格差社会!?

 今日の夜、NHKの番組に、日本の、「格差社会」をテーマにした番組があったが、納得いかないものがあった。例えばフリーターと正社員で、生涯賃金がどれくらい違ってくるかということを元にして、それをあたかも幸福格差のように論じる傾向があった。そうした数量的な比較は、極端なことを言えば、ルイ・ヴィトンのバッグを10個持っている人の方が、お気に入りのアンティークのバックを大事に使っている人より満たされているというような言い方ではないか。隣の家より家電が多いか少ないかを幸福の目安にする高度経済成長時代の意識の延長ではないか。そして、今は家電があるかないかという比較が成り立たなくなってきたから、その変わりに子供を塾やお稽古に通わせることが出来るかどうかで、恵まれているかそうでないかが決まってしまうという言い方が番組のなかでされていた。
 また、フリーターは、会社が必要コストを抑えるために利用されているにすぎないという意見も多かったが、ちょっと論点がおかしいのではないか。
 フリーターの人で、自分の目的の為に会社を利用しているという人もいるだろう。会社が、フリーターを採用しているのは、誰でも取って変われるような仕事を社員にやらせるわけにはいかないという事情があるのだ。他の会社に簡単に取って代わられる会社は今日の社会では存続できない。他の会社に取って代わられない会社は、他に取って代わられない社員によって作られる。だから、会社は、正社員に対して、誰かに簡単に取って代わられない人材になるよう強く要求するだろうし、そういう鍛え方をしたり試練を与えたりする。正社員にはその種のプレッシャーがあるし、困難もある。だから、そのように鍛えられていくことに対して前向きな気持になれない人は、会社にいても辛いだけだ。例え生涯賃金がフリーターより高くても、幸福指数が高いとは言えまい。
 会社のエゴという言い方がよくされるが、オーナー社長の会社は別にして、大企業になると、「会社」は、一人一人の社員や株主や取引先の集合体であって、会社のエゴ=社員集団+株主+取引先で形成されるステークホルダー全体の自己保身のためのエゴである。会社のなかで生きるということは、そのエゴを自覚的に生きるということで、悪いのは会社、そこで働く社員には罪はない、という攻撃の仕方は、その場しのぎのガス抜きにしかならないことが多い。
 私が思うに、長くフリーターでいることに問題があるとすれば、それは生涯賃金のことではなく、企業社会のなかで誰にも取って代われない人材になるための鍛えられ方を長い間しないまま社会で過ごし、それでいながら、企業社会の傘に入りたいという願望を持つことではないかと思う。つまり、企業社会以外のところで誰にも取って代われない人材になる努力をして、その力を活かして企業社会とは無関係のところで生きていく腹づもりができている人は、フリーターであろうがなかろうが関係ないが、心のどこかで企業の傘で生きたいという気持がある人は、目先の条件が悪かったり地味で汚い仕事であったとしても、自分を鍛えられる仕事現場に自分を投入して自分を鍛えた方が将来のためにいいのではないか。
 フリーターがこれだけ多いのは、何も企業側に問題があるのではなく、生涯賃金のような数量的なものに幸福の基軸を置かない人が増えていることも原因の一つだ。また、表層的な格好にこだわりすぎて、地味な印象の町工場の正社員よりも、派手な印象のマスコミや広告代理店のアルバイトの方がいいという安易な発想の人も多い。実際に仕事をしてみれば、まったく逆の方が多いのだけど。
 今日の企業の多くは、誰でもできる作業仕事と、そうでない仕事をはっきりと分け、後者に対しては、よりプロフェッショナルな人材づくりをする必要に迫られ、その分、前者に対して、費用コストを抑える必要性が増している。もちろん、これは業種や会社によって異なり、全員が他に取って代われない人材であることを目指さなければ仕事が成り立たない業種もあるし、社員全員がプロフェッショナル集団になることで強みを獲得している会社もある。
 それにしても、幸福格差を数量ではかるというスタンスは、高度経済成長の時に産業界が作り出した虚構だと思うが、未だにその呪縛から逃れられない人は多い。というか、今回のNHKのようにメディアがそれを煽っている。
 ルイ・ヴィトンを10個持っている人でも、他人と比較ばかりしている人は、けっきょくいつになっても満たされることがない。それにひきかえ、他人は関係なく自分が愛着を持っている物が一つでもある人は、無駄な買い物をあまりしない。
 仕事とかでいろいろな人の家を訪れると、不思議なことに、あまり裕福でない人の家の方が、物が多い。電気製品は最新の物がそろっているし、テレビも液晶で大型だったりする。それに比べて、明らかに裕福な人が、そんなに大きくないブラウン管のテレビで、ビデオカメラを持っていなかったりする。日本の消費は、お金持ちによって成り立っているのではなく、圧倒的多数の中間層の猛烈な買い換え需要によって成り立っているのではないか。そして、そのメカニズムは、他人に「幸福のかたち」を押しつけられて、それに乗じてしまう心理にあるのではないか。例えば塾の問題にしても、いろいろ理由を付けているが、塾→高学歴→幸福 という他人に押しつけられた図式がある。だから、そんなに裕福でないのに、無理して子供を塾に通わせる。
 私は自分が塾に通ったことがないし、子供にも通わせることはないと思う。高学歴な人が会社に入ってきても、仕事において有能とはかぎらないということも痛切に感じている。他人に取って変われない人材というのは、その人がいることで、仕事の流れがいい方に変わったり、雰囲気や環境がいい方に変わったりするような人だ。そうした力は、先生に問題を与えられ、それを解いたり記憶する学習だけからは得られない。どちらかと言えば、自分の置かれている状況を読んだり、環境のなかに課題を見つけだす能力の方が重要になる。親が子供のために交通整理をしてあげることに躍起になると、学力はあっても、仕事という生き物に対応できる人間に育つとはかぎらない。それよりも、迷いの多い状況のなかに子供を放り出すことによって、子供は自ら課題を見つけだし、それを解いていく力を自然に身につけるのではないかと思う。
 そして、どんなに時代が変わろうとも、子供が将来「幸福」になるために最も重要になってくるのは、「逆境を乗りこえる強さ」ではないかと思う。
 「逆境に負けない子供」に育てることさえできれば、どんな時代になろうとも、それなりにたくましく生きていけるだろう。
 生涯賃金を計算するところからはじめて子供の幸福を設定していくことだけはやめた方がいいだろう。皿の数が多いければ食事の満足度が増すのではなく、一つの素材からどれだけ味を引き出せるかということや、それをどれだけ味わい尽くせるかということが、「幸福格差」を決めていくのだから。