第1418回 原始のエッセンスが持つ普遍性。

嬉しい頼りが地球の裏側から届いた。
 アフリカのルワンダで、「イミゴンゴ」という伝統アートの調査活動と、普及のための展示や販売を行っている加藤雅子さんが、このたび私が制作した「始原のコスモロジー」を、現地でイミゴンゴの制作を行っている人々に見ていただいた時の写真を送ってくれ、その時の雰囲気などを伝えてくださったのだ。
 「(イミゴンゴの)作り手さんたちは、写真をゆっくり眺めながら、指でなぞりながら、その眼差しは、かつての聖域に思いを馳せているよう」。
 ルワンダにはもともと土着の宗教(というか信仰形態)があったが、キリスト教が入ってきて以降、元々の信仰を続けていると「悪魔崇拝者」と強烈な非難を受けるため、公には活動ができなくなってしまったそうだ。
 しかし、それでも、彼女たちには秘密にしている聖域があって、加藤さんを、その場所に案内してくれた。そこは複数の岩が積み上がった場所だった。
 私は、加藤さんが送ってくれた写真の中で、私が撮ったピンホール写真を彼女たちが指差している光景が、心に深く刺さった。
 私は、「日本の古層」というテーマで取り組んでいるが、始原まで降りていくと、日本とか外国とか関係なく、人類普遍の何かがあると確信している。それは、私自身も、世界の秘境・辺境という地に足を運んで感じ取っていたものだ。人間は、表面的には色々と異なる様相があるが、本質的には、人間であるかぎり共通のものがある。
 そして、その共通のものは、共通の祖先の遠い記憶のようなもので、どこか懐かしいものがある。
 ルワンダの「イミゴンゴ」というアートは、非常に洗練された図形だが、古代の壁画などにも用いられている普遍的な図形だ。そして、興味深いことに、このアートは、「牛糞」でできている。

 糞というのは、近代文明の見方では、食物が死んだ姿であり、ただの排泄物だが、近代以前の人類は、これを肥料として用いてきた。自然界においても、糞は、新しい生命の誕生と成長を促す力がある。
 糞は、比喩としてではなく事実として、一つの死と、一つの生のあいだをつなぐ媒介物なのだ。
 この牛糞で作られたアート、イミゴンゴに私が惹かれる理由は、このアート自体が自分を主張するのではなく、周りのものに内在する魅力を引き出すところにある。
 自己主張のためのアートは、20世紀にもてはやされた。現在も、自己表現のために他者を材料にしてしまう写真はSNSの中に溢れかえっており、プロもアマも、その範疇で優劣を競っているが、21世紀に求められる写真表現は、他者に内在する魅力を引き出すものになると私は思っている。たとえば、鬼海弘雄さんの写真が、その象徴だ。
 また、昨今、明晰で合理的なものが価値あるもののように主張されているが、それとは対極の曖昧の中の奥深さ、「風情」とか「気配」といったものが、今後とても大事になってくるだろう。
 明晰すぎる写真は、目の情報処理で完結してしまうようなところがある。
 「風情」とか「気配」というものは、身体的、五感もしくは六感的に受けとる情報で、記憶の深いところで感応する。
 昨日の夜、京都から東京に戻ったら、水中写真における第一人者の写真家から、お手紙が届いていた。
 私が制作した「始原のコスモロジー」のピンホール写真についての感想で、「まさに神の存在を彷彿とさせる作品群に釘付けです、正直に言って、風や匂いまでも感じられ、すっかり魅せられ、ページにのめり込んでいます。」という有難い言葉をいただいた。
 この言葉以上に嬉しい感想はない。なぜなら、私が撮った写真を、目で情報処理をしているのではなく、身体全体で感じ取って、その写真の中に没入してくださっているからだ。
 この水中写真家の方は、圧倒的に身体で写真を撮っている人であり、その写真が素晴らしいのは、単なるテクニックや目の付け所ではない。 
 たとえば、彼は、普通の人なら海中に入るだけで気を失ってしまいそうな流氷の下の海に長時間潜って写真を撮ることができる。
 また、1m以上先は何も見えないような東京湾のヘドロ状の海の中でも、生物を探り当てて、根気よく撮影ができる。しかも、時を経て、まったく同じところに潜って、時の経過を撮ることもできる。そうした身体性があるから、他の誰もが真似のできない写真が撮れる。
 さらに、そうした撮影への情熱の源泉は、当然ながら自己主張や自己顕示欲ではなく、生物たちへの崇敬である。人間にとって役に立たないように思われている小さな生物たちでも、彼にとっては等価なのだ。口先で、「どんな生物も等価」と言うことは誰でも簡単にできるが、本当の心は、アウトプットされた表現や、その人の仕事に現れる。
 数日前に、「結果というものは、事前に求めるものなのか、結果としてそうなるものなのか」という内容で投稿し、それに関するコメントのやり取りの中で、京都郊外の京北の里山世界を拠点に仕事をしているROOTSという会社の共同創業者であるフェイランが、「どんな事業?ではなく、どんな景色をつくりたいのか?を共有できることが大事」と述べていたが、この場合の「景色」とは単なる”風景”ではなく、茶道具などで使われる言葉の「景色」、つまり風情のことも含んでいて、その曖昧の奥深さを共有できることこそが、精神的な豊かさにつながると思う。
 物ではなく景色、風情に視点が移ると、きっと世界の見え方がかわる。
  言葉一つとっても、景色が滲み出てこないものは、単なる情報整理にすぎず、そういう意味で、「全ての生物は等価だ」という言葉にしても同じだ。
 そういう手垢まみれのステレオタイプの言葉ではなく、その人がアウトプットするものが、身にしみたり、新たな体験にならないかぎり、世界の見え方も変わらない。
 そういう体験につながるアウトプットこそが大事なのだ。
 ルワンダの伝統アート、イミゴンゴは、先祖代々継がれてきた柄を粛々と作り続けている。

 一見単調に見える行為に、夥しい数の層が積み重なっており、このアートが一体何を表しているのか、深く理解しようと調査を続ける加藤さんは、作り手さんと、ただひたすら時間を共にし、そこに流れる空気を聴きながら、それぞれの記憶を辿り、それを総合して貌をあらわにする試みを行なっている。
 一つのシンプルな解答でわかったことにするのではなく、層の積み重なりから滲み出るものを通して、人種や宗教を超えて、わかりあえる何ものかを抽出しようとしているのだ。
 活動方針は2つで、「分からなさを転がし続ける」と「未来の人の引き出しをつくる」こと。
 これは、日本の古層の迷路に分け入っている私のスタンスと同じだ。
 一つのことがわかり始めると、新たな謎が立ち現れる。
 しかし、分からなさ、不思議さ、不明瞭さの宙ぶらりんの中にいても、古代人が感じ取っていた世界のリアリティが、少しずつ自分に引き寄せられているようにも感じられる。その感覚の深まりは、直線的なものではなく、スパイラルだ。
 「未来の人の引き出しをつくる」というのは、私の言葉では、未来の誰かにバトンタッチということになる。
 このテーマは、どこかの時点で、「ああそういうことね」でケリをつけられない深遠なる奥行きと広がりのある世界なので、おそらく死ぬまで続けることになり、そのうえで、未来のたった一人でもいいから、私が整えた引き出しを開ける人がいることを願っている。
 そして、どの時代の人も、それ以前の時代とは違う何かを新たに付け加えていくことになるが、私が、今の時代にこれをやっていることの意義は、やはり、これまでの時代に存在していなかった「写真」を、反映させることだと思う。
 幸いに、日本および世界でも最高峰の写真家の写真を自分ごととして見ざるを得ない仕事をしてきたことも、自分が、今これに取り組んでいる必然性の輪の中にある。
 ルワンダの「イミゴンゴ」は、間違いなく日本家屋にも合うし、日本庭園の傍に置いても調和するだろう。

 それは、イミゴンゴの持つ普遍性であるが、同時に、イミゴンゴとも響き合う日本文化の本質は、いったい何なのかという問いに関わる問題でもある。 
 中世の日本文化は、かなり洗練の極みに達しているところがあるが、実は、糞をアートにするという原始のエッセンスに通じるものがあるということ。
 繰り返しになるが、万物の尺度を人間に置く世界では、糞はゴミだ。しかし、森羅万象世界を尺度に置く世界では、糞は、生命をつなぐ紐帯になる。
 人間が、いくら頭でっかちになって身体性を喪失していったとしても、やがて滅びゆく肉体を持つ存在であることは変わらず、永遠の連続のなかの瞬間的な個体であるという宿命の外には出られない。
 その宿命の輪の中で生きて死んでいく人間の健やかな未来の引き出しが、万物の尺度を人間に置く世界の中にある筈がない。


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 この写真のルワンダの人たちの衣装と、身体の線や、滲み出る風情と、イミゴンゴと、私の本のなかの写真たちが、ごく自然に調和しているように、私には感じられる。

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「始原のコスモロジー」は、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

https://www.kazetabi.jp/

また、2月17日(土)、18日(日)に、東京にて、ワークショップセミナーを行います。1500年前および源氏物語が書かれた1000年前の歴史的転換点と、現在との関係を掘り下げます。

 詳しくは、ホームページにてご案内しております。