第1420回 なんとなく、霊魂のことについて。

 昨日書いた友人のことの続きだけれど、いろいろな友人がいても、その奥さんの食事を何十回もいただいたというのは、そうあることではない。

 この20年、私が富士山に通うたびに、そして富士山の雄大な姿が目の前に広がる彼の家で何日も連泊する時など、朝、昼、晩の三食を、いつもご馳走になっていた。

(この写真も、友人の家から私が撮った富士山。)

 二人に会った頃、奥さんは、無邪気で世間離れした人だったので、きっと大金持ちの娘で、十分な金銭的サポートがあるから、友人は、好きなことだけに夢中になれる生活ができているんだろうと思っていた。(そういう写真家はけっこういる。)

 しかし、そうではなく、絵葉書やカレンダーや本を、富士山周辺の土産物や山小屋、ホテルなどに置いてもらうように交渉し、その売り上げが収入源で、奥さんが、その販売活動を仕切っていた。

 そして、家は建築業者に任せず自分たちの手だけで建ててしまっているし、豪華な外食をするわけではないし、服を着飾ったりすることもないし、物欲も所有欲もないから浮世離れした生活ができているのだった。

 もちろん写真が素晴らしいから、絵葉書やカレンダーや本が売れていたわけだけれど、実は、彼の奥さんは不思議な力をもっている人で、友人に、そうした運をもたらしたのだと思う。

 というのは、奥さんは、若い頃は川崎で有名な占い師だった。よく当たるというので遠方からも人がやってくるほどの人で、友人の父親が、家業を占ってもらうために、家族全員で尋ねたのだと言う。その時、ついでに独り身だった友人の結婚の縁を占ってもらおうということになり、そうしたら「そんなに遠くないですね」とのお言葉。

 その帰り道、父親たちが、「おい、あの女性、いいじゃないか」などと囃し立てていたのだが、その数ヶ月後、運命の糸なのだろう、鞄一つだけが全所有物という奥さんが嫁入りしてきたのだった。

 その頃は、友人も家業を手伝っていたが、彼女との縁がきっかけか、富士山の写真だけで生きていきたいと思うようになり、二人で富士山の近くの忍野村に移住。しかし、当然ながら写真では食べていけない。それで、奥さんが、占いの仕事を再開。よく当たるということで、たくさんの人が訪れるようになった。一番最初に相談に来た人が、近所に住んでいた町長さんで、「あの人はいいぞ、よく当たるぞ」と、そこから口コミが広がっていった。

 友人は、1日の取材から戻ってきても、家の中には、いろいろな相談事をしに来ている人がいることが多く、外でしばらく待つことが多かったらしい。

 彼女は、占いがよく当たるということを自ら宣伝したり、それでお金儲けをしようとは一切思わない人で、あくまでも口コミで人が集まってくるだけだった。だから、友人の写真で何とか食べていけるようになると、ピタッと占いの仕事は辞めてしまった。人のことを占うのは、けっこう集中力が必要で、心と身体に負担がかかるのだそう。

 なんでこんなことをダラダラと書いているのかというと、もちろん亡き人を偲んでということもあるが、「霊能力」って、何なんだろうと思うところがあるからだ。

 彼女は、確かに霊能力があった。しかし、その力は、人に求められた時に、しかたなく発揮していたけれど、自分から進んでやりたいものでもなく、ましてや、お金儲けのためというのはありえなかった。

 はっきりしているのは、世俗の汚れとは無縁で、純粋無垢であるということ。だからといって、世事に疎いというわけではなく、確かな生活力があった。

 ジュリアン・ジェインズの名著で、「神々の沈黙」という本がある。

 彼は、この本の中で、古代のある時期、人間の言語野が右脳から左脳に変わり、それとともに意識の有り様が変わったことを指摘している。

 彼は、3000年前のアルファベットの発明が、その転機になったと考え、2800年くらい前のホメロスイリアス、その100年後のオデッセイア、その200年後のギリシャ哲学への変遷を追いながら、人間の意識変化を洞察している。

 そして、彼の本の中で特に私が関心を持っているのは、この期間の人類の意識変化の過程において、少しずつ巫女の資質を持つ者が減っていったという指摘だ。 

 左脳言語は論理的な思考で、客観性が強い。それは、対象と自分とのあいだに、さらに別の自分の目が入ってくる思考と関わっていて、それが、いわゆる自意識となる。

 ジュリアン・ジェインズによれば、右脳言語というのは、この自意識をはさまず、脳の中に生じた言葉は直接的に自分に働きかけてくるのだと言う。それは、あたかも、神が命じているように聞こえるのだと。これが「神託」となるわけだが、実は、現代でも、統合失調症の人は、右脳言語であるとジュリアン・ジェインズは本の中で書いている。

 3000年前までは地中海周辺やヨーロッパ世界の人たちは右脳言語が当たり前で、そのなかで強く預言的性質の言葉を発する巫女は、普通に、どこにでもいたようだ。

 しかし、アルファベットの普及とともに、巫女の数は少しずつ減っていき、古代ギリシャ社会では存続すら難しかったのだが、それでも預言者の存在は社会的にも必要だったので、デロス島など特定の聖域を巫女の育成場所と決め、幼い子達の中から資質を持つ者を選び、その聖域の中で育て、世俗化された社会に触れさせなかった。巫女の資質は、世俗化された環境では、たちまち失われてしまうからだ。

 プラトンソクラテスが生きた時代でも巫女の神託は信じられていたし、アリストテレスを家庭教師として学んだ理性的なアレクサンダー大王でさえ、東征に出発する前に、巫女の神託を受けるためにデロス島を訪れている。

 そして、ローマ時代になると、完全に、巫女は存在しなくなったと、ジュリアン・ジェインズは書いている。

 彼は、預言者が普通に存在していた時代の人間意識を理解するためには、3000年前の分岐点の前に遡ることが必要と考え、アルファベットの発明直前の文字であるヒッタイト文字やミケーネ文字などの解読が鍵を握ると、本の最後に書いている。

 しかし、これらの古代文字は、現代の我々とは思考回路が異なるためか、まったく解読が進んでいない。

 預言というのは、現在の我々の感覚からすると、オカルト的な話になってしまうが、これが、人間にとって当たり前だった時代があったのだ。

 私たちは、科学万能の時代に生きており、預言や神託のようなものは、今日まで非科学的だとみなされてきた。

 しかし、現代科学の最先端では、我々が生きている宇宙には「量子もつれ」という現象が起きることが報告されている。

 これは、どんなに離れた場所であっても、対になった二つの粒子のあいだに、予め示し合わされていたように、対の関係の反応が同時的に起こるというものだ。

 アインシュタインは、この量子論学者たちの説に納得しなかったが、現代では、この説は、正しいとみなされている。

 このことは、素粒子の中だけの事象とは限らず、京大の今西錦司さんや河合雅雄さんなどサル学のパイオニアの人たちの研究で、遠く離れた地域で生きる日本猿の二つの群れが、同時的に、芋を水で洗ってから食べ始めたという事実を発表をしている。

 互いに情報を送り合っているわけではなく、テレパシーのような意思疎通が両者の行動につながっているわけだけれど、預言というものも、この類の働きの一種ではないかと思う。

 日頃は、テレパシーに無縁の生活を送っている私たちでも、「これは天命だな」と自然に受けいれる気持ちになることもある。 

 ただ、そう思っても、その天命のままに動けないというバイアスというかノイズが、実社会のなかにはたくさんあり、それこそ、デロス島のような聖域で、それらのノイズから隔たっていないと、天命に対する感度も鈍っていくだろう。 

 天命に対して、素直に受け入れることを続けていくと、その天命に対して、より敏感になっていくし、その逆もしかりだ。

 富士山の麓で生きることを決めて、すぐ実践した友人と奥さんは、天命に逆らわないナチュラルな気質があり、だから、天命に対する感度も増していった。

 私とのあいだでも、私が電話しようと思ったら、電話がかかってくるということが、本当に何度かあった。

 そういう不思議な縁は、私自身の内側で感じるものだが、私以外の何ものかがつないでいて、同時的に相手の内側でも感じられているのだろう。

 そうした縁に対して無頓着にスルーしてしまうのではなく、「これは何かあるな」という漠然とした予感から、敢えて一歩踏み込んで動くと、そこから何かが始まることが、とても多い。

 この漠然として予感は、非科学的かもしれないが、経験として、正しいと感じるところがあり、それを行動に結び付けて新たな展開につながるという経験がさらに重なると、次第に確信になっていく。そうすると、自分が動かなくても、自分の場に、縁を呼び込むようになっていくという循環が起こる。

 これは、アハ体験とも言われる。

 人間の脳は、自分のそれまでの意識を超えるものに触れて何かが閃く瞬間があり、その時に脳は、それまでにないくらい活性化する。その瞬間、真偽の洞察力が直感的に高まり、判断に対する正確性が生まれ、問題解決もスムーズに行われたりする。あれこれ迷い道に陥ることなく、あっという間に解決してしまったり、物事が一瞬で完成してしまうことがある。 

  自分の計画とか頭の中で組み立てているようなことは、とても狭く閉じたもので、それをそのまま実行したとしても、アハ体験のように、自分を新境地に導いてくれるということが、あまり起こらない。

 これは何かあるぞという直感を、錆びつかせないこと。

 デロス島に隔離されなくても、その直感に従って生きているうちに、現代のデロス島のような環境に自分を置くことになるかもしれない。

 よく勘違いをされるのは、人の集団組織と離れて暮らしをしているだけなのに、社会性がない、社交性がない、社会的に適応力がないと思われたりすることだ。

 実際はそうではなく、周りに足並みを揃えていないからといって、単なる頑固者ということではなく、融通無碍で、人と交わろうと思えばいつでも交わることもできるし、人と心を通わせることもできるし、食べていくためのお金を稼ぐだけの社会適応力も備えている人はいる。

 むしろ、誰かと接する際も、自分をへりくだったり、背伸びしたり、偽ったり、二枚舌を使ったりすることなく、自然体で接するので、かえって人との関係は良好だったりする。

 明確な違いは、群れるか、群れないか、ということだけだ。

 社会性と群れることを一緒にしてしまっている人が多いが、群れる必要がない境地で生きていられる精神の自由を獲得することこそが、現在のデロス島であり、そうした自由の境地において、アハ体験もよく起こる。

 友人と奥さんは、直感に従って富士山の麓が自分たちの居場所であると確信し、そこで生きることが天命だと素直に受け入れながら、天界と地界のあいだを融通無碍に行き来するような感覚で生きていた。

 だから、奥さんが地上から姿を消してしまっても、魂の還るところに還っただけだと友人は受け止めて、自分を鎮めている。

 ましてや、生前から不思議な力を持っていた人なので、姿は見えなくても、何となくそのあたりにいるような気もするし。

 天国とか地獄があるかどうかはわからないが、「量子もつれ」の原理に従えば、こちらが側で消滅すれば、どこか遠く離れたところで、同時的に、対の関係にあるものに、予め定まっていた反応が起きるらしい。こちらの黒が白になる時、あちらの白が黒になるように。

 どこかに存在する対のものとの関係も含めて自分の生命だとすれば、こちら側の生と死は白黒の反転にすぎないのかもしれないが、そのように割り切って受け入れるほどには、現代人の私は、まだ悟っていない。

 それでも、そういう可能性を知っているだけでも、心に間合いができる。このわずかな心の間合いが、人生においては意外と大きいのではないかと思う。

 とりわけ、悲しみや苦しみに打ちのめされそうになる時ほど。

 

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「始原のコスモロジー」は、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

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また、2月17日(土)、18日(日)に、東京にて、ワークショップセミナーを行います。1500年前および源氏物語が書かれた1000年前の歴史的転換点と、現在との関係を掘り下げます。

 詳しくは、ホームページにてご案内しております。

第1419回 Eventful  Life  波乱万丈だったけれど、色々と面白かった人生

 人によって色々な生き方があるし、何をもって自分の人生を満足なものとするか、人それぞれだ。

 友人の奥さんが肺癌で亡くなったと連絡があった。正月に会った時、咳の音がよくなかったので、覚悟はしていた。五年前に癌だとわかったものの、去年の春先までは、比較的良好だった。

 抗癌剤を使わなかったためか、入院ではなく、ずっと自宅で療養していた。苦しんだ期間は、それほど長くなかったのではないかと、友人と話をした。

 亡くなる二日前まで意識もはっきりしていて話もできたそうだ。

 「先に天国に行って待っててね、残された仕事を成し遂げたら傍に行くから、その時には、天に引っ張り上げてくれ」と言ったら、無邪気な少女のような笑顔で頷いたと言う。

 墓は作らず、富士山の見える家の周りに散骨するらしいので、富士の周りで生きてきた人生の軌跡を、私が一冊の本にするよと約束した。

 昨日の家族葬の時も、遺影を一枚だけではなく、若い頃の写真も含めて、壁に数枚の写真を展示したことだし。

 友人は、妻に先立たれてから三日しか経っていないが、これをやらないと妻を成仏させてやれないような気がしてきたので、すぐに、彼女が写っている写真を探し、まとめだした。

 今はもう傍にいない人の人生を振り返りながら写真を見ていくのは、色々なことが思い出されて、人によっては辛いものがあるが、現世からいなくなっても魂が傍にいると信じていれば、あの時は楽しかったねえと語りかけることもできる。

 とくに波乱万丈の人生だった場合ほど、一緒に振り返る時は、楽しい。ほんと、あの時は無茶したよなあ等と。

 彼女がまだ元気だった三年くらい前、友人と二人だけで家を建てた時の写真を見ながら、「面白かったわ、楽しかったわ」と懐かしんでいた。 

 大地の上に、長い木材が数本横たわっていて、そのそばに小さな人間が二人だけ立っている写真だが、二人で柱の両端を持って運んだのだそう。

 家を建てる前の更地と、立派な家が立った後の二枚の写真は、誰でも感慨深いものがあるが、ましてや自分たちだけで作り上げたとしたら、これほどの達成感と満足感は、他にないだろう。

 この夕焼けの富士山の写真は、二人の家から私が撮ったものだ。

 自分たちで建てた家の借景が、この風景なのだから、これ以上の贅沢はない。

 プール付きの高級ホテルに泊まって優雅に過ごしたことを良い思い出として語る人もいるが、彼女は、一緒にインドに行って、ものすごい人混みの旧市街を歩いた時のことなどを嬉しそうに話していた。

 ちょっと怖かったり、トラブルに巻き込まれたり、自分の思うようにいかなかった時のように、なにものかに翻弄され、試練を与えられていた時の体験が、後になると不思議なほど懐かしく、楽しく思い出されることがある。

 彼女は、世間並みの型にはまらない生活や人生が、心の底から楽しいと感じていたようだった。

 そして、そういう型にはまらない自由な生活を続けるために、彼女は、よく働いていた。友人の本の販路を開拓し、売り込み、在庫や金銭的な収支は全てきちんと管理し、友人が、写真を撮ることだけ考えればいいような環境を作っていた。

 彼女が癌だとわかった時から、この日が来ることは、ある程度は覚悟はしていたが、彼女がいなくなってしまうと、友人は大丈夫だろうかと心配だった。

 もちろん、今も心配ではあるが、話をしていると、心の中は悲しみでいっぱいだが、落ち込んで無気力になってしまっているわけではないようだ。

 やるだけのことをやったら、自分も、この世から消えてなくなればいいんだからと。

 病院ではなく自宅で一緒に過ごしていたために、少しずつ弱っていくことはわかっていて、その過程で、話したいことや話せることは十分に話し尽くしたと言っていたので、そうしているうちに、覚悟が、少しずつ整えられていったのかもしれない。 

 だから、最後の迎え方としては悔いがないのだと本人は思っている。

 人は誰でも死にゆく宿命なので、死をどう受け止めるかは、納得感だけの問題かもしれない。 

 一緒に過ごした時間が懐かしく思い出されて、悲しすぎるのだけれど、それでも、悔いはないよね、と言えるかどうか。

 友人として接していた私でも悲しいのだから、パートナーに先立たれた彼の悲しみの深さは、相当なものであることは間違いない。

 それでも、先に逝ってしまった大切な人が、悔いのない人生を送ってくれたと思えるかどうか。そして残された自分の人生を、悔いなくやりきろうと思えるのかどうか。

 きっと祈りのように浄化された心が、今後の彼の人生を支えるのだろう。

 彼女のために作る本のタイトルは決まっている。

 Eventful  Life だ。

 波乱万丈だったけれど、色々と面白かった人生。

(with no regrets.)は、わざわざ付ける必要はないだろう。

 

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第1418回 原始のエッセンスが持つ普遍性。

嬉しい頼りが地球の裏側から届いた。
 アフリカのルワンダで、「イミゴンゴ」という伝統アートの調査活動と、普及のための展示や販売を行っている加藤雅子さんが、このたび私が制作した「始原のコスモロジー」を、現地でイミゴンゴの制作を行っている人々に見ていただいた時の写真を送ってくれ、その時の雰囲気などを伝えてくださったのだ。
 「(イミゴンゴの)作り手さんたちは、写真をゆっくり眺めながら、指でなぞりながら、その眼差しは、かつての聖域に思いを馳せているよう」。
 ルワンダにはもともと土着の宗教(というか信仰形態)があったが、キリスト教が入ってきて以降、元々の信仰を続けていると「悪魔崇拝者」と強烈な非難を受けるため、公には活動ができなくなってしまったそうだ。
 しかし、それでも、彼女たちには秘密にしている聖域があって、加藤さんを、その場所に案内してくれた。そこは複数の岩が積み上がった場所だった。
 私は、加藤さんが送ってくれた写真の中で、私が撮ったピンホール写真を彼女たちが指差している光景が、心に深く刺さった。
 私は、「日本の古層」というテーマで取り組んでいるが、始原まで降りていくと、日本とか外国とか関係なく、人類普遍の何かがあると確信している。それは、私自身も、世界の秘境・辺境という地に足を運んで感じ取っていたものだ。人間は、表面的には色々と異なる様相があるが、本質的には、人間であるかぎり共通のものがある。
 そして、その共通のものは、共通の祖先の遠い記憶のようなもので、どこか懐かしいものがある。
 ルワンダの「イミゴンゴ」というアートは、非常に洗練された図形だが、古代の壁画などにも用いられている普遍的な図形だ。そして、興味深いことに、このアートは、「牛糞」でできている。

 糞というのは、近代文明の見方では、食物が死んだ姿であり、ただの排泄物だが、近代以前の人類は、これを肥料として用いてきた。自然界においても、糞は、新しい生命の誕生と成長を促す力がある。
 糞は、比喩としてではなく事実として、一つの死と、一つの生のあいだをつなぐ媒介物なのだ。
 この牛糞で作られたアート、イミゴンゴに私が惹かれる理由は、このアート自体が自分を主張するのではなく、周りのものに内在する魅力を引き出すところにある。
 自己主張のためのアートは、20世紀にもてはやされた。現在も、自己表現のために他者を材料にしてしまう写真はSNSの中に溢れかえっており、プロもアマも、その範疇で優劣を競っているが、21世紀に求められる写真表現は、他者に内在する魅力を引き出すものになると私は思っている。たとえば、鬼海弘雄さんの写真が、その象徴だ。
 また、昨今、明晰で合理的なものが価値あるもののように主張されているが、それとは対極の曖昧の中の奥深さ、「風情」とか「気配」といったものが、今後とても大事になってくるだろう。
 明晰すぎる写真は、目の情報処理で完結してしまうようなところがある。
 「風情」とか「気配」というものは、身体的、五感もしくは六感的に受けとる情報で、記憶の深いところで感応する。
 昨日の夜、京都から東京に戻ったら、水中写真における第一人者の写真家から、お手紙が届いていた。
 私が制作した「始原のコスモロジー」のピンホール写真についての感想で、「まさに神の存在を彷彿とさせる作品群に釘付けです、正直に言って、風や匂いまでも感じられ、すっかり魅せられ、ページにのめり込んでいます。」という有難い言葉をいただいた。
 この言葉以上に嬉しい感想はない。なぜなら、私が撮った写真を、目で情報処理をしているのではなく、身体全体で感じ取って、その写真の中に没入してくださっているからだ。
 この水中写真家の方は、圧倒的に身体で写真を撮っている人であり、その写真が素晴らしいのは、単なるテクニックや目の付け所ではない。 
 たとえば、彼は、普通の人なら海中に入るだけで気を失ってしまいそうな流氷の下の海に長時間潜って写真を撮ることができる。
 また、1m以上先は何も見えないような東京湾のヘドロ状の海の中でも、生物を探り当てて、根気よく撮影ができる。しかも、時を経て、まったく同じところに潜って、時の経過を撮ることもできる。そうした身体性があるから、他の誰もが真似のできない写真が撮れる。
 さらに、そうした撮影への情熱の源泉は、当然ながら自己主張や自己顕示欲ではなく、生物たちへの崇敬である。人間にとって役に立たないように思われている小さな生物たちでも、彼にとっては等価なのだ。口先で、「どんな生物も等価」と言うことは誰でも簡単にできるが、本当の心は、アウトプットされた表現や、その人の仕事に現れる。
 数日前に、「結果というものは、事前に求めるものなのか、結果としてそうなるものなのか」という内容で投稿し、それに関するコメントのやり取りの中で、京都郊外の京北の里山世界を拠点に仕事をしているROOTSという会社の共同創業者であるフェイランが、「どんな事業?ではなく、どんな景色をつくりたいのか?を共有できることが大事」と述べていたが、この場合の「景色」とは単なる”風景”ではなく、茶道具などで使われる言葉の「景色」、つまり風情のことも含んでいて、その曖昧の奥深さを共有できることこそが、精神的な豊かさにつながると思う。
 物ではなく景色、風情に視点が移ると、きっと世界の見え方がかわる。
  言葉一つとっても、景色が滲み出てこないものは、単なる情報整理にすぎず、そういう意味で、「全ての生物は等価だ」という言葉にしても同じだ。
 そういう手垢まみれのステレオタイプの言葉ではなく、その人がアウトプットするものが、身にしみたり、新たな体験にならないかぎり、世界の見え方も変わらない。
 そういう体験につながるアウトプットこそが大事なのだ。
 ルワンダの伝統アート、イミゴンゴは、先祖代々継がれてきた柄を粛々と作り続けている。

 一見単調に見える行為に、夥しい数の層が積み重なっており、このアートが一体何を表しているのか、深く理解しようと調査を続ける加藤さんは、作り手さんと、ただひたすら時間を共にし、そこに流れる空気を聴きながら、それぞれの記憶を辿り、それを総合して貌をあらわにする試みを行なっている。
 一つのシンプルな解答でわかったことにするのではなく、層の積み重なりから滲み出るものを通して、人種や宗教を超えて、わかりあえる何ものかを抽出しようとしているのだ。
 活動方針は2つで、「分からなさを転がし続ける」と「未来の人の引き出しをつくる」こと。
 これは、日本の古層の迷路に分け入っている私のスタンスと同じだ。
 一つのことがわかり始めると、新たな謎が立ち現れる。
 しかし、分からなさ、不思議さ、不明瞭さの宙ぶらりんの中にいても、古代人が感じ取っていた世界のリアリティが、少しずつ自分に引き寄せられているようにも感じられる。その感覚の深まりは、直線的なものではなく、スパイラルだ。
 「未来の人の引き出しをつくる」というのは、私の言葉では、未来の誰かにバトンタッチということになる。
 このテーマは、どこかの時点で、「ああそういうことね」でケリをつけられない深遠なる奥行きと広がりのある世界なので、おそらく死ぬまで続けることになり、そのうえで、未来のたった一人でもいいから、私が整えた引き出しを開ける人がいることを願っている。
 そして、どの時代の人も、それ以前の時代とは違う何かを新たに付け加えていくことになるが、私が、今の時代にこれをやっていることの意義は、やはり、これまでの時代に存在していなかった「写真」を、反映させることだと思う。
 幸いに、日本および世界でも最高峰の写真家の写真を自分ごととして見ざるを得ない仕事をしてきたことも、自分が、今これに取り組んでいる必然性の輪の中にある。
 ルワンダの「イミゴンゴ」は、間違いなく日本家屋にも合うし、日本庭園の傍に置いても調和するだろう。

 それは、イミゴンゴの持つ普遍性であるが、同時に、イミゴンゴとも響き合う日本文化の本質は、いったい何なのかという問いに関わる問題でもある。 
 中世の日本文化は、かなり洗練の極みに達しているところがあるが、実は、糞をアートにするという原始のエッセンスに通じるものがあるということ。
 繰り返しになるが、万物の尺度を人間に置く世界では、糞はゴミだ。しかし、森羅万象世界を尺度に置く世界では、糞は、生命をつなぐ紐帯になる。
 人間が、いくら頭でっかちになって身体性を喪失していったとしても、やがて滅びゆく肉体を持つ存在であることは変わらず、永遠の連続のなかの瞬間的な個体であるという宿命の外には出られない。
 その宿命の輪の中で生きて死んでいく人間の健やかな未来の引き出しが、万物の尺度を人間に置く世界の中にある筈がない。


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 この写真のルワンダの人たちの衣装と、身体の線や、滲み出る風情と、イミゴンゴと、私の本のなかの写真たちが、ごく自然に調和しているように、私には感じられる。

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1417回 今という永遠の中に在る縄文のコスモロジー

 縄文人は、同じような生活を10,000年続けていたとされ、さらに彼らの居住地は、ずっと同じで、竪穴式住居が、前の世代のものの上に積み重ねられるように作られているところが多い。
 つまり、他の地域に移る必要がないほど、暮らしが安定していたということになる。
 そんな彼らの生活場所は、今でいう里山だった。
 日本の沖積平野は、川がしょっちゅう氾濫する。峻険な山合いの谷からの水が、一挙に平野に流れ込むからだ。
 今でこそ、高い堤防を築いたり、巨大なダムで調整しているため、その脅威を実感しずらくなっているが、それでも、一度洪水が起こると、大変なことになる。
 縄文人が暮らしていた里山は、そういう危機がなかった。何より、照葉樹林の森には木の実が多く、そのため小動物もたくさんいたし、河川から魚を得ることもできたし、海に漁に出ようと思えば、河川を通じて簡単だった。
 私が子供の頃の学校の教科書では、縄文人が、はじめ人間ギャートルズのように毛皮を着て、狩をしているイメージにされていたが、近年の学会内の認識は大きく変わっていて、麻で織った服を着て、食卓には海の幸、山の幸が多彩にのっていたとされている。
 さらに山に近い里山は、湧水も豊富に得ることができた。
 しかし、縄文人は、里山に閉じこもっていたわけではなく、川や海を通じて、かなり遠方と交流していたことが、ヒスイや黒曜石が亀ヶ岡式土器など各種土器の流通状況からわかっている。彼らの行動は、融通無碍だったのだ。
 山というのは、神の領域で、里山は、その周縁部ということになる。だから、神を身近に感じて畏れの気持ちを抱きながら、驕ることなく、謙虚に生きていたことだろう。
 なにしろ食物の恵みは自然界からもたらされていたから、自然に対する感謝の念を失うことはありえない。
 海に囲まれた島国は、野生動物が冬眠しても、魚介類が十分なタンパク源になるので、人は飢えることがなかっただろう。 
 10,000年も同じ暮らしを続けたのは、進歩がなかったわけではない。暮らしのスタイルが変わらなかっただけで、精神性は、極めて高いレベルに達していたことは、土器や土偶を見ればわかる。
 八ヶ岳周辺の縄文文化を深く研究している田中基さんからの話で、私が感銘を受けたのは、縦穴式住居の出入り口の地下に、胞衣(出産の後の胎盤)が埋められているという話だ。
 それが何のためにというのは、学会内の学説としては証明しきれないものがあるだろうが、私は、縄文人にとって縦穴式住居は、子宮だったのだろうと直観した。あの狭い出入り口は、まさに産道であり、縄文人は、眠る時は子宮内に戻り、朝、目覚める時は新しく誕生していたのだ、きっと。
 縄文人が、食事を含め、日中はずっと住居の外ですませていたという話を聞いた時から、その考えは確信になった。
 毎日、子宮から新しく生まれるのだから、昨日の悩みを引きずらないし、明日のことも憂いたりしない。
 時間に区切りはなく、今という時間は永遠の時間だった。
 なんと精神的にも健やかなことか。ずっと屋外で活動し、身体的にも健やかだっただろうし、精神的にも健やかだった。だから、10,000年も同じ営みを続けていた。変える必要がなかったのだ。
 人間の幸福の定義は、いろいろとある。
 今という一瞬が永遠ではなくなり、昨日の悩みを引きずり、明日のことを心配しながら生きているのは、どれだけ利便さを獲得して、暴飲暴食をして、娯楽に興じても、幸福と言えるかどうか。
 ましてやブランド品で身を飾っても、他人の目に対する意識が強くなるばかりで、他人との比較や、他人との競争に苛まれるようになるのであれば、よけいな不幸を抱え込んでいるにすぎない。
 他人との比較や、他人との競争という意識ではなく、自らを全うできる状態へと自分を持っていく意識の方が、縄文人が獲得していた幸福に近い道のような気がする。
 自らを全うするというのは、よけいなことを考えずに、自分の目の前のことに全力を傾けるということだろう。そのことについて、周りがどう言おうが関係ないという境地に到ることだろう。


 10,000年のあいだ同じだった縄文時代から、弥生時代になって日本社会は急激に変わり始めた。

 
 稲作とか、新しい知識や技術や、いろいろなことが要因としてあげられるが、本質的なこととして、他者との比較分別という概念がもたらされたことがあると思う。
 この分別は、エデンの園を追い出されたアダムとイブが食べた禁断の果実に該当する。
 アダムとイブの子のカインは、神に気に入られたアベルを妬んで、殺害してしまう。さらに嘘をつく。このカインの罪が、人類の罪の起源とされる。
 その罪を引き起こしたものが妬みであり、妬みは他者との比較分別によって生じる。
 日本では、弥生時代以降、カインの時代になってしまう。しかし、それでも、時おり、その問題の本質を指し示す人物は現れた。
 空海道元などが、その代表で、彼らは宗教人として扱われているが、「宗教」という枠組みは後付けのものであり、本来は、人間の健やかな生き方を問い続けた探求者だったのだろう。
 道元が詠んだ、「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、冷しかりけり」という歌は、解釈本に書かれているような単に日本の四季を愛でている歌だとは私は思えず、縄文人コスモロジーのように、自然の循環のなかで、今という永遠の中に在るという境地を詠んでいるように感じられる。
 いつの時代でも、人間の健やかな生き方の問いと探求は、人間にとって、もっとも大事な精神活動のはずで、だからこそ、空海道元の言葉や行いは、現在でも、普遍性を帯びている。
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第1416回 結果を求めるのか、結果としてそうなるものなのか。

結果を意識しすぎて、ストレスを抱えたり悩みこんだりする人が多いから、「結果にコミットする」と力強く宣言する会社が商売繁盛ということになるのかもしれないけれど、そもそも結果とは、そこを目指すものではなく、結果としてそうなった、というのが自然だったはず。

 明確なゴール設定というのは、ずっと同じ価値環境の中にいると害はないが、価値観が変動しやすい状況のなかでは、一つの結果を目的としてしまうことは、そのこと自体が自分を縛って不自由にしてしまうかもしれない。

 私は、20歳の時、海外放浪をしている時に、明確なゴール設定も目的設定もなく、そういう状態を気ままでいいと言う人もいるが、実は、かなり不安でもあった。

 行先で出会う人が、海外青年協力隊の人であったり企業から派遣されている人であったり研究者であったり、それぞれが、自分が何をしている人間なのか、堂々と語る。それに対して、自分のアイデンティティがない私は根無草で、あなたは何をしている人?と聞かれるのが苦痛だった。

 とりあえず社会に入ってからも、これが自分の天職というものがわからなかったから、放浪時代の時と、心理的には変わらなかった。

 だからとりあえず、目の前のことに対して、余計なことを考えずに、それを一つひとつ極めてやろうというくらいの感覚しか持てなかった。

 その分、意識のアンテナを特定の枠組みの中に閉じこもらさずにすんだ。

 とりあえずの指針として、30歳までは、器の中に物事を入れようとするな、器を大きくすることだけ考えよ、ということを設定した。

 狭い枠組みの器のまま物事を詰め込んでいっても、すぐにいっぱいになってしまうから。

 一つひとつ極めるというのは、とくに達人になるというほどではなく、たとえば某化粧品会社の関係の仕事をしていた時には、膨大な印刷物を扱わざるを得ず、納期が厳しく修正も当たり前だったから、印刷会社の言いなりにならず、印刷会社を説得するため、印刷会社の現場を見せてもらって構造を理解したり、印刷見積もりを自分でできるようにしていた。そのまま印刷会社に転職しても、営業の仕事がすぐにでもできるくらいに。

 東芝セブンイレブンの仕事をしている時は、膨大な数の35mmスライドからのセレクトのため、毎日のようにビュアで覗き込むことをやっていたこともあった。1000枚の写真を100枚くらいに絞り込んで、ディレクターに渡すために。

 こうしたアシスタントの立場は、現場の底辺の仕事が、自分の能力を高めていく機会になる。

 後に、印刷のこととか、写真を判断する力が必要になる仕事を行うことになるが、当時はそんなことまるで考えていなかった。

 私は、ワークショップにおいても、エンジニアリングとブリコラージュの話をする。

 設計図に基づく家づくりと、宮大工の家づくりの違い。西欧の庭園と日本庭園の違い。形と大きさの決まったブロックを積み上げた壁と、石工が、大きさも形もバラバラの石を絶妙に組み合わせて作る石垣の違い。

 前者がエンジニアリングで、後者はブリコラージュ。ウィキペディアなどでは、ブリコラージュは寄せ集めと説明されるが、単なる寄せ集めではなく、最適組み合わせ。レヴィー・ストロースは、このブリコラージュこそが、生命原理だと唱えた。

 生命原理がそうなのだから、人生もまた、そうだろう。

 目的主義的なエンジニアリング思想の人生設計は、生命として不自然なのだ。

 家や壁も、エンジニアリングで作られたものは、長くて50年、近年では20年ほどでガタがくる。ブリコラージュで作られたものは、その10倍の持続性がある。強靭だけれど柔軟性があるからだ。

 幅というのか、間合いというのか、遊びが、ブリコラージュにはある。厳密に整えられすぎた西欧庭園と違う日本庭園の魅力は、そこにある。

 私は、様々な分野での放浪の末、風の旅人という媒体を作ったけれど、その際、石工が作る石垣や、日本庭園のようなものを指向した。おそらく、雑誌編集者になる目的のために出版社に勤務するという限定した経験を踏んでいたら、出版社が作る雑誌のバイアスがかかり、エンジニアリング的な狭い枠組みのものしか発想できなかったのではないかと思う。

 既存の出版社が作っている物に追随もせず影響も受けなかった風の旅人の一番の特徴は、どんな分野のものでも、その器の中に入れて調和させることができる媒体だったということ。科学でも歴史でも自然でも、写真でもアートでも、何だって組み合わせることができた。

 だからタイトルも、無限の広がりにつながる「風の旅人」だった。

 雑誌媒体などにおいて「結果にコミットする」的なものは、ハウツーとか、すぐに役に立つ情報提供ということになるが、そうした「時空として限定されてしまうもの」は、自分の人生においても遠ざけていたことなので、生理的に合わなかった。

 しかし、媒体物を商売優先で考えるならば、「結果にコミットする」という類の方がよいと多くの人は思うだろう。

 私はそう思わない。なぜなら、けっきょく、結果にコミットする世界は、結果の達成度の競い合いになるので、勝者と敗者に分かれるだけ。勝者にしても、時代が変わって人々のゴール設定が変われば、存在価値はなくなる。

 エンジニアリング的発想に基づくものは、企画化と標準化されやすいので、似た物同士の競争になりやすい。雑誌媒体の現状もそうだった。

 それに対して、日本庭園とか石工が作る石垣は、オンリーワンだ。最適組み合わせで作り上げるブリコラージュこそ、オンリーワンなのだ。

 そういうものは、それがどういうものか説明することも簡単でないので、量的に広がりにくい。

 量的に広がりやすいものは、評論家や、テレビのコメンテーターが、簡単に言葉で説明できるようなもの。

 ブリコラージュのオンリーワンの物を大切にしている人は、自分は気にいっているけれど、他の人はどう思うかわからないからと、あまり積極的に周りの人に紹介したりしない。

 しかし、何かのタイミングで、同じものを大切にしている人と出会ったりすると、それだけで相手を信頼するということが起こる。「この人とは、わかり合える」みたいに。エンジニアリング的な世界では、こうした邂逅は起こりにくい。

 結果にコミットするものは、同じ結果を求める人に積極的に紹介したいという気持ちも生じるので、その結果を求める人のあいだで急速に広がっていくが、それは、人間としてお互いにわかりあえているということではない。しかし、そういう広がりが、世の中のニーズに応えていると評価される。 

 しかし、そのニーズというのは表層的なものであり、現代の自我執着社会においては、目の前の結果を求める人たちのあいだでも、本当のニーズは、自分の存在感の獲得にある。

 結果というのは、それこそ結果的に成るべくしてそうなったというものであり、石工の石垣は、全体ができあがった時点で、その中に組み込まれた歪な形の石の役割と存在感が明確になる。

 作る前は、エンジニアリング的発想だと、こんな歪な形で小さな石、役に立つのかよと切り捨てられる可能性の高いものが、実は、くさびとなって、非常に有効な役割を果たすことになる。

 そういう意味において、結果を急ぎすぎないブリコラージュ的発想においては、捨てる物などない。目の前のものに内在している力を引き出すことに意識が向く。

 人生もまた、目の前の多くのことを、(目的主義に陥って)意味がないと切り捨てることを続けていると、手持ちのカードは痩せ細っていく。

 後になって、これがそんなに役に立つとは思わなかった、ということはたくさんある。

 私の場合、印刷に関する知識や、写真を観て選ぶ力などもそうだった。

 雑誌編集者になることを目的として、その結果のために努力するのはいいのだけれど、そのために書店に行って「雑誌編集者になるために必要なこと」の類のハウツーを買ってきて読んでも、大した編集者にはなれないだろう。

 生命は、様々な器官が編集されて成り立っているが、その編集の原理はブリコラージュだ。

 ブリコラージュの極意を身につけることが、編集の仕事において、最も大事なことであり、そのためには、人生もまた、狭く限られた目的主義に陥らないことが大事だという気がする。

 雑誌編集に限らず、どんな仕事も、実は、編集力で成り立っている。

 

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  日本の歴史の重要な転換点は、1500年前と、1000年前であり、年末に発行した「始原のコスモロジー」では、1500年前の状況を深く掘り下げています。

 始原のコスモロジー」は、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

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また、2月17日(土)、18日(日)に、東京にて、ワークショップセミナーを行います。1500年前および源氏物語が書かれた1000年前の歴史的転換点と、現在との関係を掘り下げます。

 詳しくは、ホームページにてご案内しております。

第1415回 歴史のサイクルと、自然のサイクル。

1783年の浅間山の大噴火(天明大噴火)で形成された鬼押出し溶岩。  この時の噴火で、関東一円に大量の軽石や火山灰が降り注いだ。大規模火山泥流は、利根川を流下して太平洋や江戸湾にまで到達した。また、火山灰が直射日光の照射を妨げて、天明の大飢饉の原因の1つになった。同じ年に、アイスランドでも巨大噴火があり、天候不順は、地球規模になった。フランス革命は1789年である。

 現代人は、現代社会が人類の歴史でもっとも発展した時代だと信じている。

 しかし、古代エジプト古代ギリシャ・ローマに限らず、過去に高度な水準に達していた文明が存在していたことは明らかであり、人類は、階段を上るように文明社会を発展させてきたわけではない。

 そもそも叡智ということで言うならば、2500年前に、古代ギリシャ哲学と、古代中国の儒教老荘思想と、古代インドの仏教が同時的に生まれているが、その後の人類史において、これらの叡智が超えられているわけではない。

 不思議なのは、古代ギリシャにしろ古代中国にしろ、広い範囲で共通文字が普及するようになったのは、地中海地域ではフェニキア文字の発明、中国では、殷の時代に祭祀用にすぎなかった文字を周の時代に改変してからで、ともに3000年前だから、それからわずか500年で、現代でも通用する哲学や思想が生み出されたことになる。

 古代日本の場合も同じで、訓読み日本語が発明されたのは今から1500年ほど前で、それからわずか500年で、『源氏物語』が書かれた。川端康成三島由紀夫も、源氏物語を超える文学は、その後の日本の歴史で生まれていないと言った。

 共通文字は、急速に知識や技術を普及させるが、それとともに、人類の世界に対する見識も、広がり、深まっていく。

 現代、世界全体を覆い尽くしている欧米文明の場合、一般の人々に共通文字が普及するうえで、グーテンベルク活版印刷の発明が大きかった。

 それまでの聖書は、羊の皮の本などに書き写されており、一部の聖職者しか所有できなかったが、印刷によって聖書が大量生産され、プロテスタントカトリックの対立が始まったことは、学校の教科書でも習う。

 これは、15世紀の出来事だから、それから500年のあいだに、人類は、インターネットで世界中がつながる環境を作り上げた。

 人間は、共通文字を使い始めると、500年ほどで文明のピークに達してしまう。その後も発展が上乗せされるのかというと、実は、そうではないということを歴史が示している。

 それは何故なのか?

 その答えは、2500年前の古代ギリシャ、古代中国、古代インドに生まれた哲学・思想と、1000年前の日本に生まれた死生観に共通するものの中にある。

 2500年前、ギリシャにはソクラテスが現れて「無知の知」を唱え、中国の老荘思想は「無の思想」、インドの釈迦は「空」を唱えた。

 1000年前の日本の場合は、「もののあはれ」である。

 「無」とか「空」とか「もののあはれ」は、形あるものに囚われる人間の心を否定している。

 つまり、共通文字を使い始めて知識や技術を共有する人は、500年ほどで、その文明のピークに達するのだが、その文明というのは、「形あるものに心が囚われてしまう」ものであり、賢人は、覚めた目で、その我執こそが人間社会を歪め、人間を不幸にしているとみなしていた。

 我執に囚われる社会は、現代だけでなく古代においても同じで、その象徴的な存在として、古代ギリシャではソフィスト、古代中国では詭弁家と呼ばれる人々が、有象無象に出現している。

 今の言葉なら、「論破王」だ。つまり、言葉で相手を言い負かすことが賢さの証明であるかのような状態。

 この分野における古代ギリシャの代表がプロタゴラスで、彼は、報酬をとって、そのテクニックを人に教えていた。

 そして、プロタゴラスの言葉で有名なのが、「万物の尺度は人間である」だ。

 共通文字を使い始めた人間は、わずか500年ほどで「万物の尺度を人間に置く」文明を築き上げる。そして、無数の詭弁家が現れる。

 この原則は、今日の世界でもまったく同じであることがわかる。

 私たち現代人が、最高の文明のように信じ込んでしまっている状態は、端的に言えば、万物の尺度を人間に置いて、言葉を駆使して、自らの優位性を競い合う時代ということになる。

 そうした状況を憂いたソクラテスは「無知の知」を唱え、釈迦は「空」を説き、老子荘子は「無の境地」に遊んだ。

 紫式部源氏物語を書く後ろ盾になったとされる藤原道長が詠んだ歌、

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」について、「この世で自分の思うようにならないものはない。」と、道長の驕りを示す歌だと解釈するのが通説になっているが、それは、万物の尺度を人間に置いて物事を考えてしまっている人の解釈だ。

 この道長の歌は、1018年10月16日の日記に書き留められているが、10月15日が満月の日で、10月16日は、少しだけ欠けた 十六夜(いざよい) の月だったことがわかっている。 

 つまり、この歌は、「もののあはれ」の歌であり、現代風に解釈すると、「自分にとって最高の時代だと有頂天になっているのは、満月が、ずっとそのままだと思い込んでいることと同じだよ。(現実的に、それはありえない)」という意味になる。

 形あるものは、おしなべて消滅する定めにある。それが、森羅万象に尺度を置いた視点であり、藤原道長も、そうした「もののあはれ」の眼差しを持っていた。

 正月明けに投稿した源氏物語の中でも言及したが、台頭する清和源氏の力で、かろうじて栄華を保ち続けていた藤原道長は、貴族の時代の終焉を理解していた。

 競争社会の中での勝利などは、虚しいものだ。その虚しさを包み隠して、いかにも満たされているかのように発信される言葉の多くは、虚栄のための詭弁である。

 人類が、この種の文明のピークに達する時、必ずといっていいほど、人間の手に負えない大自然の試練のことが示されている。古代メソポタミアギルガメッシュ神話や、聖書の黙示録など、枚挙にいとまがない。

 文明のピークにおいて、万物の尺度は人間にあると驕っていた人間が、自らの小ささを認識せざるを得ない事態が起きることは、偶然ではなく、おそらく必然なのだろう。

 というのは、自然にはサイクルがあり、人間が、万物の尺度を人間に置く文明を築き上げる時は、比較的、自然が穏やかに安定している時期が長く続いているのだと思う。

 現代人は、人間の能力と努力だけで文明を築き上げたと思い込んでいるが、そうではなく、自然のサイクルが、それを可能にしたと考えることができる。

 毎年のように壊滅的な大震災が起きるような状況であれば、人間は、万物の尺度を人間に置く価値観を保ち続けることはできないのだから。

 南海トラフ地震は、90年から100年のサイクルで起きるとされる。 

 前回は、1944年と1946年で短期間のうちに2度起きた。その前は、明治維新の直前、ペリーの黒船来航の翌年の1854年

 いずれも日本社会が大きく変わった時。

 このサイクルだと、次は2034年頃。

 これは大地のメカニズムの問題であり、このサイクルを人間の手で変えたり、永久に起こらないようにすることはできない。

 万物の尺度は、人間側にはないのである。

 人類の文明がピークに達する時というのは、長く続いた自然の安定期が、そろそろ終了する段階ということでもある。

 だから、世界中の古代の神話や史実の中でも、地震や火山の噴火で、文明社会が一瞬にして滅びたことが記録されている。

 そうした大震災で人類全体が滅びるわけではなく、心を入れ替えた人間が、万物の尺度を人間に置かない生き方を始めることになる。その象徴が、聖書の中のアブラハムだ。

 しかし、それからしばらく自然の安定期が続くと、再び人間は傲慢になり、万物の尺度を人間に置く文明を築き始める。

 古代から人間は同じことを繰り返しており、2500年前に、東西世界で、同じように「無」や「空」の思想哲学が創造されたことは、単なる偶然の一致ではない。

 万物の尺度を人間に置くことの虚ろさや空しさや愚かさを説かなければいけない文明的状況が、広い地域に起こっていたということだ。

 グーテンベルグの印刷技術の発明から500年経った現代も、世界中の広い地域において、同じような文明的状況が起きている。

 日本は特に自然災害の多い地域ではあるが、現代の世界は、異常気象ということで共通しており、万物の尺度を人間に置く世界の限界は、どこでも同じである。

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第1414回 源氏物語と、宇治の謎。

 

宇治の宇治橋と、伊勢の宇治橋は、冬至のラインで結ばれており、冬至の日、伊勢の宇治橋の真ん中から、太陽が上るが、宇治と同じく橋姫を祀る伊勢の饗土橋姫神社の位置は、この冬至のライン上にある。

ネットニュースを流し読みしていると、HNK大河ドラマへの便乗で、源氏物語紫式部に関する情報提供が多い。

 ここぞとばかりに研究者やその周辺の人たちが、光源氏のモデルが藤原道長だとか、もしくはその父の兼家であるとか、紫式部は、おたく文化でわかりやすく例えるならば「夢少女」云々など、世俗化して貶める傾向が著しい。

 大河ドラマは、娯楽用に作り替えられていることを承知の上で観ている人が多いだろうが、専門家と称する人たちの浅はかな情報流布は、結果的に、自分たちの仕事の価値を損なっていくことになるだろう。

 昨今、大学に文学部は必要ないという意見も多くなっており、それに対して文学部の先生たちは、大学は実学だけの場所ではない等と反論しているが、だったら何を学ぶべき場なのか、自らを省みる必要がある。

 源氏物語紫式部に関して、あれやこれやと意見を述べる人は多いが、第41帖の「幻」で光源氏がフェードアウトした後、物語の中心になっていく宇治の十帖について、深く掘り下げた解説を見たことはない。

宇治の平等院。もともとは別荘だったが、藤原道長お息子の頼通が、末法思想の世の中を反映し、寺に改めた。

 そもそも、なぜ宇治なのか?

 紫式部源氏物語と宇治の関係を考えていくうえで鍵になることが幾つかある。

 まず、宇治における最も古い聖域は宇治上神社であり、主祭神は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で、この人物の名、「うじ」が地名になっている。

 といっても、これが誰なのか知らない人が大半だが、日本書紀のなかで、仁徳天皇とのあいだで皇位の譲り合いが長くなってしまい、それが天下の煩いとなることを心配して、身を引くために自殺したと伝えられる人物だ。

 この人物は、史実かどうかわからないが、応神天皇和邇氏の娘のあいだに産まれたと位置付けられており、和邇氏は、正月明けに三日連続で源氏物語について投稿した時に説明したように、小野氏の祖であり、物語の伝承に関わっていた氏族である。

 正月明けの投稿のなかで書いたように、紫式部小野篁の墓が京都の堀川通に並んで築かれていることや、紫式部のルーツである宮道氏の館が山科の小野郷にあることなどから、紫式部源氏物語を創造するにあたり、背後に「小野」の陰が見え隠れする。

 そして、宇治の宇治橋に祀られているのは橋姫だが、この神の正体は、瀬織津姫とされる。

 瀬織津姫は、記紀に登場しない神なので、スピリチュアル好きな人たちは、これは縄文の神で藤原不比等によって封印された、などと主張したりしているが、東京の聖蹟桜ヶ丘に鎮座する武蔵国一宮の小野神社の祭神であるように、「小野氏」が、この神の普及に関わっていたと考えられている。 

 瀬織津姫は、一般的に、水の神、河や海の神、祓いの神なのだが、その名のとおり、瀬で織物をする姫だから、コノハナサクヤヒメなど記紀に登場する多くの巫女たちの総称だろうと思われる。

 神話の中の巫女たちは、異界との境界である河の瀬や海岸で織物をしていたと描かれており、そこにマレビトがやってくる。

 この巫女たちは、一番最初に異界のものと交わり、相手が危険なものかそうでないかを判断し、時には犠牲となった。

 記紀が書かれる以前は、この種の巫女が、日本中に数多く存在し、それらの物語が口承で伝えられており、その口承伝承の中心は、古事記編纂において活躍する稗田阿礼の出身である猿女氏が担っていた。

 この猿女氏が、奈良時代、小野氏に仕事を奪われていると朝廷に不満を訴えている記録が残されている。

 奈良時代というのは、古事記のように物語が口承から文字記録に置き換えられていく時期である。猿女氏の仕事が小野氏に奪われるというのは、猿女氏が担っていた口承の社会的ポジションが低くなっていく時代を反映しているのだろう。

 瀬織津姫というのは、そうした新しい時代に、猿女氏に代わって文字によって伝承を担うようになった小野氏が、過去の巫女の役割を、瀬織津姫という神に一本化したのではないかと思われる。

 正月明けの投稿にも書いたが、源氏物語に登場する女性たちは、古代、マレビトと交わる巫女たちに重ねられており、その巫女たちを一つにした存在が瀬織津姫であり、この神が、宇治橋に祀られていること。源氏物語の後半の舞台が、宇治に変わる理由の一つが、ここにある。

 さらに重要なことがあり、古代の巫女が瀬織津姫に代る時、瀬織津姫に祟り神の性質が加味されることだ。

 瀬織津姫は、大祓詞の中で、四柱の祓戸の大神として一番最初に出てくる神で、疫病が大流行したり、天変地異が起きた時、祓い清め(浄化)、災いを鎮める神なのだが、災いが起きた時に、その神意が問われる存在である。

 「祟り」と「崇める」は、「祟」という同じ漢字だが、折口信夫などは、「祟つ」を、「顕つ(たつ)」にルーツを求めている。その意味は、目に見えない力の顕現化である。

 崇める神も、怒れば祟る神になるのであって、元は同じだ。

 宇治橋における瀬織津姫は、とくに「鬼」としての性質が強調されて伝えられている。

 京都の貴船神社で丑の刻参りをして鬼になった女や、一条堀川の戻橋で渡辺綱に腕を切られた鬼などは、宇治橋の橋姫(瀬織津姫)であり、宇治橋の守神である瀬織津姫は、嫉妬深い女の情念がつのって鬼になった存在として描かれている。

 源氏物語の中で、特に重要な女性である六条御息所が、これに該当する。

 情念が並外れて強いうえに自己抑圧も強い六条御息所の押し殺した心が恨みに転化し、物の怪となって、夕顔や葵の上を死に至らしめ、さらに光源氏が最も大事にした女性である紫の上を苦しめ、光源氏正室である女三宮にも取り憑く。

 この六条御息所の娘が、伊勢神宮斎宮としてアマテラス大神に仕える巫女となる秋好中宮だ。

 瀬織津姫というのは、アマテラス大神の荒御魂ともされており、源氏物語は、古代の神様の事情を、かなり深いところで重ねて物語化している。

 

 瀬織津姫を祀る宇治の宇治橋と、伊勢神宮宇治橋冬至のライン上にあり、伊勢神宮宇治橋の近くにも、橋姫を祀る饗土橋姫神社がある。

 饗土橋姫神社も、地図を見ればわかるように、この冬至のライン上にあり、さらに伊勢の宇治橋は、冬至の日に太陽が橋の真ん中から上るように作られている。

 これらの神々の配置や、その構造は、明らかに計画的である。

 そして伊勢の宇治橋よりも、宇治の宇治橋の方が、先に作られていた。古代においては、伊勢より宇治の方が、聖域として重要な場所だったのである。

 さらに、この二つの宇治橋を結ぶ冬至のラインを西に伸ばしたところに、紫式部氏神である大原野神社が鎮座している。

紫式部氏神である大原野神社春日神を祀る。

 また、宇治の宇治橋の真北7km、大原野神社から真東14kmのところに、現在は勧修寺があるが、ここが、正月明けの投稿にも書いたように、紫式部のルーツである宮道氏の館があったところなのだ。

 この宮道氏の館から真北に11kmのところが、平安京の鬼門にあたる小野郷の御蔭山で、ここは賀茂の神が降臨した場所とされる元下鴨神社である。今でも、賀茂の葵祭は、ここから始まる。

御蔭神社。平安京の小野郷に鎮座し、ここが、元下鴨神社葵祭は、ここから始まる。

 源氏物語では、光源氏の全盛期に築いた六条院において、東南の春の町に住んだ紫の上が賀茂神、東北の夏の町に住んだ玉鬘が春日神、西南の秋の町に住んだ秋好中宮が伊勢神、西北の冬の町に住んだ明石君が住吉神に重ねられているのだが、宇治を要として、伊勢神宮と、紫式部氏神である大原野神社春日神)は冬至のライン上、賀茂神は真北に位置しており、残りの住吉神は、宇治橋の橋姫神社に、橋姫(瀬織津姫)とともに祀られている。

 紫式部が、源氏物語を、住吉神にゆかりの須磨と明石から書き始めた場所とされる石山寺は、宇治川が、琵琶湖から流れ出る場所に位置し、ここは南九州の海人族である隼人の拠点だった。

 正月明けの投稿でも書いたが、住吉神は、もともとは吉野の丹生津姫で、この神は、南九州を拠点としていた海人族と関わりが深く、南九州の海人族の女神である神吾田津姫(別名がコノハナサクヤヒメ)を、富士山本宮浅間山神社で祀ってきたのが和邇氏で、和邇氏を代表する神話的象徴人物が、宇治上神社の祭神の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)なのである。

 コノハナサクヤヒメも、皇位を譲って自殺したとされる菟道稚郎子も、皇位の陰にまわる存在として共通であり、これが和邇氏のポジションを象徴的に示している。おそらく神話の創造に和邇氏が大きく関与して、そのように物語を作り上げたのだろう。

 この和邇氏の後裔が、紫式部の背後に見え隠れする小野氏なのである。

 宇治という場所は、古代、この海人勢力の和邇氏にとって重要な場所で、源氏物語の後半、宇治が舞台となるが、その時に栄華を極めるのが、海人勢力にとって重要な住吉神の加護を受けていた明石一族だ。

 その明石一族の繁栄を陰で支えるのが、今は姿なき光源氏の威光である。

 源氏物語の前半、光源氏は、落ちぶれて須磨と明石に流れ着いくが、明石入道に支えられて、光源氏は復活する。この時の光は、光源氏であり、明石一族は陰であった。

 しかし、物語後半の宇治十帖では、光と陰の関係が逆転するのである。

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