「風立ちぬ 生きねば」について ?

 10月3日の夜、テレビで見た「グリーンランドー最北の狩人 ポーライヌイットの暮らし」と、その前日に見た宮崎駿監督の映画、「風立ちぬ」が、自分の中で重なる。
 ともに、生きていくうえでの覚悟について語りかけてくる。人は誰でも死ぬ。だから死に対する覚悟は当然ながら必要だが、天から死の引導を渡されていないあいだ、どういう覚悟をもって生きねばならないのかということにおいて、伝統的な暮らしを営むポーライヌイットと、宮崎駿監督の『風立ちぬ』は共通しているものがあると感じた。
 ただ生きているだけの状態という、五感も六感も十分に働かせることなく日々を漫然と過ごすのではなく、自分に具わる生の力を懸命に発揮しながら、限りある命を、その最期の瞬間まで精一杯に送ろうとすること。
 さらに、この映画に描き出される古く美しい日本と、イヌイットの暮らしの共通点。奥ゆかしいしぐさや、はにかんだ表情や、人を思いやる心の機微。イヌイットの狩人は、日本が豊かなのに貧しい人がいることが信じられないという表情をする。どうしてそうなるのだろうと不思議で仕方がないという顔をする。全員が貧しいのならわかる。狩ったものを、みんなで分け合うことが当たり前の彼らには、貧富の差が理解できない。
 宮崎駿の映画「風立ちぬ』は、ゼロ戦設計者として知られる堀越二郎と、同時代に生きた文学者・堀辰雄の人生をモデルに生み出された。そして、堀辰雄の有名な小説『風立ちぬ」の冒頭に掲げられたポールヴァレリーの詩の言葉が引かれている。
 『風立ちぬ、生きねば」。
 堀辰雄の小説では、『風立ちぬ、いざ生きめやも」である。
 この二つの微妙に異なる言葉の間に横たわっているものは何だろうか、少し考えてみたい。
 ”めやも”は、万葉時代に使われているが、平安以降は使われてないらしい。そんな言葉を、堀辰雄が敢えて持ってきたのは、なぜなんだろう。その意味は、「…だろうか、いや、そうではないなあ」。だから、「風が立った。さあ、生きるのだろうか、(そうはいってもなあ)」という、はっきりしない意味になる。 この含みはいったい何なのだろう。誤用という説もあるが、「いざ生きめやも」という表現は、妙に心に響く。(「日本語で一番大事なもの 」<大野晋, 丸谷才一>で、堀辰雄のこの訳は誤訳で、教養がない人のように責められているけど、そんなに単純なことではないと思う)
 ヴァレリー全集の、鈴木信太郎訳は、この部分を、「風 吹き起こる……生きねばならぬ」と訳している。
 ヴァレリーの詩は、「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」だから、厳密に訳すと、「風が(自分自身を)起こしている。生きることを、色々とやってみなければならない」となる。
 日本人は、seにあたる再帰代名詞を使わないので、(自分自身を)という感覚はピンとこないが、フランス人は、寝るとか起きるとか感じるといったことにも、いちいち、「自分自身を」にあたるseを使い、自分が自分を寝させると言う。そして、それとは逆に、Ça me fait ・・・「それはわたしを・・・(に)させる」という言い方もよくする。
 また、「しなければならない」という時には、il faut と、非人称のil (英語のit)を持ってくるので、誰がしなければならないのか曖昧である。
 英語のように、mustの前に、Iとかyouを持ってこない。この部分において、フランス語は、英語よりも、なんだか主語を曖昧にする日本人のメンタリティに近い。
 ヴァレリーの詩を、「生きねばならぬ」と訳すだけなら、 英語のtryにあたるtenterを、わざわざ使う必要はない。
 tenterを使っているのだから、(うまくいくかどうかわからないが)色々とやってみなければならない。というニュアンスが含まれる。
 ヴァレリーは、『方法的制覇」という評論を書いているほど、「方法」ということにこだわった人で、当時のドイツの急激な発展を考察するうえで、中身も大事かもしれないけれど、それ以上に、”方法”が、良くも悪くも、結果を残すうえで決定的な力を持つのだと論じている。ドイツを台頭させた優れた方法が、やがて、強力で恐ろしい力を持っていくかもしれないことへの危惧も含めて(その危惧どおり、ナチスが出現した)。
 そういう危険はあるものの、もはや、成長だとか愛だとか平和などの主題を単純に主張するだけでは通用しないということもわかっていて、方法を考慮しなければならない。方法で大勢が決まってしまう。だからともかく、色々やってみなければならないという考えが、彼の根底に横たわっている。 
 とすると、ヴァレリーの詩の意味は、ちょっとまどろっこしいけれど、 「風は、何かに吹かされているのではなく、自ら、(色々と形を変えて)吹いている。ともかく、色々と生きることをやってみなければならない。(うまくいくかどうかわからないけど)」となる。
 だったら、やはり、鈴木訳の「風 吹き起こる……生きねばならぬ」よりも、堀辰雄の「風立ちぬ いざ生きやめも」でいいじゃないという気になる。
 堀辰雄の小説「風たちぬ」は、結核病という深刻な病を通して、死から生を照らし出す内容になっているので、今この瞬間を風のように生ききるという意思と、先は長くないということに対する覚りの両方の感覚が横たわっている。
 この小説には、「美しい空は、風のある寒い日しか見られない」という象徴的な言葉も出てくる。厳しい生の中にこそ、生の美しさがあると言っているようにも聞こえる。厳しさを受けとめて、生きなければならないという覚悟はあるが、さあ生きるぞと楽観的に言えない厳しい現実。その揺れ動く狭間に、美がある。
 その堀辰雄を受けた宮崎駿は、よりストレートに、「風立ちぬ 生きねば」と断言する。
 方法とか、分別は、それこそ色々あるだろうが、もはやそんなこと言っている場合じゃない、「風が立っているんだ、その風を受けて、自らの命を生ききるのだ。」という強い覚悟が感じられる。
 津波があり、原発事故があり、世界中に自分一人の手には負えない様々な問題があり、改憲その他戦争の足音も少しずつ大きくなってきている時代の風のなかで、ヴァレリーの説くような、「方法」の効力を考える必要もあるかもしれないが、もっと根本的なこととして、生きることそのものに向き合う必要があると言っているのではないか。
 20世紀の表現者は、愛だとか平和とか、抽象的だけれど大事な主題を、色々な方法で伝えようとしてきた。そういう実験を繰り返してきた。
 しかし、軍事や経済や科学など具体的に形あるものの場合は、方法を高度な戦略やマーケティングにまで磨き上げ、個人の力ではなく組織的に、最大の成果を得るということに至った。
 それに対して、表現は、方法的実験を繰り返している間に、何が何だかよくわからなくなってしまい、軍事や経済や科学が作り出した問題に対抗する力を、次第に失っていった。それどころか もはや、表現の方法的実験の多くは、ちょっと変わった、興味を引く程度のパフォーマンスに成り下がり、消費社会の娯楽の一つに組み込まれてしまい、見る者を根底から揺さぶるものになっていない。
 けっきょく人は、自分の見たいように物事を見る。
 ヴァレリーは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」という評論の中で、
 「世の大方の人は眼をもって見るよりも知恵分別で物を見る場合が多い。色ある空間のかわりに、概念の穿鑿をする。自分の網膜によるよりも言葉で知覚し、対象に近づくことも十分にせず、物を見る楽しみ苦しみもぼんやりとしか分からないところから、<見どころ>なるものを発明したのはこの人たちである。」(28頁)と問題提起しているが、昨今の表現における方法的実験は、彼が書くように、見る方も表現する方も、対象から遠ざかり、物そのものからどんどん離れて散り散りになっていく傾向にある。それに対して、政治や経済は、

物そのものを見せずに概念でまるめこむ方法によって、人心を惹き付けることができる場合がある。

 宮崎駿は、『生きねば』という明確な主題をたてて、物事のディティールを丁寧に描き出し、具体的な物事そのものの積み重ねを通して、主題を伝えようとした。

 人は見たいようにしか見ないかもしれないけれど、それでも慎重に丁寧に仕事を行なえば、主題を曲げられずに、受け止めてもらえると思ったかどうかはわからないが、実に丁寧で、ストレートな球を投げた。

?に続く

 

(*この絵コンテは素晴らしい。全てが詰まっている。)



風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19

新品価格
¥3,675から
(2013/10/5 15:02時点)