第1257回 四国に秘められた日本の古層と、中央構造線の関係。

神山の上一宮大粟神社から2kmほど山深くに分け入ったところに巨石を御神体とする立岩神社があるが、この巨石は、青石でできている。

 魏志倭人伝に、倭人たちの風俗習慣として、体中に朱丹を塗っていたと記されている。

 朱丹というのは、辰砂(硫化水銀)のこと。

 そして、卑弥呼の治めるクニには、辰砂が存在すると書かれている。

 辰砂は、地球内部の高温、高圧の状態で生成され、何億年もの歳月をかけて地表に押し上げられ、少しずつ結晶体に成長してできたものであり、日本列島の中央構造線周辺の地殻変動の激しい地帯に多く存在する。

 とくに、中央構造線にそって北側の領家変成帯の深成岩である花崗岩地帯に多いことが知られており、奈良県の宇陀地域などが、これに該当する。

 そして、中央構造線にそった南側の三波川変成帯にも存在し、四国山地に沿った地域が該当するが、この地域は、青石と呼ばれる美しい緑泥片岩の地層と重なっていることが多く、卑弥呼の時代の辰砂の採掘場所とされる徳島県阿南市の若杉山遺跡等が該当する。

若杉山(徳島県阿南市)の辰砂の採掘跡。これまでに発見されている日本最古の鉱山で、3世紀の卑弥呼の時代に遡る。

 この青石は、何億年も前に海底に堆積した土砂が大陸プレートの沈み込みによって地下20km~30kmの深さに潜り込み、比較的低温高圧の変成作用を受けてゆっくりと形成された岩石だが、地中深くにおいて形成されたその岩石が、日本列島における大陸プレートの押し合いによって、さらに何億年という長い年月をかけて中央構造線の南側に隆起し再び地表に現れたもので、四国から近畿の吉野川流域、そして、長野の中央構造線の南側の三波川変成帯に広がっている。

 古代の四国においては、この青石を特に重視していたようで、古墳の石室や石棺にも用いられている。徳島城の石垣もそうだし、神社の石段など、聖域の至るところに青石を見ることができる。

 魏志倭人伝の中の「丹」に関する記述などから、近年、徳島県阿南市にある若杉山の辰砂の採掘跡が3世紀の卑弥呼の時代に遡るものだとわかったことで、全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として発見された唯一のものであるゆえ、徳島こそが邪馬台国であると唱える人たちも出てきた。そして、神山と吉野川をつなぐ鮎喰川の流域にある八倉比売神社の奥の院の五角形の磐座が、卑弥呼の墓だという。

 

 これまで、卑弥呼の墓だとされてきたのが奈良の三輪山の麓の箸墓古墳で、その根拠は、この場所がヤマト王権初期の拠点であり、この古墳が、この地方の最古の巨大な前方後円墳であるからだ。しかし、箸墓古墳は、考古学的には卑弥呼の時代より新しいことがわかっている。

 また、京都府木津川市の木津川沿いにある​​椿井大塚山古墳は、石室内が朱で塗られ、さらに発掘時(1952年)、当時においては最多の三角縁神獣鏡32面が出土したことから、魏志倭人伝卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を賜ったという記述とつなげ、膨大な鏡が出土した椿井大塚山古墳こそが卑弥呼の墓であり、三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡だとされた。現在でも、地方の博物館で三角縁神獣鏡を収蔵しているところが、この説を掲げている。しかし、三角縁神獣鏡は、その後、各地で膨大に発見され、すでに300枚を越えている。また、同じデザインのものが中国には見られないことから、現在では日本のオリジナルだという説が有力だ。

 このように、卑弥呼の墓に関する新説は、次々と出てくるが、新たな事実によって覆されている。

八倉比売神社の奥の院前方後円墳の上に築かれている。ここは卑弥呼の墓だという人もいる。上一宮大粟神社では、八倉比売は、オオゲツヒメの別名とする。この八倉比売神社の近くの矢野遺跡は、集落の中に銅鐸が埋納され、縄文時代の辰砂の精製道具も発見された。積み上げられた石は、阿波の青石。

 それはともかく、邪馬台国=徳島説の人が卑弥呼の墓とする八倉比売神社の奥の院の五角形の磐座は、前方後円墳の上に築かれており、周辺には約200基の古墳がある。この地域の地名が国府であることからも、古代の一大勢力の拠点であったことは間違いない。

 私が気になるのは、この八倉比売神社から1kmほどのところにある矢野遺跡だ。

 ここは、集落の中に銅鐸が埋納されている全国的にも珍しいところである。

 一般的に、銅鐸は、集落の外、山との境界などに埋納されており、何かしら結界のような意味があると考えられており、集落の真ん中に銅鐸を埋納しているのは、その集落が、銅鐸祭祀を専門的に行う集団の拠点だった可能性がある。

 さらに、この矢野遺跡からは、縄文時代に遡る辰砂の精製道具が発見されており、矢野遺跡から東に1.8kmのところ、鮎喰川の対岸の名東遺跡からも、縄文時代の辰砂の精製工房とみられる竪穴住居跡が発見された。この名東遺跡では、方形周溝墓群の一角に埋納されていた銅鐸が発見され、その時代は、周辺の遺構の年代などから弥生時代中期末(約2,000年前)頃と考えられている。

 なので、鮎喰川流域は、卑弥呼の時代(3世紀)よりも古い段階から、辰砂や銅鐸といった古代の祭祀と関わりが深い場所であったことが考古学的にわかっている。

 この鮎喰川の上流部にあたるのが神山であり、神山近くの渓谷では、川の底石が青石のため水の色が真っ青になるところがある。そして至るところに青石の塊が露出している。

 この鮎喰川吉野川と合流する地点に扇状地を形成しているが、この扇状地の地下水の源泉は鮎喰川の水が地中に潜り込んだものであり、この清らかな伏流水を利用して、徳島市国府町では昔から藍染めが盛んだった。

 そもそも、なぜ神山という地名なのか? という問いに対して、この地に鎮座する上一宮大粟神社の祭神、大宜津比売(オオゲツヒメ)を抜きには答えようがない。

オオゲツヒメを祭神とする神山の上一宮大粟神社。長い石段は、青石でできている。

 上一宮大粟神社では、上に述べた八倉比売神社の八倉比売は、大宜津比売であるとする。

 大宜津比売を主祭神として祀る場所は徳島だけであるが、この神は、記紀のなかでも特殊な位置づけにある。

 なぜなら、イザナギイザナミが交わって最初に行う国産みにおいて、淡路の次に、胴体が1つで顔が4つの四国を産むが、その顔の一つとして、大宜津比売(別名が阿波国)が産み出される。九州や本州が産み出される前である。

 そして、その国産みの後、イザナギイザナミは、イザナミカグツチを産んで死んでしまうまで、大山津見神コノハナサクヤヒメの父)など、たくさんの神々を次々と産んでいくのだが、大宜津比売は、その時も、産まれる。

 アマテラス大神や、スサノオ、月読神の三貴神は、イザナミが死んで、イザナギが黄泉の国から帰って禊をする時に産まれるので、大宜津比売は、この三貴神よりかなり古い神という位置づけになる。

 その大宜津比売は、スサノオをもてなすために料理を作る時、鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していて、それを見たスサノオが、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大宜津比売を殺し、バラバラにしてしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれたとの記述がある。

 この記述を一体どう解釈すべきなのか?

 月読神と保食神とのあいだでも同じような記述があるが、スサノオは嵐と関係し、月読神は潮の干満と関係するので、この二神による破壊は、洪水のことではないだろうか?

 洪水の後に土壌が豊かになり、栽培作物が豊かに育つというのは、古代文明が栄えたところの共通点だ。

 大宜津比売は、国産みの段階で阿波国として生まれるが、ここを流れる吉野川は、古くから四国三郎と呼ばれ、「板東太郎」の利根川、「筑紫二郎」の筑後川とともに、日本三大暴れ川である。

 そして、​​吉野川の洪水によって運ばれた土には、四国山地の主体地質である結晶片岩(阿波の青石)が多く含まれ、この土壌は保水力や排水性が良く、葉菜類、根菜類、果菜類穀物類など多種多様な農作物の生産を促進したと言われる。

 まさに、阿波国は、洪水によって豊かな土地となったのだ。

 また、阿波の青石で作られた石棒が、縄文時代の終わりから弥生時代のはじめにかけてのものが畿内各地で出土しているが、鮎喰川吉野川の合流点近くにある三谷遺跡の貝塚からは、破片も含め20点の石棒が出土し、ここが青石の石棒の製造場所だった可能性がある。三谷遺跡は、吉野川の河口とも近く、ここから海を渡って畿内へと運ばれたのだろう。

 畿内の古墳の敷石などに阿波の青石が使われていることからも、阿波と畿内の交流があり、青石は何かしらの精神的な役割をになっていたと想像できる。

 大宜津比売(オオゲツヒメ)が、最初、阿波国そのものとして生み出され、その後、食物の神として産まれ、スサノオに殺されてバラバラになることで多種多様な作物を生み出す力となったという神話の記述は、阿波国の主体地質とも言える青石が、縄文時代に豊穣祭祀の道具と考えられる石棒に使われ、その青石が、吉野川の洪水によって、弥生時代以降に広がった栽培作物を豊かに育てる力となったことにつながってくる。

 神山周辺の山々は、とくに青石が多く、大宜津比売を祀る上一宮大粟神社の長く険しい石段は、すべて青石で作られている。

 また、神山の上一宮大粟神社から2kmほど山深くに分け入ったところに巨石を御神体とする立岩神社があるが、この巨石は、岩全体が青石だ。

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第1256回 浦島太郎の物語と、海人の人生訓

香川県荘内半島。浦島神社が鎮座する丸山島

 今回の四国の旅で、ぜひとも訪れたかった場所が、香川県荘内半島であり、ここには浦島太郎の伝承が残っている。

 浦島太郎の伝承は、日本のいくつかの場所に存在し、この物語が実際にあった場所はどこなのかという議論もある。

 また、万葉集などには、浦嶋太郎の物語の舞台が「すみのえ」であると伝えられるが、その「すみのえ」が、丹後の網野町であるとか、いや大阪のことだという議論になる。

 果たしてそうだろうか?

 私は、浦島太郎の物語は、どこか特定の一箇所で起きた出来事ではなく、この物語で暗示されている教訓を共有する集団によって伝えられてきたのではないかという気がする。

 そして、その真相を解く鍵が、いくつかある。

 まず第一に、浦島太郎は、月読神の子孫とされているので、月読神と関係する集団ではないかと推測することができる。

 次に、浦島太郎の伝承のある場所には、いくつかの共通点がある。

 浦島太郎の伝承が伝わる代表的な場所は、京都府丹後半島で、それ以外には、香川の荘内半島木曽川流域の寝覚めの床が知られている。

寝覚めの床

 木曽の寝覚めの床は、花崗岩の岩盤が水流に削られた奇景で有名だが、荘内半島紫雲出山花崗岩で形成された山で、丹後半島一帯の基盤岩は、宮津花崗岩というように、浦島太郎伝承の伝わる三箇所は、花崗岩地帯である。

 なぜここで花崗岩が関わってくるのか?

 花崗岩地帯には、ラジウム温泉が多いなど、いくつかの特徴があるが、奈良県の旧大和水銀鉱山の地質調査によれば、奈良地方を含む西南日本内帯の花崗岩を母岩とする中に辰砂鉱脈が多いとされている。

 辰砂というのは、別名が「丹」であり、硫化水銀のことだ。辰砂の赤い色が、血液を連想させるのか、古代世界において辰砂は、神聖な役割をになっていた。古墳の石室や神社の鳥居が辰砂の赤い色で塗られたり。また海人は、魔除けのための辰砂を文身(刺青)に用いた。

 さらに、鉱石から金などを取り出す精錬において水銀は用いられ、奈良の大仏など金メッキにも用いられた。近畿の吉野川流域には丹生という名の神社や地名が多いが、丹後や若狭湾周辺も同様である。そもそも、丹後や丹波の「丹」という文字が、辰砂とつながっている。

 また、辰砂には防水効果や防腐効果があるためか、辰砂を船に塗っていたようだ。

 神功皇后新羅遠征の物語でも、丹生都比売が、戦いに勝利するために、船を朱で塗るべしと神託を下すが、朱というのは、硫化水銀=丹生のことである。

 丹後の浦嶋神社の周辺、舞鶴や、間人の竹野川流域にも丹生という土地があり、木曽の寝覚めの床の北には、大丹生岳がそびえる。

 浦島太郎の物語は、話の内容からして海辺の物語であるが、実は、海人と関わりの深い物語であり、海人は、船の防腐作用のある丹生(辰砂=硫化水銀)を求めて、中央構造線上や、花崗岩地帯を移動していた。

 そして、古代、秦の始皇帝をはじめ、水銀と不老長寿の薬を結びつけた話も多く、竜宮城で過ごす浦島太郎が年を取らなかったというエピソードにもつながってくる。

 ちなみに、丹後の浦島神社から木曽の寝覚めの床(玉手箱を開けたとされる場所)までは真東に約220kmで、丹後の浦島神社から香川の紫雲出山(玉手箱の煙が立ち上ったとされる場所)までも西南に約220km。不思議なことに、丹後の浦島神社から東西に同じ距離のところに、二つの浦島太郎伝承地がある。

 木曽の寝覚めの床は、木曽川流域であるが、木曽川の流れは、伊勢湾まで通じており、木曽川下流域は、古代、尾張氏の拠点であった。そして、尾張知多半島の​​真楽寺には、浦島太郎が助けた亀の墓がある。

 また、尾張氏は、系図のうえで、丹後の海部氏と同族である。

 木曽川は、源流まで遡っていけば、奈良井川とアクセスし、松本盆地へと抜けるが、盆地への入り口に平出遺跡がある。ここは、縄文時代から古墳時代平安時代に至るまでの複合遺跡だ。

平出遺跡

 この平出遺跡の場所は、中央構造線フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線が交わる地域で、すぐ南が諏訪で、すぐ北が、海人の拠点だった安曇野である。

 松本盆地は、古代、広大な湖だったとされる。

 そして、安曇野の北は、ヒスイの産地である姫川が、日本海糸魚川まで流れており、糸魚川から京丹後まで海路でつながっている。

 愛知を拠点にしていた尾張氏と、京丹後を拠点にしていた海部氏が系図の上で同族というのは、伊勢湾から木曽川奈良井川を経て松本盆地安曇野、姫川とつながり、糸魚川から京丹後に至る海人ルートを共有していた勢力がいたということである。

 姫川のヒスイが朝鮮半島や沖縄、北海道まで伝えられていることからして、尾張氏や海部氏という氏族名がつく前から、この海人ルートが存在していたのだろう。

 また、浦島太郎を案内する亀だが、亀の甲羅を使う亀卜という卜占は、日本書紀によれば、顕宗天皇3年(487年)に、九州の壱岐島から京都に月読神とともにもたらされたことになっている。ここで、浦島太郎の祖先である月読神と、亀がつながってくる。

 現在、京都の月読神社は、松尾大社の摂社として松尾山の山麓に鎮座しているが、もともとは、ここから500mほど東の桂川西芳寺川の合流点に鎮座していた。この月読神社から少し上流に行けば保津川渓谷で、この渓谷を抜けると、「亀」の名がつく亀岡となる。亀岡は、古代、丹波国の中心だが、式内社で月読神を祀る神社が3社も集中する全国的に珍しい場所である。

 そして、この亀岡と京都の月読神社のあいだにある保津川渓谷が、木曽の寝覚の床と、香川の紫雲出山という浦島太郎伝承地のちょうど中間(それぞれから205km)に位置する。

木曽の寝覚めの床と、丹後の浦島神社のライン上に、敦賀の丹生の地と、竹野川下流域に鎮座する丹生神社が鎮座する。丹後の浦島神社と京都の保津川渓谷の延長上が、吉野の丹生川上神社。木曽の寝覚めの床と京都の保津川渓谷を結ぶラインの延長が、香川の荘内半島紫雲出山で、さらに延長したところに、瀬戸内海海人の越智氏の拠点、今治の多伎古墳群がある。これら、浦島太郎と関わってくる場所の配置は、正確な菱形図形となっている。

 さらに、丹後の浦島神社と保津川渓谷の距離が、約84kmで、この直線を南に伸ばして保津川渓谷から84kmのところに吉野の丹生川上神社が鎮座している。

 こ丹生川上神社の上社の東14kmのところ、吉野川の支流の丹生川流域に丹生川上神社下社が鎮座するが、この丹生川流域にも、浦島太郎の物語と似た伝承が残っている。

 それは、黒淵の乙姫の物語で、飛び込んだ淵の底には竜宮があり、乙姫がいたという物語。丹生川は蛇行しているため、淵が多く、しかも流れの底が深く黒々としているから黒淵という名がつけられたという。

 丹生川上神社は、社伝によれば、神武天皇の東征の際に、天神の教示により天神地祇を祀り、戦勝を占った地であるが、その占いによって、丹(辰砂)の鉱脈の存在を知ったとある。

 また、播磨風土記では、神功皇后三韓出兵の時、吉野の地の丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することができたと記録されている。

丹生川上神社(上社)の夢渊

 このように、天下平定や国家の危機の際に、辰砂(丹)が関わっているが、おそらくそうした一大事において、大きな働きをしたのが、丹と関わりの深い海人だったからではないだろうか。

 日本は島国であり、朝鮮半島や中国大陸と交易を行なったり、戦争を行う場合も、船と船乗りの力が重要である。

 また、朝鮮半島南部の任那の経営において、海人の紀氏が大きく関わったことが記録にも残っている。

 浦島太郎の物語の舞台は、万葉集などで「すみのえ」とされているのだが、「すみのえ」というのは「すみのえ神」=「住吉神」とつながる。住吉神というのは、丹生都比売と同じである。

 丹生都比売神社の言い伝えによれば、吉野の藤代の峯に鎮座していた丹生都比売が、神功皇后新羅遠征の出発前に神託を下した。そして、住吉神社神代記によれば、神功皇后の勝利に貢献した住吉神は、もともとは吉野の藤代の峯にいたが、場所を移りたいと言い、藤の筏で大阪湾を渡って明石の藤江に流れ着いたと記録されている。

 つまり、神功皇后新羅遠征の前、吉野の藤代の峯にいた丹生都比売は、戦いの後、住吉神となって吉野川沿いから瀬戸内海へと拠点を移したということになる。

 そして、紀ノ川流域を拠点としていた紀氏と、婚姻を通じて同族化していたのが瀬戸内海の越智氏だった。

 『日本霊異記』には、663年の白村江の戦いに参加した伊予水軍の越智直が、唐に捕らわれていたが、観音菩薩像を信仰することで無事に日本に帰国できたという話が伝えられているが、当時の唐は最盛期であり、国際的な文化が花開いていた。

 越智氏らは、日本を離れて、当時の先端文化に触れる機会を得ていた。そうした体験が積み重ねられて竜宮城の物語に昇華していった可能性もある。

 彼らが活動した瀬戸内海は、1日の中でも潮の方向がまったく異なり、潮の流れを読まずして航海ができないが、潮の干満と関係が深いのが月である。日本書紀において、月読神は、イザナギに、海の潮の八百重(やほへ)=潮の満ち引きを治めるよう命じられており、瀬戸内海を舞台に活動する海人と、月読神が深い関係にあったと考えられる。

 さらに、瀬戸内海沿岸に特徴的に見られる古墳として、石棚付きの石室を持つ古墳がある。これは、石室内に石の棚が設置され、その上に須恵器に盛られた食べ物や酒を置いて、死者を祀ったものだ。

 この石棚付き石室を持つ古墳は、瀬戸内海以外では、和歌山の紀ノ川流域に見られるが、この二つの地域以外での集中地帯が亀岡で、上にも述べたように、ここには月読神を祀る式内社が三つもある。そして、丹後半島の浦島神社から若狭湾を隔てて敦賀半島があるが、現在、美浜原発のあるこの地域の地名は丹生であり、ここにある浄土寺古墳群でも二基、この南の敦賀市域には三基の石棚付き石室の古墳が確認されている。

 そして、丹後半島では、丹後地方最大の石室を持つ新戸古墳が、石棚を備えている。この古墳は竹野川沿いに築かれているが、竹野川日本海に注ぐ下流域にも丹生神社が鎮座している。

 このようにして確認していくと、「丹生」=辰砂と、瀬戸内海特有の石棚付き石室を持つ古墳との関わりや、月読神と亀との関わりなどを通して、瀬戸内海の海人と浦島太郎伝承のつながりが見え隠れする。

 寝覚めの床は内陸部にあるが、木曽川は、伊勢湾と松本盆地をつなぐ水路であり、松本盆地の北は海人の拠点であった安曇野であり、ここから北は、ヒスイの産地である姫川にそって日本海糸魚川に至る。丹後と糸魚川は海路によって結ばれ、丹後と亀岡は由良川で結ばれ、亀岡と瀬戸内海は桂川と淀川によってつながる。

 それにしても不思議なのは、位置関係であり、浦島太郎の伝承地や、関わりのありそうな場所が、計画的に配置されたように同距離にあり、見事な菱形になることだ。 

 菱形は、着物や工芸にも多く用いられる日本の伝統模様であり、戦国武将の家紋でも非常に多く見られる。また、日本にかぎらず世界中で、装飾における幾何学模様のパターンで多く用いられている。 

 さらに偶然なのか計画的なのかわからないが、浦島太郎と関係のある木曽の寝覚めの床、京都の保津川渓谷、香川の荘内半島紫雲出山を結ぶラインを西に伸ばしたところが、愛媛県今治市の古谷という場所であり、ここには、弥生時代に起源を持つとされる多伎神社が鎮座している。

 3万坪に近い境内の敷地には自然林がうっそうと茂り、霊水といわれる多伎川が奥之院の磐座から社殿前を流れているが、神社の本殿裏には50基以上の古墳が残されており、この地を治めていた海人の越智氏のものではないかと考えられている。

多伎神社古墳群

 多伎神社のすぐ南が、朝倉であり、ここにもまた多数の古墳が残されているが、663年の白村江の戦いの前に、斉明天皇が前線基地として築いた宮が朝倉宮であり、その候補地が、北九州の朝倉と、高知市の朝倉神社、そして愛媛である。

 新羅と唐との戦いの前線基地だから、朝倉宮は北九州であるという説が有力だが、斉明天皇は、この戦いが始まる前の661年に瀬戸内海を西に進み、各地に立ち寄り、しばらく留まったことが記録されている。これは想像でしかないが、唐と新羅の決戦のためには、膨大な数の船や船員が必要であり、その準備が必要だったはずだ。斉明天皇が決戦の2年前に瀬戸内海を移動していたのは、海人たちの協力を仰ぎ、船を建造し、水夫や兵を集めていたからだと考えれば、朝倉宮が、九州ではなく、愛媛や高知にあったとしても不思議ではない。

 越智氏は、後に河野氏や村上氏となり、源平の戦いや戦国時代においても勝負の行方を決める大きな役割を担った。

 こうした海人は、歴史の表舞台には立っていないように見えるが、それは実力が伴っていなかったからではなく、歴史的一大事の後に中央に出て権力者になるという道を選んでいないからだと思われる。

 海とともに生きていた彼らにとって、欲のために血塗られた権力闘争に加わることよりも、地元で自然の摂理のなかで生きる方が、幸福だったのかもしれない。

 竜宮の中で華やいだ暮らしに明け暮れていた浦島太郎が、故郷に戻った時、自分だけが取り残されたような悲しみに陥り、玉手箱を開けてしまったことで二度と竜宮には戻れなくなり、自然の時の流れの中に回帰していったが、これは、海人の生き様とも重なってくる。

 おそらく、浦島太郎の物語は、どこか一つの場所で起きた出来事ではなく、日本各地にネットワークを持つ海人の様々な記憶が寄せ集まって、彼らなりの人生訓として一つの形に昇華したものではないかと思う。

 

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第1255回 じっと見入ることと、目に見えない波動のこと。


 先週、愛媛の今治でピンホール写真について講演を行なった時、会場で法螺貝を吹いた。

 私が法螺貝を始めたのは、写真家のエバレット・ブラウンが、私のそばで法螺貝を吹いた時に、私の心身が強く共鳴したことがきっかけだが、エバレットもまた、私と同じく日本の古層をテーマにしており、湿板写真という古典技法で撮影活動を続けている。

 彼は、スコットランドケルトの血を引くアメリカ人だが、日本に深く関心を寄せ、一般の日本人以上に日本の民俗とか歴史に詳しい。

 彼は、撮影を行う前に、その場所で法螺貝を吹く。地霊を呼び起こすのだと言う。

 私は、スピリチュアルなことはよくわからないが、私が法螺貝を吹くことを始めてしばらく経った時、エバレットと一緒に法螺貝を吹いていて、彼が吹いた時に私が手にしていた法螺貝が強く震えるのを感じて、とても納得するものがあった。

 その時、彼が吹く法螺貝の螺旋状の形態から送り出された空気の波動が、私の手の中にある螺旋状の形態の法螺貝と強く共鳴したのだ。

 すると、法螺貝の構造というのは、実にシンプルに森羅万象の構造に通じているので、法螺貝の送り出す波動は、森羅万象と共鳴現象を起こしているはずだ。

 聴覚を司る感覚器官である蝸牛管もまた、渦巻き構造をしている。

 聖域の樹木で、しめ縄のように激しく捩じれながら上に伸びているものをよく見かけるが、あれはおそらく、磁場など土地のエネルギーの流れにそって成長しているからだろう。自然界のエネルギーは、銀河宇宙もそうだが、渦巻き状の構造なのだ。

 だから、法螺貝の波動は、宇宙そのものと共鳴現象を起こす力がある。山伏が山中で法螺貝を吹いてきた理由や、過去において、戦場で法螺貝が吹かれていたのも、その波動の力が認識されていたからだろう。

 エバレットが、法螺貝によって地霊を呼び起こすと言っているのは、ただの思い過ごしではなく、その場所のエネルギーに働きかける何かしらの力があることを感じているからだ。そして、湿板写真というのは、デジタルカメラのような電気信号ではなく化学反応によって画像が写る仕組みなので、法螺貝の波動現象が、写真にも影響を与える可能性がある。

 こうして私が説明していることは、人間の目には見えていないことなのだが、人間というものは、皮膚感覚があり、その皮膚感覚ではなんとなく感じていることが多い。

 しかし、古代人に比べて現代人は、その皮膚感覚を重要視していない。その理由は、なんとなく感じる皮膚感覚を科学的に証明できていないからだ。そのため、現代人は、目に見えているものばかりに優先権を与える。そして、カメラの技術進化は、目に見えるものを、より明確にすることの競争を繰り返している。

 私が、ピンホール写真の講演で法螺貝を吹いたのは、法螺貝というのは、他の楽器よりも、シンプルに、皮膚感覚に訴える力があるからだ。法螺貝の音の波動は、きちんとした曲になっていなくても、聞き入ってしまう力がある。

 私がピンホール写真をやっていて不思議でならないのは、ブラックボックスに開けられた穴は、0.2mm程度という肉眼でも確認できない小ささ(太陽やライトの方に向けて背後から光を当てないと確認できない)なのに、画像が写ることだ。だって、その小さな穴を通して人間の目で風景を見ようとしても、ほとんど見えない。

 つまり、人間の目そのものは、実はそんなに優秀ではない。

 人間の目と、ピンホールカメラの違いは、長時間露光だ。どんなに小さな穴から入ってくる光でも、長時間露光し続けることで画像は定着するが、人間の目というのは、瞬間的な判断しかできない。もしくは、一つのものに、じっと見入ることに、慣れていない。じっと見入ることに慣れていないのは、現代人に特有のことかもしれないが、じっと見入ることで浮かび上がってくるものの存在に、現代人は気づかないでいる。

 そもそも、じっと見入ることで良さがわかるものが、あまり商品化されていないし、商品化されていたとしても、ぱっと見の良さの商品に負けてしまう。

 ブランド服と、伝統的な着物の違いとか、デザイン優先で電気窯で焼いた陶器と、薪だけを使った焼締の陶器の違いとか、身のまわりを見渡せばいくらでも例はある。そして、もしかしたら人間づきあいにおいても、そういうことが起こっているかもしれない。当人は意識していなくても、感性は、習慣やトレーニングによって変わってくるから。

 私は、写真家ではない。だから、私が行なっているピンホール写真は、写真家の1技法とか1スタイルということではなく、私が追求しているテーマと向き合うためには、この方法でやるしかないから、やっている。

 なぜなら、古代のことなど現代の私たちの生活から遠く離れたことにおいては、ぱっと見ただけでは何もわからない。じっと見入ったり聞き入ったり、考えこんだりする長時間露光のようなプロセスを経て、それまで見えていなかったものが見えてくる、聞こえてくる、わかってくるということが多い。

 多くの人は、現代や未来のことに関しては自分の人生と直接的につながっていると感じて興味を持つが、過去のことは、自分とは無関係で自分の人生に役に立たないと思っている。
 しかし、過去のことは、複雑で錯綜とした回り道を経て自分とつながっている。その道があまりにも複雑だからといって、そこから目を背けていると、今この瞬間の営みが寄る辺ないものになってしまうような気がして、それこそが、現在日本の本質的な問題なのではないかと、私は思うようになった。
 近代文明の行き詰まりが、温暖化問題と重ねられて、いろいろと論じられるが、根本的には、世界との向き合い方、時間との付き合い方の問題であり、そのことが変わらなければ、新しいエコ商品と呼ばれるものが、次々と入れ替わっていくだけだろう。

 

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第1254回 中央構造線上に古代の重要な聖域が並ぶ理由!?

中央構造線上の中郷流宮岩。

日本列島を南北に分断する中央構造線は、東の端の鹿島神宮茨城県)から、秩父を経て長野県の諏訪、愛知県の豊川稲荷三重県伊勢神宮、吉野から高野山四国山地、九州の高千穂まで、古代からの重要な聖域がズラリと並んでいるが、その理由を探求する際、一つの正しい答えを求めるのが、近代の学問的研究となるのかもしれないが、正解かどうかはわからなくても、中央構造線という地理的な事実を、古代人がどう真剣に受け止めていたかを考えていくことは、日本という国の深層を探るうえで欠かせないことのように思う。

 日本の国土は、四つの巨大プレートがぶつかり合うという世界でも稀な条件の中で成立しており、それがゆえの地震や火山などの自然現象も多く、この国土に生きていくうえで、この事実をどう受け止めるのかは、古代においても現代においても、大きくは変わらない。いくら人類が科学技術を発達させても、自分の思うままに自然を管理下に置くことなどできないのだから。

 長野県の諏訪大社の祭祀の中心である諏訪大社前宮から静岡県の浜松方向真に向かって伸びる国道152線は、中央構造線上を通っているため、地盤が脆くてトンネル工事も不可能な地帯があり、車が行き交うのも難しい狭い道や峠道が続き、国道ではなく酷道だと揶揄されるような道である。

 (中央構造線にそって国道152線が通る。赤いマークは、北から諏訪大社前宮、分杭峠大鹿村中央構造線博物館、安康露頭、中郷流宮岩)

 この酷道を走り、諏訪大社前宮から南に33kmほどのところにゼロ磁場として話題になっている分杭峠があり、さらに16kmほど進むと大鹿村がある。

 大鹿村中央構造線博物館は、まさに中央構造線の真上に建てられており、博物館の敷地内に、中央構造線を境にして大きく異なっている岩石を、わかりやすく配置して展示しており、日本列島を構成する岩石の分布を俯瞰的に見ることができる。

 中央構造線の北側は、花崗岩を中心に地中深くで生成された深成岩や、深成岩が高エネルギーで硬く変容した変成岩が分布し、南側は、太平洋の海底で形成されたチャートや石灰岩、堆積岩、玄武岩に代表される火成岩などが変成作用を受けて生成された緑色片岩などが分布している。北側は白っぽく陽の気配があり、南側は薄暗く陰の気配がある。

 大鹿村は、山中にもかかわらず塩水が湧き出ており、古代から塩の生産が行われてきた。特に長野の山間部で育てられていた馬などにとって塩分は重要だった。

 中央構造線にそって静岡の浜松から長野の上田までを通る国道152線は、もともと内陸部に塩を運ぶための塩の道なのだが、そのど真ん中からも塩が得られるのだ。

 国譲りでタケミカヅチに敗れたタケミナカタは、諏訪の地を出ないことを条件に許されるが、タケミナカタが現在の諏訪に入る前にいた場所が、大鹿村であり、ここに鎮座している葦原神社が、「本諏訪社」とされる。

 大鹿村から7.5kmほど南に安康露頭がある。ここは、中央構造線の境目が明確に露頭している場所であり、河川敷に立つと、中央構造線にそって流れる青木川に削りとられ河岸が、太平洋側から押し付ける地層と、押し上げられた地層に分かれているのが明確にわかる。

安康露頭。手前側の黒っぽい地層が、太平洋側から押し付ける大地。

 また、安康露頭から南に10kmの所には中郷流宮岩がある。これは2億年前の岩石だが、太平洋の遥か沖合の深海の底に降り積もったプランクトンの死骸が岩石化したチャートと、サンゴ礁など近海で生物の死骸が堆積して岩石化した石灰岩が交互に層になっていて、かつ、ぐにゃりと折りたたまれている。

 折りたたまれた原因は、太平洋側から押し付けてくるプレートの力によるもので、この形状を見るだけで大地のエネルギーを感じることができる。

 この岩は地上に出ているのは3分の1ほどらしいが、興味深いのは、この岩がある場所は、中央構造線の北側の領家変成帯側であるにもかかわらず、領家変成帯側には存在しないはずの岩だということ。

 チャートなど海底で形成された岩は、太平洋側から押し付けてくるので、中央構造線の南側の三波川変成帯などに存在する。

 中央構造線の北側は、押し付けてくるプレートの力によって、地中深くから持ち上げられた花崗岩など深成岩の大地なのだ。

 なので、この折りたたまれたチャート岩は、中央構造線の南の三波川変成帯に存在する山の上の方に存在していたが、大地震などによって、ゴロゴロと転がり落ちて中央構造線のラインを超えて、今の位置までやってきたものとみなされている。

 その距離はわずかだが、それほど、中央構造線をはさんで厳密に岩石の種類が違っている。

 特に中央構造線のすぐ両側は、押し付け合うエネルギーによって硬く変成した岩石が分布している。

 日本には数多くの磐座があるが、磐座は、単なる岩石ではなく、変成岩であることが多い。その理由は、単なる岩石は、いくら岩でも歳月の中で風化してしまうが、硬い変成岩は、風化せず、昔のままの姿をとどめ続けるからだ。中世の石庭でも、多く用いられている。

 ナイフで削ろうとしても痕がつかないほど硬く、長年の歳月を経てきた独特のオーラがあるため、古代人も中世の人も、この変成岩に特別なものを感じたのは当然だろう。

 中央構造線の南側の三波川変成帯や四万十帯北の岩は、暗色で異様な形を持ち、陰のオーラがあるのに対し、北側の領家変成帯の岩は、花崗岩など白っぽい岩が多く高貴で陽のオーラがある。

 その違いは冥界と天上界の違いのようなのだが、おそらく古代人は、岩石の質が明確に変わる中央構造線を、重要な境界であることを意識していた。

 地震国の日本においては、大地の下のエネルギーに鈍感ではいられず、とくに中央構造線は、地下活動が活発でもある。

 中央構造線上に位置する大鹿村の葦原神社が「本諏訪社」ならば、タケミナカタについて考える時、現在の諏訪湖の周辺だけで考えるのではなく、中央構造線のことを考慮に入れる必要があるのかもしれない。そうすると、「諏訪から出ないことを条件に」という意味も変わってきて、国譲りの真意についての想像の幅が広がる。

(出典*大鹿村中央構造線博物館)

 白く高貴な岩石の多い領家変成帯は、近畿は生駒山地三輪山から天理、鈴鹿山脈、そして瀬戸内海周辺の吉備、讃岐、伊予、安芸、北九州に広がるのだが、これらは、弥生時代後半から古墳時代にかけて、大きな勢力を持っていた地域である。

 そして暗くて陰々たる岩石の多い三波川変成帯や四万十帯は、四国山地、近畿では吉野から熊野にかけての一帯に広がるが、古代日本史において精神的に深い意味をもった地域で、祖霊のこもる根の国イザナミが赴いた黄泉の国、冥界であったとされるが、同時に、新しい生を受ける蘇りの地でもあった。

 これは一つの思いつきでしかないが、日本の古代において、ある時代までは、現世の営みにおいても、根の国=冥界のことが特に重視されていた。

 たとえば、縄文時代の竪穴式住居は、地面を掘り下げて作られ、その出入り口の地面の下に、胞衣(子供を産んだ時のヘソの緒や胎盤など)が埋められていた。もしかしたら、縄文人は、竪穴式住居と子宮を重ねていたかもしれない。夜、真っ暗な子宮内で眠り、朝、目覚めて外に出ることは、その都度、新たに誕生することを意味していたのだ。

 つまり、一人の一生においても、日々、生と死が交互に積み重なっていたのではないか。

 しかし、ある時期から、古事記で書かれる黄泉の国の物語のように、冥界は、恐ろしく不気味で穢れた世界とみなされるようになった。

 現世の災いは、冥界の祟りと考えられるようになり、その鎮魂の為の策が講じられるようになった。古事記日本書紀で語られる大物主の祟りは、それが象徴化されたものだろう。

 大物主は、冥界の主なのだ。

 そして、この時代、北九州、瀬戸内海の吉備や讃岐や伊予や安芸、近畿では生駒山地周辺から奈良盆地にかけての領家変成帯が、日本国内の秩序化において力を行使した人々の拠点となっていく。この領家変成帯の海人の活躍と、浦島太郎の伝承との関係は、第1249回のブログで書いた。

 そして同じ九州でも、南九州は、冥界と関わりの深い三波川変成帯や四万十帯であり、この地域の住人(海人)は、奈良時代以降は隼人と呼ばれるが、中央政府服従する形となり、悪霊退散の呪力があると信じられた犬の鳴き声のような吠声(はいせい)を用いて、朝廷の守護を行ったり、世の中を治めるための戦闘部隊となった。

 出雲の国譲りの神話は、現在、出雲大社のある島根県の部族とヤマト王権とのあいだの攻防というよりは、現世の秩序化に際してのパラダイムの転換を象徴化している話ではないだろうか。

 出雲大社の周辺からは考古学的な遺物は出土しておらず、神話上の記載とは別に、実際に出雲大社が神殿を伴った建物として存在したのは、7世紀末の斉明天皇の頃まで遡れるかどうかだ。

 島根の出雲地方は、ヤマト王権の拠点だった奈良盆地や河内から見て、夏至の日に太陽が沈む方向にある。

 古代、冬至は、春に向けた復活の日でもあり、重要視され、冬至のラインにそって聖域が配置されていたりするが、夏至の日に太陽が沈む方向というのは、暗い冬に向けた始まりを象徴化するから、まさに冥界に通じる方向である。ヤマト王権が、島根の出雲地方に対して、象徴的な意味合いを持たせて、冥界の主、大物主の聖域にしたとも考えられる。

 考古学的には、島根と鳥取の県境の大山周辺に、巨大な弥生遺跡である妻木晩田遺跡や、この地方ならではの四隅突出型墳古墳などが見られるように、一つの勢力圏であったことは間違いないが、同様の先進地域は日本列島の各地に残っており、群雄割拠の状態であったことは間違いないだろう。そして、そうした状況のなかから、一つの価値体系によって国内が秩序化されていくことになる。

 かつて島根の勢力が日本を支配していて、国譲りという戦いによって、ヤマトの勢力が、それに取って代わったということではないと思う。

 各地で様々な戦いが繰り広げられた後に、新しく秩序化を推進していく中心となった勢力が、神話的な形で、過去の世界と新しい世界の区別をした。それが、国譲りの神話という形になったのではないだろうか。

 そして、新しい秩序世界は、現世と冥界を明確に区別した。

 最後まで国譲りに抵抗したタケミナカタは、諏訪から出ないことを条件に許されるが、もしかしたら諏訪というのは、冥界と現世の境界を意味し、それは、本諏訪社とされる葦原神社が鎮座する大鹿村の位置する中央構造線をはさんだ領家変成帯と、三波川変成帯や四万十帯の境界に止まることを意味しているのではないだろうか。

 第10代崇神天皇の時代、大物主の祟りがあったと記紀に記録されているが、それを鎮めるために大物主の聖域となった奈良の三輪山の山中にはおびただしい数の岩石が散在しており、巨石の周辺から古墳時代の祭祀遺物も出土している。

 この三輪山は、花崗岩と斑れい岩という深成岩の山であり、中央構造線の北側の領家変成帯に位置するが、すぐ南には中央構造線が走る。

 大物主というのは、国譲りの後に冥界の主となったが、現世で災いが起こると大物主の祟りとされた。そして、その魂を丁寧に祀ることが、現世の平安につながるとされた。

 だから、中央構造線のすぐ北側の領家変成帯に位置する三輪山は、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、黄泉比良坂を大きな石(千引石)で塞いだように、中央構造線の南に広がる冥界の出入り口を封じる象徴的な意味があるのかもしれない。

 中央構造線にそって古代の重要な聖域が並ぶのは、中央構造線の周辺に地震などの地下活動が多いために、それを封じるためという理由づけもわからないではないが、現世と冥界の境界でもあったという想定をくわえることで、壬申の乱(672年)や、南北朝時代(1337年〜)という日本が二つに分断された時、一方の勢力の拠点が吉野に置かれた理由などを考えていくうえで、何が正しいかはともかく、想像の幅が広がるかもしれない。

 

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第1253回 鬼伝説が今日に伝えているもの!?

鬼岩にある「蓮華岩」。上から見ると蓮の花に見える。また、縦7mの亀裂が、鬼が一刀両断で切ったように見えることから「鬼の一刀岩」の別名がある。

 

恐ろしや 次月の奥の 鬼すすき

 次月というのは、古代の東山道、現在は国道21号線岐阜県土岐市にある「次月峠」のこと。そして、「次月の奥」というのは、次月峠から北に2km、現在の岐阜県瑞浪市の鬼岩にあたり、ここは木曽川支流の可児川の源流に近く、鬼岩の巨岩群の中を、清冽な水が勢いよく流れている。

 一般道からすぐ近くに、この鬼岩ほどの巨岩群がある場所を、私は他に知らない。

 しかもここは日本有数のラジウム温泉の場所。すぐ近くに、日本最大のウラン鉱脈がある。

 鬼岩から5kmのところには、高レベル放射性廃棄物の処分のための研究施設、瑞浪超深地層研究所があった。

 原発の問題は、事故だけでなく、捨て場所のない高レベル放射性廃棄物の存在。六ヶ所村と、全国の原発の敷地内に溢れかえっている高レベル放射性廃棄物をどこでどう処分するのか。その研究が、岐阜県瑞浪で行われていた。

 瑞浪地方は花崗岩、もう一箇所の研究所である北海道の積丹半島の西側は玄武岩花崗岩玄武岩は、日本列島の地質を代表する二つの岩盤で、どちらの岩盤の方がふさわしいのかという現実的な問題。玄武岩の方が火山岩だから、活火山の周辺に多い。花崗岩は、地中深くから持ち上げられた岩で、火山活動のない地域が多いから、こちらの方が安定しているように思われるが、花崗岩地帯において地下水は、花崗岩の亀裂にそって流れており、その量と勢いは、ものすごいらしい。 

 岐阜県瑞浪には、採算性が合わないから輸入した方がいいという結論で廃坑になった日本最大のウラン鉱があった。その鉱山の坑道を放射性物質の処理にかかわる基礎実験施設として利用し、おもに岩盤中の物質移動に関する研究などに活用されてきたが、2004年3月に終了し、埋め戻されることとなり、2021年にその作業も終了した。

 しかし皮肉なことに、この瑞浪のウラン地帯は、リニアモーターカーのトンネル区間でもあり、その路線は、ウラン鉱床そのものは回避しているようだが、ウランが蓄積されやすい地層は避けようがないため、トンネル工事で発生する残土の放射能分析は行われている。

 瑞浪の鬼岩の巨石群の中を歩いていると、硫黄の匂いも漂っており、この周辺の温泉は、ラジウムだけでなく硫化水素も含んでいる。

 かつては栄えた温泉街だったらしいが、今は、衰退して廃墟になっている施設も多い。なぜなんだろう? 交通の便はいいし、温泉の質はいいし、見所もあるのに。

 そして、この怪しい地に、鬼伝説が伝えられている。刀工で有名な岐阜県関市から追われるようにやってきた太郎という男が、この巨岩群のなかに潜み、人々に悪さをしたため、恐れられ、討伐されたという伝承。

 この美濃の鬼退治は、一般的にはあまり知られていないが、有名な吉備の鬼退治や丹波の鬼退治と共通のポイントがある。

 一つは、「鉄」と関わりがあること。二つ目が、吉備は山陽道、丹後は山陰道、そして、瑞浪東山道沿いで、古代の中央と地方を結ぶ大動脈の場所であり、それぞれ、九州など西の地域、日本海など北の地域、東海から長野、群馬に到るまでの東の地域への境界のような場所であることだ。

 さらに吉備は瀬戸内海、丹後は日本海由良川と、いずれも大陸との交流の要でもあるが、岐阜県瑞浪の鬼岩があるところは、木曽川庄内川土岐川)の中間で、それぞれから5kmほどだ。ともに伊勢湾へと繋がるが、木曽川は、松本盆地までの水路であり、その北は海人の拠点だった安曇野で、姫川を通じて日本海糸魚川に抜ける。この地のヒスイは、古代、朝鮮半島、北海道、沖縄まで運ばれていた。

 また庄内川の流域は、多治見とか瀬戸とか、古代から日本有数の陶器の生産地だ。瀬戸、備前丹波は、日本六古窯であり、なぜか焼き物の産地は、鬼退治の舞台でもある。

(鬼岩の巨石群の中は、可児川の源流近くとなる。)

 

 鉄の生産には、高温に耐えうる窯を作る技術も必要で、良質な粘土や水が豊富に得られることも重要である。

 そうすると、鬼とは一体何なのか?

 岐阜県瑞浪の鬼は「太郎」という個人になっているが、おそらく集団だろう。一般的に、鍛治職人は、強い火の前で作業をするので顔が焼けたように赤くなるとか、火を片目で凝視し続けるため片目が潰れていることが多いなどの理由で、鍛治職人のことを鬼とみなす説が知られている。

 しかし、私は、鍛治も含まれるかもしれないが、窯技術も含めて新しい技術を持った渡来系の人々の一部が、何かしらの理由で、反乱を起こしたのではないかと思う。

 というのは、たとえば岡山の鬼は温羅(うら)と呼ばれるが、これは、当初は、人々に恩恵を与えて慕われていたと記録されているからだ。伊賀忍者で有名な伊賀の地の鬼もそうで、地域の発展に貢献していたが、中央政府と対立することになったと記録されている。伊賀では、奈良時代の僧侶、行基に仕え、土木工事や治水灌漑などでも活躍した修験者が、鬼の系譜ということになっている。

 また、丹波の鬼退治では、当麻皇子が退治した鬼の中に「胡」と称する鬼がいた。

 中国において三国志の時代の後、五胡16国の時代があるが、漢民族から見た北方の異民族が「胡」であり、特に、鮮卑族を指している。

 なので、日本の丹波地方で退治された「胡」という鬼も、これと同じで、大陸からやってきた人々で、日本人からすると異民族かもしれない。

 しかし、気になることが一つある。

 日本におけるウラン鉱脈は、岐阜県瑞浪と、鳥取と岡山の県境の人形峠の二箇所だが、人形峠のある苫田郡鏡野町には、こんな伝承も残っている。

「農家に二〇歳過ぎの娘がいたが、ぼんやり病で寝込んでしまって、なかなか癒らない。

 両親が不思議に思って問い糺すと、娘のいうには、毎晩夢うつつのうちに、鉄山の役人という一人の男がやって来て、一緒に寝るのだというのであった。

 その後、数か月たって娘は、変なものを産んだ。それは、牙が二本長く生え、尻尾も角も、ちゃんと生えていて、紛れもなく牛の化物といったものなのである。村の衆は、これは鬼の仕業だと思った。」『鏡野町史 民俗編』より

  アメリカ先住民の聖地は、ウラン鉱脈のあるところに多いが、長老たちの語る口承で、「地面を掘り起こすと災いが起こる」と伝えられてきた。

 ウランの埋蔵量が豊かなところは、日本でもそうだがラジウム温泉などがある。ラジウムと接することで放射性を持った大気であるラドンは、気体の状態とか水に溶け込んだ状態ならば身体にも良い影響を与えるので、古代から湯治に活用されてきた。

 しかし、地面を掘り起こしてウランそのものが外に出てしまうと、その粉塵などから生じる放射能が、生物にとって有害になる。東北大震災の原発事故でも問題になった内部被曝が起きる。

 近代の核エネルギー利用において、アメリカ先住民の聖域を掘り起こしてウランが採掘されたため、周辺地域において放射能による深刻な問題が生じた。

 古代人が、ウランそのものを採掘していたかどうかはわからないが、人形峠苫田郡は、たたら製鉄が長く行われてきたところであり、鏡野町史において、牛鬼を産んだ娘が「鉄山の役人」とまじわったとの記述もあるとおり、砂鉄や鉄鉱石など鉄資源の採掘が行われ、その時に掘り起こされた結果として、ウランの放射能被害が出た可能性はないだろうか?

 民俗学者柳田國男は、人形峠のある苫田郡の牛鬼の伝承について、「山で祀られた金属の神が零落し、妖怪変化とみなされたもの」と説明しているが、この説明だと真相の解明にはつながらない気がする。

 チェルノブイリ原発事故の後、ベラルーシにおいて、流産胎児の形成障害と、新生児・胎児における先天性障害の研究も行われ、放射能との関連が疑われているが、苫田郡に伝わる牛鬼の描写も、もしかしたら放射能による染色体異常を示しているのかもしれない。

 もちろん、実証はできないが、神話は、一度起きたことの記録ではなく、その場所が、歴史上何かしらの役割を果たす時、いくつかの記憶が重ね合わせられて創造される。

 日本においてウラン鉱脈のある代表的な二つの場所、岡山・鳥取の県境の人形峠岐阜県瑞浪に鬼伝承があるのは、偶然なのか、それとも必然なのだろうか?

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第1252回 野町和嘉さんの写真展「シベリア収容所1992」


 野町和嘉さんの写真展が、東京のOM SYSTEM GALLERYで開催されます。(10月13日〜10月24日)。

 そして、展覧会中の10月15日(土)14:00~15:00に、野町さんと私でトークを行います。

 

fotopus.com

 

 いつも思いますが、野町さんの写真力は、ずば抜けています。他の人と同じカメラで撮っているのに、なぜ、これほどまで違ってくるのか。凄みとか息遣いとか、存在のリアリティとか、この写真もそうですが、一目で、野町さんが撮った写真だとわかります。

 風の旅人の創刊号で野町さんのチベットの写真を紹介した時、吹雪の中の僧侶たちの写真、まったく同じ時に、ナショナルジオグラフィックの専属カメラマンだったマイケル山下が撮っていたのですが、彼もまた非常に彼らしい写真で、二人の写真がまったく異なっているのが非常に興味深かったです。マイケル山下の写真はとても整然としていて、野町さんの写真は、整いすぎていないけれど、絶妙な均衡がある。

 今回の展覧会のテーマは、30年前に野町さんが撮影した「シベリア収容所」です。

 現在、ロシアによるウクライナ武力侵攻で、ウクライナから100万人ともされる一般市民がロシアに拉致され,その一部は 極東シベリアにまで強制移送される、とも報じられています。

 ロシアは広大な国土を持ち、資源大国であるけれど、いまだ未開発の場所が多く、戦争のたびに、こうした強制労働が行われてきました。第二次世界大戦では、日本人も多く拉致されています。

 現在のロシア侵攻で、欧米諸国がロシアに対する制裁を行なったり、ウクライナへの武器援助を行なっても、終わりが見えません。

 気になるのは、2000年以降に著しい経済発展を遂げたBRICsの存在です。ブラジル、インド、中国、南アフリカ、そしてロシア。

 この5カ国で、世界全体の国土面積の29.2%、人口では42.7%であり、経済規模も、欧米世界を超えていこうとしています。

 さらに、中国の支援で急成長を遂げるアフリカ諸国などをくわえると、これまでの欧米支配の世界秩序は、大きく変化しつつあります。

 欧米のなかでも欧州に関しては、ロシアの資源や中国との経済関係を抜きに成り立たなくなっており、ロシアに対する経済制裁は、欧州の首も締めています。

 島国日本に生きていると、海外で起きることを、対岸の火事のように受け止めてしまいますが、これだけ世界が緊密に結びついた時代において、そういうわけにはいかないでしょう。難民受け入れなどにおいても、先進国の中で、日本の受け入れは、2桁も3桁も少ない。

 人口減少というこの時代に、ここまで閉鎖的な国の状態は、未来に開かれておらず、むしろ危ういという気がしてしまいます。

 

 

 

 

第1251回 EntranceでありExitな、われわれの生

門前仲町まで、小池博史さん演出の新作舞台「ふたつのE」を観てきた。

kikh.org

 小池さんという人は、止まるところを知らない。本質は変わらないのだけれど、同じことを繰り返さない。今回の舞台も、見事なまでに斬新で、美しく、ユーモアに満ちていた。

 身体と声と歌と音楽と光と美術による、ダイナミズムと間合いと絶妙なる均衡という従来の小池さんの舞台に、今回は、映像が重ねられた。すでに準備されている映像と、新たに舞台の上で作り出されていく映像と、その映像にとらえられている今この瞬間の舞台の上の現実が、三重構造になって展開して、観る者の脳を揺さぶる。そして、鏡や、人工的なミニチュア世界と、文字という、人間の観念が反映された虚構世界が、さらに重ねられる。さらに光と影の効果で、現実に越境するシルエットが、生々しい存在感を発する。

 人間にとってリアルというのは一体何なんだろう?

 人間にとっての一大事であるリアルな幸福も不幸も、実は、人間の虚と実の区別のつけにくいアブストラクトな創造状態。

 ディストピアユートピアも、人間の意識の状態が反映された仮想イメージ。

 この新作舞台のタイトルである「ふたつのE」はEntranceとExitであり、この二つは背中合わせに存在する。鏡の中と外のように。

 生と死もまたしかり。

 私たちは、私たちの現実を、どちらの側から観ているのか。それだけの違いだ。

 さらに二つのEは、Escape と Existenceでもある。囚われから逃れることと存在すること。
 われわれは、いったい何に囚われているのか? 囚われていることにすら気づかないのは、存在にさえ鈍くなっていること。

 いろいろなことを感じさせてくれる小池さんの舞台だが、驚かされるのは、即興のように見える動きや間合いやタイミングが、すべてきちんと台本にそったものであるということ。

 パフォーマーたちの動きに関しては、これまでの舞台で、稽古も見ていたから、その小池演出の奥義は理解していたが、今回、そこに映像表現のための同時進行的なカメラワークがくわわってきて、このカメラの複雑な動きを、舞台の上で、二度三度同じようにできるのかと不思議でならなかった。カメラの動きに合わせた光の使い方もそうだ。

 ある程度、即興を認めたうえで、パフォーマー達が演じながら全体を整えていくのかとも思って、舞台の後、小池さんに確認したら、当然ながら台本通りだと言う。

 静的なものに対する決められた動きではなく、また計画された一つの動きに対応する一つの動きならば、さほど難しくないかもしれないが、小池さんの舞台は、同時進行的に幾つもの動きや音が、一見するとバラバラに展開しているように見えて、実は絶妙なる均衡と調和を作り出していくという、常に複雑な展開なので、その全体を動的なカメラワークでとらえていくことは簡単ではない。そして、カメラと動的タイミングをピタリと合わせていくパフォーマー達の能力も並大抵ではない。そのカメラワークがくわわって、舞台空間にさらに重層性が増し、より全体の構成は複雑になるのだが、その複雑さを、前もって、どうやって台本にしているのか、パフォーマーたちが、どうやって互いに絶妙に響きあう動きや発声や間合いを見つけていくのかが不思議なのだ。粘土をこねていれば、なんか面白い形ができてきた、ということではないのだ。台本があるという時の台本は、どういう台本なのだろう?

 単なる設計図やシナリオではないことは確かだ。

 この感覚を言葉でうまく説明できないのだが、私は、写真(映像)に長く関わってきて、写真(映像)表現の問題について、それなりに認識している。

 一番の問題は、本来は複雑で動的な世界を、撮影者の恣意性によって、停止させて、切り取って、固定して限定してしまうところにある。わかりやすくて大勢にウケの良い表現というのは、そのように安易に世界が整理されているからにすぎない。

 小池さんが、どれほど、この映像表現の問題を意識して、今回の舞台を演出したかは知らないが、「ふたつのE」が示しているのは、映像の本質もまた、EntranceとExitという背中合わせに存在する鏡の中と外のうち、どちらの側から観ているのか、はっきりわからないものであるということだ。

 つまり、”映像にとらえられた決定的瞬間”なぞと賞賛されるケースにおいても、「決定的」という概念自体が、そのように現象を処理したい人間の都合にすぎない。

 今回の舞台は、2072年の日本が想定されている。

 そして、小池さんは、初めての長編映画「銀河2072」を作り上げた。この映画は、今年の冬、11月18日から12月1日まで吉祥寺のUPLINKで上映される。

 「ふたつのE」の舞台で、小池さんの「映像」の捉え方を体験した今、この新しい映画が、とても楽しみだ。

 20世紀は、明らかに映像の時代だった。映像は、多くの恩恵をもたらしたが、気づかないところで、多くの問題を、人間の心に植え付けている。

 その問題に無自覚な映像表現家(写真家を含む)は、周回遅れのランナーであり、もしかしたら、舞台演出家であった小池さんは、映像表現において、いきなりトップランナーになるかもしれない。

 

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