第1317回 苦海と浄土がつながるコード

今年に入ってから、現代と古代のコスモロジーというワークショップセミナーを行っており、次の5回目を4月22日(土)と23日(日)で計画している。

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 教科書で書かれているような、もしくは陰謀論のような歴史解読をやろうという気はまったくない。

 コスモロジーという言葉を使っているのは、今、まさにそのコスモロジーの転換期にきているからだ。

 近代合理主義というのは、自己と他者を厳密に区別するコスモロジーに基づいていたが、これは、人間特有の根源的な思考ではない。

 20世紀の最高の知性である文化人類学者のレヴィ=ストロースは、人間特有の根源的思考を「野生の思考」と名付け、その方法論は、近代合理主義的なエンジニアリング的な思考ではなく、ブリコラージュ的思考であるとした。そして、その思考は、決して未熟で粗野なものではなく、極めて精緻なものであることを彼は理解していた。

 そして、自己と他者を厳密に区別する思考に慣らされてしまっている現代人は、根源的に備えているはずのCOMPASSIONという感覚が、自我によって歪められて、引き裂かれてしまうことがある。

 一般的には、思いやりとか慈悲心と訳される COMPASSION。

 COMと PASSIONの造語になっているが、語源のラテン語では、ComとPatiであり、passionではなくpatienceに真意がある。

 つまり、 Com-patience「一緒になって苦難のなかで耐える」という意味になる。

 他者の苦難も、世の中の苦難も、自分ごとであるということ。

 20世紀文学で後世に残すべきものの筆頭に挙げられるのは、石牟礼道子さんの『苦海浄土』だと思うが、苦海と浄土という両極にある境地を重ね合わせたこの言葉は、世紀末的な兆候が次々と起きる時代を生きる人々に対する意味深い啓示である。

 石牟礼さんは、水俣地方の言葉として、「悶えて加勢する」という言葉を紹介している。

 COMPASSIONと意味合いは同じだが、加勢という言葉は、苦難に対して受け身ではなく、より積極的な働きかけを示している。

 そこには、苦海=浄土という究極の転換を目指す心の動きが感じられるが、「禍福は糾える縄のごとし」とか、「災い転じて福となす」といった言葉のように、歴史的に幾たびも大震災を経験してきた日本人は、そうした転換を、生きる知恵に昇華させてきており、Com-patienceを、当たり前のこととして心に備えている人は多い。

 それは、2011年の東北大震災の際にも、色々な場面に顕れ、世界の人々から賛嘆されるものであった。

 「悶えて加勢する」。起こっている事態を自分ごととして、助太刀をすること。自分ごとだから自分も苦難を共有する。大事なことは、どんなに小さなことでもいいから、何か具体的な動きをすること。

 奈良時代天然痘の流行によって人口の半分が失われたとされる頃、聖武天皇は、行基の助けを得て盧舎那大仏を作ることになったが、その時、「大仏をつくる詔」のなかで、「国家権力によって作るのではなく、一本の草や一握りの土といったわずかな力でも、自発的に協力しようという者がいれば、ともに廬舎那仏を造ろう」と呼びかけた。

 作られた大仏によって国が救われるのではなく、大仏作りのために加勢するという多くの人々の心の働きじたいが、窮状からの救いであると考えたのだ。

 現代の世界の特徴は、自分に直接的に降りかかってくることは自分ごとになるけれど、世の中で起きていることが、自分ごとになりにくいところにある。

 それは近代的自我が、自分と他者とのあいだに大きな壁を作ってきたからだろう。

 レヴィ=ストロースは、文化人類学という他者理解の方法について深く考え抜いた人だが、他者を外から客観的に見て整理分類する理解の仕方の傲慢さについて、強く意識していた。

 彼は、文化人類学の研究対象である人々と長く一緒に暮らしながら、他者を自分と区別せず、なんらかの法則を用いることで他者と自分を入れ替えることが可能だとした。

 彼は、次のように語る。

「私は以前から現在に至るまで、自分の人格的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとのおこる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので。何かがそこでおこるだけです」

 レヴィ=ストロースが、自分と、彼の研究対象であった人々を、入れ替え可能なものと捉えた背景には、自分を自分ひとりで完結した個として捉えず、まわりのものとの関係性の中で、人間が人間として存在するための共通するコードがあると考えたからだ。

 そのコードは、現代文明の中で生きていようが、未開の社会とされる環境の中で生きていようが、違いはないとした。

 そして、人間には、人間特有の根源的な思考があるとして、それを野生の思考と名付け、ブリコラージュとした。

 ブリコラージュは、器用仕事と訳され、ありあわせの手段・道具でやりくりすることと説明されるが、その程度の説明では足りず、その組み合わせ仕事が、どれだけ自然の摂理に即しているかが重要である。

 たとえば石工が組み上げる石壁は、ありあわせの石を組み合わせて壁を作るが、簡単に壊れてしまうようでは壁とは言えない。

 この時、重要になってくるのが、異なる要素どうしの関係性である。

 ブリコラージュと比較される概念としてエンジニアリングがあるが、エンジニアリング的な発想で壁を作る場合、部分的要素と要素の関係性は、さほど重要ではない。

 設計者が、あらかじめ計画した設計図にもとづき、必要なサイズのものを必要な個数だけ準備し、それを積み上げていくこととなる。

 それに対してブリコラージュは、一つひとつ形や大きさが違うものを、最適な組み合わせで積み上げていかねばならず、一つの要素は、他の要素があってこそ、その本領が発揮される。

 エンジニアリングが、作り手の計画にそって作られるのに対して、ブリコラージュは、要素の特性を把握していきながら、それぞれの関係性に配慮して作っていく。

 現代文明が生み出した機械、写真での表現行為の場合、エンジニアリング的発想は、自分の表現の材料として他者(風景も含めて)を利用するというスタンスとなり、ブリコラージュ的発想は、表現を通して他者の内側を引き出すことを心がけるということになる。

 明治維新以降、日本人は、西洋で生み出されたものが優れているとみなし、西洋思想から学ぶことを心がけてきたが、レヴィ=ストロースの考え方は、むしろ西洋文明よりも東洋文明に近い。

 自分という存在を個別の独立体として捉えず、ものごとのおこる交叉点として捉える視点は、華厳思想と共通している。

 聖武天皇の時代に作られた盧舎那大仏=奈良の大仏は、華厳思想の本尊であるが、華厳思想の中心になる考え方は、世界の実相は、個別具体的な事物が、相互に関係しあい(相即相入)、無限に重なりあっているということである。

 盧舎那仏は、ヴァイローチャナ(遍く照らす)存在であり、その智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っているとする。

 レヴィ=ストロースは、先住民たちの習俗や儀礼、神話の数々が決して未熟なものではなく、極めて精緻で論理的な思考に基づいていることを発見し、それを、人間特有の根源的な思考、「野生の思考」と呼び、その方法がブリコラージュだとしたのだが、東大寺が作られた奈良時代に生み出された日本神話である古事記もまた同じだ。古事記も極めて精緻で論理的な思考の産物であるが、要素還元主義の思考に陥っている現代人が、古事記を読み間違える原因は、「神話に何が書かれているか?」を解読しようとすることだ。

 古事記もまた、野生の思考、華厳思想に通じる思想で作られているとすれば、そこに何が書かれているかではなく、世界を形成する各要素の相互関係を伝えるために、いかにして書かれているかに思いを馳せる必要がある。

 古事記は、年代別に、順を追うように、何があったかを記しているのではない。

 古事記が書かれた当時の世界が、どのようにして成り立ったかを、色々な角度から描いており、同じことを別の形でも描き、重ね合わせて、ブリコラージュしている。

 古事記が書かれた時代もまた、ものごとのおこる交叉点なのだ。

 ならば現代もまた、縁によって導かれた必然的な交叉点である。

 この時代もまた、起きていることを自分ごととして、 Compassion=Com-patience「一緒になって苦難のなかで耐える」ことを当たり前と受け止めなければ、この時代を生きるために生まれてきたことにならないだろう。

 自分という個は、単独に存在しているのではなく、宇宙の中の、そして歴史上の、交叉点である。世界をブリコラージュしていく媒介者であると言い換えてもいい。

 媒介者は、媒介者自体の価値よりも、石工の作る石壁のように、媒介することによって生じるものの価値によって、その価値が定まっていく。

 そのため、自ずから、自分がどうしたいかではなく、自分が媒介するものがどうなることが良いのかという発想で、物事を見て考えざるを得ない。それが、結果的に、相手の立場に立つという心構えにつながっていく。

 地球環境の問題にしても、基本的には同じであり、自分の意思ではなく、地球の意思に耳を傾ける。

 現代文明が作り出した機器のうち、コンピューターは、一つの頂点であり、その発展は今も止まることなく続いているが、いわゆる古典コンピュータが一番苦手としていることが、組み合わせ最適化問題だとされる。そして、この問題を乗り越える新しいコンピューターが、量子コンピュータだとされる。

 古典コンピュータが、設計デザインに基づいて石壁を作る場合、必要な材料の大きさや個数や調達先やコストなどを割り出すのは得意だが、大きさも形も異なる有り合わせの石材を組み合わせて壁を作らなければならない場合、うまく考えることができない。

 人工知能を活用したChat Gptは、エンジニアリング的な思考で、すでに典型的となっているアイデアから抜粋して答えを導くことはでき、多くのお役所仕事のようなものを肩代わりしていくことになるだろうが、未だ答えの見つかっていないことについて考えなければいけない時、ブリコラージュ的な視点を重ねることは苦手である。また、自分には理解できていない物事の答えを出す際に、強引に自分の思考の範疇に納めるために、対象の本質を歪めてしまうことを平気で行う。

 古典コンピュータは、0か1か、あらかじめ決めつけたことを緻密に膨大に組み合わせるのは得意だが、状況次第では0にも1にもなるという曖昧な存在を相手にすることが苦手なのだ。

 しかし、人もそうだし、世界の様々な要素は、関わり方次第で、在り方は異なってくる。

 関わろうとする対象に加勢して、悶えていると、予期しなかった良き様相が立ち現れてくることがある。

 生きていくうえでの救いや歓びは、計画の中に厳密に落とし込まれているものではなく、関わり方次第で変わってくるというところにこそ、潜在しているように思われる。

 苦海が浄土とつながるコードがここにある。

 

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第1316回 身体性が伴った写真について

前回、今年度の写真界において、新田樹さんが木村伊兵衛賞林忠彦賞のダブル受賞をしたことを書いたが、土門拳賞は、船尾修さんが受賞した。

 本人にも伝えたけれど、船尾さんの受賞は予想通りだった。そもそも私は、数年前の「フィリピン残留日本人」が土門拳賞を受賞するだろうと思っていたのに、巡り合わせが悪く受賞とはならなかったが、船尾さんの近年の仕事の積み重ねを考えれば、今回の受賞は自然の流れだった。

 写真家を志す人が、船尾さんを、いわゆる「写真家」という枠組みに入れて手本にしようとすると、間違ってしまう。

 船尾さんは、はっきり言って、「写真が上手い」人ではない。

 土門拳賞の審査員をつとめている大石芳野さんだって、恐れ多くて公言する人はあまりいないようだが、はっきり言って、「写真が上手い」人ではない。

 昔のマニュアルカメラならば、写真家は、被写体の動きを読み、シャッター速度や露出やピント合わせなどを瞬時に行うアスリートのような反射神経や運動能力に優れている必要があったかもしれないが、高性能カメラを使えば誰でもそれなりにうまく撮れる現代において、そうした能力は、もはや特別なものではなくなってしまった。

 技術的に誰もが同じ場所に立てるのであれば、あとは、その人の問題意識とか行動特性、継続性や一貫性、生き方そのものが反映された世界観が、写真の違いとなってくる。 

 アイデアや目の付け所といったものは、一時的に世間の人々に受けることがあっても、消費財と同じですぐに過去のものとなるが、継続的に人々の心に残り続けるものは、やはり、人間や世界の本質に対して、人間の意識を導く力がある。

 船尾さんと私は、1980年に茨城県の田舎の大学に入学した。今では学園都市としてショッピングモールなどもあって少しは華やいだ雰囲気も出ているようだが、当時は、日本で一番大きな村、桜村だった。

 大学に入学する前は、二人とも明石海峡を目の前にする海辺で育った。私も船尾さんも20歳までは、同じような風景を見て生きていたことになる。

 私は、大学の雰囲気に馴染めず、20歳で退学して世界放浪の旅に出てしまった。

 船尾さんも、大学の雰囲気に馴染めなかったようだが、我慢して、アルバイトをしてお金を貯めて、大学を卒業したら旅に出ると決めていた。そして、その計画どおり、とりあえず就職したものの、わりとすぐに辞めて、大学時代に考えていたように世界に出た。

 二人とも、ドロップアウトの人生となったわけだが、少年時代に育った海辺の広々とした空間と、大学時代の閉塞した空間のギャップが、その後の人生の舵取りに影響を与えた可能性がある。

 つまり、安定しているのかもしれないが狭く閉じた水槽のような世界では、苦しくて生きていられず、多少の危険があっても大海原や清流の中を泳ぎたいという感覚。

 船尾さんは、アフリカでピグミーの人たちと生活をともにしながら現代文明の問題について深く考え、考えるだけでなく、国東半島のど真ん中の100年前の家に移住して、米作りを行いながら、国東半島の歴史と文化を掘り下げていくというライフワークを実践していったところが本物である。

 少し前は、商標権付きビジネスの材料にすぎなかった「ロハス」とかなんとか、現代では、舌を噛みそうなSDGs云々。よくもまあ、消費文明の生活にどっぷりと浸りながら口先ばかりのタワゴトを繰り返せるものだと呆れてしまうが、船尾さんは、その種の環境問題の流行とは無関係に生きていた。

 18年くらい前になるのか、国東半島で船尾さんが住んでいた100年前の家に泊まった時、今も覚えている話が二つあって、一つは、指を指して、「そこに、昔の登山仲間が山で亡くなって知らせに来たよ」と言ったこと。

 国東半島に行くことになったのは、私が船尾さんが撮り続けていた国東半島の写真を風の旅人で掲載するためにセレクトして組んだところ、何の説明も受けずに写真だけを見て組んでいたのに、不思議にも、関連地や隣接地や祭祀の順番などが適切に組まれていると船尾さんが驚き、同じ頃、田口ランディさんが編集部に来た時に、それらの写真を見せたところ、ケベス祭りで仮面をつける写真を見た瞬間、「ゲゲッ」と異様に驚き、没入してしまったこと。

 それで、タイミングよく、ケベス祭りが開催される直前だったので、これは何かあるぞ、一緒に行こうということになって国東半島に飛んだ。

 そのケベス祭りの当日、祭りの前の禊の段階から祭り関係の人たちに同行していたのだけれど、禊場に向かった長い道のりを歩いている時、ランディさんが、妙に馴れ馴れしく一人の男性とくっついたまま昔からの知り合いのように歩いていて、祭りが始まったら、その人が仮面を付けて舞う人だったので驚いた。もちろん、我々は事前にそういうことを知らなかったのだが、ランディさんは、編集部で、「ゲゲッ」と驚いた時から、何かに出会ってしまっていたのだろう。

 そういえば、あの時、作家の田口ランディさんを連れていっていて、3人で国東の聖地を歩いている時、ランディさんが、突然、真っ青な顔をして、ここに戦いに敗れた隼人が埋められていると言い、弔って祓わなければいけないと、ものすごく大きな声で般若心境を読経したのだけれど、船尾さんと私は、その行為自体がとても怖くて震撼した。

 その後、宇佐神宮の奥宮にあたる御許山に三人で登り、頂上付近で、ランディさんが、きっと湧き水の出る場所があるはずだ、ボトルに入れて持って帰りたいと言う。船尾さんは、「何度か来ているけど、そんなのなかったなあ、頂上付近なので、ないんじゃない」と返し、「そうなのかあ、しかたないなあ」と、気持ちの良い天気だったので、三人で、神楽殿のようなところがあったので、その上で寝転んでいた。

 すると、親子連れ三人の姿がすぐそばにあり、何も聞かないのに、「あちらから登ってきたのですが、あそこに湧き水が出ていますね」と言う。

 ランディさんは、「ほら、やっぱりあるじゃない」とか言って、三人で湧き水を飲みに行って戻ってきたら、その親子連れの姿はない。

 山を登ってきてすぐに下山したのか、下山するにしても、他に道はあるの?、あれって一体なんだったの? とブツブツ言っていたけれど、気候がまったりとして、いい感じで、その心地よさに、不可思議な感覚も溶け込んで消えていった。

 御許山の登山じたいが白日夢の出来事のような、国東半島の中で過ごした時間そのものが、白日夢の出来事のような、当時は、そうした異界の扉が少し開いていたような気がするが、今はどうなのだろう。

 それはともかく、船尾さんの話で印象的だったもう一つのことが、「農業の新参者が、地元の人から水を分けてもらうための苦労」。現在では、国や自治体が地方移住のための手助けを色々な形で行なってくれるが、当時は、そんな仕組みはなく、全てを、自らの手で整えていく必要があった。

 もちろん、細々とした農業だけでは生計を立てていくことができないので、船尾さんは、世界の高峰の登山ガイドをしながら、やりくりをしていた。

 船尾さんの一貫性は、この身体性にある。人は頭の中で色々考えることができるが、頭というのは、生身の現実とズレていても、生身の現実を頭に従わせようという傲慢さがある。

 身体というのは、生身の現実から遊離することはできない。そして、生と死という人間にとって究極の生身の現実に関する問題は、頭でいくら考えても割り切れるものではないということを、頭は、わかっていない。

 技術的には全ての人が同じ土俵に立てる写真表現分野において、違いを産み出せるとしたら、この”身体性”にあると私は思う。

 この”身体性”こそが、頭でっかちの文明社会の問題を乗り越えていくための鍵なのだから、写真家の存在意義も、そこにあるだろう。

 ”身体性”というのは、人と人が触れ合うように、人と被写体が向き合うということでもある。

 頭というのは、自分が対象を整理しやすいように対象を典型の枠組みにはめて処理しようとするため、それぞれが醸し出す機微は、無きものとして扱われることが多い。

 明確であるというのは、物事の機微を削ぎ落として単純化しているだけにすぎず、身体性からは、もっとも遠い感覚だ。

 実際に物事に触れてみれば、言うに言われぬ微妙なことがわかる。「ものごとがわかる」というのは、そうした身体性を伴った感覚であり、近代という視覚重視の特殊な時代において、写真家に重要な役割があるとすれば、視覚という直接的に触れることのできない感覚を通して、ともすれば消え入りそうになる人それぞれの身体性を取り戻す力にあるのではないだろうか。

 そして、そのことを実践できる写真家というのは、技術を磨くことよりも、身体性に基づく暮らしを磨きあげている人であろう。 

 身体性に基づく暮らしを磨き上げている人というのは、時代環境がどんな風になろうとも、まったく動じることなく、生きていける。

 船尾さんは、きっと自分のことを、そう思っているはずだ。

 本当の自信というのは、人と比べて得られるものではなく、周りがどうなろうが、生きていけるという気持ちと、悔いなく死んでいけるという感覚に宿るものだろう。

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/20090118/1232245207

 ここに添付した「必死さとか、真剣さとか」のブログ文章は、2009年に船尾さんが編集部に来た時に話したことだが、この中にも"身体性"に通じることが書かれている。

 

 

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第1315回 世間と渡り合う術を持つこと

このたび、写真家の新田樹さんが、「Sakhalin」という作品で、林忠彦賞と木村伊兵衛賞のダブル受賞をされた。

 写真界の賞で、同じ年のダブル受賞は珍しい。(これまでは、できるだけ違う人を選ぶ、みたいなおかしな風習があった)。

 林忠彦賞は予測できたが、木村伊兵衛賞は、この20年くらいの受賞作がコンセプチュアルなものや心象風景のようなもの、広告に使えそうなもの、と感じるものが多かったので、それらとは異なる新田さんの受賞は、うれしい予想外だった。

 新田さんの受賞作は、サハリンに暮らし続ける残留日本人や朝鮮人を丁寧に取材し続けたもので、美しいドキュメントではあるが、写真家のスタンスとしては、鬼海弘雄さんやエドワード・カーティスなどに通じるもので、近年では、奥山淳志君の「弁造」の写真集がそうだった。

 自分の表現の材料として他者(風景も含めて)を利用するのか、表現を通して他者の内側を引き出すことを心がけるのか。

 前者は、20世紀までの消費世界と相性の良い自己表現文化の範疇で、鬼海さんに代表される後者こそが21世紀にあるべき表現者のスタンスではないかと以前から私は思っている。

 前者の写真は、スマホカメラで撮ったものがそこらじゅうに溢れ、いいね!の数を競い合って消費されており、こうした現象は、この種の表現の最終的な末期的現象だと思う。(そうした自己主張世界で上にあがりたいものが手本とする人が人気を集めているだけ)

 昨年の夏、笹本恒子賞の選考をした時に、新田さんの「Sakhalin」を見て、これはいいと思って推したのだが、笹本恒子賞は作品賞というより作家賞で、これまでの継続的な作家活動を評価するという意味合いが強い。そのため、漁業、狩猟、捕鯨など、人と野生の関わりをテーマに幾つもの作品を積み重ねてきた西野嘉憲さんの受賞となり、新田さんは次点となったが、新田さんの評価は時間の問題だろうと、選考委員の野町和嘉さんや前川貴行さんとも話していた。

 その時、新田樹さんの「Sakhalin」の写真集の奥付を見たら、印刷会社の名前が、私が使っているネット印刷のグラフィックだったので驚いた(紙が違っていたので気づかなかった)。ちょうど野町さんが写真展に合わせて「シベリア収容所」の写真集を作ろうとしていた時だったので、「低価格のネット印刷でもこれだけのクオリティが出せますよ」と、この方法を推薦した。

 新田さんに連絡したところ、デザインレイアウトも自分でやったらしく、初めてのことで、文字が小さすぎるとか、ちょっと失敗もあり、苦労もしたとのことだったが、私が注目したのは、写真の組み方が、とてもいいことだ。

 写真家が自分で組んだ写真集の方が、デザイナーまかせにしたものよりもいい、というのは、私の以前からの持論だ。にもかかわらず、多くの写真家がデザイナーまかせにしているのが残念でならない。

 私は、自分で言うのもなんだけれど、写真家の側のスタンスで写真を組んできた。写真家自身も意識していなかったかもしれない写真の声に耳をすませるようにして写真を構成してきた。

 私は、風の旅人を作っていた時代も、他人に構成させないと言われるジョセフ・クーデルカの写真を数十ページ組んだ時(風の旅人の第48号「死の力」)や、セバスチャンサルガド「Genesis」を世界で最初に大々的に特集した時(13号、「生命系と人間」)、他人が組むのが難しい写真である古屋誠一さんなど全て、私が組むことになったが、それは、彼らが、まずは試しに私にやってみろと言い、彼ら自身が、自分の写真がどう扱われるか、冷静に判断する余裕があったからだ。結果的に、私が組んだとおりにやらせた頂けた。

 といっても、私は自分の組み方が特殊だとは思っておらず、だから、現在行なっているポートフォリオレビューに来た写真家の写真を目の前で組んでレイアウトしていく時、彼らの納得感を確認している。

 「この写真とこの写真を合わせるより、こちらの方が、お互いの写真の内なるものを引き出すよね」などと話しながら。

 そうすると、大概の人は、その方がいいとか、ダメだとか、わかる。だから、センスが無いわけではなく、やろうとしていないだけなのだ。

 自分でやっていけば、感覚が研ぎ澄まされてくるから、その速度や適切さも増すだろう。私も、膨大な人の写真家を相手にそれをやってきたので、かなり早くできるようになった。

 多くのデザイナーは、見た目の色でそろえたり形でそろえたりする人が多く、写真が内在しているものを引き出す構成をしているケースは、非常に稀だ。写真家の内面や被写体との関係性に意識が届いていない。だから、写真家自身がそれをやった方がいいと思って、今年から、写真集制作のためのポートフォリオレビューというのを始めたのだ。

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 私が使っているソフト(アドビのような高額なものではない)でデザインレイアウトして、一冊の本の形にして、ネット印刷で写真集を作るという流れ。

 多くの写真家や写真家予備軍が、300万円も400万円も出費して、共同出版という名の自費出版をさせられている現実。共同出版系の出版社や印刷会社から、「素晴らしい写真なのだから、写真集も質の高いものにしましょう、後世に残るものにしましょう」などと持ち上げれ、だったら出版社や印刷会社が費用を持てばいいのに、写真家にお金を出させ、写真家がお金を持っていないと、クラウドファンディングを勧めて、集めたお金を吸い上げるという構造に対して、私は、非常に憤りを感じている。

 その憤りというのは、出版社や印刷会社に対してでもあるが、あまりにもナイーブな写真家や写真家予備軍に対しても、それを感じるのだ。

 表現者は世の中のことに疎くてもいいと、どこかで諦めたり開き直っていないだろうか?

 2008年に、私は、「世間と渡り合うこと」という内容で、ブログに文章を書いた。

http://  https://kazetabi.hatenablog.com/entry/20080528/1211944084

 

 新田樹さんが、この時の文章をずっと意識し続けていると言うので、私も久しぶりに読んでみた。

 こういう内容のことを書いたのは覚えているし、今でも同じ考えだけれど、この時からもう15年も経ってしまっているのかと愕然とする。

 これを書いたのは、2011年の東北大震災よりも前だ。あの時から、時代は、少しは変わってきているのだろうか? 

 ようやく変わり始めているのだろうか?

 新田樹さんのダブル受賞が、その変化の兆しならば、とても嬉しい。

 

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第1314回 酒=避けの神は、現代と未来の境の神でもある。

 

オオヤマツミ神社(愛媛県今治市

 

 古代、文字のなかった時代、「トポス」がとても重要だった。

 トポスというのは、古代ギリシャ語で「場所」を意味するのだが、足場であり拠点であり、思考を進めるうえでの手掛かり、論点、定石といったものを含む。

 つまり、文字のない古代は、場のコスモロジーが作り上げるイメージが、当時の人々の思考や、様々な記憶を伝える装置になっていたのだ。

 歴史を知るための一つの手段が文献だが、文献には捏造もあり偽書もある。しかも、神話的な描写は解釈を間違うこともある。

 もう一つの手段である考古学の成果は、歴史を紐解く上でかなり重要だが、新しい発見によって、それまでの歴史が大きく書き換えられるのが常である。

 だから、文献や考古学的成果だけに依存するのではなく、トポスという記憶装置を駆動することが重要になる。近代化によって、古代の風景は見えにくくなっているものの、トポスの鍵となる地理や地勢は、古代から大きくは変わっていない。そして、他国の侵略を受けていない日本は、目を凝らせば浮かび上がって痕跡も多く残されている。

 前回のエントリーで書いたように、大山津見神酒解神)を、”酒”=”避け”の神として捉えると、さらに興味深いことが浮かび上がってくる。

 京都の梅宮大社大山津見神が祭神)の旧地ではないかと思われる京田辺の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)は、弥生時代の”避け”の信仰を示す銅鐸の日本最大の製造拠点の二つのうち、奈良の唐古遺跡の真北、そして茨木の東奈良遺跡からは真東の位置にあるが、この大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)と、茨木の東奈良遺跡を結ぶ東西のライン上に、三島鴨神社(高槻市)が鎮座している。

三島鴨神社

 ここは瀬戸内海の大三島と、伊豆半島三島大社と並ぶ日本三大三島とされるが、”避け”の神、大山津見神が祭神である。

 この三島鴨神社の西2kmほどのところに溝杭神社が鎮座しており、ここは、神武天皇の皇后ヒメタタライスズヒメをはじめ、三嶋溝杭一族を祀っている。

 トポスの観点から読み解いていくと、高槻の三島鴨神社は、京田辺の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)から真西、日本最大の銅鐸製造拠点であった東奈良遺跡の方向に向かって16kmのところの淀川沿いに位置するが、ちょうど中間の8kmのところが、京都の梅宮大社(祭神が大山津見神)や、銅鐸関連地の梅ヶ畑、向日山、式部谷を通る東経135.70の南北のラインである。

 そして、このラインの最南端に位置しているのが、奈良県葛城に鎮座する高鴨神社であり、ここが全国の賀茂系神社の総本社である。

 高鴨神社の場所は、吉野川への出入り口にあたり、奈良盆地の”避け”の神を祀るべき所としてふさわしいのだが、なぜか祭神は、賀茂氏氏神とされるアジスキタカヒコネである。

高鴨神社

 アジスキタカヒコネというのは、記紀では、大御神と記される。大御神とされるのはアマテラスとイザナギと、アジスキタカヒコネの3神だけだ。

 国譲りの前に、下見のために降臨した神として、アメノホヒアメノワカヒコがいて、この両神は、そのまま音信不通になってしまった。

 そして、神話の中で、アメノワカヒコ大国主神の娘の下照姫と結ばれ、下照姫の兄がアジスキタカヒコネになっている。さらにアジスキタカヒコネは、亡くなったアメノワカヒコとそっくりな存在として描かれる。

 これだと何のことかわからない。アジスキタカヒコネとは一体何ものなのか? どこにも明確な答えが書かれていないのだが、考えるためのヒントが一つある。

 アジスキタカヒコネの”ヒコネ”、すなわち近江の彦根滋賀県犬上郡)に、 阿自岐神社が鎮座しており、アジスキタカヒコネを祀っており、この南4kmに、全国的にも珍しいアメノワカヒコ主祭神とする安孫子神社も鎮座している。

孫子神社

 この場所は、日本海岸の大陸への出入り口にあたる若狭湾の小浜から近江高島に到り、その琵琶湖の対岸である。周辺には、弥生時代終末から古墳時代初頭(西暦3世紀)を中心とした大規模集落遺跡の稲部遺跡があり、青銅器の鋳造工房や、当時においては日本最大級の鍛冶工房群なども見つかっている。

 ここに鎮座する阿自岐神社には、日本最古の庭園のひとつといわれる古墳時代の池泉多島式庭園がある。

 伝承によれば、この庭園は、応神天皇の時代、日本に漢字を伝えたとされる王仁(わに)が作ったものとされ、王仁を招いたのが阿自岐であり、阿自岐こそがアジスキタカヒコネだとされる。

 古事記でも、応神天皇王仁を推挙して日本に招いたのは、百済王の使者として来日した阿直岐となっている。阿自岐と阿直岐は、同じだろう。

 阿直岐は、古事記では、5世紀のはじめ、日本に多くの渡来人を連れてきた阿知吉師(あちきし)=阿智王(アチオミ)のことだとされ、これが後に、各種の技能や技術を持った渡来人を率いる東漢氏となった。

 5世紀のはじめにやってきたこの渡来人の多くが居住した場所が、奈良県の葛城であり、ここに高鴨神社が鎮座している。

 だから、高鴨神社の祭神は、アジスキタカヒコネなのだ。

 5世紀のはじめに来日した渡来人が伝えた技術の一つに須恵器があった。

 須恵器というのは、それまでの摂氏800度くらいの熱で焼いた土器と違って摂氏1100度の高温で焼く薄い灰色の土器であり、硬く水漏れを起こさないので、酒器や貯蔵などに用いられたが、酒や食物を盛る祭祀道具として用いられることが多かった。

 賀茂氏の祖の大田根根子は、この須恵器を使った祭祀と関係しており、この新しい祭祀の力で、三輪山大物主神の祟りを鎮めたとされる。

 この大田根根子の父もしくは祖父に位置付けられるのが、陶津耳命(すえつみみのみこと)であり、これが、三嶋溝杭と同じとされる。

 賀茂氏の祖は、もう一つあり、京都の下鴨神社の祭神、賀茂建角身命であり、別名をヤタガラスとする。

 カラスはミサキ神であり、ミサキは陸と海の境界であり、現代と未来の境界にもあたる「御先」(みさき)である。いわば預言であり、神霊の出現前に現れる霊的存在の総称である。

 賀茂氏は、天武天皇の時代からは、当時の預言的呪術である陰陽道を専門とし、平安時代安倍晴明陰陽道を伝えたのも賀茂氏だった。

 大山津見神は、別名が、「渡しの神」であり、境界に関わるという点で、賀茂建角身命と同じ性質を持つ。

 奈良県の葛城の地の鴨関係の神社として、高鴨神社以外に鴨都波神社があり、ここの祭神が事代主である。

 事代主というのは託宣の神とされるが、「代」(しろ)というのは「依代」もそうだが、代わりとなるものであり、「事が起きる」ことを、代わって伝えるという意味となる。事代主もまた、賀茂氏の祖神である。 

 日本書紀では、事代主と三嶋溝杭の娘のタマクシヒメが結ばれて、神武天皇の皇后となったヒメタタライスズヒメが産まれる。

 鴨都波神社が鎮座する場所一帯は「鴨都波遺跡」という弥生時代の大規模な集落遺跡であり、この遺跡からは、銅鐸形のミニチュア土製品が出土しているが、この盆地部の西端、現在の一言主神社のすぐそばの名柄で、銅鐸と朝鮮半島製の銅鏡が一緒に埋められていた。

 こうしたことを総合的に判断すると、賀茂氏というのは、カモ=カミと関わる人々であろうことは推測できるが、特定の血族というよりは、時代の変遷のなかで、新しい道具やコスモロジーを取り入れて、”ミサキ”とか、”渡し”とか、”避け”の祭祀を担い、託宣を行なってきた人々だと考えられる。弥生時代の銅鐸、古墳時代に入ってからは須恵器が、その祭祀道具だった。 

 そして縄文時代、青森の亀ヶ岡式土器が、沖縄を含め全国的に流通していたが、その中に酒器のような土器もあり、邪霊を祓う”酒=避けの神”は、縄文時代から海人ネットワークによって各地に伝播していたのだろう。

 事代主とか三嶋溝杭とか大田根根子とか賀茂建角身命は、人物名や神の名というより、こうした祭祀に関わる職務の名と考えた方が理解しやすい。

 奈良の葛城の地で、これを司っていたのが事代主で、淀川流域の三島地方で、これを司っていたのが三嶋溝杭だ。

 日本書紀では、事代主と三嶋溝杭の娘ヒメタタライスズヒメが産まれ、神武天皇の妃になるので、この二つの祭祀は一つになった。

 ”ミサキ”や”避け”の神の祭祀者の娘が神武天皇の皇后になるという物語は、大山津見神酒解神)の娘のコノハナサクヤヒメが、天孫降臨のニニギに嫁ぐのと同じ構図であり、神話は、同じ内容のことを、違う形で説明している。

 クニを治めるために(日本全土という意味ではなく、限られた地域の共同体)、新たな知識や技術とともに新たなコスモロジーが導入されるが、邪霊を防ぐ”避け”の信仰は継続しており、その方法と、場所が少しずつ変わっている。

 第26代継体天皇は、即位した後、ヤマトの地に入らず、京都の南地域の三箇所に宮を築いているが、添付した地図を見ればわかるように、いずれも、”避けの神”と関連した場所である。

 さらに、継体天皇の墓である高槻の今城塚古墳は、三島鴨神社から西北5kmのところにあるが、古墳から1.5kmのところにも鴨神社が鎮座しており、大山津見神と、賀茂氏の祖として賀茂建角身命が祀られている。

鴨神社(高槻市

 新羅と対抗する必要のあった当時の日本で、突如、天皇の即位することになった継体天皇のミッションは、新羅征伐の兵を送ることと、国内を一つにまとめあげることであり、そのためには、クニの内側と外側を明確にする”避け”の神の祭祀を整え直すことが重要だったのではないだろうか。

 天孫降臨のニニギが、大山津見神の娘のコノハナサクヤヒメと結ばれるという神話秩序の創造は、そのことを端的に示している。

 平安時代嵯峨天皇の時に作られた『新撰姓氏録』では、三島県主後裔の三島宿禰(右京神別)と賀茂県主(山城国神別)は同じ祖先と伝えているので、賀茂建角身命と三嶋溝杭は同じである。

 大山津見神という”避けの神”は、この祭祀者に奉斎されていた神ということになる。

 伊豆半島の南端に、伊豆國賀茂郡 伊古奈比咩命神社(静岡県下田市)が鎮座している。白浜海岸の巨岩(大明神岩)の上、海の向こうの島々を遥拝する鳥居が立っている。社伝によると、三嶋神大山津見神)は南方から海を渡って伊豆に至り、白浜に宮を築いて伊古奈比咩命を后として迎えた。その後、島焼きによって、神津島、大島、三宅島、八丈島など合計10の島々を造り、三宅島に宮を営んだ後、下田の白浜に還ったとされる。

伊古奈比咩命神社(静岡県下田市)。

  また、愛媛の大三島に鎮座する大山祇神社の境内に葛城神社が鎮座している。この葛城は、賀茂氏発祥の奈良の葛城のことである。

 そして、大三島から四国にわたった今治市玉川町は、古代、越智郡の「鴨部郷」だった。作礼山の頂上に仙遊寺があるが、その麓に10社ほど、大山津見神を祀る三島神社がある。

 さらに、今治の隣の西条市にも賀茂郷があって加茂川のほとりに加茂神社が鎮座し、ここは賀茂社領だ。広島側の竹原にも賀茂川が流れ、賀茂神社が鎮座し、ここも賀茂社領である。そして四国と広島の「賀茂」をラインで結ぶと、そのあいだに、大三島がある。

 また、賀茂氏役小角は、伊豆に流される前に、今治の豪族、越智玉興に迎えられ、この地を訪れ、楢原山の山頂に、奈良原神社を創建したとされるが、この場所から、平安時代末期の全長71.5cmの銅宝塔などが出土し、国宝指定された。

 

楢原山(愛媛県今治市)

 このように見ていくと、四国の今治や西条、広島の竹原など四国の大三島周辺は、賀茂氏の影が濃厚だ。

 この場所は、西からやってきた船が瀬戸内海を通る時の境界線であり、ここに酒=避けの神が祀られるのは必然だろう。

 また伊豆半島もまた、黒潮に乗って東に向かう時の境界にあたる。

 そして、日本三大三島のもう一つ、高槻の三島鴨神社の場所は、淀川を通って畿内の中枢である山城や大和の地に入っていく際の境界という位置付けであり、だから、ここにも、賀茂の祭祀者によって、避けの神(大山津見神)が祀られているのだろう。

 賀茂の祭祀者は、三嶋溝杭=賀茂建角身命陶津耳命=大田根根子の父もしくは祖父ということになる。

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 3月25日(土)と26日(日)、午後12時半から、京都の梅宮大社に集合し、フィールドワークを行なったうえで、私の事務所で、ワークショップセミナーを行います。(それぞれ1日で完結)

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第1313回 ”酒”の神は、”避け”の神。


(京都 梅宮大社

 前回のエントリーで、酒というのは、厄災や悪霊を防ぐ「避け」であると書いた。

 神事において清めに酒が用いられるのも同じ理由であり、日本三大酒神神社のうち、酒神といえるのは、京都の梅宮大社酒解神大山津見神)だけであるとも書いた。

 平安時代、国家の重大事に朝廷から特別の奉幣を受けた22社で、さらに延喜式の式内名神社という特に重視された神社は、京都に7社あり、梅宮大社は、賀茂神社松尾大社とともに、その1社である。

 この梅宮大社を、現在の場所に築いたのは、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子だった。

 ”酒”を”避け”と理解することで、なぜ、梅宮大社が、この位置に築かれたのかもわかる。

 千年の都、京都は、様々な呪術的な仕掛けで守られている都だが、平安京の政治と祭祀の中心であった大極殿は、都の真中を通る朱雀通(現在の千本通)に位置するが、その南端が羅生門であり、さらに南に行くと、京田辺の月読神社である。ここは隼人舞の発祥の地で、前回のタイムラインで書いたように、この場所が、四神相応の南を守る朱雀である。古代中国において、朱雀とは、鳥隼のことであり、隼人をここに居住させることで、都の南を守った。

月読神社(京田辺市)。隼人舞発祥の地。平安京の朱雀通りの真南。

 

 平安京の北を守るのは、西加茂の大将軍神社であり、ここの祭神は、大山津見神酒解神のもう一人の娘、磐長姫である。

西加茂 大将軍神社

 そして、東山の頂上、青蓮院飛地境内に将軍塚がある。和気清麻呂桓武天皇がこの場所に立って京都盆地を見下ろして都の建設を構想したとされるが、桓武天皇は、王城鎮護を願い、甲冑を着せた人形(高さ約2.5m)に太刀・弓矢を持たせ、ここに埋めたと伝えられ、ここが平安京の東の守りだ。

 この将軍塚から朱雀通りまでの距離が4.2kmだが、朱雀通りから真西に4.2kmのところが、酒=避け=邪霊の侵入を防ぐ、の神を祀る梅宮大社である。

 さらに偶然なのか必然なのか、梅宮大社の真北3kmのところの梅ヶ畑から銅鐸が発見され、梅宮大社から真南に6.5kmの向日山からは銅鐸の鋳型が発見された。さらに、向日山から真南に8.5kmの式部谷からも大型の銅鐸が発見された。京都盆地で銅鐸関連地は、この三箇所だけだが、三つのポイントは東経135.69上に並んでおり、梅宮大社も、このライン上にある。

 銅鐸は、弥生時代の祭祀道具だが、境界に埋納されていることが多く、”避けの神”と同じ性質を持っていると考えられる。

 京都の梅宮大社は、前回も書いたように、平安時代県犬養三千代の血を引く橘嘉智子が現在の位置に遷したが、その前は、県犬養三千代の娘の光明皇后によって平城京に遷されていた。

 ならば、県犬養三千代が、この酒=避けの神を最初に祀ったのはどこなのか?

 梅宮大社の由緒では、綴喜郡井手町付近となっている。

 これがどこなのか? その答えが書かれた文献がどこにもないので、実際に現地周辺を探検して探ってきたのだが、たぶん、ここで間違いないだろうという場所を見つけた。それは、京田辺の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)だ。

大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)。たぶん、ここが、京都の梅宮大社に祀られている酒神=避けの神を、最初に県犬養三千代が祀ったところ。

 現在、京田辺市宮津に佐牙神社が鎮座するが、これは15世紀半ばに遷されたもので、それ以前は、木津川のすぐそば、県犬養氏(後の橘氏)の拠点であった井手町の対岸に鎮座していた。現在、この大神宮跡は佐牙神社の御旅所になっている。

 佐牙神社の現在の祭神は、佐牙弥豆男神さがみづをのかみ)と佐牙弥豆女神(さがみづめのかみ)という酒造神だが、木津川の河岸の旧鎮座地は、木津川の水上交通と、大和から北方へ通じる官道である山陽道の要所であり、さらに、県犬養三千代を深く信頼していた元明天皇が遷都した平城京の真北12kmのところにあり、平城京を邪霊から守るために”避け”の神を配置すべきところである。

 そして、弥生時代、銅鐸製造の代表的な場所は、大阪の茨木市にある東奈良遺跡と、奈良の唐古遺跡なのだが、大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)の場所は、東奈良遺跡から真東に20km、唐古遺跡からは真北に25kmであり、二つの場所と東西、南北のラインで交わっている。

 弥生時代の”避けの信仰”と見られる銅鐸とつながり、さらに都城を守るという意味合いにおいて、大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)は、京都の梅宮大社と同じである。

 橘嘉智子が、梅宮大社を現在の位置に築いたのは、彼女が、県犬養三千代の存在を強く意識していたからだろう。

 大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)の近くの飯岡丘陵には、4世紀から6世紀にかけて、木津川の水運に関係する一族の墓と考えられる古墳が数多く築かれ、トヅカ古墳からは銅鏡や刀剣、馬具、管玉などが出土している。

大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)のそばのトヅカ古墳。この飯岡丘陵には、木津川の水上交通の関係していたと思われる勢力の古墳が集中している。

 第26代継体天皇が、この地に筒城宮を築いたのは、この水運力が重要な鍵を握っていたからだ。

 継体天皇が最初に宮を築いた樟葉の宮が、木津川、桂川宇治川の合流点で、式部谷の銅鐸埋納地であり、もう一箇所の弟国宮(向日山)も、桂川、鴨川の合流点に近く、さらに銅鐸の製造場所だった。

 京田辺の筒城宮には、田辺天神山遺跡という弥生時代の高地性集落がある。さらに、すぐ近くの古墳の上に築かれている山崎神社は、縄文中期の石棒の発見場所であり、石棒を御神体としている。すぐ近くの別の古墳からは大量の勾玉が出土した。

山崎神社。石棒が御神体。手前の巨大な岩は、古墳の玄室の天井に使われていたもの。

 また、北西2.5kmの薪神社の近くからも、近畿地方で最大規模の石棒が出土している。

 薪神社には、甘南備山頂にあった、月読神が影向したと伝わる石が祀られている。なぜ当社へ運ばれたのか不明。現在の月読神社は、ここからさらに北西2kmだが、もしかしたら、縄文時代から古墳時代にかけての痕跡が残る。

薪神社には、甘南備山頂にあった、月読神が影向したと伝わる石が祀られている。

 この場所が、月読神社の旧鎮座地なのかもしれない。

 近くには、大住車塚古墳と、大住南塚古墳という、周濠のある前方後方墳が2基並んで存在しており、これは全国的にも珍しい。

 京都の向日山も、銅鐸の鋳型以外に縄文時代の石棒が発見されており、元稲荷古墳という巨大な前方後方墳もある。

 また、元稲荷古墳と同じ時代、同じサイズ、同じデザインで作られた神戸の前方後方墳である西求女塚古墳の近くからは、大量の銅鐸、石棒が出土しているが、さらに興味深いのが、東北に多く見られる遮光器土偶の目の部分も出土していることだ。

 遮光器土偶の出土地として青森の亀ヶ岡が知られているが、この亀ヶ岡は土器も有名だ。縄文時代の後半に、全国的な人気があった亀ヶ岡式土器は、現代の工芸のように繊細な形と複雑な文様が描かれ、赤や黒などに塗られている。この土器は、九州や沖縄でも発見されており、縄文人の活動範囲が広範囲にわたっていたことがわかる。

 興味深いのは、亀ヶ岡式土器には、明らかに「酒器」とわかるものが多く作られていることだ。

縄文時代、青森の亀ヶ岡式土器は、全国に流通していた。なかには、酒器のようなものも多い。(写真は、九州国立博物館 博物館ブログより)

 つまり、縄文時代後期から、祭祀のために酒が使われており、”避け”の思想は、その当時から続いているのだろう。

 弥生人の暮らしが稲作を中心とするものであれば、土地に定着することが必然なので活動域は限られてくるが、縄文時代から水上交通で遠方まで移動していた人々の活動は継続されていたはずで、彼らが、物だけでなく、過去から続く文化や思想も引き継いで、伝えていた。

 継体天皇が、内陸の奈良ではなく、京田辺や向日山など水上交通の要に宮を築いたのは、それらの地の勢力との関係を重要視したからだろう。

青いマークが銅鐸関連地。大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)は、弥生時代最大の銅鐸製造拠点の2つ、茨木の東奈良遺跡の真東、奈良の唐古遺跡の真北に位置する。継体天皇が築いた三つの宮が、水上交通の要であるとともに、弥生時代の銅鐸や縄文時代の石棒関連であることも不思議だ。 京都の梅宮大社も、京田辺の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)も、酒神=避けの神の聖域であることが、この地図上からも伺える。



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 3月25日(土)と26日(日)、午後12時半から、京都の梅宮大社に集合し、フィールドワークを行なったうえで、私の事務所で、ワークショップセミナーを行います。(それぞれ1日で完結)

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第1312回 一つのことを知るためには、その背後の複雑なつながりのことも知らなければならない。

梅宮大社酒解神の聖域。


一つのことを知るためには、その背後の複雑なつながりのことも知らなければならない。

 他者を知ることも、歴史を知ることも同じであり、だから、どうしても説明が長くなってしまう。簡潔な答を求めることが癖になっている人は、その長さに耐えられない。しかし、断片的で簡潔な答をかき集めたところで、世界の真相に至ることはできない。世界の真相は、様々なつながりを通して浮かび上がってくる。そのリアリティを自分に引き寄せることの方が、一つの正解を頭にインプットすること(どうせ忘れる)より、生きていくうえで大事なこととなる。

 私が行なっている古代の探求もワークショップセミナーも、正解をウンチクのように覚えるためではなく、歴史のリアリティを自分に引き寄せることを目指している。

 現在の京都の観光用の五社めぐりは、上賀茂神社松尾大社、八坂神社、平安神宮、城南宮とされるが、これは、方角を司る四神の東西南北を、それぞれの神社あてはめ、真ん中?あたりに平安神宮を置いただけのこと。平安神宮明治維新政府によって作られたものであるし、この五社めぐりは歴史的には何の意味もなく、京都の歴史のリアリティからは程遠い。

 今から一千年以上前、国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた22社で、さらに延喜式の式内名神社という特に重視された神社は、京都に7社あり、上賀茂神社下鴨神社松尾大社伏見稲荷貴船神社平野神社、そして梅宮大社である。

 この7社は、京都の古層に通じる門戸であり、その水脈をたどっていくと、日本の歴史の深層(真相)へと近づいていく。

 京都の私の拠点の近くに、この7社のうち、松尾大社梅宮大社がある。

 3月25日(土)と26日(日)、午後12時半から、この二つの神社のフィールドワークを行なったうえで、私の事務所で、たっぷりと時間をかけて、ワークショップセミナーを行います。(それぞれ1日で完結)

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 単なる歴史のお勉強をやるのではなく、テーマは、「現代と古代のコスモロジー」です。

 歴史を知ることの大切さは、私たちが生きる現代を、歴史の流れの中で相対的に見る視点を持つところにあると思う。

 現代の中に埋没してしまうと、現代の情報に踊らされ、流されてしまう。現代の情報は、人の心を誘導し、コントロールし、管理し、欺こうとする紛い物だらけであり、それらを鵜呑みにしていると、流され、踊らされ、翻弄され、自分の拠り所がわからなくなってしまう。

 詐欺や広告といったわかりやすい紛い物だけではなく、「権威」の顔をした紛い物が厄介だ。肩書きとか名声とか賞とか勲章とか、表面的な威光に目を曇らされてはいけないし、健康問題にも食い込んでくる「科学的」とか「最新式」といった言葉も胡散臭いし、「成長性」とか「イノベーション」といった言葉が、未来的であると人を錯覚させている。

 現代という人間のエゴ中心の時代に作為される過剰な偽の情報に翻弄されないためには、現代を客観的に分析するだけでは足らない。なぜなら、その分析的な思考の癖自体が、現代的だからだ。現代的な思考の癖は、0か1、白か黒、善か悪の二元論に流れやすい。

 そうではなく、相対的な視点というのは、大きな流れのなかの一つの段階的位相として、現代も含めて、それぞれの時代を捉えること。

 現代もまた、次の時代のための準備段階にすぎない。そういう認識のもとに、次の時代を”預かり知る”ことが大事ではないかと思う。

 情報を表面的に捉えると、たとえば松尾大社は、ネット検索では、「お酒の神様」と出ているので、お酒の神様なんだと思うだけで終わってしまうこと。おそらく人工知能を駆使したChat GPTでもその程度だろう。

 しかし、松尾大社の祭神は、実際にはお酒の神様ではない。歴史的にお酒の神として位置付けられているのは、松尾大社の近くの梅宮大社の祭神の大山津見神酒解神)である。

 松尾大社というのは、この地域の神々の総合デパートのような性質を帯びているので、いつしか「お酒の神」という性質を持つにいたった。

 現在、日本の三大酒神神社は、奈良県三輪山大神神社、そして、京都の桂川両岸の松尾大社梅宮大社だ。

 この2社は、私の拠点から徒歩圏内だ。

 松尾大社と「酒」に関しては、こじつけのような話として、出雲の佐香神社の祭神が久斯神(くすのかみ)で、この神が、全国から集まった180の神々の宴会に酒を準備したという物語があり、これを日本酒発祥とする人もいて、この佐香神社の別名が松尾神社なので、松尾神社の総本社である京都の松尾大社が、日本第一酒造神などとされてしまっている。しかし、佐香神社に松尾大社の祭神が勧請されたのは室町時代のことだ。その時点で京都の松尾大社が酒神とされるようになっていたがゆえに、出雲の佐香神社に融合されたのであって、話の順番としては逆である。

 また、三輪山大神神社は、大和朝廷の神事で用いられる酒を醸すという役割を担っていた歴史があり、そのため、ここも、日本三大酒神神社となったが、祭神の大物主命が、酒の神ということではない。

 となると、三大酒神神社の中で、梅宮大社の祭神、大山津見神酒解神)だけが、酒神である。

 神話の中では、天孫降臨木花咲耶姫命が子を出産した際に、父親の大山津見神が酒を造ってお祝いをし、これが酒造りの祖という位置付けとされた。

 梅宮大社の祭神の一神は、その大山津見神酒解神)だが、真相は単純ではない。

 酒というのは、「避け」である

 厄災を悪霊を防ぐ「避け」。神事において清めに酒が用いられるのも同じ理由からだが、日本の歴史の真相を解く鍵として、この「避け」の理解が欠かせない。

 京都の梅宮大社を築いたのは誰なのか? そして、もともとは、京田辺の木津川の河岸近くに鎮座していたのだが、その場所は、どういう場所なのか?

 そして、そこに元梅宮大社を築いた県犬養三千代藤原不比等の後妻)は、何ものなのか? といった律令制開始期における重大な真相が、そこに隠れている。

 平安時代の栄華を築いた藤原氏の祖としての藤原不比等は有名である。

 そして、歴史学者なども含めて、古事記日本書紀は、藤原不比等の陰謀であるなどと主張する輩も多いが、それは反権力から生じる屈折した思い込みだ。古事記日本書紀において、それほど藤原氏に光が当てられているわけではないのに。

 藤原不比等は、高い位の貴族ではなかったのだが、妻の県犬養三千代が、平城京に遷都した元明天皇に重んじられていたために、出世することができた。

 藤原京の時代から奈良の平城京の時代まで、持統天皇元明天皇元正天皇と、女性天皇が続いている。(短命だった男の天皇文武天皇をはさんで)。

 元明天皇元正天皇は、日本の歴史上、唯一、女性から女性への譲位だ。皇位継承を男系に限定するべし云々と揉めている現在とは女性の役割に対する認識が違いすぎており、そのため、藤原不比等の陰謀云々という輩の頭からは、県犬養三千代の存在が、すっかり抜け落ちている。

 古事記日本書紀を記述したのは渡来系のフミヒトとされる人たちだが、フミヒトが居住していた地域は、県犬養氏の拠点だった奈良の羽曳野周辺である。

 藤原不比等県犬養三千代のあいだに生まれた娘の光明子が、聖武天皇の皇后になった。この血統は、聖武天皇の次の孝謙天皇が女帝で独身だったので途切れた。

 そして、県犬養氏橘氏という名に変わり、平安時代橘嘉智子が、嵯峨天皇の皇后となり、後の天皇は、その血統である。

 橘嘉智子は、現在の天龍寺(嵯峨野)の元になった檀林寺という日本最初の禅寺を作った。この女性は、絶世の美女だったようだが、自分が死んだ後に遺体を路上に放置して朽ちていく姿を絵に描かせよと遺言した伝承の残る人物だが、彼女は、県犬養三千代の死後、光明皇后平城京に遷していた梅宮大社を、平安京遷都後、京都の現在の地に遷した。

 さらに、教科書で習う平安時代藤原氏の栄華とは、藤原四家のうちの北家のことだが(京家は、有望な人物が出ていない。南家は奈良時代に衰退、式家は桓武天皇の擁立に関わるが、その後に衰退、北家だけが繁栄を続ける。)、藤原北家の祖の藤原房前の妻が、牟漏女王(むろじょおう)で、彼女は、県犬養三千代が、藤原不比等の後妻になる前に産んだ子である。(藤原不比等の前妻の子が、藤原四兄弟)。

 つまり、藤原北家というのは、実は、県犬養三千代の後衛でもある。

 さらに県犬養三千代の血を受け継ぐ橘嘉智子が、嵯峨天皇の皇后となって仁明天皇を産んでいるので、後の天皇の血統にも県犬養三千代が関わっている。

 つまり、歴史的なポジションで、県犬養というのは、神話世界でニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメである。

 だから、梅宮大社では、大山津見神酒解神)とともに、コノハナサクヤヒメも祀られている。

 そして、コノハナサクヤヒメというのは、別名が、神阿多都比売、つまり阿多の隼人の女神である。

 隼人という名は、奈良時代以降、南九州出身の海人で、畿内において朝廷の守り人に位置付けられた人々のことだ。

 古代中国において、四神の南方を守る朱雀の古称は「鳥隼」であり、この南方の地から邪霊などが侵入することを防ぐために、この海人を居住させていた。また、隼人は、犬の鳴き声のような吠声(はいせい)で、皇宮衛門の守護や行幸の護衛を行った。その声に悪霊退散の呪力があると信じられたためである。

 日本の歴史のなかで、アラハバキ神もそうだし、怨霊を転じて守り神とする御霊会もそうだが、新しいコスモロジーを築き上げた人たちは、それ以前のコスモロジーや、従えさせた人たちのコスモロジーを壊してしまうのではなく、邪を防ぐために生かすという方法が用いられてきた。

 この重層的な積み重なりが、日本の歴史をわかりにくくする。なぜなら、この新旧のコスモロジーが、時代の変遷の中で逆転現象を起こすからだ。

 いったんは陰にまわったものが、再び担ぎ出されて、陽に転じることが起こる。

 県犬養三千代県犬養氏の祖神を祀るために梅宮大社を築いた京田辺の綴喜は、筒木でもあり、筒の木とは竹のことである。

 百年に一度しか開花しない竹は、根株で広がっていくことで増えていくが、離れた場所は、人為的に植えることでしか広がりようがない。

 竹は、もともとは南シナ海の植物で、海人の隼人が植樹していったと考えられており、事実、記紀において、隼人は、竹細工などを行なっていたと記されている。

 そして、京田辺の筒木は、竹取物語の発祥の地の有力候補である。つまり、竹取物語は、南方系の海人の伝承が重ねられて創造された物語であろうと思われる。

 古事記の中に、京田辺の豪族と思われる大筒木垂根王の娘に、迦具夜比売命かぐやひめのみこと)という女性が登場する。

 京田辺には、月読神社が鎮座し、ここは隼人舞発祥の地で、隼人の居住地だった。

 第26代継体天皇は、天皇になる予定のなかった天皇で、現在の天皇から血統的に遡れる最古の天皇だが、この京田辺の地に宮を築いた。彼は、即位してまもなく新羅に6万人の派兵を行なった。つまり、勢力を増す新羅に対抗するための国づくりにおいて必要とされた人物であると想像できるが、朝鮮半島に大規模の兵を送るためには、水軍の力が絶対に必要である。

 継体天皇が、即位した後、19年間、奈良の地に宮を築かなかったことが古代史の謎をされ、学者からは、奈良の豪族を警戒したためなどと説明されるが、最初に宮を築いた石清水八幡宮の南麓の樟葉も、京田辺の綴喜も、水上交通の拠点であり、当時の状況を考えれば必然のことだ。

 そして、継体天皇が綴喜宮を築いた周辺が、県犬養氏の拠点であり、そこに梅宮大社が築かれた。

 その場所が具体的にどこであったか、現在ではわからなくなっているのだが、この地に、現在も、佐牙神社が鎮座している。

 社伝によれば、敏達天皇二年(573年)の創建で、造酒司の奉幣があったとも伝えられ、酒造と関係の深い神社である。現在の祭神も酒造りを守護する神で、すぐ近くに酒屋神社もあり、古代は、このあたりが酒神信仰のメッカだったようだが、中世になって京都の松尾大社梅宮大社が崇敬を集めるようになったために衰退した。

 古代、この場所は、奈良盆地から北方へ通じる山陽道が整備され、水上交通の大動脈である木津川のそばということもあり、交通の要衝だった。

 それゆえ、佐牙神社は、「酒(さけ)」の神というよりも、災厄や悪霊などを防ぐ「避け(さけ)」の神を祀る場所だったのだろう。

 後にこの場所を拠点とする県犬養(橘)氏の「犬養」は、隼人の呪術の一つ、吠声にもつながる名だが、大和朝廷の直轄領である屯倉などの守衛に当たる品部であった。

 壬申の乱の時も、最初から天武天皇の側について、勝利に貢献した。

 この氏族もまた、門や境界(地理的な意味においても霊的な意味においても)を守る役割を担う人たちで、もともとは南方系の海人だったが、コノハナサクヤヒメがニニギと結ばれるという神話が作られたように、コノハナサクヤヒメを祖神に位置付ける県犬養氏の血が、歴代の天皇を通して受け継がれてきた。

 古事記は、そうした史実を象徴的に描いたものであり、元明天皇の時代に完成した「古事記」の背後には、藤原不比等というよりは、元明天皇の絶大な支持を受けていた県犬養三千代の影が強く感じられる。もともとは、避けの神を祖神とし、朝廷の守衛を担う陰の側の末裔が、いつの間にか陽の立場となり、いずれまた陰となる。

北から沢の池(石器時代からの祭祀場)、梅宮大社、向日山(縄文の石棒、弥生時代の銅鐸製造の跡、巨大な前方後方墳があり、継体天皇が弟国宮を築き、桓武天皇長岡京を築いた場所。向日神社は、明治神宮のモデルでもある。)、三つの大河の合流点、現在は石清水八幡が鎮座する男山の南麓に継体天皇が樟葉の宮を築いた。そして、南西が、三島鴨神社。古代の軍港で、日本三大三島で、祭神は、酒解神大山津見神)。南東が、かつて梅宮大社が鎮座していた京田辺の綴喜。

 

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第1311回 頭を使って考えるということは?

AI(人工知能)を使った文章生成ソフトのChat Gtpは、思考しているように見えて、実は、何も考えていないそうだ。

 このソフトのカラクリは、一つの言葉の次にどの言葉がくるべきなのか、確率的に高いものを選び取る機能にあるらしい。

 この半年間、Chat Gtpは大きな話題となったが、この新しい技術が世の中を変える力になるかというと、ある側面において、私は可能だと思う。

 このソフトの一番有効な使い方は、企業のカスタマーセンターや、お役所などの相談窓口だろう。

 消費者からの取り留めのない苦情(時には暴力的な言動を含む)や相談を聞き続けることは苦痛である。

 アメリカの企業は、この仕事を、人件費の安いフィリピンに外注している。

 Chat Gtpは、この種の対応が、とてもうまい。相手の気分を害さないように言葉を選び、当人の努力でちょっと調べればすむような浅い内容の質問でも、もっともらしく答えてくれるということにおいて、生身の人間を社内教育するよりも、間違いなく高いレベルで行ってくれる。

 お役所などの窓口でも、来る前にネットで少し調べれば簡単にわかるような内容の質問をダラダラと続ける人はけっこういて、後ろで待たされている人を苛立たせる。

 私は、ここ数年、ネット印刷を使っているが、その入稿はオンラインでのデータ圧縮によるのが一般なのだが、私の冊子はデータ量が重すぎるため、USBなどに記録して、カウンターに持ち込んで手渡していた。

 しかし、そのカウンターで、「私は印刷のことがよくわからないんですよ、もう少し詳しく教えてもらえないか」と長々と張り付いている先客がいた。私は、USBを手渡したらすぐに帰ろうと思っていたのに、かなり待つことになった。

 ネット印刷会社は、こうした労力を削ぎ落とすことで低価格を実現しているのだから、システムを変えざるを得ないだろうなと思っていたら、案の定、受付窓口は閉鎖されて、すべてオンライン上での入稿か、郵送ということになった。

 Chat Gtpは、こうした分野でも力を発揮するだろう。

 ネット上のまとめ記事のようなものも、人間より早く、的確に行ってくれるようで、オンラインメディア会社のBuzFfeedが、記者をChat GPTに替えると宣言しただけで、株価が175%も上昇した。

 現在、名刺に、記者とかライターと記している人はかなりいるのだが、あっという間に、その仕事は失われてしまうだろうことは間違いない。

 テレビによく登場する「兵器に詳しい人」や「若者のトレンドに詳しい人」をはじめ、リサーチとかマーケティングなどカタカナの肩書きを持つ人の仕事も奪われてしまう。

 しかし、Chat GPTが、思考しているのではなく確率的にもっともらしい言葉を選び取る機能によって文章を作成しているだけにもかかわらず、ChatGPTに仕事を奪われるということは、多くの人に知的だと思われている仕事が、実は、頭を使う必要のない仕事だという証明でもある。

 Chat GPTの前は、コンピューター、ロボット、製造機械など、様々な分野で、人工物が、人間の仕事や尊厳を奪ってきた。

 こうした現象を批判してきたインテリは、文明批判や社会批判という仕事の領域が残っていたが、環境問題や平和問題も含めて、誰もが同じようなことを言っている分野であるかぎり、確率論的に言葉を選び取ればいいだけのChat GPTに取り換え可能だということだ。

 このChat GPTに、大江健三郎氏の死について尋ねてみたら、すぐに返答があった。

「私は、大江健三郎さんが亡くなったことに非常に悲しみを感じています。大江さんは、日本の現代文学において重要な存在であり、その作品は多くの読者に愛されてきました。

 彼の作品は、戦後日本の社会や政治、人間の生き方や哲学的な問いに深く取り組んだもので、その視点や表現力は独特であり、多くの人々に強い印象を与え続けています。

 大江さんは、ノーベル文学賞を受賞するなど、国内外で高い評価を得ていました。彼の作品は、今後も多くの人々に読まれ、その価値と影響力を残していくことでしょう。

 大江さんの死は、文学界にとって大きな損失であり、彼の功績を心から称え、哀悼の意を表します。」

 Chat GPTは、2秒ほどで、この内容の文章をスラスラと書き出した。

 これと似たようなことをメディアで発信している人は、すぐにでも取り換え可能という段階に来ている。