思考と形と”生命力”?

Tit様
風の旅人」掲示板へのコメントありがとうございます。
 Titさんの言葉に刺激されて返信が長くなりますので、こちらに書かせていただきます。

 図書館に置かれている「風の旅人」に、私の手紙が挟まれたままになっているといろんな方から聞いて、正直言って、図書館の対応の粗雑さに呆れ果てていました。
 このブログの1月11日の書き込みでも、そのことに触れました。
 それはともかく、Titさんのコメントで私が印象的だったのは、「考える一個人として全ての筆者の言葉に納得できたわけではありません」という言葉です。
 そういう感じ方をする人が、この日本社会にどんどん出てこなければならないと私は思っています。
 評論家や専門家、大学教授、学校の先生、わけのわからないエッセイストや作家、などなど、肩書きとか、出身大学とか、留学経験がどうだとか、どの分野の専門家であるとか、有名であるとか、どんな本をこれまで出したとか、本が売れているとか、上辺のことばかりが情報として飛び交っていますが、そんなことに騙されてはいけません。
 自分の感じ方と思考で、ものごとを判断していくべきで、そういう力を、一人一人が研ぎ澄ませていくべきだと私は思っています。
 だから、「風の旅人」の写真家は名前だけしか入っていませんし、執筆陣も、私の印象と、最低必要限度のバックグラウンドだけを書いています。何もなくてもいいのですが、少しだけ説得力を増すためにそうしています。
 
 このブログの1月17日にも書いたのですが、日本人は”あてがわれたもの”から脱していく心の姿勢を今こそ強く持つ必要があります。
 「風の旅人」の執筆者は、今でこそ日本の知を代表されるような方々(こういう言い方はあまり好きではありませんが)ばかりですが、日本の硬直したアカデミズムや文壇の階段を上ってきた方々ではありません。はっきり言って、異端のような人たちです。本人が意識していない場合もありますが、異端として自分の前に自分で道をつくってきた人たちです。だから、必ずしも「正しい」ことを言っているわけではないのです。
 しかし、歴史上、その時点ごとに「正しい」とされたことも、あとから振り返ったら大間違いということも多々あるわけで、コペルニクスだって、100年後、やっぱり間違っていた、ということが絶対にないとはかぎりません。
 私が大切だと思うのは、自分の感覚する真底正直な気持ちで、それをそうだと思い、いや待てよと思い、でもやっぱりそうだと思い、でもまた、いや待てよと思い、その反復がどれだけ深いかということと、その底深い葛藤によってフリーズしてしまうのではなく、”創造”とか”行動”に昇華させていく力を備えていくことです。
 その反復の深さというか、思考を前に進める力と、それを”形”に昇華させる力こそが、人間にとっての”生命力”ではないかと私は思うのです。
 しかし、今日のメディアであれ、小説であれ、多くの学問であれ、固定した思考を型通りに出すものが多いわけです。型通りというのは、問いを発する時にすでに答えが用意され期待されていることで、(日本の学校教育はほとんど全てそうなってしまっているのはないかという懸念があるのですが)、そういうことを繰り返すと、思考する力をどんどん蝕んでいくとともに、型通りでないものに対する条件反射が著しく低下します。コンピューターのフリーズ状態になってしまうわけです。
 こうした状況は、人間の”生命力”の喪失につながっていくと私は思います。なぜなら、今日のパラダイムが不動のものとして未来永劫続くことはあり得ないからです。
 人間は、森羅万象をコントロールできる存在ではありませんから、いつか必ず、人間が予期できない環境変化が起こります。環境変化が生じた際に、その変化に巧みに対応する力こそが、人間の”生命力”だと私は思います。人間の幼児期間が他の動物に比べて圧倒的に長いのは、多くの生き物のように生まれ落ちた時に既に生き方が決まってしまうのではなく、脳のプログラムが固まっていない状態の時に学習させることで、生まれ落ちた世界への環境適応を最善にすることためだと、誰かが言っていました。(これだけ変動の激しい時代ですから、その後の修正力も同時に身につける必要がありますが)
 環境変化は何も地球規模の大きなものでなくても、バブル経済崩壊とか、自分が所属している会社組織の倒産とか、人生の節目で様々な形で起こりうることでしょう。

 誰かからあてがわれた”正しいもの”を鵜呑みにしたり、知ったかぶって、それを右から左に流すのではなく、自分が感覚する世界を起点にして思考を出発させ、問い、答え、さらなる問い、さらなる答えを何度も自分のなかで反復し、その都度、自分なりの問いや答えを自分なりの方法で行動や形にしていく努力が大切であり、そういう努力をしないと、人間としての”生命力”を失っていくのではないかと私は思います。