21世紀という時代

 「20世紀は既成の結びつきを断つ際に生まれるエネルギーによって進んできた。分子間構造を断ち切る”原水爆”も、地縁血縁に関わらない”実力主義・立身出世”も、”性の解放”も”ゴジラ”も。」
 根コさんのこのコメントを見て、頭をよぎったのは、20世紀の宿業を背負いながら生きざるを得なかった本物の芸術家たちのことです。
 自分の外の世界が結びつきを断たれることで新たなエネルギーを獲得していった時代に、自分に正直に生きようとする本物の芸術家は、当然ながら、旧い秩序から自己を解放させようとします。社会に簡単に順応しない場所に、自分のアイデンティティを求めるわけです。それは、社会からの”報い”を期待しないことであり、自分に”生きづらさ”を課すことになります。そして、報いを期待してはいけない闘いは、どこにもゴールはないのですから、永久に泥のなかであがくことが宿命づけられます。
 しかも、ゴールを設定できない闘いなのですから、闘いの動機が自分のなかで不明になり、それゆえ、「その闘いは”自己満足”でしかないのでは」という”自己批判”に苛まれます。すなわち、自己も分裂するわけで、本当にきつい闘いです。その分裂した自己をさらに凝視する目を持ち、自己を題材にしながら引き裂かれた「自己」を表現することによって、引き裂かれた「社会」の空気と合致したものが生まれる。つまり、「内」と「外」が、「引き裂かれる」という次元において、矛盾無く合致したものになります。
 そうした時代の本物の芸術家は、最初から不幸になることが約束されている。数多くの崇高な魂をもった芸術家が自殺したのは、20世紀という時代の宿業だったのではないでしょうか。不幸になることが前提で、それを志向する人というのは、幸福とか不幸の分別を超えた魂の衝動が自分の内側にあり、自己分裂することで、エネルギーを生み出せたのでしょう。
 そして、時は流れ、やがて、その不幸っぽさが忌み嫌われるようになってきた。
 というより、魂の衝動の伴わない「分裂」が増え、「分裂」から力強いエネルギーが生まれなくなった。広い世界に跳躍するための衝動としての自己否定ではなく、狭い場所に閉じこもって怨みっぽく皮肉っぽくなるだけのものが増えてきた。
 その空気を敏感に感じ取ったものが、「自分も世界も肯定する明るいモノ」でしょう。
 しかし、その肯定の世界はあまりにも個人的に狭すぎて、表現活動を通して、わざわざ人に示すほどのものではないだろうと感じるものが多い。
 20世紀の本物の芸術家たちが茨の道を通じて達成しようとした「狭小な自己満足からの脱皮」という崇高な夢に比べて、今日の「自己肯定」は、とても自己都合的な気がする。自分の無力さを痛切に感じて自己否定に陥ることを避ける為に、この世の酷き現実から目を背けて、自分のお気に入りの場所だけを肯定しているという狭小さを感じてしまう。
 そういうエッセイがわりと売れたりするのは、読者にとって、自分の中の狭小さを肯定してもらえる気持ちよさや気楽さがあるからでしょう。その肯定は、自分のお気に入りのモノだけを肯定していて、ニュースなどを通じて知ることになる世界中の様々な出来事に対しては、否定でも肯定でもなく、ただ目を背けているにすぎない。
 それはともかく、21世紀に必然的に生まれてくるべき表現は、混沌たる外部世界を丸ごと自分ごととして引き受けながら、自分の中の激しい混沌と向き合い、その混沌のなかに自分が拠って立つ場所を掌握するもの。そして、世界全体と自分を束ねるように渾身の力で織り込むことで、より大きなエネルギーを生みだすものではないかと私は思います。