ジョルジュ・ド・ラトゥール展  (続き)

 私個人の感じ方としては、フェルメールよりも、ベラスケスよりも、ラ・トゥールの絵の方がインパクトが強い。レンブラントもいいが、一枚の絵のなかのぎゅっとした濃密感は、ラ・トゥールの方がすごいと思う。見るだけで魂がへとへとになる。
 ラ・トゥールが、長い間、評価されなかったのは、それなりの理由があるだろう。19世紀の初頭にナポレオンが市民のための美術館としてルーブルを作ったが、その頃から今日までの時代の空気に、あの地味な作風が合わなかったからかもしれない。
 ルーブルの目玉になっている「ナポレオンの戴冠式」(ダヴィット作)は見た目に派手で、豪華で巨大だ。それに比べて、ラ・トゥールの絵はあまりにも小さく控えめで、内面的に深い。ナポレオン以降の世界は、ひたすら規模の大きさと、見た目の派手さと、アピールのうまさ(外交手腕)、パフォマンスのうまさ、精力的であること、人より目立つことなどを競い合ってきた。芸術作品にしても、全てがそうだとは言わないが、人気の傾向として、そういうものはあった。言うなれば、強力な自己主張、自己顕示欲の時代だ。今日のアメリカ合衆国の大統領選挙に象徴される時代、また今の日本の新聞や雑誌やテレビ(コマーシャルと表裏一体)のように、「有名タレント」を過度に重宝される世界だ。
 フェルメールにしても、近年、とても人気が高まったが、その内面性に対してではなく、点数が少ないという稀少価値と、精度の高いテクニックと、宝石のような気品が愛されているのだろう。350年も前に、こんなことができたんだ、へえー、みたいな感じで。
 ラ・トゥールの絵は、見た目の派手な美しさはない。魂の深いところに、ぐぐっと圧力をかけてきて、静かに深く厳粛に、人間の現実と真実だけを伝えてくる。その美しさは、きれいねーという視覚的なものではなく、胸にぐさりとくるものであり、魂に重い負荷がかかるものだ。
 そういうものが、単なる希少価値というだけでなく、魂の部分で評価され、人々の心をしっかりと掴むようになると、時代の価値観の変容のきっかけになるような気がする。
 私が『風の旅人』に掲載したい写真や執筆者は、ラ・トゥールの絵のように人間の現実と真実に対して真摯な眼差しを持つものだ。たとえ自然を撮ったものであっても。
 いずれにしろ、ラ・トゥールの奇跡の展覧感を日本で実現可能にした樺山紘一さんは、やはり、ただ者ではない。この展覧会は、何度か足を運びたい。