第1007回 禍福と、かんながらの道。

 


 8月5日は、現在の日本で経験できるもっとも美しく静謐な祭りの一つ、今宮神社の織姫祭りだった。ありがたいことに、私もこの祭りの実行委員会の末席に座らせていただいている。
 神事の後には、神前で、お供え物を参列者で味わう豊かなひととき。かけがえのない時間。本来の祭りの姿がここにあると思う。
 平安京は風水でいうところの四神相応の都。四神とは、青龍、白虎、朱雀、玄武。その玄武にあたる船岡山の真北にあるのが今宮神社。
 10世紀、京都の町が疫病その他の災いに襲われた時、災いを福に転じるための紫野御霊会が、その起源だ。
 かつての風葬地である東山の鳥辺野の入り口にある八坂神社の祇園祭も、御霊会から発展していった。紫野にある今宮神社も、同じく風葬地であった船岡山の北に広がる蓮台野にある。
 どちらも、あの世とこの世の境。
 そして、そのどちらにも小野篁がいる。東山は、私の家のすぐ裏の六道珍皇寺。紫野は、千本えんま堂に。
 京都の北東を流れる高野川に沿った八瀬の地は、京都の鬼門にあたるが、ここに早良親王を祀る崇道神社がある。
 長岡から京都に都を移すきっかけとなった早良親王の祟り。
 この八瀬の地は、小野郷と呼ばれ、小野氏の拠点だった。
 八瀬の里の人々は、皇室の葬儀で棺桶を担いだり警護をしたりする役目を担い、鬼の子孫を自称していた。
門跡(比叡山の座主)の神輿ひき八瀬童子なり。間麗王宮より帰る時、興をひきたる鬼の子孫なり」
 小野氏の代表人物である小野篁が、閻魔大王に仕えるために、毎夜、地獄に通ったという伝説は、きっとここから生まれたのだろう。
 そして、京都のちょうど鬼門にあたる場所にある崇道神社に、早良親王の怨霊を祀り鎮めることで、京都を守っている。
 ちなみに、早良親王も、早良親王の祟りを恐れた桓武天皇も、母は同じ高野新笠で、土師氏の血を引く。ということは、桓武天皇の子孫である今上天皇も、遠い祖先に土師氏がいる。
 天津神でありながら国津神大国主命に心服して、葦原中国の偵察の使命を放棄して大国主命を祀るために地上にとどまったアメノホヒの子孫である土師氏は、菅原道真の先祖であり、かつては古墳や埴輪を作り、天皇の死に際する祭事を取りしきっていた。(ちなみに、出雲大社宮司の家系もアメノホヒの子孫である)。
 天皇は死を通して神となり、民を守る存在となる。つまり、古墳は、神となった天皇の肉体。
 怨霊と恐れられた菅原道真が死んで神となったのは、彼が、早良親王と同じく、土師氏であったことも背景にあるだろうと、学者でもなんでもない私は無責任に想像する。
 いずれにしろ、禍を転じて福にするための、かんながらの道。スサノオ牛頭天王、また大物主、そして菅原道真など、疫神というのは、正しく祀ることで、必ずや恵みをもたらしてくれる。台風など自然災害に耐えて生きてきた日本人が、古代から伝えてきた深遠なる知恵がそこにある。その知恵は、今だって廃れていないはず。
 今日から、私の家の裏の六道珍皇寺で、先祖の魂を迎えるための鐘の音が、朝から夜まで、ゴーン、ゴーンと鳴り響いている。
 たった一回の鐘をつくために、私の住んでいる周辺、人々が長い長い列を作っている。
 そういうことを、今も大切にし続けている人たちが、この国にはまだ大勢いる。
 御霊会、早良親王、土師氏、菅原道真小野篁、そんな昔のこと、なんで今頃関係あんの? と、ITや人工知能や株価の動きなど、社会の表層を激しく流れる情報にしか興味なかったり、そういうことすら興味なく、タレントやスポーツのことだけで十分に楽しいという平和な人も、この国にはたくさんいるが。
 
 しかし、今日も大きな台風に直撃された日本。そして、夏になれば、必ず思い出すことになる原爆や終戦のこと。
 これらの悲劇、禍を、私たちは、まだうまく整理できていないのに、ただ記憶の隅においやって、ごまかし続けているだけかもしれない。無聊の慰めに引きこもったり、会社のため、社会のためと、忙しそうに動き回ることで。