第1153回 これからの紙の本や雑誌作りについて。

 昨日、出版業の先行きの厳しさという、かなり以前から言われてきたことについて、私なりの考えを書いたけれど、今日、「日本カメラ」を発行している日本カメラ社が会社清算するということを知った。

 その理由として、コロナ禍による広告収入の減少云々と、ありきたりの言葉が添えられている。

 出版社が事業運営を続けられなくなる理由として、活字離れとか、インターネットの台頭で雑誌メディアへの広告が減ったためということは、かなり昔から言われてきている。

 私は、2003年に風の旅人を創刊した時から、広告収入という不安定な収益に依存するビジネスモデルで未来はありえないと思っていた。

 広告収入をあてにしないためには、売り上げの40%を抜かれる書籍取次流通の比率よりも定期購読を増やすことが鍵であるし、出費をどう抑えるかということも大事になる。

 幸いに、風の旅人を創刊した2003年頃は、デジタル革命が急激に進み、印刷製版のデジタル化によって、製版代やデザイナーの負担が、それ以前の10分の1に減っていた。A4で150ページの製版代が、800万円が80万円くらいに下がった。この浮いた分、広告はいらないと思った。同時に、広告をとってくる社員を抱える必要もなくなる。

 この20年近く、出版社は、デジタル革命の恩恵を受けていたはずであり、それでも経営が苦しいというのは、利益など表に出る数字よりも、本の販売数などの落ち込みは、もっと酷かったということだ。

 そして、いくら発行部数を多めにアピールしても、実際の販売数が激変しているから広告効果も得られない。必然的にスポンサーは離れていく。

 20年前は、製版におけるデジタル革命が急速に進んだが、近年では、ネット印刷のクオリティが高まっており、印刷全体のコストも格段に安くなっている。なので、発想を変えれば、紙媒体の出版を続けることは可能だ。その考えに基づいて、私は、昨年から、Sacred world を発行し始めた。これは、雑誌ではないが、これを雑誌形式にして、色々な写真家や作家の文章を掲載する媒体にすることは可能である。

 長年、雑誌運営を続けてきて、場を持つことで様々な人たちとのネットワークを作ることができる強みも感じていたが、今は、広がりよりもテーマを深く掘り下げたいという気持ちが強く、雑誌という形式をとっていないが、数年後には、気持ちが変わるかもしれない。

 書籍や雑誌の運営の障害は、活字離れや広告収入の落ち込みではない。もちろん、紙媒体を読まない人も増えているし、広告掲載を期待することも難しい。しかし、時代は変化しているのであり、出版を継続するための手段において、かつては考えられなかったものが生み出されている。

 30年前は、デザインして版下を作って印刷入稿の指定を行って、その作業は膨大で、修正作業も、ものすごく手間がかかったけれど、今は、それらの全体の業務を、素人でも簡単にできる。

 かつては出版物の告知のため、新聞広告が使われたが、なぜか出版物の広告は、他の商品に比べて広告費が一番高かった。今は、ホームページやSNSなど、様々な手段がある。

 流通においても、クリックポストやメール便など、様々な配送手段があるし、顧客管理も簡単で、全てを一人でやろうと思えばできる。オンライン決済ができるサイトだって、素人でも簡単に作れるのだ。

 真の問題は、活字離れや広告費収入の減少ではなく、産業構造や、発想や価値観が、旧態依然であることだ。

 かつては、パラパラと読んですぐにゴミ箱に捨てられるようなものであろうが、とにかく数字が大事だった。1万部より10万部がすごいと信じられていた。それが広告をとるためには重要なことだったし、既存の書籍流通システムも、そうした大規模な物量のための効率性を重視して構築されていた。しかも、その数は、非常に短期的な結果が求められる。本屋の棚に並べて反応が弱いと、すぐに次のトラックで回収され版元の倉庫に送り返される。

 テレビのワイドショーなどで取り上げられると、すぐに、目につくところに並べられる。

 けっきょくのところ、出版物も、消費社会の産物と同じ扱いであり、消費社会において通用する価値観のなかで評価が決まり、消費社会に順応する産業構造で運営されてきた。

 しかし、数を優先する価値観は、より効率的なネット社会に太刀打ちできるはずがなく、フォロワーの数で競い合うネット社会の個人の勝者の方が、膨大な人員や経費をつぎ込む雑誌よりも広告効果が高くなってしまった。

 かなり以前から、紙媒体は、薄められた情報を、より多くの人に散布する手段でなくなっていた。そうした状況のなか、生き残り続ける紙媒体の雑誌は、急速に進むネット社会についていけない人たちを独占的に囲い込む形で生き残るので、一社独占のように限られたものだけになる。

 そんな時代に、敢えて紙媒体を出す必然性や、目的は、これまでとまったく違うものになる。

 そして、その運営方法も、自ずからまったく違うものにならざるを得ない。

 消費社会を牽引した仕組みやコンテンツにしがみついているかぎり、インターネットにとって代わられるのは必然だ。

 畢竟、紙の出版物も、お気に入りの器や身の回りの道具、家具などのように、長くそばに置いておきたいもの、そばに置いておくことで自分を触発してくれたり、心を鎮めてくれたり、心身に何かしらの作用があるものに限られていくのではないだろうか。

 そして、出版物との接し方がそうなっていくと、他の物との付き合い方も少しずつ変わっていくような気がする。物や情報などを次々と消費するのは、けっきょく”不安”だからであり、そして、その不安の埋め合わせのために手を出すものが、その不安を解消するどころか、さらに不安を増幅させる性質を備えているとう悪循環がそこにある。皮肉なことに、景気の向上というのは、この悪循環の増幅による消費が鍵なのだ。

 物や人との付き合いは、これが一つあれば、この人がいさえすれば、と確かに思えるものが存在すれば、人の心はぐっと安定する。

 そして、それが消費社会の終焉に向けた心の持ちようであり、数字で計れない豊かさを重視する社会の姿がそこに現れる。

 未来の紙の出版物のあり方も、そうしたパラダイムの転換につながることを目指すべきなんだろうと思う。

 

 

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