人間の不安心理

 過剰な”備え”が、人間生命力を衰えさせるベクトルなのではないか、と昨日書いた。しかし、おそらく人間という種が、他の生物を押しのけて、この地上に繁栄してきたのも、”備え”る能力ゆえのことであることは間違いない。
 上野の科学博物館に、ネアンデルタール人と、私たちの祖先であるホモサピエンスの標本がある。類人猿から枝分かれした人類は、アウストラロピテクス以来、脳の大きさも身体も次第に大きくなって、ネアンデルタール人で最大になっている。標本を見る限り、ネアンデルタール人に比べて、ホモサピエンスは、華奢で弱々しいイメージがある。身体的には間違いなくネアンデルタール人の方が屈強だ。にも関わらず、ネアンデルタール人は滅び、私たちの祖先が生き延びた。
 私たちの祖先は、身体を覆う丈夫な毛皮も毛もなく、筋力も弱く、強力な牙も爪もなく、暗い洞窟のなかで、周りの気配を敏感に感じながら、ビクビクと過ごしていた。
 そうした敏感な感受性ゆえに、何か災いがあった時には、長くそれを記憶して、二度とその災いに巻き込まれないように原因を考え、そこから普遍的な法則などを生み出し、それを集団の経験知として蓄積して”備え”を行い、それでも周りを警戒してキョロキョロし、ビクビクとしながら、同じように臆病な仲間達と手を取り合って生き延びてきた。
古代の神話や伝承も、儀式も、芸術や哲学も、文明も、ダム建設などによる自然破壊も、城壁づくりも、武器開発も、兵士の訓練も、衛星その他によるスパイ行為も、核実験も、そして内戦も、国家間戦争も、同じ延長線上にあるだろう。不確かで災いの多いこの世を生きていくことの不安や恐れと、それに対する心の準備と、実践的で周到な”備え”という意味において。
 シミュレーションを行って備えるという能力。これによって、苛酷な氷河時代を生き延たホモサピエンスは、その臆病ゆえの思慮深さによって、地球に君臨するようになった。だから、”備え”は、人間としてやむを得ない習性なのだろう。ただ問題にすべきは、自分の敏感な感受性と、記憶と、原因を考える力と、経験知から発生する”備え”であるかどうかなのだ。
 たとえば、洗脳。そして煽動。人間が習性として持っている不安心理に付け込んで、それまで存在しなかった「イメージ」を擦り込むという行為。擦り込んだ「イメージ」によって、人間にそれまでなかった不安や恐れを感じさせること。そうした情報操作によって、繊細過敏な人間が集団になって同じ方向に猪突猛進する災いが多く生まれている。
 ファシズムコミュニズム連合赤軍オウム真理教、といった、狂信的な人間活動には、同じものが流れている。そこまでいかなくても、オイルショックのトイレットペーパー騒動なども同じ土俵のことだろう。そして、それらと同じメカニズムであるけれど、対象を、害の少ない”大衆消費財”にスライドさせたものが、今日の広告活動だ。次々と消費されて消えていく消費財を対象にすれば、”害”が残らない。しかしながら、消費財の煽動広告の集合が、複雑に絡み合って取り除きにくい深刻な”害”になってしまう。
 それ以外にも、不安心理に付け込んだ、英語学校、塾、資格取得のための学校、悪徳リフォーム業者、悪徳結婚仲介サービス、オレオレ詐欺など、きりがない。
 世間で上ランクと言われる学校に入りたいと考えるのも、学びのためというより、”備え”のようなものだし、自分が下す評価よりも、世間の評価に従うブランド品の買い漁りも、自分の価値観で物事を選ぶことに対する不安があるのかもしれない。
 何よりも、一度限りの人生で、自分は幸福を得られるのだろうか、幸福を得られず損をするのではないだろうか、周りの友人よりも劣った惨めな人生になるのではないだろうか、という不安心理。そういう心理に付け込んだ雑誌の特集などが数多くある。自分だけ損をしてバカにされなくないという人の為の、安直なハウツー。
 「頭がいい人、悪い人の話し方」が、160万部を越えて売れていると聞くが、立ち読みをする限り、その内容の魅力によって、この本が買われているとは思えない。
 おそらく、今日の人間の不安心理と、何かに備えようとする気持ちがこの本を買い支えているのだろう。そしてその不安と正面から向き合うのではなく、ハウツーで切り抜けようとするのは、ルイ・ヴィトンを持ってさえいれば、それなりにカッコウが付くという心理と同じだろう。
 とにかく、人間社会でヒットするものは、人間の不安心理に付け込んだものが多いのだが、何が流行っているのかを見れば、その時代ごとに人間が何を不安に思っているか、見えてくるのかも知れない。