鳩山首相の辞任と、日本人のメンタリティ

 鳩山首相の辞任の引き金となった普天間問題。新聞やテレビが連日のように大きな声で騒ぎ立てていたが、それよりも遥かに重要な、「機密費」がメディアに流れていたという大問題を隠すためにメディアが仕掛けた陽動作戦に、まんまとやられてしまった。

 やられてしまったのは、国民というより、民主党議員達だろう。参議員選挙でメディアを敵にしたくない為に、機密費の追及でも及び腰だし、「鳩山首相では戦えない」というムードを自分達で作り上げてしまった。

選挙のことばかりを気にして、政治家としてこの国の舵取りをどうしていくべきか考えて行動できない政治家。現行の制度では選挙に落ちてしまえば何もできなくなるから、目の前の選挙をどう乗り切るかしか頭にないのは致し方ないとも言えるが、こうした状況で長期的な視点に立った政治など行える筈がなく、それを民主主義というならば、民主主義じたいが、もはや現状に合わない制度と化しているということだ。

 政権が変わっても、これまでと同じように一年ごとに首相が変わる。首相が国民の期待を裏切るからだと言う人もいるが、普天間基地のような、敗戦国として歩み始めた対米関係の複雑な事情が絡んだ問題を、短期間に処理できる人間がどこにいるのだろう。「沖縄県民の心を踏みにじった」等と大騒ぎするメディアが、どれだけ日ごろから沖縄県民の心を気遣っているというのだろう。

日本は先の大戦の敗戦国だ。敗戦国だからこそアメリカの管理下に置かれ、アメリカ的な構造をじわりじわりと植え付けられてきた。それは一種の洗脳なのだが、洗脳であると意識されれば洗脳できない。誰にも気づかれないように、暮らしのシステムや価値観まで少しずつ変えられてしまった。

そして、変えられてしまったもののなかで、もっとも残念なことは、「声が大きく、図体がでかく、主張がはっきりしている方が、偉い」という雑なメンタリティが当たり前になったことだ。

現代社会では、機微を察するなどという上品で上質なコミュニケーションなど、バカでかい声に搔き消されてしまう。

新聞やテレビなどで幅を利かせている輩は、この雑な感性が国民に十分に浸透しているからこそ、力のある立派な人のように扱われている。

「政府や首相に問題がある」と簡単に言いきり、「将来が不安です」と常套句をつなげる。テレビや新聞も街を歩く人も論調は同じだ。自分の頭のなかが大雑把になっていることを反省しないという点でも同じ。少しでも複雑なことに触れると、「曖昧だから、よくない」とか「一貫していない」等とジャッジする。ジャッジする権利が自分にあると思っている雑な神経。そうした人が増加し、その大勢のニーズに迎合する民主主義は、政治家も、教育も、単純明快でなければならないという強迫観念のもとに行われる。

本の学校教育は、文章教育じたいがほとんど行われないが、行われたとしても、どんな先生でも判断できる「論理」的側面ばかりが重要視され、“味わい”という高度な部分は殺ぎ落とされる。

文章に限らず、社会の様々な側面で、“味”がわからなくなる状況づくりが加速する。

人生の時間が豊かになるかどうかは、味わいが占める部分が大きいと思うのだが、味わいがわからなくなった感性は、常に満たされない思いを抱えながら、その原因が物事の味わいがわからなくなっているからとは思い至らず、次から次へ、誰かにわかりやすく整理してもらったものばかりを求めて、右往左往し続ける。

「政治」と「味わい」を一緒にするものではないと、多くの人は思うだろう。目の前の現実の解決を政治に求めているのだからと。

そして、あちこちから目の前の現実の解決を性急に求める声があがり、政治家もそれに応えられなければ選挙に勝てない。そのようにして、この国は、あまりにも性急に解決を求める風潮とシステムが蔓延していく。

しかし、自分の人生を冷静に振返ってみればいい。一度でも性急に答えを求めて行動したことがあれば、それによって、求める結果が得られたかどうかを。仮にその時に満足したとしても、その後、その満足が持続しているかどうかを。

どんなモノゴトでも、時の積み重ねなくして成就することはない。時の積み重ねによって成立していく形やシステムこそが世界の摂理だと言いきってもいいと思う。モノゴトは、それ単独で良いか悪いか論理的に決めることなど許されず、常に、その環境の中の様々なモノゴトとの関係性が複雑精妙に反映されていることが大事なのだ。関係性をバランスよく折り込む為には時間がかかる。一度や二度の沖縄訪問で信用が決定するような単純なことではない。何度でも足を運ぶ覚悟があるかどうかの方が大事なことで、その部分を見て判断しなければならないのだ。はたして、鳩山さんは、どうなのかと。根回しに長けていて、一度の訪問で上手にパフォーマンスをして人気を勝ち取っても、その後は知らぬ顔を通す人間なら、他にいくらでもいるだろう。

この国の住民は、もともとは、一度の派手なパフォーマンスよりも、時間を積み重ねる姿勢を大事にしてきた。いにしえの昔から、それを美しいと思い、味わい深く感じるメンタリティを持っていた。そういう心の機微を、一人ひとりが取り戻していかないかぎり、どの政党が政権をとろうと、この国の政治が変わることもない。