永遠の現在

 旅は人生に喩えられる。旅先で出会う風景は、二度と繰り返すことができない。後に同じ場所を訪れても、自分の心の状態や、そこに在る物や人物の様子や、光の加減や、においや音や、温度や、様々なものが織りなしたあの瞬間は、二度と戻ってくることはない。
 23年前の夏、私はチュニジアにいた。その時の経験はあまりにも強烈で、今も脳裏にしっかりと焼き付いている。その後、世界中を旅した私は、思い出のいっぱい詰まったチュニジアの地に行こうと思えばいつでも行けたが、行かなかった。たとえ行ったとしても、かつて訪れた時と同じ興奮と感動は得ることができないことを、パリを再訪した際に気づかされたから。
 もちろん、あらためて訪れれば、違った魅力を発見することもある。そういう場所が私にもある。しかし、自分の記憶のなかで生きていく風景は、特定の瞬間と、特定の場所の組み合わせでしか成立しえない。
 旅することは、風景のなかをただ移動していくことではない。
 一瞬一瞬が、二度と取り戻すことのできない瞬間の連続なのだ。そういう思いがあるからこそ、人や風景との出会いが、濃密なものになる。
 おそらく、一人の人間が生きていく時間もまた、同じなのだ。今この瞬間は、この瞬間でなければ得られない様々な機微に満ち溢れている。
 同じ組み合わせは、二度と起こり得ない。その瞬間、楽しいか悲しいか、幸福か不幸かという分別は、後になれば、大した意味を持たない。
 誰しも、子供から人生を始めるが、子供は親を選べないし、生まれてくる環境を選べない。どんな子供でも、運命を引き受けて生きていくしかない。
 今日の幸福の定義は、計量できるものに換算されがちだ。少ないより多い方がよくて、短いより長く続く方がよいとされる。しかし、本当だろうか。
 自分がこれまで生きてきた時間を振り返った時、量が充実していたという手応えは、記憶のなかにしっかりと残っているだろうか。時計で計れる時間の長さは存在しているだろうか。記憶のなかに現出してくるのは、一瞬のとてつもない長さであったり、量に左右されない事の充実度だろう。
 その充実は、その瞬間を自分は確かに生きていたという手応えだ。
 旅に惨めさはつきものであり、惨めな経験によって損な旅をしたと感じる人もいるが、多くの人は、惨めさのなかで堪えていた自分を、それまで以上に愛することができる。
 人間は一瞬一瞬異なっていく。自分を取り巻く世界もまた、一瞬一瞬異なっていく。その一瞬と一瞬の組み合わせは、奇跡的なものだ。継続もないし、繰り返しもない。それでも同じ状態だと言うのは、同じ状態にしか目えない自分に、自分が変化していっているからだ。その原因の一つは、計量できるものにだけ価値を置き、その価値と自分との間にある距離しか、計れなくなっているからだろう。現実世界において、継続への意識を優先しすぎて一瞬をおろそかにしたり、量を過剰に求めて中身の充実を損なっていくと、計量できるものしか基準にできなくなってしまう。

 今、私が構想を練っている「風の旅人」のVol.17(12月1日発行)のテーマは、「永遠の現在」。
 旅先の風景も、人が生きる時間の一瞬一瞬も、二度と繰り返すことはできない。そして、どんな一瞬にも、宇宙の摂理が流れ込んでいる。
 だから、状況に関係なく、そこに美は存在している。
 自分の記憶を辿れば、それは誰にでも発見できる。
 そういうことを、誌面を通じて現出させたい。