Pathfinder

 「THA BLUE HERB」に限らず、現在、たとえメジャーでなくても多くの人の心を捉える表現というのは、OZETINさんの言うように、魂(生きようとする力、生き抜こうとする力)を宿らせている。
 表現活動というのは、人間だけのものではなく、他の生物であっても求愛行動などにおいて、”表現”を行う。そのほとんどは、自分が生きていくためであったり、自分の子孫を残していくためのもの。だからおそらく、人間の表現行為も、それと似たような意味がある筈。人間にとって子孫というのは、肉体的なものだけでなく、精神的分身をも含んでいると仮定して。
 ならば、なぜ表現が、人間を生かす力になるのか。そして、なぜ人間は精神的分身をも残したがるのか。そもそも精神というのは何なのか。
 私が思うに、”精神”というのは、「自分という存在が、肉体のみに生きているにあらず」と自覚する感覚のこと。それを自覚するからこそ人間は、肉体も満たさなければならないし、肉体とは別の精神的生存の根拠を満たさなければいけない。優れた表現は、その精神的生存の根拠を満たすものであり、それが生きる力に還元される。
 その肉体以外の領域とは、本能的欲求や思考や心の働き。しかし、本能的欲求も思考も心の動きも脳の作用ということで、けっきょくのところ脳が唯在ると結論づける人もいる。
 でも、脳というのはパーツではなく、システム。本能的欲求や思考や心の働きというのは、そのシステムの中に生じる”風”のようなものではないかと思う。そして、”風”は、何かに作用することではじめて、その存在を知らしめる。おそらく、本能的欲求も、理性も、心も、同じ”風”のようなものの筈。それらは全て魂(生きようとし、生き抜こうとする風のような力)と言ってしまっていいと思う。
 人間は、ある時期から、本能や理性や心といった肉体の中を吹き抜ける”風”に対して、より自覚的になった。その自覚的症状が”精神”ではないか。
 精神とか魂という言葉の概念は、慎重に考えなければならないが、私の定義としては、
”魂”は、生きようとし、生き抜こうとする力だから、どんな生物にも存在する。また、どんな物も、それが混沌化して分解して掻き消えずに、原子や分子の引き合う力によって姿形をとどめよう(生き抜こう)としている限り、”魂”が宿っているし、長年の歳月に耐え得た物は、それだけ”魂”が強く宿る。そして、”精神”は、そういう”魂”の働きや、自らの本能的欲望や、思考や、心の働きに自覚的であること。これが他の生物や物にあるかどうか、私にはわからない。私のなかで”魂”と”精神”は別のものだ。
 人間という生物は、”精神”の力によって、目に見えない欲望や思考や心といった”魂”の働きを明示し、分身化し、共有化しようとした。それが”表現”だ。なぜそういうことをするのかというと、”人間”というのは個体ではなく脳内現象を集団的に共有する”システム”のなかで生きていくべき存在であるという自覚を人間各自が無意識的に共有しているからだ。同時に、他者の”表現”によって、肉体とは別の精神的生存の根拠を満たされ、生きる力を獲得するという経験を”人間”は数多く積んできており、それゆえ、表現の力に対しても自覚的なのだ。
 そして、そうした、”表現の力と共有”に対する自覚は、肉体以外の領域を自覚しながら生きていかなければならない精神的人間にとって、必須のことだったに違いない。

 人間が他の生物と少し違うところは、脳のフィードバック機能が、他の生物以上に多重になっていることだと思う。行動の結果を省みて、原因に反映させ、様々に調整し、より周到に、より慎重に、ものごとを成し遂げていく力を人間は持っている。こうした”理性”も、「生きようとする力、生き抜こうとする力」に裏打ちされているかぎり、”魂”だと思う。
 ネアンデルタール人より華奢で繊細で脳の容量も小さく、肉体的頑強さも劣る我らが祖先ホモサピエンス・サピエンスが、滅亡するネアンデルタール人を横目に、氷河期を生き残ったのは、そうした理性的小心さという”魂”を持っていたからではないか。
 しかし、環境変化によって、その「理性的小心さ」という脳の働きそのものが、生きづらさになってしまうことがある。本来、理性というのは、本能と本能の生のぶつかり合いによって発生しうるリスクを想定して、より賢明な行動手段をとり、そうすることによって、より生き抜きやすくなるために発生する脳内の働きのはずなのに、その強かな理性分別の足枷によって行動を縛られ、より生きにくくなってしまうことがある。こうした段階で脳内に発生する新たな働きが、今日風に言うならば”心”なのではないかと私は思う。理性的に打算的に生きるのではなく、”心”に正直に生きたい。”心”に正直に生きればいい、というメッセージが心を打つのは、”理性”で身動きできない自分の心を、叱咤激励し、勇気づけるからだろう。
 そして、そういう心の働きが、生きようとする力、生き抜こうとする力に裏打ちされている場合は、やはり”魂”なのだと思う。
 本能も理性も心も、”魂”であって、それぞれ段階が違うだけだと思う。
 だから、本能的なものに魂が宿る段階もあるし、理性的なものに魂が宿る段階もある。
 そして今求められる”魂”とは何なのか。
 「THA BLUE HERB」の音と言葉に、多くの人の”魂”(生きようとする力、生き抜こうとする力)が共振するならば、そこにその理由の一つがあるのかもしれない。
 教科書を通じて教わることも、本来は、生きる力に還元されることが目的だった筈で、それゆえ明治時代の日本でも、今日の発展途上国でもそうだけれど、学習することと生きる歓びが密接につながっている。子供たちは学校に行きたくてしかたがない。その理由は、おそらく、モノゴトを知ることが脳内を心地よく刺激するからだろうし、学習と自分の将来へのビジョンが一体化し、それを信じられる歓びに満たされているからだろう。
 でも、学校で勉強することが嫌で嫌でしかたなくなってしまった時、そこにはそれなりの理由がある筈で、ただ「勉強しろ、勉強しろ」と口酸っぱく言っても何の解決にならない。おそらく、教科書から学ぶことが、「生きようとする力、生き抜こうとする力」に関わってこないし、自分の素晴らしい将来ともつながってこないということが直観でわかってしまうからだろう。
 黒板に書かれていることを、そのままノートに書き写すだけの大学教授のつまらない講義にしてもそう。それを踏襲するかのような高校や中学の授業もそう。世の中に氾濫する似非哲学者や似非知識人の知ったかぶった専門用語の羅列書物にしてもそう。ありとあらゆる種類のソフィストが、時代を小難しく、人生をややこしくする。
 でも、人間社会というシステムは、それなりに修正機能を備えていて、誰しも今日の”言葉”の在り方にうんざりし、異なる在り方を待望している(新しい創造は、旧世界の否定にもつながるので、旧世界が牛耳る社会において、なかなか表にでてこれないが・・)。
 しかし、旧世界!?を構成する無数の学者や評論家の名前、哲学者の名前、小説家の名前、現代詩人の名前なんて、もはや誰も知らないし、星の数ほどある文学賞の受賞者など誰も知らない。マスコミが騒ぐ芥川賞にしても、あの二人の若い女性以外(私も名前が出てこない)に、ここ数年の受賞者の名前をあげられるのは、文藝雑誌に投稿し続けている人くらいではないだろうか。そうした状況を、活字離れとか、文化の軽薄化とか深刻ぶって憂慮する似非有識者も多いが、知識や教養をハウツーのように覚える行為や、知識人や文化人を気取った人の独白的小説や、理性分別の苦汁のような詩が、もはや”魂(生きる力、生き抜こうとする力)になりにくいという段階に入っていることを自覚することの方が大事だろう。そうして、そういう傾向を嘲笑うかのように、信念を意志も情熱も思想も感じられないような、そうしたものからも自由だと言いたいような、生きる力や生き抜く力とも無関係で、それゆえ何の分身も生みださないようなものが現れては消える。理性分別とか知的教養からだけでは前途に展望を見いだせないと自覚する一部の人が、新しい”風”を期待するあまり、何もないものを、何かあるかのように取り上げたりする。でも、そこに表された”言葉”を自分の血肉にしたいと思えないものは、自分が生きていくうえで必要な表現ではないということだろう。
 戦後の日本社会を支えてきた良識ある知識人は、太平洋戦争で、思想と情熱と信念が一緒になった時の恐さを知ってしまった。戦前の教科書を墨で塗り消す作業から戦後の教育を受けた人たちにとって、思想とか信念というものに対する疑わしさは、とても深刻なものだろう。
 それでも、やはり、人間として心強く生きていくためには、幾層にも重ねられた疑わしさの上に、新たな”魂”(生きる力、生き抜こうとする力)を見出さなければならない。それを自覚する”精神”をもたなければならない。その自覚があってはじめて、意志となり信念となり情熱となり、新しい思想が生まれる。そして、その自覚に至るためには、人類の歴史や芸術や哲学や経済や諸々の活動をただ雑学としてや試験対策のように覚えるのではなく、それらを総括(実証字義的にではなく、直観的に主観的に=覚えたり総括することが目的でないから)したうえで、「人間とは何なのだ。そして、人類の一つの過程であるこの不安の時代に、自分はどう生きるのか」という考察を重ね答えを導き出す意志と意欲を持ち続けなければならないのだろうし、もしかしたら、その意志と意欲そのものが、今日の新たな”魂”(生きる力、生き抜こうとする力)なのかもしれない。
 いずれにしろ、表現者は、その人が生きる時空において、生きる力や生き抜こうとする力につながっていくもの(魂)が何なのかを強く自覚したうえで実践していく”Pathfinder”でなければならないのだろう。人それぞれ、やり方は異なるにしても。

*ちなみに、2月1日に発売される『風の旅人』Vol.12『混沌からかたちへ』の表紙画(虎尾隆制作)の題名は、「Pathfinder」。 裏表紙は、「Science Violence Silence」。