科学の言葉?

 このように私が書いているのは、何が正しいとか間違っているとかではないのです。そんなことはどうでもいいです。

 もしかしたら科学は間違っているかも知れないと多くの人が感じている。

 しかし、科学の間違いには、科学的な理論なり実験的証拠で間違いをいわないと、科学の土俵にのらない。だから、科学の世界で話しをすると、堂々巡りになる。

 そういう現象を、私は、言葉や道具が本来の目的と離れて自己増殖した結果と考えました。真理探究という崇高な自己増殖です。だからといって悪いとか良いということでもない。実際に科学的成果によって、例えば、太陽の表面温度が6000度で、その周辺が100万度ということまでわかっているのですから。

 だから、良い悪いとか、否定か肯定かという分別ではなく、また、誰かに言われたとか教えられたとか、世間や科学やアートの常識はそうなっているとか、本にそう書いてあるとか、偉い人がそう言ったとか、テレビや新聞はこう言っているとか、そういう他人任せのような諸々の夾雑物を取り払って、この世界と向き合って生きていく上で、自分はどう思い、どう感じるかということを追究し、自分の言葉で記述すること。私はそのことだけを考えている。それが自分のリアリティを大事にするということだし、自由への道ではないかと思っている。それが、言葉を機械ではなく道具として用いることではないかと思う。

 そして、この世界と向き合って生きていく上で、宇宙のことを感じ考え、自分の言葉で記述することは、どうしても必要になる。他人にとっては、突拍子もなく無意味なものであっては、そんなことはどうでもよく、自分にとって、そうすることが大事なことになる。

 誰もが納得する答えなんかいらない。それ以前の問題として、自分が納得できる答えを自分で探し求めることの方が、よほど大事だと思う。幸いなことに、現在社会は、光(人間の目に見えるレベルであるが)の恩恵で、それができる環境にある。宇宙のことでもなんでも、知りたいことはネット上ですぐに探し出すことができる。もちろん、いろいろと間違ったこともいっぱいある。だけど、そんなことはネットに限らず、本や雑誌の世界でも同じこと。ネット上でも本や雑誌でも、情報をチェックしながら、自分の感じ方や考え方の幅の中で、自分にとって納得性があるかどうか(正しいかどうかではなく)、を見極め、選別し、それでいいかどうか自分の言葉で考え、時には判断し、修正し、生きていくことが、自分の人生を生きることなのではないかと思う。

 こうしたことは、知的好奇心という言葉で括れるようなことではない。

 自分の感じ方や考え方とのギャップでモヤモヤしたところを、そのまま放置するのではなく、すぐには難しくても、死ぬまでにすっきりと納得できる状態を目指し続ける衝動という感じのもの。

 自分の納得を人がどう思うかは関係ない。しかし、この世にはシンクロというものがあって、自分を表明することで初めて、そのシンクロは可能になる。

 ただ表明したいからという自己顕示欲的なことではなく、他の誰かとのつながりを求める願いのようなもの。それは、例えば、自分のベクトルに似た人で、ベクトルは同じなのに違う人生の形態をもっている人。同じようで違うというその微妙な綾を感じる楽しみ(形態がまったく違うのにベクトルが似ていると、なおさら楽しいし、ベクトルが逆向きのようなのに、反発でも何でもシンクロしたりすると、よけいに面白い。そこに何かしらの磁力が発生したということだから)。

 納得というのは、けっきょく、自分のなかで自分を完結させていくことでしかない。

 科学という分野、人文という分野、アートという分野、ビジネスという分野、それぞれ異なった流儀があり、どこか一つの所に足場を決めなくてはならないのはやむを得ないけれど、足場を固めながら、そこで閉じてしまうのではなく、それぞれの中を自由に行ったり来たりしながら、いろいろな考えや価値観を吸収していく権利は誰にでもあるし、それがやりやすい環境になっている。それぞれの分野の中で正しいか間違っているかといった議論は、その中の流儀でやるしかないだろうし、やればいいのだけど、そこでどんなことが行われているかについては、インターネットなどを通じて誰にでも知ることができる。そうした情報を踏まえて、自分の世界認識や宇宙認識をつくりあげていくこともまた、想像力の自由なのだ。