挨拶をする

 挨拶をするというのは、「気」を交換するようなことではないだろうか。
 習慣のなかで、また、しつけのなかで、挨拶の大切さは自然のこととして受け継がれてきた。挨拶というのは、人類全体の暗黙知だと思う。数字や言葉にきっちりと置き換えられるものにしか価値を感じていない人もいるが、暗黙知のなかにこそ、機械やコンピュータの及ばない人間の脳力、本当の意味での賢明さが宿っているのだと思う。もちろん、機械やコンピューターだって、プログラミングすれば、挨拶の行為じみたことはできるだろう。しかし、相手の”気”を受け取って、自分の”気”を高めて、モノゴトの充実度を増すという感覚まで真似することは、とても困難だろう。

 私は、白川静さんから手書きの手紙を受け取って、それを読むだけでも気分が高揚する。その高まった気分で、筆をとり、下手な字で返信するだけで、さらに気分が高揚する。何かが循環していくような気分になる。おそらく、科学的には、体内のホルモンの何かが、何かしらの働きをしている結果としてそうなっているのだろう。

 養老孟司さんがよく書いているが、人間は、身体の細胞をすべて入れ替えながら生きているわけで、一年前の自分と今の自分は同じモノではないと。
 でも、間違いなく、自分は自分なのだと認識するところもあるわけで、それは、記憶によるところも多いのだろうが、疾患などによって記憶を持てない人であっても自分は自分なのだと認識しているわけだから、自分であることの認識は、記憶以外の働きによって成されているのではないかと思う。
 
 誰かに挨拶をされると、自分に挨拶されているのだとわかる。その時、自分は、外からの働きかけに対して反応する自分の内側の衝動のようなもので、自分であることを認識する。挨拶というのは、自分が自分であることの確認の機会を数多く作り出す行為なのではないだろうか。そういうことが人間にとって、とても重要なことなので、自然と暗黙知になっていったのではないだろうか。
 朝起きて、学校や職場に行って、自宅に帰ってくる。その間、多くの人に会っているのに誰とも挨拶を交わさない日々が続いたら、おそろしく不安になるのではないだろうか。
 自分は生きてここに存在しているように思っているけれども、実はどこにも存在していなくて、自分を自分だと思いたがる意識だけが浮遊しているようで・・・。
 自分の身体は、毎日のように入れ替わっていく。しかし、その変化する肉体を統制する「理法」のようなものが、自分の中にはある。自分のことを同じ自分だと思うのは、その「理法」のことを自分だと思っているからだろう。この「理法」は、ヒトが人であるためにとても重要なものなのに、形で表せないゆえに不安定な存在で、脆く壊れやすい。そうならないように、人は、挨拶という知恵を編み出した。外界のモノに対して、自分の内側を絶えず反応できる状態に整えておくために。
 そうすることによって、自分は自分であるという実感を少しでも増大することができ、そのことによって、自分のなかの「理法」を粛然と保つことができる。その結果、節度を保ち、調和のある生活が可能になる。社会的動物の人間にとって、そのことはとても重要なことだろう。
 単純に言ってしまうと、周りとの関係を円滑にするために挨拶をするということになるが、その円滑さは、人と人との関係という表面的なことではなく、自分自身の内面的な問題であるという認識が大事だ。内面的な問題であるがゆえに、人に対してだけでなく、森羅万象に対して、自然と挨拶する状態ができあがるのだろう。

 根コさんや、006さんの挨拶のコメントに触発されて、そんなことを考えました。