第1427回 ビクトル・エリセと小栗康平の眼差しが交差するところ

ビクトル・エリセの最新作の「瞳をとじて」を観て思うところがあったので、昨日の夜、彼の処女作である「ミツバチのささやき」を久しぶりに観てきた。
 素晴らしく心に染み込む映画ではあるのだけれど、この映画の魅力は、無垢の少女のアナの眼差しに引き込まれて、その眼差しと自分の心が重なって現実と虚構の境界が揺らいでいくところにある。
 「ミツバチのささやき」の中の少女の汚れなき眼差しは、映画の作り手にとっても、映画表現を通じて残し続けたい、世界と向き合う際の心の誠実さだろう。
 それに対して、最新作の「瞳をとじて」には、無垢な少年や少女は実際の人物として出てこなくて、映画という虚構世界の中で使われる一枚の写真の中に閉じ込められている。その少女が、映画の最後の方で写真の中から現実の中に出てきても、それでもなお制作中の映画の中の出来事という設定であり、その制作中の映画を、「瞳をとじて」という映画の中で私たちは観ることになる。
 そのように虚構が何重にも重ねられて、その虚構の層の奥から、無垢な少女の瞳が私たちを見つめてくる。
 無垢とか誠実に対して、これが年をとるという現実なのだろうか。
 「ミツバチのささやき」のなかでの「私はアナよ」という台詞は、少女アナが映画で観た気の毒なモンスター(フランケンシュタイン)と重ねた逃亡兵士と心を通い合わせるために発せられるものだが、「瞳をとじて」の方で発せられる「私はアナ」という台詞は、記憶をなくした父に向けられるものだ。
 「ミツバチのささやき」の方のアナは、自分が助けようとしたモンスター(兵士)が死んでしまうと、激しい衝撃を受けて現実世界から魂が遊離してしまうけれど、「瞳をとじて」のアナは、久しぶりに会った父が記憶を取り戻して自分のことを思い出してくれないと、主人公の映画監督ほど思い入れがないようで、すぐに自分の現実に帰っていこうとする。
 これもまた年をとるという現実になるのか。
 映画監督である主人公の祈りと哀しみは、ビクトル・エリセの祈りと哀しみ。その哀しみは、自分の未完成の映画フィルムをテレビ番組の素材として使って小遣いを稼がなければいけないという今日の表現者が置かれた立場の哀しみでもあるけれど、それ以上に、表現者のミッションとして、世界と誠実に向き合って真理を探究することなど誰も期待していないという現実のなかに自分が存在しているという哀しみだろう。
 この現実の中での「探究」とは、自分の映画フィルムが素材として使われるテレビ番組の「失踪者の探索」にすぎないのだから。
 ビクトル・エリセの映画を観て考えたのは、エリセと同じく寡作な日本の映画監督、小栗康平さんだ。
 小栗さんの処女作の「泥の河」は、エリセの「ミツバチのささやき」と同じく無垢な少年の眼差しの中の世界が描かれていた。
 この作品が大成功を収めて、今でも小栗映画といえば「泥の河」が好きだという人が多いのだが、小栗さんは、同じ位相にとどまらなかった。
 次の「伽倻子のために」は、青年男女の純粋誠実な眼差しの中の世界であり、その次、カンヌグランプリを受賞した「死の棘」では、中年男女が主人公で、夫の不倫で心が壊れていく女性を通して純真が描かれた。
 そして次の「眠る男」では、壮年から老年の登場人物が多く、主人公は、植物人間だ。現実世界と切り離されているがゆえに魂が清らかなままの植物人間の周りで物語が進んでいく。
 さらに次の「埋れ木」では、展開はさらに複雑になる。無邪気な少女たちは、ファンタスティックな物語を次々と作り出していくのだが、町に住む大人たちは、ファンタジーとは無縁の世知辛い現実に即したリアルな過去の物語の中にいる。この二つの物語は決して交わるところがないのだが、地中に埋もれた古代樹という神話世界を通じて交わることになる。
 古代樹の世界は、神話的であるが、そこに在る現実だ。ファンタジーを作り続けていた少女たちと、ファンタジーとは無縁になっていた大人たちにとって、古代樹の世界は、同じ夢の中の世界でもある。
 「埋れ木」は、映画という虚構世界が、夢を失った現実に対して、リアリティを失わずに、夢を保ち続ける装置として働いている。
 ファンタジーの難しい現実に直面しながら、小栗さんは、「眠る男」という作品で「植物人間」を表現の軸にせざるを得なかったわけだが、さらに難しくなる現実において、映画の可能性を諦めない小栗さんは、「埋れ木」というリアル世界と接点のあるファンタジーを作り出した。
 しかし、世間の人々の多くは、リアルとファンタジーの接点など誰も気にしなくなった。世の中に媚びた評論家は、ファンタジーの虚構性の作り込みだけを絶賛したり、リアル世界をなぞるだけのものを社会性のある映画などといって褒め称える。ファンタジーと現実は別ものでいいという風潮だから、複雑にならざるを得ないチャレンジをした「埋れ木」を、難解だと切り捨てる人もいた。ハリウッド映画の単純明快さにすっかり慣らされてしまっているからだ。
 こうした現実世界のリアルと、芸術表現に向き合う魂の誠実さのあいだの葛藤を、戦争という極限世界を通じて描いたのが、小栗さんの次の映画である「 FUJITA」だった。
 しかし、誠実なる映画表現をとりまく環境は最悪である。世の中のムードとして、もはや映画は単なる娯楽であり、気分転換の道具でしかないから、世相に媚びても疾しさも感じない評論家は、「 FUJITA」を、暗いとか重いといった陳腐な表現でしか論じない。また、表現の深さよりも政治的な判断で映画を観る偽インテリは、現実の問題をなぞるだけの映画を、人々が関心を持つべき社会的映画などと持ち上げるばかりだ。
 小栗康平さんは、「泥の河」から「FUJITA」まで、一貫して、映画表現における誠実を追求してきた。
 現実の中で生きるということは、時とともに薄汚れて穢れていくことは仕方がなく、誠実であり続けることは夢物語でしかないと多くの人が自分に言い聞かせている現実世界のなかで、小栗さんは、虚構の映画世界のなかで、そのように人々が思い込んでいる現実と、ファンタジーのあいだを、つなごうとしてきた。
 小栗さんにとって映画を作ることの意味は、そこにしかないから、一本ずつの映画に時間をかけるしかなく、寡作になって当然だ。
 もちろんビクトル・エリセも、映画作りに対する思いや苦しみは小栗さんと同じなのだけれど、この二人の映画監督には、西欧世界の視点と東洋世界の視点の違いがあるように私には感じらる。
 ビクトル・エリセの方が、たとえば「誠実」とか「無垢」という主題においても頑なに垂直に掘り下げていこうとする指向性が強いのに対して、小栗さんは、水平にずらすことで、そこに近ずくアプローチができるような気がする。その分、小栗さんの映画の方が、6作だけれど、広がりがある。どの作品も、まったく異なる映画世界であり、ビクトル・エリセの作品のように自作をオーバーラップさせるような手法は微塵もない。
 小栗さんは、「泥の河」を作った時から、心の存り様は変わっていないけれど、同じ手は使わない。現実が変わってきているのだから当たり前のことだ。
 しかし「FUJITA」まできてしまうと、次が簡単ではない。簡単ではないけれど、ビクトル・エリセの「瞳をとじて」のラストのように、映画への希望を誰かにつなぐという祈りにはならないだろう。
 映画という虚構世界の中で、夢と現実を自分自身の手でつなぐことしか、小栗さんは考えていないだろう。
 何を信じればいいかわからない世の中でも、自分の手を信じることこそが、希望の道筋であることは変わりないからだ。

 

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第1426回 瞳をとじて

 昨日、久しぶりに新宿歌舞伎町まで足を伸ばし、ビクトル・エリセの31年ぶりの新作、「瞳をとじて」を観てきた。

 同じように20代の頃に観ていたヴィムヴェンダースの新作の「perfect days」よりは、映画の時間の中に潜入することができた。

 「perfect days」は、心の疲れた時のBGMのようなもので、私自身、アナログ好きだし、トイレ掃除を一生懸命やる姿は見ていて気持ちがよかったが、映画として真剣に論じる気にはなれなかった。そもそも、映画館で観なくても、すぐにネット配信で流されるだろうが、家のテレビでご飯を食べながら、テレビドラマでも見るような感覚で見られる映画だ。だから、この映画のタイトルの「perfect days」には、それほど深い意味はなく、一仕事を終えて風呂に入ってビールを飲んで、明日も頑張るかと寝床に入るくらいの意味で、何も引きずらないという意味でしかない。つまり思索を深めてくれるわけでも、目が開かれるわけでもない。

 ビクトル・エリセの映画は、そういうわけにはいかないし、やはり、敢えて映画館に足を運ばなければ映画の時間を体験できないし、思考停止に導くようなものではない。

 しかし、今回の作品は、若い頃に観た「ミツバチの囁き」のように、時を超えて脳裏に焼きつくようなシーンが無いような気がした。

 ミツバチの囁きで、少女アナを演じた人が、大人になって、同じアナという役名で出演していたけれど、この女性にも、あまり深みや魅力を感じられなかった。

  事前にプロモーション画像で見た時、海岸にあるサッカーのゴールポストの映像は、映画のフレームを象徴しているのだろうと思い、そのフレームの中で何かを訴えているのだと受け止めていたが、このシーン、たぶんそういう意図なんだと思うけれど、映画の中で、あまり心に刺さるシーンではなかった。

 自分が年齢とともに色々な表現体験を重ねて鈍くなってしまったのかもしれないが、劇場を出ると目にする風景が違って見えるような感覚がなかった。

 わざわざ映画館に足を運んで見る映画には、そうした映画体験を期待してしまう。そうでなければ、家のなかでネット配信を見ればいいのだから。

 それでも、ヴィム・ヴェンダースの新作からは彼自身の映画に対する深い思いのようなものは伝わってこず、慣れ仕事のような感じだったが、ビクトル・エリセの新作からは、映画に対する祈りのような深い思いがあることは伝わってきた。その思いの強さが、31年ぶりのこの映画制作の情熱を支えたのではないかと感じられるほど。

 だからかどうか、登場人物は、監督のその思いを示すための駒にすぎないようにも感じられた。そのため、一人ひとりに、さほど深みを感じられなかったのかもしれない。それぞれの場面で交わされる会話も、ただの会話にすぎず、引き込まれなかった。

 もっとも残念だったのは、場面と場面が、まるで響きあってこなかったことだ。全ての場面が、最後のハイライトの場面のための準備でしかないような。

「ミツバチの囁き」は、どこかで映画が途切れてしまったとしても、そんなことは関係なく脳裏に焼きついたままの場面がいくつかあった。後々まで記憶に残る映画というのは、そういうものだ。

 観たり読んだりすることによって、こちらの思索を深めてくれるものでないと、それは、ただのBGMであり、消費財にすぎない。

 いいね!の数をいくら積み上げたとしても、そんなものは、10年後には記憶からは消え去っていて、長いあいだ、思い入れを維持できるようなものではない。

 ビクトル・エリセの新作は、なぜ、それほどの深みを伴っていないかと考えざるを得ないものがあるから、 BGMだとか消費財とは思わない。

 ビクトル・エリセの限界(年齢も含めて)ではなく、映画の限界なのだろうか、それとも、時代の問題、もしくは私自身の問題なのだろうか。

 「瞳をとじて」の公開に合わせて、「ミツバチの囁き」を上映している映画館がいくつかあるので、確かめてこようと思う。

 ヴィムヴェンダースのperfect daysを観た後は、この「何故なんだろう?」というモヤモヤとしたものは残らなかったから、かつての映画を見なおそうとは思わなかった。perfect daysは、日本の内側深くに入り込んで複雑な内実をどう表すべきなのか葛藤しているわけではなく、自分の印象を軸にして、表層をサラッと流しただけのものだから、人間の「生きる」ことや「在る」ことに対する根本的な問いと向き合う映画表現の限界や可能性を論じる対象ですらない。

 ビクトル・エリセが、31年も沈黙していたのは、ずっと映画の可能性と限界に対する問いに向き合っていたからだと思う。彼の年齢と、一本の映画にかける時間から判断して、次はもうないだろう。そして、この最後の一本において、ビクトル・エリセは、自身が、映画の可能性を拓くことを目指していない。

 「瞳をとじて」というタイトルのように、瞳をとじて、あとは祈るだけだ。

 最後の作品の最後のシーンは、映画の可能性に対する祈りであり、この祈りが限られた誰かに伝わることを願う遺言になっている。この遺言のための筋書きであるため、各場面が、その御膳立てのようにしか感じられないのかもしれない。

 それでも、彼の祈りを受信する映画監督は、きっと世界中のどこかにいるだろう。

 話は変わるが、映画監督の小栗康平さんが、年末あたりからオフィシャルサイトで手記なるものを書き始めた。

 

www.oguri.info

 長年、まったくといっていいほどご自身の考えを文章化してこなかったけれど、月に一回を自分に義務付けて書くことにしたのだそう。

 その第一回前の投稿で、「映画は生きて在る人の姿を写している。それだけでも凄いことではないか。そう考えれば、私にももう一本は撮れるかもしれない」と書かれている。

 「生きる」ということと、「在る」ということ。これがどういうことなのかを突きつけてくる映画表現は、とても少なくなった。

 そして、感傷的にすぎないものを、「生きる」とか「在る」と錯誤させるものが多い。

 「生きる」とか「在る」ことの痛みが強いものは、敬遠されがちな世の中だ。見たくないものを避け続けているから、ますます、その耐性は衰えていく。

 感傷に流れて、その痛みがあまり感じられないものほど、いいね!と軽く共感されるのだけれど、そのなかに、凄いものはない。

 凄いものは、「恐ろしくなるほど」のもので、時には「気味が悪い」もの。

 小栗さんの作品の数は、とても限られている。それは、「生きる」とか「在る」の痛みは、そう簡単に引き受けて形にすることができるものではないからだ。

 泥の河、伽耶子のために、死の棘、眠る男、埋れ木、 FUJITA、どの作品にも、生きることと在ることの深い痛みがある。

 これでも十分とも言えるし、渾身のもう一本が形になることを、私は祈りのような気持ちで期待しているけれど、「月に一回を自分に義務付けて書く」ということは、きっとその始動になるはずだ。

 

 

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第1425回 「日本文明が与えることができる優れた教訓のかずかず」 レヴィ=ストロース 

 

 第15回ワークショップセミナー(東京)を終えた。

 この場で最初に私が話をしているのは、エンジニアリングとブリコラージュの話。

 これは、20世紀の最高の知性、文化人類学者のレヴィ=ストロースが唱えていることで、近代文明の中で生きている私たちは、エンジニアリング的発想に陥っているが、本来の生命原理というのは、ブリコラージュであるということ。

 エンジニアリング発想というのは、設計思想と言葉を置き換えてもいいが、物事を計画的に設計して組み立てていくのが正しいという発想。それに対してブリコラージュは、ウィキペディアなどでは「寄せ集め」という言葉で説明されているが、私は、正しくは、「(洞察的直感による)最適組み合わせ」とした方がいいと思っている。

 洞察的直感とは、思いつきという程度のことではなく、体内の言うに言われぬ感覚に基づいて、理性的にはどうだかわからないものの、そうした方がいいと心の内側が自分に働きかけるような感覚だ。

 これは人間に限らずどんな生物にも備わっている力であり、動物の場合は、野生的本能という言葉で説明されている。人間の場合は、理性を肥大化させてきたために、この野生の本能的な声を聞く力が弱まっている。

 それでも、人生における大事な局面において、理性よりも、この”野生の力”を大事にして、それを行動原理にして生きている人もいる。

 理性的な設計思想や計画的行動というのは、理性的には正しいかもしれないが、この理性分別が、果たしてどこまで信じられるものなのか、という疑問も残る。

 理性分別には、計算が働く。そして、その人の経験に左右されがちで、自己都合になることも多い。

 経験は大切だが、経験に囚われず、というより、経験を積み重ねていたとしても自分の経験したものの表層ではなく本質的な領域に思いを馳せることを繰り返しているならば、個人の経験を超えた、何かしら普遍的な真理に近づけるかもしれない。

 カントは、この経験から独立した先天的認識能力および先天的意志能力を、「純粋理性」とした。

 このカントの「純粋理性批判」は、哲学史上、最も難解な名著の一つとされるが、カントが訴えようとしたことは間違ってはいないと思う。

 彼が生きた18世紀のヨーロッパは、近代科学の最初の波の中にあり、科学を使えば世界の全てを説明することが可能だという空気に満ちていた。その状況の中で、「科学は本当に客観的な根拠をもっているのか」、「科学の客観的分析で世界の全てが説明できるとすると、人間の存在価値はどこにあるのか」という問題を冷静に見つめ、カントは、人間の理性について考え抜いた。人間は、どこまで世界を本当に知ることができるのかと。

 こうした科学の問題は、人工知能時代が始まる現代においても同じであるが、この問題について、カントほど真摯に考え抜こうとする哲学者や思想家や評論家が、どれだけいるのかという問題がある。そんな状況のなかで、自分の思想を構築することより他者の思想を借りてくることの多い学者さんは、「科学万能主義」が席捲し始めている現代にこそカントの「純粋理性批判」を読み直す価値があるなどと言う。

 カントを読み直すのはけっこうだが、そこから先どうするの? カント哲学を紹介して、分析して、説明しても何にもならない。

 カント以降、カントが突き詰めた問題意識を、別の形で突き詰めた人もいるわけで、そうした知見を織り込んだうえで、21世紀という時代状況に即した「言葉」と「実践」が必要だ。

 かつての哲学好き青年のように、カントの「純粋理性」という言葉の意味について激論を交わしたところで、前に進めない。

 カントが突き詰めた「純粋理性」という言葉は、レヴィ=ストロースが異なる言葉で語っている。それが「野生の思考」だ。

 この二つは、基本的には同じで、科学的思考万能の時代に対する問題意識から発生しているが、レヴィ=ストロースの時代は、カントから200年経っており、その間に、科学万能主義がもたらす新たな矛盾や歪みも生じていた。

 レヴィ=ストロース文化人類学者であったから、生きた人間そのものが自分の思考の対象だった。そして、多くの文化人類学者が、異文化圏に生きている人たちを科学的に分析し、整理している状況に対する疑問を感じていた。それらの研究者は、博物館に展示してラベル分けするために、生きている人間を研究しているようなのだ。(美術館の展覧会も似たようなもので、生きた芸術を整理箱に収めて陳列している)

 20世紀における科学的思考万能の歪みは、各種の文化や、人生観、ライフスタイル、消費活動、物づくり、人付き合いの隅々まで行き渡ってしまった。

 多くの表現者もまた、美術館やギャラリーに展示したり本という形にすることを目的設定して、その目的と計画のために、表現素材を利用するのである。

 そして人々は、自分を飾る目的のために、物を買い、経歴を整え、時には人付き合いの相手を決めるのである。なにかしらの物を作る時も、樹木や石など全てのものは、自分の計画を進めるための代替え可能なピースにすぎない。

 レヴィ=ストロースは、他の文化人類学者たちよりも、自分が向き合っている生きている人間たちに対して、深い愛着があった。だから彼らを博物館の展示品のように分析したり整理することに対する躊躇いがあった。

 このレヴィ=ストロースが、おそらくカントよりも深く備えていたものがある。それは、日本文化に対する造詣だ。

 だからレヴィ=ストロースは、科学的思考万能の時代に対して、カントと同じ問題意識を持ちながら、カントが「純粋理性」という概念で説明しようとしたことを、他の言い方で説明することができた。

 それが、「野生の力」であり、その野生の力に基づく実践原理が「ブリコラージュ」であり、その実践における心構えが、対象への愛や尊敬だった。

 カントは、表層的な理性や経験に囚われない「先天的認識能力」というものが大切だと考えたが、それ以上に大事なことは、その「先天的認識能力」の発動のさせ方だ。

 エンジニアリングという計画的設計思想に陥ってしまうと、先天的認識能力を発揮しにくい。なぜなら、計画的設計思想というのは、判断尺度が、自分の経験や理性的設計にあるからだ。

 設計図を描いてしまうと、どうしても、その設計図通りに事を進めたくなる。

 人生においても、計画して将来設計を描いて、そのために、一つひとつのステップを積み重ねていけば、もし何かしらの状況変化が起きて世の中が変わり、自分の描いていた設計図通りに事が進まないだろういう野生的直感があったとしても、なかなかその事実を受け入れられず、潔く別の道を探すということができないために手遅れになってしまうことがある。

 レヴィ=ストロースは、ブリコラージュこそが生命原理だとした。生命活動においては、状況変化に応じた臨機応変さが何よりも大事。状況に応じて、その都度、最適な組み合わせを洞察して判断して、自分の行動に結びつけること。それが野生の思考でもある。

 原始に近い営みを続けている人間世界では、身の回りにあるものは、そのようにブリコラージュで成り立っていることをレヴィ=ストロースは見出していた。

 しかし、設計とか計画がないからといって、単なる行き当たりばったりということではない。設計や計画が、自分の側の都合だとすると、ブリコラージュは、そうした自己都合を取り除いて、自分が向き合っているものに秘められた声を聞きながら物事に対応するということになる。別の言葉で言うと、それが、対象への愛や尊敬ということになる。

 こうした摂理を言葉で説明してもわかりにくいので、私が、よく説明の喩えにするのが、石工の作る石垣や、宮大工の作る建物や、中世日本の日本庭園だ。

 石工や宮大工や庭師には設計図がない。石工は、石の声を聞き、宮大工は、木の声を聞いて仕事をする。そのように彼らが作り出したものは、設計図に基づいて作ったものより、遥かに長い時代、生き残っていく。

 この石工や宮大工の判断能力こそが、カントの言う「先天的認識能力」なのだ。

 カントは、そういう能力が大事だと言っているだけだが、石工や宮大工は、その能力を使って実践的な仕事をしているのである。

 だったら、「科学万能主義」が席捲し、その問題が深刻になってきている現代、カントの「純粋理性批判」を読み直すべきだ、などというより、石工や宮大工の仕事の奥義を学んだ方がいい。

 石工は、「石の声が聞こえるようになるには20年かかるよ」と言う。「20年もかかるのかよ、やってられないな」と思う人もいるし、「20年続ければ石の声が聞こえるなんてすごい」と思う人もいるだろう。 

 石工や宮大工の仕事は、一つの喩えであり、どんな仕事にも、この奥義はある。

 石工にならなくても、石工の奥義で、自分が取り組んでいる仕事に向き合う事はできる。

 レヴィ=ストロースにとって、それは、文化人類学という領域だった。

 医療従事者や心理カウンセラーにだって、写真家にだって、石工の奥義はあるのだ。

 そして、この奥義は、カントを悩ませたもう一つの問題、「道徳」においても関わってくる。

 自己都合的な表層的理性が主張する正しさは、多くの局面において「道徳」を損なっていく。もはや道徳とか倫理という言葉では収まらない暴虐さえ引き起こすことは、現在のイスラエルの状況を見ても明らかだ。

 カントが生きていれば、この問題を乗り越えるのが、「純粋理性」であり「先天的認識能力」だと言うかもしれない。しかし、西洋哲学の限界は、いくら深い探究であっても「言葉が最初にありき」で、その言葉の先の扉を開けないことだ。

 それに対してレヴィ=ストロースは、東洋思想にも造詣が深かったし、フィールドワークという実践的活動に軸足を置いて洞察し、その上に言葉を編んでいった。

 石工や宮大工も、実践的活動を通じて、物と物との関係を身体的に体得していく。

 自分自身も、自分の対象物も、生きているものは刻々と変化していくのだが、言葉ありきで言葉に重きを置きすぎると、その変化に応じられない。だから、カントのいう先天的認識能力は、言葉で固定できない。カントを読むのであれば、その限界を認識したうえで読む必要があり、そこに書かれていることではなく、書かれていることの背後を洞察しなければならない。翻訳本で、それを適切に行えるかどうかという問題もある。

 また、たとえカントを読まなくても、何かしらの実践的活動を通じて、その作法さえ間違えなければ、石工や宮大工のような、先天的認識能力に通じる道はある。

 私が、ワークショップの中で、「日本の古層」の話をするのは、歴史好きのための歴史のお勉強ではなく、石工や宮大工のようなコスモロジーが生まれるに至ったこの国の文化背景を洞察するためだ。

 それが、この科学万能の時代の問題を乗り超えるための先天的認識能力に通じる道だと思うからだ。

 レヴィ=ストロースは、こう言っている。

 「私は、西洋世界が耳を傾けようとさえするならば、日本文明が与えることができる優れた教訓のかずかずを知らないわけではありません。・・、自然への愛や尊敬に席を譲らないで、文化の産物の名に値するものはない、ということであります。」

 日本における自然というのは、花鳥風月にとどまらない。人間を含めて因果的必然の世界全体のことである。

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第1424回 半島は、なぜ聖域なのか。


 今年制作する予定の「日本の古層VOL.5」は、カラー写真を使って「もののあはれ」をテーマに深く掘り下げるつもりで、昨年の末に能登半島を訪れて取材した。これらのピンホール写真は、カラーで撮っていた。

 しかし、この取材後、心にひっかるものがあって、ほとんど完成間近だった「日本の古層Vol.4 始原のコスモロジー」で、5点ほど写真を差し替えて、能登半島の写真を入れた。Vol.4の本は、モノクロ写真で構成しているので、能登半島の写真もモノクロで入れた。その時は、正月の大地震のことは想像できていなかったが、ここ数年、能登地震が続いていることは意識していた。だから、能登の地勢が感じられるようなところを訪れていた。

 今、この能登のカラー写真を見ると、なんだか、向こう側の世界への出入り口のように見える。

 半島というのは、もともと、異界との境界の雰囲気の強いところだ。そして、能登もそうだが、なぜか、日本各地の半島に、原発が多く作られている。

 半島というのは、あまり見せたくないもの、意識させたくないものを隠すのに適した場所なのか。

 何かしら大きな問題が発生した時に、一方が行き止まりだから、被害が及ぶ範囲が限られると考えられているのか。(震災支援の時に、これが大きな弊害となるが)。

 いずれにしろ、日本における境界というのは、古代から聖域であるところが多く、欧米など大陸の国の境界は、こちら側と向こう側を分け隔つ壁であるのに対して、島国の日本の場合は、のれんのように間を仕切ってはいるものの、霊的には、行き交い自由の場所だ。

 現代人は、自分が生きている現実の壁の中に閉じこもって「現実」のことを考える癖がついているけれど、そういう視点だと、現実を相対化できないから、どこまでいっても現実の細かな分析を続ける堂々巡りになる。

 「もののあはれ」というのは、現実の壁の向こう側に自在に行き来することによって、現実を相対化し、全ての現実を宇宙の必然のなかで見つめ、愛おしむ視点だと思う。

 能登は、正月の大震災によって、海の底が地面となり、至る所で断層にそって地面が数メートル持ち上がったところができた。

 我々の日常感覚における「現実」には、そうしたパワーを秘めた地面の下の本当の現実が、意識されていない。

 現代人感覚の現実は、本当の現実の半分以下の極めて限定的な区分にすぎないにもかかわらず、今を生きる私たちは、その限定的な区分が世界の全てのような錯覚に陥って、処世を企んでいる。

 

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また、2月17日(土)、18日(日)に、東京にて、ワークショップセミナーを行います。1500年前および源氏物語が書かれた1000年前の歴史的転換点と、現在との関係を掘り下げます。

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第1423回 もののあはれ源流を辿る。

 風の旅人の第50号の巻末で、次号の告知として「もののあはれ」と示したものの、けっきょく、雑誌として作ることができなかった。

もののあはれ」について、「しみじみとした情緒や気分」とか、「形あるのは、いずれ姿を消す」といった程度で説明されることが多いが、その程度の概念ならば、日本庭園とか茶道とか中世の日本文化をカタログ的に並べて、「もののあはれ特集」はできるだろうが、そんな安易なことはやりたくなかった。

 NHK大河ドラマの「紫式部」に対して、私が、いろいろ批判的なことを書いてきたのは、源氏物語と「もののあはれ」は切り離せないものなのだが、今日の文明社会において、この「もののあはれ」の重要性が、ほとんど考えられていないからだ。

 以前の投稿で、人類の文明に関する一つの重要な法則のことを書いた。

 人間が共通文字を使い始めた社会において、500年ほどで文明のピークに達するという法則だ。

 古代ギリシャ人は、3000年前にフェニキア人が発明したアルファベットを実用的に使用しながら技術や知識を共有化していったが、2500年前にアテネを中心に文明のピークに達し、プラトンソクラテスなど哲学者が登場した。

 古代中国は、3000年前に、周という国が、殷の時代に発明されていた甲骨文字を実用化し、技術や知識を共有化していき、2500年前、一つの文明のピークに達し、孔子老荘思想が登場した。 

 その文明水準の高さは、春秋・戦国時代の動乱を勝ち抜いた秦の始皇帝が残した兵馬俑などの歴史的遺物を見れば明らかである。

 そして、この東西の古代文明圏で、2500年前の文明のピーク時に共通した思想が生まれた。それは、ソクラテス無知の知であり、老荘思想の無の思想だ。

 いずれも「無」や「空」というコスモロジーとつながっている。

 日本においても同じで、今から1500年前に発明された訓読み日本語が、知識や技術の共有化を促進した。カタカムナなどの古代文字が存在した云々の議論はあるが、文字において重要なポイントは、その文字が神聖文字の範疇にとどまって一部の神職だけが使用していたのか、それとも、広く一般的に使用されていたかの違いであり、その意味において、日本の文字普及は、1500年前を起点としている。

 日本は、1500年前から共通文字が一般化されていったが、古代ギリシャや古代中国と同じく500年後の西暦1000年頃、「源氏物語」が書かれた。これは、ソクラテスプラトンの哲学や老子荘子の思想と同じく、日本という文字文化圏のなかで最高峰の思想文学である。 

 1000年前の日本が、文明の最高地点に達していたと言っても、ピンとくる人は、あまりいないかもしれない。

 たとえば技術にしても、インターネットやコンピュータ技術が、人間が作り出す技術の最高だと思っている人が多いが、それは違う。価値の置き所の違いによって人間は作り出すものが違うだけであり、刀剣に関しては鎌倉時代が最高峰とされるが、織物や染色において、平安時代は、現代ではとても再現できないものを作り出していた。

 京都室町で創業300年ほどになる帯匠の誉田屋源兵衛の十代目当主 山口源兵衛さんとは、よくこのことを話すのだが、源兵衛さんは、いにしえの織物や染色の技術を目標にしているが、江戸時代なら、まだなんとか。桃山時代となると、遥かなる高み。それ以前となると、もはや神の境地だと言っている。

 十二単などにしても、12枚の重ね着の重さで女性が拘束されていたかのように思っている人も多いが、それはありえず、一枚一枚が、空気のように軽いのだ。

 そこまで辿り着いていないがという前提で、源兵衛さんから、空気のように軽い絹織物に触れさせてもらったことがあるが、現代文明の衣服とは別次元だった。色彩にしても、源兵衛さんに本物の茜色を目の前で見せてもらったが、色の概念が覆された。それはもはや色ではなく、なんというか、恍惚のなかに引き込む力のある神霊のような気配だ。

 人間というのは、極めていくと、常識では計り知れない、神霊の仕業かと思うようなことを成し遂げる。そういう潜在的な力を人間は秘めている。

 そして、その文明の一つのピークの平安時代に生まれた思想が、無の思想などに通じる「もののあはれ」であり、その具体化が、源氏物語なのだ。

 平安時代にかぎらず、古代インカのサクサイワマン遺跡など世界中に、現代の技術でも再現不可能な遺物は、いくらでも残っている。

 繰り返しになるが、共通文字を使い始めて500年ほどで、人間は文明の極点に達する。現代の欧米文明においても同じで、今から500年前のグーデンベルグ活版印刷の発明こそが、文字普及の起点であり、それ以前、一般の人々は、生活のなかで文字を使っていなかった。

 だから、それから500年経った今も、欧米文明のピークである。

 ただし、いつの時代も、文明の形とか、その文明圏の人間が追究するものには多少の違いがある。コンピューターが、人類の歴史上の文明の最高点ということではなく、現代文明の思考特性(デカルトから始まる)の必然的帰着にすぎない。

 しかし、文明の形は違えど、芸術や思想は、ある程度の共通性と普遍性がある。だから、異なる文明圏の芸術や思想でも、心に訴えてくるものがある。芸術や思想は、人間が、自分が生きている世界をどう捉えて、どう生きようとするかの反映で、これに関しては、人間の脳の働きとして、共通のものがあるからだろう。 

 興味深いのは、現代文明の中において、欧米の先鋭的な思想家や芸術家が、日本文化に強い関心を示してきたことだ。19世紀末の印象派などの美術、20世紀に入ってレヴィー・ストロースなどの思想家、20世紀後半には、多くの欧米の映画監督が小津安二郎を崇敬している。

 現代文明もまた、上に述べたように、グーテンベルグ活版印刷による文字の普及から500年で、文明のピークに達しており、ソクラテス老荘思想が現れてもおかしくない状況だからだ。

 ただ、ソクラテス老荘思想は2500年前だが、日本の「もののあはれ」は現代に近いところにある。「もののあはれ」は、平安時代の賜物だが、日本の中世文化は全てこの影響下にある。能や俳句や禅をもとにした庭園や茶道その他すべて、海外の人たちが「日本文化」として評価しているのは、すべて同じ流れの中にある。

 現代文明の問題を痛切に感じ取っている欧米の先鋭的な芸術家や思想家にとって、身近なメルクマールは、ソクラテスの哲学ではなくて、日本の「もののあはれ」なのだろう。

 そういうことを考えて、私は、「風の旅人」の第50号の巻末で、次号の告知として「もののあはれ」を構成すると書いた。しかし、雑誌という形では、できなかった。

 現代文明の中にどっぷりと身を置いている私自身が、日本の古層に対して疎かったからだ。理屈として多少わかっていても、実感としてわかっていない。

 そこから、雑誌媒体はやめにして、一人の人間として、日本の古層に潜り込んでいく旅が始まった。2015年の10月が風の旅人の最後の号で、2016年の10月から、ピンホールカメラを手に日本中の古層をめぐる旅を続け、7年が過ぎた。そのあいだに、4冊の本を作った。

 今、次の本の構想を始めているが、4冊目の「始原のコスモロジー」で、1500年前の日本のかなり深いところまで降りていったという実感があるので、次は、1000年前の「もののあはれ」が、重要なテーマになる。

 つまり、ようやく、2015年の10月にやり残したことを、形にしていく段階にきたということ。

 あの時に巻末に書いた言葉を、今あらためて読んで少し驚いたのは、最新刊の「始原のコスモロジー」の巻末に書いたことと、ほぼ変わらないことだ。

 最新刊の「始原のコスモロジー」は、年末に能登半島を一周して、その時の写真も5点ほど入れて、年末に完成した。その後、シンクロするかのように能登大震災が起きてしまった。

 2015年の10月の風の旅人第50号の巻末に書いたことは、次の内容であり、これはそのまま、少しずつ作り始めている日本の古層vol.5「 もののあはれの源流を辿る。」に通じるものだ。

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 この世の生は、思い通りにならず、「仕方がない」と思うことも多い。

「仕方がない」というのは、絶望して消沈してしまうことではなく、わずかな可能性の中でも生きる力を見出そうとする祈りに似た気持ちが反映されている。

 つまり、自分が陥っている状態に心をとどめず、気持ちを切り替えようとする意思を含んだ言葉だ。

もののあはれ」を知ることも、単なる無常観ではなく、西行の言葉によれば、「およそあらゆる相これ虚妄なること」を知ることであり、心を一つの概念に固定させないということになる。

 ”もの”は、物とも霊とも書く。「物」という漢字は、今ではただの物体という意味でしか受け止められていないが、そもそもは、「牛」と「勿(なかれ)」である。

 「牛」というのは、古代、豊穣のシンボルであり、人間にとって最も大切な生物であったが、その牛を敢えて生贄として神に差し出していた。だから、「犠牲」という字には、「牛」という字が入っている。

 そして、「勿」は、もともとは仏教用語であり、世の中の物事すべては、みなお互いにもちつもたれつの関係で自分単独ではありえず、すべてが縁でつながっている状態のことを指す。ゆえに、「勿体ない」は、ただの節約ではなく、縁を損なっていないかという後ろめたさが含まれる。

 縁のつながりというのはデリケートで、はかないけれども無限のグラデーションがあり、「もののあはれ」というのは、そういう世界の摂理を自分ごととして受け止め、それを愛しいと思いながら、謙虚に自分の役割を知る感覚のことだろう。

 西行の歌、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

 は、もののあはれの本質をよく表していると私は思う。

 みずからの存在を、”かたじけない”と感じる瞬間というのは、自分がそこに存在することに対する申し訳なさと、有り難さの両方が混じっている。

 その感覚は、自分が拠り所にするものへの傲慢な執着によって様々な歪みを生み出しやすい人間にとって真に大事なものであり、日本人がその感覚を少しでも維持し続けているのなら、それこそが、日本が守るべき道徳文化なのだと思う。

 

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第1422回 源氏物語と、もののあはれ

石山寺紫式部が、源氏物語を書き始めた場所とされる。

 

 NHK大河ドラマの「紫式部」は、藤原道長との恋愛が軸になっているそうで、その恋愛が「源氏物語」の着想につながっているという設定のようだが、本当に、そういう安易な解釈でいいのだろうか。

 光源氏の「源氏」は、天皇の子として産まれながら、母親の身分が低かったりの理由で臣籍降下をして皇室を離れた者の姓である。

 源氏物語の主人公の光源氏は、桐壺帝の子として産まれたが臣籍降下をした貴族である。

 この桐壺弟は、源氏物語の書き出しで理想的帝王として描かれており、聖代とされる醍醐天皇がモデルとされている。

 ならば、ふつうに考えれば、醍醐天皇の子でありながら源氏の身分に臣籍降下をした源高明を、光源氏に重ねた方がいいのではないか。

 光源氏のモデル候補としては、紫式部が生きた時代より150年も前の嵯峨天皇の息子、源融なども有力候補などと言われるが、この人物は、歴代最初の「源氏」で、京都の六条河原院に壮大優雅な庭園を造らせたという故事があり、これが、光源氏の絶頂期の住まいである六条院のイメージの元になった可能性がある。しかし、紫式部と近い存在なのは源高明であり、その栄光と悲哀に満ちた人生も、光源氏が辿った人生に重ねられる。

 さらに、藤原道長は、この源高明が失意のなかで亡くなった後、その娘の源明子を妻にしている。

 藤原道長は6人の女性を娶ったが、正室と妻、二人の妾の4人が源氏の娘であり、残り2人だけが藤原氏の娘であった。さらに、藤原道長は、後の時代に源頼朝足利尊氏を生んだ清和源氏とも深い関係にあり、道長を経済的に支え、警護も担っていたのは、源頼光だった。

 この清和源氏が、次の時代の主役になっていくわけだが、源氏物語が、「源氏」を主人公にして描かれているのは、こうした歴史的背景がある。

 そして、紫式部と、私が光源氏のモデルだと考える源高明のつながりは、理想的帝王の桐壺帝のモデル、醍醐天皇である。

 醍醐天皇の母の藤原 胤子の兄の藤原定方の娘が、紫式部の父親の母なのだ。

 また、醍醐天皇は、源氏の身分で産まれて天皇になった唯一の天皇でもあり、醍醐天皇と血がつながった紫式部が、「源氏」を主人公にして物語を紡いだ背景に、この史実もあると思われる。

 藤原道長紫式部は、ともに「源氏」と深く関わっていたのだ。

 そして、醍醐天皇の子として産まれたものの、母親の身分が高くなかったために7歳の時に臣籍降下をして源氏の身分となったのが源高明だった。

 967年、源高明は、自身の娘を次の東宮(皇太子)の有力候補である為平親王の妃とし、栄華の絶頂にいたが、969年、安和の変が起こり、これに巻き込まれて謀反の疑いがあるとされ太宰府に流された。

 この事変は、藤原氏の陰謀で政敵の源氏を政界から追放するためのものだと説明されることが多いが、そんな単純なことではない。

 一般的に藤原氏を一括りにしている人が多いが、この安和の変の背後の事情は、藤原兼家藤原道長の父)と、藤原兼通の兄弟対立である。

 さらに、後の時代に武士となる勢力のあいだにも対立があった。藤原兼家を武力面で支えていたのは清和源氏源満仲で、藤原兼通には、藤原千晴がいた。藤原千晴は、平将門の乱を平定した藤原秀郷の三男で、父の功績で平安京で活動するようになっていた。

 そして、この藤原千晴源高明の従者であったために、源高明も関与が疑われたのだ。

 この乱は、清和源氏源満仲が、「謀反を起こそうとしている人物がいる」と密告したことから始まったが、源満仲清和源氏によって捕らえられた藤原千晴は、隠岐国流罪となり、これを機に藤原秀郷の後裔は平安京から姿を消すことになるが、これが後に、東北の平泉を拠点に栄華を誇る奥州藤原氏となる。

 この奥州藤原氏は、1051年の前九年の役で、東北の安倍氏とともに清和源氏源頼義と戦い、さらに、1189年、源義経を匿ったとして清和源氏源頼朝によって滅ぼされたわけだが、清和源氏藤原秀郷の後裔の確執は、969年の安和の変から始まっていたことになる。

 源高明は、安和の変の2年後の971年に罪を赦されて帰京したが、政界に復帰することなく隠棲しており、源氏物語において、晩年、姿を消す光源氏と重なってくる。

 源高明が亡くなってから、藤原道長は、彼の娘を妻とした。

 源高明は、僅か2年で太宰府から帰京しているので、藤原兼家と兼通兄弟の対立、および清和源氏藤原秀郷の後裔の戦いの巻き添えをくっただけなのだろう。

 光源氏のモデルを源高明とする説は、鎌倉時代の後半にも記録として残されているが、江戸時代に本居宣長が、「光源氏のモデルを歴史上の色々な人物に見出そうとしているが、その一人ひとりが、個別の事柄で一致していても、全てが完全に一人にあてはまるわけではない」と批判している。

 本居宣長は、当たり前といえば当たり前のことを堂々と宣言しているが、色々な史実から着想を得て、それらを複雑に織り成して源氏物語という文学は作られている。

 しかし、それでも物語には軸になるテーマがあり、源氏物語に流れている深いテーマは「もののあはれ」だ。そのテーマに一番相応しい人物が誰なのかを、考える意味がある。

 光源氏の候補とされる源融や、藤原高藤(身分の低い家の娘と結ばれて産まれたのが、宇多天皇の妃となった藤原 胤子で、ふたりの間に醍醐天皇が産まれた史実が、光源氏と明石の君のあいだに産まれた明石の姫君が皇后となって世継ぎを産むという筋書きと重なっている)と源高明、そして藤原道長も含めて、その生涯を通して「もののあはれ」の物語の主人として、また「源氏」と紫式部の関わりを示す存在として、誰が相応しいかと考えると、源高明だろうと思われる。

 源氏物語は、理想的帝王の桐壺帝のことから始まり、この桐壺帝の息子でありながら、源氏の身分に臣籍降下をしたのが光源氏だという設定から始められる。

 この桐壺帝は、源氏の身分から天皇になった唯一の存在である醍醐天皇がモデルで、この醍醐天皇の子でありながら源氏の身分に臣籍降下したのが源高明。しかも、醍醐天皇も、源高明も、紫式部と共通の祖を持つということになる。

 そして、栄華の側面ばかり強調されている藤原道長も、その晩年は、病に伏せがちで、出家することになり、「もののあはれ」の気配が強かった。

 しかも、彼は、清和源氏によって支えられ、その見返りに清和源氏に権限を与えており、このことが、貴族の時代の終焉と武士の台頭を加速させることになったわけだが、こうした時代の境目にいることも深く感じていただろう。

 以前にも書いたが、​​藤原道長が詠んだとされる「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」は、この世で自分の思うようにならないものはないという驕りを歌ったものではないことは、自分の世を欠けていくことが宿命の月に喩えていることから明確である。

 藤原道長が、源高明の娘の明子を妻に娶った時は、すでに源高明は亡くなっていたし、その晩年は謀反の疑いをかけられていたわけで、政略結婚ではないことは明らかだが、この明子は、父の死後、藤原道長の姉で一条天皇の母となる藤原 詮子に引き取られていた。詮子は道長と仲が良く、道長が兄弟のなかでの出世競争に勝ち残る後ろ盾になった詮子が、藤原道長に、源明子を娶らせたと考えられる。

 藤原詮子は、真如堂・慈徳寺を建立するなど厚い信仰心をもった女性であり、源高明が、詮子の父親の藤原兼家と伯父の兼通の兄弟対立などに巻き込まれ悲劇を被ったことから、その娘で薄幸の明子を、保護していたのかもしれない。

 こうした仏道の精神も、源氏物語には強く反映されている。

 光源氏も、彼の最愛の女性の紫の上も、強く出家を望んでいたが、なかなか望みは叶わなかった。

 それに対して、光源氏も紫の上もいなくなった源氏物語の後半、宇治十帖の最後を締めるのが、薄幸の人生を送ってきて、その最後に潔く出家する浮舟という女性がいる。

 その名前のとおり、幼少の頃より運命に翻弄されるように不幸が続いていた浮舟は、光源氏正室女三宮に密通した柏木の子という複雑な出生の事情を持つ薫の愛人となって宇治に囲われる。しかし、彼の留守中に、光源氏の美しい表面だけを受け継いで内面に欠ける匂宮(光源氏の孫)に欺かれるように関係を持ってしまい、二人の貴人のあいだで板ばさみに苦しむ。その事が薫に知られ、追い詰められた浮舟は自死しようと試みたが、山で行き倒れている所を横川の僧都に救われ、出家をする。

 その後、浮舟のところに薫が訪ねてきて、自らの元に戻るよう勧められても、それを拒絶して、源氏物語は終わる。

「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」

 あなたの心は変わらないかも知れないけれど、水に浮く小舟のような私の身は不安定で、どこへ漂ってゆくかも知れない。

 この謎めいたラストが、長大な源氏物語の秘められたテーマの総括ということになる。

 源高明の娘の明子を妻とした藤原道長は、国母として自分を支えてくれた姉の詮子を通じて、仏道の影響を受け、慈愛も深かったのだと思われる。

 信仰に厚い詮子が、兄弟のなかで特に道長を可愛がったのも、もしかしたら、道長のなかに仏道に通じるのものを感じていたからかもしれない。

 紫式部は、祖先を通じて血のつながった醍醐天皇と通じて、「源氏」は深く自分ごとであったし、藤原道長にとっても、妻たちや、清和源氏を通じて、「源氏」は深く自分ごとであった。

 そして、源氏物語が書かれて時は、貴族から武士の時代への転換期であり、さらに末法の時代であり、「もののあはれ」と「仏道」の気配が濃くたちこめていた。

 源氏物語を、華やかな平安貴族の絶頂期の物語として認識している人があまりにも多いが、それは残念ながら、学校で教える先生にも、源氏物語を読み切っている人が少ないからだろう。

 おそらく、大河ドラマの制作に関わっている人たちの中でも、源氏物語を読んだ人は少ないと思われる。もしくは、「10分でわかる」の類か、光源氏の恋愛物語に歪められている漫画を通じて、知ったかぶっているだけだろう。

 日本の歴史上、最高峰の文学とされ、海外でも広く紹介されているにもかかわらず、源氏物語の真相は、日本人の心には、あまり行き渡っていない。

 

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第1421回 源氏物語のハリウッド的味付け!?

源氏物語の後半の舞台は宇治。宇治平等院は、藤原道長の息子、藤原頼通が、末法の時代を反映させて、別荘を寺に改めた。

大河ドラマの「紫式部」は、セクシー&バイオレンス路線なのだそうだ。そうしないと視聴率を稼げないのだそう。

 テレビ番組については関心がないので、どうでもいいのだが、セクシー&バイオレンスでやりたいのであれば、1000年前の世界を題材にするのではなく、現代風のドラマでも作ればすむこと。川端康成三島由紀夫など、日本文化や日本の美について深く考え抜いていた人たちが、日本の歴史上、最高峰の文学だとみなし、その後の歴史において超えるものがないとする「源氏物語」の背景を歪めてしまうことにならないか、もう少し考えた方がいいのではないだろうか。

 『苦海浄土』の石牟礼道子さんや、『百年の孤独』のガルシア・マルケス、『罪と罰」のドストエフスキーといった人たちを、視聴率を稼ぐためという理由で手前勝手な脚本で描くことは躊躇われるだろうが、紫式部は1000年前の人なので、そんな昔の人の尊厳など気にする必要なしということか。

 NHKは、日本国民の受信料によって運営され、公共の福祉と文化の向上に寄与することを目的に設立された公共放送事業体である。

 NHKに対して、”文化の向上”を期待している人が、果たしてどれだけ存在するのかわからないが、そもそも、HNKで働いている人で、このことを深く考えている人が、どれだけ存在しているのか疑問だ。

 食堂でご飯を食べている時に、ダイジェストか何かで映像が流れていたが、紫式部役の女優さんは、喋り方や動作など銀行か何かのコマーシャルの印象とまったく同じだった。素のまま演じることが持ち味なのかもしれないが、現代のトレンディドラマに向いていても、果たして源氏物語の作者としてどうなのか疑問に思わざるを得ない。

 『源氏物語』は、決して、浮かれた恋愛物語ではない。

 物語の前半、光源氏がまだ若い頃の話のなかで特に重要な役割を果たしているのが、六条御息所の怨霊だ。この祟りによって、光源氏正室だった葵の君と、夕顔は命を落とす。

嵯峨野の竹林。伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清めた「野宮神社」が、竹林の中に鎮座する。源氏物語では、怨霊として光源氏の周りの女性を苦しめた六条御息所と、斎王となったその娘(のちの秋好中宮)が、ここでしばらく暮らし、そこに光源氏が訪ね、別れを惜しんだ後、二人の女性は伊勢に向かう。

 「崇」という字は、「崇める」という意味でも使われるが、「たたる」は「たつ」が原語で「顕つ」から発生しており、これは、目に見えない力が現れることを意味しており、神と怨霊の違いはない。

 「畏れ」という言葉も同じで、単なる恐怖ではなく、憧憬や敬意を含んでいるが、自分の理解を超えた何事かに対する気持ちである。

 自然を愛でる気持ちも含めて、そこにある物自体の美しさに心はとどまらず、その背後にあるものへの思い。このことを踏まえずに、源氏物語を読み解くことはできない。

 光源氏が女性に心を惹かれるのは、歌や会話や振る舞いなどから滲み出る知性や教養、心の持ちようの面白さや可愛らしさや健気さを通じてであり、今でいう顔やスタイルといった表面ではない。

 そもそも、日本が伝統的に育んできた文化芸術で、現在まで残るものの多くは、「 畏」や、「崇」といった目に見えない力に対する思いが強く反映されている。

 能は言うに及ばず、俳句にしてもそうだし、たとえば建築や庭園にしても、自然に対する「 畏」の気持ちが根本にある。

 自分の思うように自然を使うのではなく、できるだけ自然の摂理に反しないように使わせていただくという気持ちは、「 畏れ」である。そうしないと、「祟られる」のだ。

 そうした文化の歴史的な積み重ねによって、自らの我を強く主張するものよりも、質素で慎み深いものに隠されたものを汲み取る感受性が育まれた。

 自らを謙虚にする文化を作り上げてきたことじたいが、この国の深い叡智であり、そのエッセンスが、「もののあはれ」である。

 源氏物語というのは、中世の日本文化に通底する「もののはれ」の芸術表現としての源流であり、だからこそ、日本の歴史において、極めて重要な創造物なのだ。

 源氏物語の第41帖までの主人公である光源氏の若い頃の物語においては、六条御息所の怨霊が大きな役割を果たすが、その後、光源氏は凋落して、須磨に流れゆき、明石入道に出会う。 

 そこから光源氏は、再び、栄華を取り戻していくが、心の中は常に虚ろであり、出家願望を強く持つようになる。

 さらに、光源氏が期待をかけていた柏木が、光源氏の継室(後妻)である女三宮と密通し、薫が産まれる。世間は、光源氏の子だと信じているが、光源氏は、事実を知ってしまう。そして、女三宮は、これを機に出家する。

 そして、光源氏が、生涯を通じて愛していた紫の上は、子供を宿すことなく亡くなる。

 41帖の「幻」の帖は、紫の上に先立たれて悲しみにくれる光源氏が、出家を決心し、その心情が、四季のうつろいを通して描かれ、「大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂(たま)の行く方たづねよ」と詠む。

 姿の見えない紫の上に対する深い思いがここにある。

 全体で54帖もある源氏物語で、光源氏もまた、その後、姿を見せない。

 須磨と明石を転換点として光源氏は、栄華の道を歩んでいるように見えるが、その光が強まれば強まるほど、影も濃くなっていく。

 NHK大河ドラマにおける光と影は、どうやらセクシーとバイオレンスのようだが、アメリカのハリウッド映画のようなものにしておけば、今日の日本人の多くが喜んでくれるとでも思っているのだろうか。

 日本国の公共放送事業体は、「日本人の知性と教養はその程度のもの」とみなしているのだろう。

 日本国の学校教育も、文化とは何かを教える場ではないのだろう。

 

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