もっと知っておきたいこと、もっと知っておくべきこと

 あまり民放のテレビやラジオを視聴しないけれど、今日、夕食を食べながらNHKラジオを聞いていたら、「先ほど、冬至を迎えた今日と言うところを、夏至を迎えた今日とお伝えしました。お詫び致します。」と神妙な声で言うので、思わず笑ってしまった。お中元とお歳暮は間違えても、冬至夏至は間違えっこないと思っていたけれど、こういう一般教養以前のことを、NHKが間違えるんだとおかしかった。

 こういう間違いはまだ可愛いものだが、その後に「兄弟の争い」がテーマのトークが続いた。そして、織田信長と弟の信行の話しになり、素行の悪い信長と、品行方正な信行が争い、信長が信行を殺したことについて、父は信長に家を継がせようとしたけれど、母親は、信行の方こそ世継ぎに相応しいと考えていたという話になった。
 そこまではいいけれど、そこから先はゴシップ記事のまわりで騒ぐようなトークで、母親としてはやっぱり、粗暴な信長よりも信行の方がいいわあとか、信長は嫌われ者だったけれど、戦国の時代に勝ち残るのはそういう荒々しいヤツだというような話。そして、けっきょく、まあどちらでもいいけれど、他人の家のトラブルを覗くのは楽しいものだという結論。
 これを聞いて、ちょっとアングリしてしまった。若い頃の信長の素行の悪さは、弱小国の尾張の周りを、美濃の齊藤とか、駿河の今川など強国が取り囲んでおり、世継ぎが聡明な人間と思われるより阿呆であると思わせて油断させる必要があったのだと、子供の頃に読んだ山岡荘八の「徳川家康」に書いてあったような気がするけど、その事実はどうであれ、もう少し、リスナーの想像力の深いところを刺激してくれるような話をしてもらえないかなと思った。 
 だってラジオは耳をすまして声だけを聞いているわけで、ふだん視覚によって邪魔されて活性化していない脳のどこかに刺激を与えてほしい。そういう媒体の筈なのに、やっていることは、ほとんどテレビのバラエティのようなものばかり。
 笑いは人の営みの中で大事なものだと思うけれど、時々、笑える瞬間があるからこそいいわけで、番組中ずうっと「わははっ」ってやる必要はないのではないの。
 別にテレビやラジオに頼らなくても、日々の中で、思わずクスッとしてしまうシーンや、笑えるシーンはけっこうあると思うのだけれど、そうじゃないのかあ。
 ラジオに期待することでさらに重要なものはニュース。家事をしている時、1人でご飯を食べている時など、「わははっ」というのは必要なく、今、世界でどんなことが進行しているのかという情報を伝えてほしい。朝から晩までニュースを伝えるチャンネルがあってもいいと思う。今を知って、未来に思いを馳せる。そういう気持ちにさせるものが、日本の媒体にはあまりにも少ない。ラジオだけでなくテレビや雑誌もそう。時々、教養講座みたいなものがあるけれど、知識の為の知識にすぎず、その知識がどのように未来につながっていくか、まったく感じられない。きっとその知識を伝えている人間も、まるでわかっていないのだろう。だから、言葉の背後がまったく伝わってこない。臨場感のない話なら、テープレコーダーに記録した音声を機械的に流しているのと同じことだ。
 先日の衆議院選挙は、投票率が戦後最低で約50%もの人が投票をしなかった。
 選挙前に大手メディアが自民党の圧倒的勝利の予想を流し続け、自分の1票が何の力も持たないだろうという無気力感に陥った人が多かったことや、政治に対する無関心の人が多いことが、その理由だろうと分析されている。
 しかし、それ以前の問題として、今、そして未来のことに思いを巡らせるきっかけになる情報伝達を行なっているメディア媒体が、あまりにも少なすぎるという現実が歴然とある。
 今この時代は、何も起こっていないのではなく、メディアがほとんど触れていないところで急速に変化が起きている。その変化は、世界認識を変えてしまうような、速さと、スケールの大きさを備えている。10年後、20年後には、まったく違う現実が出現している可能性がある。
 それは、変化を先取りして出世するとか、儲けるとか、有名になるとか、20世紀的な価値観すら馬鹿らしくなるような”変化”であるかもしれない。
 20世紀にもてはやされた世俗の駆け引きに役立つ変化の情報ではなく、どういう変化が訪れようとも人は誰でもいつか死ぬことが定められており、その制限付きの人生の中でどう生きるべきなのかという根本の問題をしっかりと踏まえるうえで重要な鍵になるかもしれない新たな情報がもたらされるという変化だ。
 もっと単純に言うと、宇宙に対する認識、生命に対する認識などが、新たな次元で捉えられる可能性があり、そのパラダイムシフトの為の準備段階が、現代、進んでいる。
 とはいえ、今この時点から想定できる目的を想定して、準備しているのではない。
 曲がり角に到着するまでは想像のつかない景色というものがあるけれども、その曲がり角に向かって急激に進んでいることだけは確かだ。
 たとえば今から500年前の大航海時代、船で大海に乗り出して始めて、大海に乗り出す前は想像もつかなかった世界認識をいうものが得られた。
 想像を超えるものとの出会いによって、世界認識は変わる。
 そして今、太陽系の中を様々な探査機が飛び交い、2016年からは、LSSTというとてつもない望遠鏡で、宇宙の最新部を極めて広範囲に、一挙に確認できるようになる。
 想像を超えるものと出会い、世界(宇宙)に対する認識が変わる時、世界(宇宙)は変わる。
 そして、それはそんなに先の話ではない。
 昨日の新聞に、「経団連30年ビジョン」、「GDP210兆円拡大目標」という記事が一面に出ていた。6月に就任した榊原会長を中心に検討を重ねた結果、長期ビジョンは、「豊かで活力ある日本の再生」となり、イノベーション(技術革新)とグローバリゼーション(国際化)が経済活力の源泉らしい。そして、「若者が希望ある未来を切り開いていける、世界から信頼され、尊敬される国」を目標に掲げ、新規の基幹産業の分野として、『インターネット」、「人工知能・ロボット」、「スマートシティ」、「バイオテクノロジー」、海洋資源開発」、「航空・宇宙」を挙げている。
 なんかそこらじゅうで聞き飽きたような言葉ばかりが羅列され、わざわざ何ヶ月もかけて検討を重ねて導き出すような内容ではないと思う。
 挙げられた基幹産業も、これから30年の話ではなく、20年くらい前から言われていたようなことばかりだ。
 これらがGDPの拡大につながる基幹産業になるという発想が古いのではないか。そういう発想だと、日本は失われた20年が、失われた50年になるのではないか。
 失われた20年というのは、経済数字が20年前と同じというだけではなく、20年前と、ものの考え方、価値観が同じだということだ。日本はこれだけ時代環境が変わったというのに、景気刺激=豊かさの向上という高度経済成長時代の発想のままなのだ。
 インターネットや人工知能や宇宙や生命の探求は進むだろうが、それはGDPを押し上げる手段ではなく、人間の幸福観を変容させていくものになるだろう。
 そして幸福観が変われば、消費経済に対する認識も変わる。消費を活性化させて経済力を高めるという発想が通用しなくなるのではないか。いやすでに通用しなくなっているという現実を認めるところから発想しなくてはいけないだろう。アベノミクスで株価があがったのは、経済力とは関係なく、異常な金融緩和で、株式市場に日銀や日本年金機構のマネーが流れ込むことを期待しての先行投資にすぎないのに、経済政策の成功だと思わせたい政府と経済界が手をとりあっているだけだ。
 今、起きている様々な技術革新が、人間の意識をどう変容させていくのか。そして人間の意識の変容が、未来の形を作っていく。
 新聞やテレビ・ラジオでは、ヒット商品につながるかどうかという視点での技術紹介があまりにも多い。しかし、たとえば、脳波や血流を読み取って家電を遠隔するネットワーク型ブレイン・マシン・インターフェイスの開発などの情報は、新しい家電製品に対する消費意欲や、景気の牽引になるかどうかというレベルのことではないと思う。
 脳波で家電を操作できるのであれば、原理的には、脳波と脳波で人と人がコミュニケーションできても不思議ではないと思う。すでに人間は、「第6感でわかったよ」と半ば冗談ぽく紛らわしているけれど、実際には、脳の潜在力で、そういうことを行なっているのではないかという発想につながる。
 それはもう経済力の問題ではなく、自分達が潜在的に備えている力に対する自覚の問題となり、人生観とも深くつながってくる。
 今、急速に進行しつつある出来事は、きっと人間の人生観や世界観を変えるきっかけになる。だからこそ、自分ごととして、それらの情報をもっと聞きたいし知りたい。
 どのチャンネルもバラエティばかりだと、「失われた20年」が、これからも延々と続くだろう。そして、長寿世界一と吹聴しながら、実際は、健康寿命の長さを誇っているわけではなく、働かず、動かず、頭を使わず、不健康なまま重ねていくだけの年数をカウントしているだけであり、そのことに無自覚な老人と老人予備軍ばかりが増え、その膨大な依存体質の有権者および視聴者に媚びる政治家やメディアばかりだと、この国はあっという間に衰弱していくような気がする。


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