人間の命

 「風の旅人」 2005年8月1日発行のテーマがようやく固まってきた。
 「人間の命」というテーマだ。
 生きることも死ぬことも命(さだめ)として受け入れざるを得ない人間を、誌面を通じて表現したいと思う。
 誌面で紹介する写真家は、マグナム会員でフランスを代表する写真家、ジャン・ゴーミィの、「海の男」。大荒れの海で小舟のように揺れるトロール船で果敢に漁に勤しむ男達の神々しいまでの姿。人間はここまでして生きる糧を得なければならないのだ。彼の写真からは、生身の人間がこの世界で生きていくためには半端な気持ちじゃだめなんだということを強烈に訴えるとともに、そのように生きる手ごたえを得る人間達の底深い色気のようなものを伝えてくる。まさに命の凄みを思い知らされる世界。
 二番目の写真家が、中国人唯一のマグナム会員の李小明。中国の精神病院を撮影して中国当局に目をつけられている彼が、中国で迫害されながらも純粋に信仰を守り続けるキリスト教徒の真摯な生き様に迫っている。
 信仰というのは、迫害されればされるほど、深まっていくのだろうか。李さんが撮ったキリスト教徒は、寡黙ながら、その表情や仕草からだけでも、信仰の深さがひしひしと伝わってくる。
 たとえばオウムなど新興宗教の教団が、社会との対立のなかで求心力を高め、行動を過激にしていくことがあるが、それは「信仰」の深さの現れではないと思う。教団とか教祖を信じ込む思いは強いけれども、それは、何かによりかかる気持ちが強いということで、「信仰」というより、弱い気持ちの突出した現れにすぎない。
 本当の意味で「信仰」というのは、何かに依存することではなく、自分の足で立ったうえで大切にすべきものを見据え、それに向かって精神を集中することではないかと私は思う。それは弱さではなく、強さだ。李さんの写真を見ると、「信仰」をもった人間の強さと美しさをひしひしと感じる。そして、その「信仰」の対象が、たまたまキリスト教だったにすぎないという気がしてくる。
 三番目が、石川梵さんのインドネシアスラウェシ島のタナトラジャの盛大な葬式。この地の人々は、生きている間、一生懸命働き、自分の葬式のためにお金をためる。
葬儀は、それを開く用意が出来るまで何年でも待つ。身分が高ければ数百頭の豚や水牛、太い竹筒の椰子酒とトンバコ(煙草)など供え物は莫大で、行列は野の果てまで続く。また、新たに来客用の大きなトラジャ式の家も数棟造る。お金を貯めることができなかった人は、亡くなった後もお金がある人が死んで葬式を行うまでミイラになって待ち続けて、その人の葬式に便乗する。それまでは死んだことにならない。
 トラジャ人は葬式のために生きているとまでいわれる。トラジャ人は来世を信じており、葬式は新しい人生への門出なのだ。こうした考えは、今日の合理的、科学的な思考からすれば迷信ということになるのかもしれないが、はたしてそうなのだろうか。私はむしろ、死を認識し、死に苦しめられる人間が、それでも前向きに生きていくために掴み取った深い智恵なのではないかと思う。
 石川さんの写真は、地球上にこういう所があるよと客観的に示す単なる記録ではない。「生」も「死」も大いなる命として受け入れる人間の見事な精神世界が描きだされている。
 四番目の予定が、日本写真界の巨匠、江成常夫さん。ヒロシマの原爆及び太平洋戦争のその後を通じて人間の生死を生涯をかけて追求してきた江成さんが、ご自身が病によって極度の鬱状態に陥り、その深淵から徐々に治癒に向かう時に見た日常の光景を撮影した。そこに写っているものは、この世のモノゴトなのだが、あの世にも見える。此岸と彼岸、生と死の境界が揺らぐ。
 5番目の写真家は、新進気鋭だが硬派のドキュメントを撮る山田真。セバスチャン・サルガドも撮影したバングラデシュの船の解体現場で働く人間達を、サルガドとは異なり、シリアスなところは全然なく、嬉々とした感じで大らかに捉えており、悲惨な現場なのか、楽しい現場なのか、よくわからなくなる。サルガドは、極限世界のなかの人間をかっこよく撮ることで、地上の困難を表しながらも、それと向き合う人間の崇高さを描き出すが、山田真の写真は、どんな状況でさえ人間は柔軟に対応して生きていく不貞不貞しい生き物だということを示しているように見える。

 いずれにしろ、人間が他の生き物と違うところは”死”を知ったことだ。そして、おそらく、”苦楽”とか”羞恥”とかの分別も知ったことだろう。そうしたことを知ることで、人間の生命の幅が広がったことは間違いないが、その分、課せられたものも重くなったし、その重しに耐えうる秘訣を掴む必要があった。そのように人間は、他の生き物とは異なる人間ならではの”命”を生きて死んでいく。
 そうしたことを、8月号で掘り下げていきたいと思う。