力)こそがエンジンになる。

 活力というのは、この場合、希望を見させる力と、その実現のためのビジョンだ。これが無いと、人は説得を拒否し、保身に走りがちになる。

 企業においても、スポーツにおいても、地域活性においても、希望とビジョンと無縁のリーダーには、誰もついてこない。

 日本の深刻な問題は、国全体として、希望が見えないということ。つまり、この時代に応じた希望とビジョンを作り出せていないということ。希望とビジョンを作り出す努力が、経済発展、所得向上、社会福祉の充実など高度経済成長の時代の上書きでしかないところに問題がある。

 日本人の未来にとって重要なことは、柔軟性に富んだ日本語(および日本的思考)の、状況に合わせた使い方への変化で、それを良い方向へ導けるかどうか。そこに希望とビジョン の作り方が重なってくる。

 議論や対話にしても、けっきょく、どこを目指し、そのためにどうするか、ということが肝心になってくるのであって、それがなければ、どれだけ言葉を駆使しても、知識や情報の見せびらかしにすぎない。

 ちなみに、英語と中国語では、SとVと0に関してはそんなに違いはなくても、時と場所に関しての柔軟性は違う。英語は、Vの前に時や場所を持ってこれないけれど、中国語は、時や場所を、Vよりも前、つまり強調できる。欧米言語の人にとっては、物事を成就させるためには主体と行為が大事だけれど、中国人の場合、時や場所も、かなり重要であるという意識が伝統的に強かったのだろう。

 欧米人にとっての幸福判断は、伝統的に、天国と地獄、最後の審判があるだけで、地上のどこであるかは特に重要でない。つまり、その場に応じた価値観ではなく、普遍的な価値観でなければならない。

 日本人は、明治維新以降、この普遍的な価値観の洗礼を受けてきて、議論の際の幸福観も、そういう欧米的な基準を刷り込まれ、普遍的な数値で計り、年収とか寿命とか偏差値の競い合いになっている。

 雪が降るなか、温泉に入って一杯やるという、時と場所に応じた「極楽」があるにもかかわらず。そして、そういう生理的な感覚は、今も失われていないにもかかわらず、政府の周りにいる有識者の議論や、言葉の使い方が、それに応じていない。仮に、そういう言葉を使ってしまえば、マスコミに、「努力していない」と叩かれる。

 日本語の構造や思考構造は、英語に比べて、中国語と同じく、時と場合によって、「時」や「場所」を重視することができる。

 そして、中国語よりも、Vではなく0を重視できる。

 「目的」に向けてまっしぐらな国民性は、良い目的であれば良い結果となるが、そうでない場合は、悲惨なことになる。

 だから、現在の日本人にとって議論を深める必要があるのは、この時代に、日本人にとって、良い目的とは何なのか? ということではないかと思う。ビジョンについての真剣な議論は、それからのことだ。

 

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第1283回 諏訪と京都の向日山をつなぐ古代のコスモロジー

 昨日、諏訪のことについて書いたところ、諏訪のミシャクジ神についてもっと掘り下げて欲しいという意見があった。

 諏訪は、昨日も書いたように、特殊な事情によって縄文に遡る祭祀を融合という形で引き継いでいるわけで、諏訪に伝わるミシャクジ神は、縄文に遡る宗教観や宇宙観の名残である可能性が高い。御柱御柱祭りもそうだろう。 

 なので、諏訪のミシャクジ神について考える時、諏訪という地域限定で分析するだけでは真相に近づけない。

 たとえば、京都の向日山は、第26代継体天皇が弟国宮を築き、平安京遷都の前に桓武天皇長岡京を築いたところだが、向日山に鎮座する向日神社明治神宮のモデルになっている。

 この向日神社の隣には、3世紀後半に遡る巨大な前方後方墳の元稲荷古墳があり、さらに弥生時代の高地性集落まである。

 そして、向日山の南下からは縄文時代の祭祀道具である石棒が発見された。近くには関西では数少ない石棒の製造場所も見つかった。

 この向日山の上のスペースは鶏冠と呼ばれているが、すぐ近くに鶏冠町があり、ここからは銅鐸の製造跡が見つかった。

 京都盆地の銅鐸埋納場所は2箇所で、南が石清水八幡宮が鎮座する男山の南麓で、北は広沢池から京北に抜ける道沿いで今はゴルフ場となっている梅ヶ畑だが、この2箇所と向日山は経度が同じ南北ライン上にあり、さらに銅鐸埋納地の真北にある沢ノ池では、石器時代からの祭祀場の跡が見つかった。

 すなわち、向日山は、石器時代縄文時代弥生時代古墳時代継体天皇時代、桓武天皇時代、明治政府に至るまでの歴史の記憶装置になっている。

 そして、この向日山の銅鐸製造場所である「鶏冠」という地名は、諏訪の前宮の敷地内で、男童を要石の上に立たせてミシャクジ神を下ろして現人神とする儀礼が行われた「鶏冠社」と同じである。

 諏訪と京都の向日山は、古代からの記憶装置となっているが、遠く離れた二つの場所で、祭祀に関わる名として、鶏冠が共有されているのだ。

 しかも、諏訪と向日山は、冬至のライン上に位置しており、このライン上に、多くの縄文遺跡や弥生遺跡、銅鐸の埋納地、石棒の発見地、縄文時代の環状列石、重要な前方後方墳が、配置されている。

東から、赤城山赤城神社)、道訓前遺跡と滝沢石器時代遺跡、坂本北裏遺跡環状列石、縄文時代の遺跡が多く、なかでも巨大石棒が特徴的な佐久、諏訪湖岐阜県関市の塚原遺跡(縄文草期、縄文中期、古墳時代の遺跡があり、そのあいだ、2500年ずつ遺跡が存在しない)、東海最大の縄文遺跡である荒尾南遺跡、日本最古の前方後方墳である神郷亀塚古墳、日本最大の銅鐸が出土した大岩山、向日山、如意谷銅鐸、巨石の祭祀場である越木岩神社、西求女塚古墳。

 これは、とても偶然とは思えず、その根拠の一例は、向日山の元稲荷古墳から西に冬至のラインを伸ばしたところにある神戸の西求女塚古墳は、同じ時期の同じ前方後方墳というだけでなく、サイズもデザインも全く同じなのだ。さらに、西求女塚古墳の1.5km北の篠原縄文遺跡からは石棒や遮光器土偶まで発掘され、さらに1.5kmほど東北の桜ヶ丘からは大量の銅鐸が出土しており、神戸の西求女塚古墳周辺もまた、古代からの祭祀が連続する場所になっている。

 また、このラインの一番東は、赤城山の山頂付近にある赤城神社だが、ここから冬至ラインに13kmほどのところ、赤城山麓に、縄文中期の大規模環状集落の道訓前遺跡がある。

 1996年から1997年に調査が実施されているが、とくに優れたデザインの縄文土器が大量に出土し、世に知られることとなった。この中には、新潟、長野、南関東に多く見られる土器が存在し、それらの地域と交流があったと考えられている。

 この近くにある金井東裏遺跡は、ポンペイ遺跡のように、突然の榛名山の噴火で被災したのだと考えられる甲(よろい)を着たままの古代人の人骨が発見されて話題になった、これ以外にも、榛名山の噴火で埋もれてしまった遺跡が、周辺に数多くあるだろう。

 この冬至のラインでつながる縄文時代からの聖域のことを踏まえ、諏訪に残る御柱が縄文に遡る世界観や宗教観の名残だと想定すると、縄文時代の石棒とか環状列石が何なのかという問題とつながる。

 ミシャクジ神は、この御柱との関係性が深いと思われるので、ミシャクジ神のことを考えることは、縄文時代の環状列石は、どういう宇宙観に基づいて、なんのために作られたのか?を考えることと重なってくる。

 ヒスイや黒曜石の流通状況の分析によって、縄文時代において、北海道から沖縄に至る交流があったことがわかっている。

 そして、江戸時代の伊能忠敬は、隠居後の20年足らずで、日本国中を徒歩で測量し、あれだけ完璧な日本地図を制作した。

 江戸時代と古代では、移動手段などは大して変わらない。なので、縄文時代に、伊能忠敬と同じような地理感覚を備えていたとしても、なんの不思議もない。

 

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第1282回 縄文の記憶が重ねられた諏訪の祭祀

諏訪大社 前宮 御室社。ここに半地下式の土室(つちむろ)が造られ、金刺氏で現人神とされる大祝と、洩矢氏の神長官以下の神官が参篭し、蛇形の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをした。旧暦12月22日に「御室入り」をして、翌年3月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は廃絶した。


 今回、京都から東京への移動で、伊勢と諏訪を一繋がりで探検したことで、今まで謎めいたことが、少し読み解けてきた。

 前のエントリーに書いた伊勢だけでなく、諏訪もまた”つくられた聖域”であり、伊勢と諏訪は、添付した地図を見ればわかるように、国譲りに関係のある神々の聖域として、あまりにも計画的に配置されている。

諏訪大社伊勢神宮のあいだは215kmだが、諏訪大社から東に215kmのところが香取神宮である。  そして、香取神宮伊勢神宮のあいだは380kmだが、伊勢神宮から島根の出雲大社までも380kmである。国譲りに関係している聖域と、国家神を祀る伊勢神宮が、秩序的な配置になっている。

 諏訪は、縄文王国の中心なので、もちろん古代から続く聖域であることは間違いないが、縄文時代から続く聖域は日本中至るところに存在していて、それが、ある時、何らかの理由で、国家的な様相を帯びた聖域になる。

 諏訪大社というのは、わりと知られた聖域であるが、これは一社ではなく四社合わせたもので、その在り方じたいに謎がある。しかも、その四社は、それぞれ、聖域としての構造と、雰囲気が異なっている。

 諏訪は、古事記によると、タケミカヅチとのあいだの国譲りの戦いに敗れたタケミナカタが逃げ延びた場所とされ、諏訪から出ないことと、葦原中国天津神の御子に奉る旨を約束するという条件で、ここに留まったと記されている。 

 また、タケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では、現地の神々(洩矢神)を征服する神として登場するが、諏訪の地における祭祀では、先住の洩矢氏の神官が、諏訪明神の現人神である「大祝」(おおほうり)となる童男に、ミシャクジ神の神下ろしを行っており、先住の神々への信仰が、こうした仕組みによって後世に引き継がれている。

 この儀式が行われた場所が、諏訪湖の南で、現在、四社のうち前宮が鎮座する所だ。

 前宮は、四社の中で一番古く、本来は洩矢氏の本拠地で、ミシャクジ神の聖域だったと考えられる。

 諏訪大社というのは、諏訪湖の南に鎮座する前宮と上宮、北に鎮座する下社の春宮と秋宮の4社で構成されるという得意な形をとっており、これが、全国に25000社存在する諏訪神社の総本社である。

諏訪大社 上宮。この壮麗な空間には、本殿がない。

 そして、前宮でのミシャクジ下ろしで諏訪明神(一般的にはタケミナカタだが、タケミナカタと妃のヤサカノトメノカミの合体ともされる)の現人神となった大祝じたいを御神体としていたのが、立派な佇まいの上社の上宮であるが、この上宮には、なぜか本殿が存在しない。

 本殿が存在しない上宮の本当の御神体は、裏山の守屋山とか、禁足地にある磐座などとも言われている。おそらく、守屋山は、先住の洩矢氏にとっての聖なる山であったが、その麓に神殿のような上宮を建設し、この場所を拠点にする現人神(諏訪明神であるが、先住のミシャクジ神が下ろされている)を崇敬するという形式で、新旧の祭祀の融合が図られたのだろう。

 だから、諏訪4社の中でもっとも壮麗な上宮は、聖域ではあるけれども、かなり政治的な装置である。

 そして、諏訪湖の北の下社である春宮と秋宮は、主祭神が、タケミナカタの妃のヤサカノトメである。

 諏訪には御神渡り神事がある。真冬、諏訪湖が全面結氷すると南の岸から北の岸へかけて氷が裂けて、高さ30cmから1m80cm位の氷の山脈ができる。これは諏訪上社のタケミナカタが、下社のヤサカノトメのもとへ通った道筋とされている。

 つまり、諏訪湖の南が、タケミナカタの聖域で、北が、ヤサカノトメの聖域ということになる。

 諏訪湖の北にある春宮と秋宮は、南に鎮座する前宮と上宮の違いのように明らかに雰囲気が異なる。下社の春宮は、上社の前宮と同じく素朴な気配があり、古くからの聖域であったのではないかと思われる。下社の秋宮の方は、上社の上宮のように壮麗で、どこか政治的な匂いが感じられる。

諏訪大社 下社 秋宮。ここは、諏訪地方で唯一の前方後円墳である青塚古墳が築かれている場所で、おそらく金刺氏の拠点。

 そう思う根拠は、神社境内から立ち上る気配の違いだけではなく、秋宮のすぐ近くに、諏訪地方で唯一の前方後円墳である青塚古墳が築かれていることだ。横穴式石室を持つこの古墳は、ほぼ聖徳太子の時代と重なる6世紀末に築造されている。6世紀末というのは、前方後円墳の最後の時期である。

 つまり、全国に大型の前方後円墳が築かれていった4世紀末から5世紀ではなく、6世紀末に築かれた青塚古墳が諏訪地方で唯一の前方後円墳なのだから、諏訪地方は、この時期まで、いわゆるヤマトの文化圏ではなかった可能性が高い。 

 そして、この青塚古墳は、諏訪下社の秋宮と、おそらくかつては同じ敷地にあったのではないかと思われるのだが、被葬者は、6世紀後半に諏訪の地を支配するようになった金刺氏ではないかとされる。

 金刺氏は、古代、信濃国を治めていたとされる科野国造の後裔としているが、土地を支配するようになる豪族が、自らの由緒を正当化するために系図の改変を行うことは普通のことであり、そのあたりのことは、議論しても、あまり意味があるとは思えない。

 重要なことは、金刺氏が、6世紀に、継体天皇の息子の欽明天皇に仕えることで金刺という名を賜り、氏族としてのアイデンティティを確立し、諏訪の先住の洩矢氏と共同で祭祀を取り仕切ってきたということだ。

 第26代継体天皇は、それまでの天皇と血統が異なっており、6世紀初頭、隣国の新羅の興隆に対抗すべく日本が統一されていく段階において擁立された天皇である。

 そして、即位後、新羅討伐のための軍を派遣しているが、生誕の地である近江高島が海人の安曇氏の拠点であったように、背後に、安曇氏の存在が見え隠れする。

 その継体天皇の息子の欽明天皇も、新羅に奪われた任那を奪回することを遺言にしたのだが、その欽明天皇に仕えて勢力を増した金刺氏というのは、馬の飼育を行い、馬の力で中央の政権との結びつきを深めていた。

 672年の壬申の乱においても、当初、劣勢だった大海人皇子(後の天武天皇)が、東国の支援を受けることで挽回したが、この戦いで騎兵を率いた多品治(おおのほんじ)は、金刺氏と接近し、大海人皇子との連携をはかった。

 タケミナカタという神は、よく知られた神だが、実は、日本書紀には登場せず、古事記のみに登場する。

 タケミナカタのエピソードが古事記の中に挿入されたのは、壬申の乱において、古事記編纂の責任者である太安万侶の出身氏族である多氏の一人、多品治の仲介で大海人皇子の味方となった金刺氏の働きかけによるものだという説がある。

 だとすると、古事記の中で国譲りに承諾し、諏訪の地から出ないことを条件に存在を許されるタケミナカタは、金刺氏の存在と重なる。

 つまり、古事記の中のタケミナカタの物語が示していることは、律令制の時代となった後も、諏訪の地周辺が、律令制以前の祭祀や統治を認められていたということではないだろうか。

 それは、壬申の乱での貢献もあるだろうが、信濃から甲斐は古代から馬の産地であり、その軍事力を、中央政府が力づくで制御することは難しかった可能性がある。

 そうした朝廷からのお墨付きを得て、金刺氏は、諏訪を治めるわけだが、その金刺氏も、諏訪の先住の人々を力づくで抑え込むわけにはいかない。そのため、洩矢氏との共同祭祀が軸となった。

 諏訪の地を治めるのは金刺氏だが、その権威の象徴となる金刺氏出身の現人神は、先住の洩矢氏の神官によるミシャクジ神の神下ろしが行われた存在なのである。

 こうした構造によって、律令体制以降も、諏訪には、原始の記憶が、維持されてきた。

 金刺氏の後継者に神威を与えるのが、諏訪湖の南の前宮であり、上宮は、前宮で行われる儀式によって現人神となった金刺氏の「大祝」(おおほうり)がいた場所で、ここが政治の中心だったのだろう。 

 そして、諏訪湖の北の下社の一つ秋宮は、金刺氏の墓があり、金刺氏の勢力基盤だった。

 ならば、もう一つの春宮は、何なのか?

諏訪大社 下社 春宮。黒曜石の産地である和田峠を源流とする砥川沿いにあり、近くには、縄文時代の遺跡があり黒曜石が多く出土している。この場所は、おそらく縄文時代からの聖域。

 春宮は、砥川沿いに鎮座している。砥川というのは、和田峠を源流とし諏訪湖に流れ込む一級河川だが、八ヶ岳の豊富な湧水を湛えている。

 そして、春宮のすぐ近くに、一の釜遺跡や、ふじ塚遺跡がある。この二つの遺跡は、近年、本格的な調査が行われているが、一の釜遺跡では、縄文時代前期末葉から中期初頭(約5,500年前)を中心とする集落跡が見つかり、大量の黒曜石が出土している。

 砥川の源流の和田峠は、日本有数の黒曜石の産地である。そして、砥川の川底にも、流水で押し流された黒曜石の転石が堆積しており、それらも利用された。

 つまり、春宮が鎮座するところは、縄文時代からの聖域なのだ。

 黒曜石は、産出する地域によって成分などの特徴が異なり、どこの黒曜石なのかを特定できるが、信州産の黒曜石は、​​北は北海道(館崎遺跡)から西は奈良県(桜ヶ丘遺跡)まで、広く流通していたことが判明している。

 だとすると、誰が、どのように黒曜石を運んでいたかということになるが、日本各地の黒曜石の代表的な産地は、神津島隠岐、瀬戸内海の姫島など海に囲まれた場所が多く、水上交通でしか運べない。

 諏訪は、日本列島の真ん中であるが、諏訪湖天竜川の源流であり、諏訪湖の北の松本盆地は、古代、湖だったと考えられており、その北の安曇野は、海人の安曇氏の拠点で、さらにその北の姫川はヒスイの産地で、糸魚川日本海に注いでいる。姫川のヒスイも、北海道から九州、沖縄まで流通しており、海上交通に長けた人たちの存在が想像できる。

 諏訪下社(春宮、秋宮)の主祭神は、タケミナカタの妃であるヤサカノトメだが、ヤサカノトメは、海人の安曇氏と関わりが深いという説がある。

 松本から安曇野に、小太郎伝説が伝えられている。

 小太郎伝説というのは、かつては湖だった松本盆地から水の出口を作って、平地が作られたことを伝えているが、小太郎の父親の白竜王は、安曇氏の祖神である綿津見神(ワタツミノカミ)の生まれ変わりとされる。

 安曇野から松本盆地は雪山に囲まれていて、雪解け水が流れ込む河川が多くあるけれど、出ていく川は犀川しかない。

 そして、この犀川は、穂高神社(安曇氏の氏神)の近くから、細い谷に沿って北上し千曲川に合流するが、この細い谷が落石などで埋まると、水はどこにも出ていけない。このあたりは、フォッサマグナの西端に近く、地震も多いところだ。

 小太郎伝説では、「小太郎は諏訪明神の化身である母親の犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。」と記述されているが、おそらく、犀竜というのは犀川の象徴で、この細い谷の岩を取り除く作業によって、水の流れを作り出したということだろう。

 その場所が安曇氏の聖域である穂高神社のすぐ近くということもあり、おそらく安曇氏が、その事業を行った。谷を拓いて水を流すことで、海人の安曇氏は、安曇野や松本あたりから千曲川に抜け、日本海に出ることが可能になる。

 小太郎の父の白竜王は安曇氏の祖神であり、小太郎の母は犀竜で、諏訪明神の化身であるが、これが、おそらくヤサカノトメなのだ。

 長野県大町市犀川の流域は、今でも「八坂」という地名である。

 以上の考察から、諏訪下社の春宮は、縄文時代に遡る聖域で、黒曜石の全国流通ネットワークを持っていた海人と関わりが深い場所であり、諏訪下社の秋宮は、6世紀から、馬の力を背景に、この地を治めるようになった金刺氏の拠点ということになる。

 もしかしたら、金刺人は、洩矢氏と結びついて古代からの祭祀を継承しながら、安曇氏とも結びついて、馬の力のうえに水軍力を備えていたからこそ、朝廷に対して、諏訪の特別扱いを要求したのかもしれない。

 いずれにしろ、記紀の国譲りの物語は、はるか古代のことを伝えているのではなく、6世紀初頭の継体天皇擁立から7世紀後半の律令制の始まりまでのあいだの、隣国の新羅と対抗するための国の統一事業と重なっているのではないかと思われる。

 そして、神話の中の国譲りに関わってくる神々の聖域も、その時期に、新しく意味づけがなされ、特別なものとして地図上に配置されたのではないだろうか。そうでないと、幾何学的に厳密に配置されている理由が、説明できない。

 

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第1281回 伊勢神宮という聖なる舞台装置

伊勢神宮 宇治橋

 

伊勢神宮 五十鈴川


 先ほどのタイムラインの続きだが、伊勢神宮を訪れると、”つくられた聖域”という気がしてならない。

 伊勢神宮は、おそらく、律令制の始まりに、聖なる舞台装置として作られたのではないかと思うのだ。

 もちろん、そうだとしても、すでに1300年ものあいだ大切な聖域として護られてきたので、日本人の魂とつながる大切な聖域であることは間違いない。だから、今でも、数多くの人々が訪れる。

 つくられた聖域だと感じるのは、仕掛けの演出が、至るところに見られるからだ。

 たとえば、内宮への参道にあたる宇治橋は、「俗界と聖界の境にある橋」とされ、内宮のシンボル的存在だが、冬至の日、橋の真ん中から太陽が上るように設計されている。

 しかし、京都府宇治市宇治橋は、源氏物語にも登場し、646年に架けられたとされているのに対して、伊勢の宇治橋は、橋としての記録は、最古のもので1190年とされる。

 また、以前にも書いたが、伊勢神宮の場所が、国譲りの神話と関わりの深い神々のフツヌシ(香取神宮)、タケミナカタ諏訪大社)、オオクニヌシ出雲大社)と、厳密な距離関係になっており、この配置は、計画的に行われたと考えざるを得ない。

諏訪大社伊勢神宮のあいだは215kmだが、諏訪大社から東に215kmのところが香取神宮である。  そして、香取神宮伊勢神宮のあいだは380kmだが、伊勢神宮から島根の出雲大社までも380kmである。国譲りに関係している聖域と、国家神を祀る伊勢神宮が、秩序的な配置になっている。

 また20年に一度の遷宮は、690年、持統天皇の時から始まったとされるが、式年遷宮を行なう理由として、神の勢いを瑞々しく保つ「常若(とこわか)の思想」があると説明されており、聖域の在り方として先に思想があるわけだから、古代的なものだとは思えず、これは、永遠に神事を継続できるようにするための人為的な仕掛けだろう。

伊勢神宮 風日祈宮鎌倉時代、蒙古襲来の時に2度の神風を吹かせ国難を救ったとされる!?

 旧殿から新殿へと20年ごとに神座の位置が変わり、神体を移し終わった旧殿は取り除かれ、その敷地は古殿地(こでんち)として、次の神座になる時を待つわけだが、こういう制度じだいが、非常に人為的なもののように感じられ、仮に神様が存在するにしても、そうした人間の都合に合わせてくれるとは思えない。

 現在も、内宮の正宮は、階段の下までが撮影の許可範囲であり、階段から上は、警備員が厳しい目を光らせている。

 神聖だからそういう措置をとっているというよりは、神聖さを維持するために、そういう措置をとっているのであって、こういうのは、権威を保つための典型的な手法だ。

伊勢神宮 正宮

 伊勢神宮は、人為的なシステムで維持されてきた聖域である。

 そして、すべてを新しくすることによって神威の一層の更新(若がえり)をはかる伊勢神宮のシステムは、日本人の心性を反映しているのか、それとも、そのシステムに日本人の心性が影響を受けているのか?

 日本人は、行き詰まることが予想されるような段階で、徐々に方向を修正するということが苦手で、完全に行き詰まった時に、すべてを新しくするという強行的な手段をとりがちな国民性だ。

 それが吉と出るか凶と出るかは、その時になってみないとわからない。

 

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