偽装表示の高級キノコよりも、光キノコ。

Photo

(撮影/山下大明)

 何だかわからないようなこの写真は、地面に散らばった落ち葉が、光キノコの菌糸のネットワークによって光っているところ。
 足下の周辺、数メートルの小さな世界だが、その場に写真家の山下大明さんと座り込んでいたあの時間は、本当に至福の時間だった。
 美しさとか、格好良さとか、豊かさとか、新しいとか古いとか、様々な価値概念が巷には流布しているが、こういう静寂の世界を知ると、そんなことはどうでもよくなる。真っ暗闇の森の中を懐中電灯もないまま、山下さんの経験に基ずく案内で歩き回り、突如として目の前に現われた落ち葉の銀河。こうした静かで深い光景を一度でも目にしてしまうと、東京に戻って街中の扇情的なネオンや賑々しい宣伝コピーの看板を見るたびに、その浅ましさばかりが目についてしかたがない。
 最近の食材の虚偽表示などでもそうだが、現代の消費社会には、消費者の弱みや無知や虚栄につけこんで悪どく儲けようとする輩が大勢いるみたいだが、そういうものに簡単に騙されるのは、消費者が本物を見分けられないことにも原因がある。
 味はよくわからないのに表示が一流だと内容も立派だと思い込んでいる人々。有名な賞をとっている表現者は偉いと錯覚している人々。

 百貨店やホテルで高いお金を出して、高級食材だと信じ込まされて食事して、味に満足したのか、高級食材を食べたという優越感に満足したのか、よくわからないまま時を過ごして、騙されていたとわかって、信じていたのに云々というのも、なんだか阿呆臭い。

 百貨店やホテルが、次々と偽装を発表してお詫びしているが、ようするに、隣が芝エビとか和牛とかシャンペンと表記すれば、こちらは、ブラックタイガーとか脂を注入した肉とか発砲ワインと書くと見劣りするという判断があったから偽装しているわけで、それを誤表示だなんて、往生際が悪い。

 実質勝負ではなく、上辺で見劣りするかどうかばかり神経を使うという状況になるのは、百貨店やホテルだけでなく、現在の我々の多くが、そういう価値概念の中にどっぷりと浸ってしまっている結果なのだろう。

 卒業大学とか、所属企業とか、肩書きだけで人を判断する傾向も、その延長だろう。そういう基準で、互いに評価し合って、人生のいったい何がどう楽しくなるというのだろう。

 食材だけでなく、偽装経歴というのもある。ありとあらゆるものに、偽装表示の可能性がある。信じているのに裏切られたとか言っている場合じゃなく、安易にそういうものを信じないというか、そういうものを基準にしなくてもすむように、自分の感覚を研ぎすませることの方が大事だ。

 わかるわからないは知識の差によるものではない。たった一度でも本物に触れて感動したことがあれば、その感動をセンサーの軸にして、物事を見分けられる筈なのだ。

 本物を遠ざけているのは、我々自身でもある。なぜなら、本物は、簡単、便利、楽チンというお膳立てで、我々の前にやってきてくれないから、我々にもそれなりの覚悟と忍耐とエネルギーが必要になる。
 有名な見所ではない。どんなガイドブックにも載っていない。巨大さとか、奇怪さとか、わかりやすいセールスポイントがあるものでもない。ようするに、これはただの落ち葉だ。その落ち葉が、ひそやかに輝いているだけにすぎない。しかし、その一つひとつの光に吸い込まれるような体験をしたら、こういうことで十分に心が満たされることがわかる。過度な刺激を与えられ、いくら刺激を受けても満たされない消費社会の歪みを修正する力は、きっと、こういう密かな世界の中に秘められているのだと思う。
 
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