自分を大切にする!?

 昨日に書いた「実態の無さと実感の無さ」の続きなのだけど、そうなる根本的な原因がどこにあるのか、いろいろ考えてみた。

 少し前にこのブログで、最近の学校の国語教育では作品を読んだ時の個人の印象は極力排除され、専門家がその作品をあらかじめ解体して分析した答えを押しつけられることが増えていると書いた。

 主観の排除は、実感の否定につながるわけだから、こうしたところに一つの根があることは間違いないだろう。そうすると、世の中全体が、冷静沈着な客観重視になっているのかというと、実はそうではないのだ。主観の排除に対する反動なのか、主観をとても大事にしたい!!という叫びみたいなものが渦巻いていて、それに伴う過激な行動もあれば、企業の採用面接などにおいても、「自分を大切にしたい!!」とあからさまに主張する人もある。企業は、表向きは個性を尊重すると言いながらも、あからさまに「自分を大切にしたい!!」と主張する人を採用することは、まずないだろう。それは、企業現場においては、個人を殺して全体を考えなければならないこともあるのが暗黙の前提事項になっているからだ。というと、会社で働いたことのないインテリなどは、そうした体質が企業の悪の温床になるから、全体の利益ではなく自分個人の意見をきっちりと主張できる人材が必要なのだと、わかったようなことを言う。

 そういう意見を聞くと、個人を殺して全体の利益を考えて行動している企業全てが”悪”のような誤解を与えるけれど、それはとんでもない話しで、この国に無数にある企業のなかで、”悪”に走る企業は、ごく僅かだ。もちろん、企業活動そのもののなかに、”原罪”はあるが、それは、生きて食べて暮らしていく限り、全ての生類につきまとってくる問題で、その”原罪”の部分まで言及するのなら、出家して僧侶になるしかない。

 そういう極端な話しではなく、企業活動においても、捕鯨においても、ライオンがサバンナでシマウマを襲うのも、さじ加減の問題であって、そのさじ加減を踏まえて行われている企業活動は、やはり自然の摂理に添っていると私は考えている。

 少し話しが横にズレたが、採用試験において「自分を大切にしたい!!」とあからさまに主張する人が、企業現場において全体に流れず、牽制機能を果たすことができるかどうかということを考えなければならない。

 私のこれまでの経験から言うと、答えはノーである。

 それは何故か?

 「自分を大切にしたい!!」という主張は、「私」個人の感情を大切にしたい!!という程度のものにすぎないことが多いからだ。そのようなケースは、たいがいの場合、主体と客体の二つの選択肢のなかで主体を大切にしているだけにすぎない。だから、自分にリスクがない時には正論を言うが、緊急時になって自分がリスクを背負わなければならない場合でもそれができるかというと、それができないのだ、陰で悪口は言うが・・・。

 ならば客体重視の人にそれができるかと言うと、主体を殺すことになれているから、それもできない。つまり、主体か客体かというのは、一つの相の裏表にすぎず、それは今日的な諸問題の裏表にすぎないのではないかと私は思う。

 裏表というより、実は、主観と客観が同じ位相のなかで中途半端に合体して放たれる無責任意見が、この世には充満している。

 たとえば今朝の朝日新聞天声人語で、自分の子供を運転室に入れて電車を運転した運転士が懲戒解雇されたことへの言及があった。その会社の処分に対して、約二千件の意見が寄せられ、ほとんどが「処分が厳しすぎる」という内容だったと。そして、それに対して、天声人語では、子供が運転室に入るまでの経緯を紹介したうえで、「安全運行をすべてに優先するのは言うまでもないし、家族を先頭車両に乗せるべくではなかった。それでも、多くの人命を預かる仕事だと再認識させたうえ、再び乗務の機会を与えるかどうか検討するといった選択肢はなかったのだろうか」と言う。

 乗務の機会を与えるかどうか検討するといった選択肢は・・・と、一見、何かを言ってまとめているように見えるが、実は何も言っていない。「検討する」といった選択肢は当然為されている筈で、その検討の上での処分なのだから、その処分の是非を語らなければならないところだ。自分の感想なり意見を言うかのように見せて、自分がまったく傷つかない立場にいる。運転手が子供を運転室に入れるまでの状況を客観的に紹介して、同情の余地があるかのように書くが、今この瞬間も走り続ける無数の電車の安全性や、些細な気持ちの緩みが大事故につながりかねず、0.00・・1%でもそうした綻びがあって事故になった場合、マスコミなどから極悪非道人のように徹底的に攻撃を受ける企業側の葛藤や、処分にいたる検討のプロセスは紹介しない。

 処分に至る検討のプロセスと根拠は、鉄道会社に厳然とある筈だ。そういうものは職種によってプライオリティが異なる。例えば、銀行などでは、たとえ千円でも不正な使い込みがあれば、厳格な処分を受ける。新聞社であれば、捏造記事などがそうだろう。外部の者から見ればどんな小さなことでも、その企業が企業全体のモラルとして絶対に守らないことがあって、それが緩くなると、あちこちが崩れていく。だから、そういうものは社内に徹底されている筈だし、徹底しなければならない。鉄道会社にとってそのプライオリティは、<安全性>であって、<安全性>を損なう行為は、銀行の千円の使い込みや新聞社の捏造記事に等しいと考えることもできる。そういうことは、当事者でない者にはわからないことで、外野があれこれ言うべきことではないのだ。

 けっきょく「客観性」というのは、対象のなかから自分に都合のよい部分だけを切り取ることであって、事実をあからさまに伝えることではない。

 そして、解雇処分に対する二千件ほどの苦情もまた、状況を正しく把握したうえで意見を言うものではなく、一時の”感情”および自分の側からだけの”正義感”の発露であって、これは先に述べた「自分を大切にしたい!!」と声を大きくする主体重視と似ているのだけど、わざわざ足を運んで鉄道会社の幹部に苦情を申し立てるほどの情熱があるのかどうか、一週間後、一ヶ月後でも、解雇された運転士のことを気にかけ、心を痛み続けるのかどうか、自分にとってそれほど重大な問題かを、まず自分に問わなければならないのではないか。

 多くの人は、「そこまでの気持ちはない」というのが本当ではないか。

 「自分を大切にしたい!!」と主張する声も同様で、もしも本当にそうならば、他人の傘の下でそれを実現しようという魂胆じたいが浅ましく、自分でリスクを負って何かを始めるべきなのだ。そのように問うと、ほとんどの人はしどろもどろになって、「そこまでの気持ちはない。そこまでの自信はない。」と答える。

 つまり、本当に自分を大切にしたいのならば、他人の傘の下でそれを実現することは難しいと知り、かといって今すぐに自分で何かを始めるのは実力も自信もないと自覚し、ならば、実力をつけて自信がつくまでは、他人の傘の下で経験を積ませてもらう、学ばせてもらうという謙虚な気持ちを持つことが大事だ。そういう気持ちがある人は、「自分を大切にしたい!!」などと主張する必要を感じないだろう。

 そして、その謙虚な気持ちをもって前向きに仕事を実践していける人だけが、いろいろな経験を糧にできる。そのようにして少しずつ自分を高めていれば、もしかりに自分の所属企業が悪に手を染めるようなことがあっても、自分には自分の未来があって保身を考えずにすむから、「ノー」と言える。

 「自分を大切にする」ことは他人の傘の下では難しい。だからといって不満ばかりになって前向きに取り組まないと、経験が糧にならないし、実力がつかない。そのまま年齢を重ねると、その場にしがみつくしかなくなり、いざという時に、「ノー」と言えなくなる可能性も高い。

 私が採用する側になる時、「自分を大切にしたい!!」、とか、「この会社で自分のやりたいことを実現したい!!」などと言われるより、「いつか自分のやりたいことを実現するために、この会社で自分を鍛えたい!!」と言ってくれる方が気持ちよく、その言葉に信憑性があると判断できれば、一緒に働きたいと思う。

 そうした境地は、主体(自分)か客体(会社))かの選択ではなく、主観と客観を超えた視点だ。

 すなわち、今この瞬間、主体である自分が客体に相対していこうとする言動全てを、もっと大きな視野(未来を含む)から相対的に眺め下ろす視点とでも言うべきか。そうした視点を獲得するためには、自分だけではなくその対象である客体についても、今この瞬間の目の前にいる相手に一時の感情の盛り上がりで向かっていくのではなく、過去も未来も含めた大きな視野から相対的に掌握しようと思う。 その二つは相互に関連しあって、切り離すことはできない。

 空間的広がりで言うならば、主観か客観かという議論は、主体も客体も今この瞬間だけの三次元的空間のなかに置かれていて、そこで議論が行われている。しかし、主観と客観を超える視点というのは、今私たちが生きている三次元に過去、現在、未来という時間軸が付け加わった四次元的な空間のなかで、主体と客体が螺旋状になって存在し、相互に影響し合うものなのだ。

 身近な話しでは、「風の旅人」の応募に対して、熱烈な志望動機を送ってくれたり、熱烈な写真の売り込みなどがあっても、明らかに過去に発行された「風の旅人」にきっちりと向き合ってくれていないということが透けて見える人が多く、そういう人は、今この瞬間の自分の感情を大切にしていて、今この瞬間だけをとると、偽りがないことはわかる。しかし、相手の過去にもしっかりと向き合って付き合っていこうと思えない人は、自分の今の熱い思いが未来に継続する可能性は低くなる。たとえば困難があった場合など、その瞬間の自分の気持ちにこだわるあまり、挫折しやすい。本人は挫折だと思わず、他に目移りして、自分に向いている仕事は他にあるのじゃないか、きっとある筈だと思って、去っていく。

 旅行業でも、私はそういう人をたくさん見てきた。特に、旅行とか出版とか、「自分のやりたいこと」と仕事がとても近いところにあるように錯覚させる仕事は、そういう傾向が強い。

 どんな仕事でも、他人の傘の下では自分のやりたいことは実現しない。自分の実力をつけなければ、自分のやりたいことなど実現しようもない、だからといって諦めるのではなく、前向きに歩く、という当たり前の前提から物ごとを始めるしかないと思う。

 そうした生き方の哲学みたいなものが、実は、先に述べた「主観」か「客観」か、「印象」か「解体」かという議論を無化し、安全地帯にいる評論家同士の無責任な議論を空虚に感じさせ、評論家を真似した意見も減って、混乱も少なくなるだろし、実感の無さや実態の無さから知らず知らず悪に手を染めるという現象の抑制にもつながるのではないかと思ったりする。