寒々しいアトリエから生まれる、豊かな芸術作品

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  一昨日、軽い食あたりで体調不良だったものの、田口ランディさん、前田英樹さんとともに、飯能に暮らす若く才能のある彫刻家 土屋仁応君のアトリエに行く。http://yoshimasa-tsuchiya.net/works.html

 華やかで清楚で気品のある彫刻を生み出す土屋君は、多くの優れた芸術家がそうであるように、質素で、寒々しく、彫刻の材料になる木の塊と木屑まみれの汚れた小屋のようなアトリエで、制作に打ち込んでいる。
 「華麗なアーティストの生活!」と、時々、大衆メディアが取り上げたりする類と真逆の、ストイックな暮らしと制作に打ち込む姿がそこにある。
 芸術家の気品や高貴さは精神生活におけるものであり、精神にエネルギーを多く割かれる分、実際の生活は、その逆になることは自然だろう。生活の派手さや華麗さを人々に見せびらかすような自称アーティストは、精神面の貧困さをカムフラージュしようとしているだけのことなのだ。
 人や物を見る時に極めて厳しい目を持っている小説家の田口ランディさんも、思想家の前田英樹さんも、そろって土屋君の瞳が澄んできれいなことを指摘し、いい顔をしていると言っていた。
 やはり、人の内面は顔に現れるのだ。
 土屋君の作品は、まさに土屋君の内面世界を外在化させている。芸術表現というのは、つきつめて言えば、自分の内面世界を外に正確に作り出すことであり、その内面世界が貧しくなれば作品も貧しくなるのは当然で、その貧しさをカムフラージュするために、いろいろと理屈をこねたり、世間に媚びた評論家や大衆メディアに応援してもらい、自らを正当化していくことになって、ますます作品は貧しくなる。

 内面世界を外に正確に作り出すことは、単なる自己表現ということではない。自己の中に、どれだけ外の世界や、外の世界との関係性が溶け込んでいるかが現れる。だからそれは、必然的に自己と世界の表現になるのだと思う。私小説や私写真であっても、単なる自己表現にしか感じられないのか、私を通して、私を超えた大きな広がりや深さを感じさせられるかどうかは、けっきょく、その表現者の、世界の関わり方の豊かさ(貧しさ)にかかっているのではないか。

 芸術作品を見る側は、評論家の理屈も、大衆マスメディアも無視して、作品そのものとまっすぐに向き合った時、その作者の内面を通して、”世界”がどのように自分に伝わってくるかが大事だ。 

 作品を見ることというのは、けっきょくのところ、そういうことだけでいい筈なのだ。ただし、その際、見る側の内面が濁っていないことが大事なのは、言うまでもない。それでも、力のある作品というのは、その濁りすら浄化してしてしまう。その”気づき”を恐れるほど自己保身、自己硬直に陥っている人は、そこから目を背けてしまうけれど、そうした拒否反応を引き起こすことじたいも、作品の力なのだ。

 今年、土屋君と志村ふくみさんと、コラボレーションの展覧会が行なわれる可能性が高い。草木染めの着物と、土屋君の妖精のような動物達が、どのように響き合うのか、とても楽しみ。


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