第1195回 光が備える波動の性質と、時を超える写真術。

 石牟礼道子さんの才能を発見し、世に送り出し、支え続けた渡辺京二さんが、「逝きし世の面影」という素晴らしい本を残している。明治維新の頃、日本にやってきた外国人が書き残した日本人の生活の美しさや能力の素晴らしさをまとめたものだ。

 日本人が無自覚になっている日本という国や日本人の良さを、異国からやってきた人たちは、驚きの感覚とともに、敬意をもって絶賛していた。異国趣味という範疇を超えて。近代化が急速に進んで人間が機械にとってかわられ、機械化の力が人間の力だと錯覚し人間らしさを失っていた当時の欧米人の真の意味で教養ある人たちは、日本人の中に、失われては欲しくない人間の良さを見出していたのだ。

 昨日、写真家のエバレット・ブラウンが京都の西端の私の家にやってきたので、彼と一緒に、京都の西域に残る古代からの息吹を感じられる場所をいくつか訪ね歩いた。

 彼は、湿板写真という、特殊な技法の写真術で、いにしえの日本の”気配”を撮り続けている。

 湿板写真というのは、ガラス板に感光膜を塗って、それが湿っているうちに撮影する原始的な撮影方法だ。撮影する場所で、真っ暗な状態を作って(移動暗室)、一枚一枚フィルムを作って、すぐに撮影しなければならない。ものすごく手間もかかるし、ものすごくタイミングが大事になる。

 彼は、この撮影を行う前に、法螺貝を吹く。修験道者などが用いていた法螺貝による音色は、音楽というより、その場所の空気に波動を引き起こす。数百万円もする大型の蓄音機で音楽を聴いた時と同じように、耳で音楽を聴くのではなく、その場所の空気の振動と、肉体と心の振動が同期するのだ。この感覚は体験してみなければわからない。

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 私は、彼ほど手間をかけるわけではないが、同じく原始的な撮影方法であるピンホール写真で、日本の”いにしえ”の気配を撮り続けている。
https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world

 そして、日本の人よりも、スコットランドケルトの血を引くアメリカ人のエバレットと、日本の”いにしえ”のことについて語り合う時の方が、日本人と話す時よりも、波動が同期する。

 すごくわかりあえるという感じになる。国籍や生まれ育った環境はまったく異なるのに、なぜなんだろうと不思議に思うくらい。

 それは、知識とか情報の共有という頭の中のことではない。

 鍵になるポイントは、”波動”だ。つまり、波。

 この世界は、波動で満たされている。音も波動だし、光も波動。目に見えない宇宙線や、地中から生じている微量な放射線もそう。

 現代人は、「物質」という目に見えるものに意識が囚われてしまうが、「物質」に力を与えているのも波動だ。物質は、粒子でできているかもしれないが、粒子の振る舞いを左右しているのが波動なのだ。人間は、無意識でそれを感じている。オーラとか気配というのは、「気のせい」ではなく、波動の作用がそこに生じているからであり、これは迷信でもなんでもなくて、科学的な事実であり、量子力学は、その方面の探求を行なっている。

 素粒子物理学の実験では、ミクロの粒子の振る舞いは、意識的な観測をした瞬間に変化を起こしてしまうことがわかっている。つまり、意識は波動であり、ミクロレベルの粒子に影響を与えている。

 しかし、「ミクロレベルの粒子への影響」という限定した言い方は正しくなく、現代の技術だと観測データとして確認できるのがミクロレベルの粒子のふるまいに限定されているだけであって、ミクロレベルの粒子が寄り集まった大きな物体であっても、意識の波動は影響を与えているだろう。つまり、意識というのは物理的作用に影響を及ぼしている。気持ちの持ち方次第という言葉があるが、いくら頭で考えても心がついていかないこともあるので、意識の整え方次第という言葉の方がよくて、問題は、意識をどう整えるかなのだ。

 西洋よりも東洋の方が、この分野のことを重視してきた。太極拳とか、日本の古来の武術、書道とか茶道とかの道の文化。しかし、これらの分野は、肝心の”波動”の同期から遠い形式主義、最悪なことに権威主義までが根をはってしまい、虚栄の代物になってしまっているところもある。

 虚栄か本物かは、形にとらわれてはわからない。どの程度の波動が生じているか、それだけが目安となると思う。心の奥を震わせる本物は、波動の力がある。その波動は、その物自体から生じる波動というよりは、それ以外の色々なものの中に秘められている小さな波動を増幅させ、その場全体の波動を生み出す。

 まさに、法螺貝の音色が、その場と共振するように。

 音に関しては、「波動」の力に納得感を持つ人は多いが、写真という視覚的表現においても波動が重要だと思っている写真表現者は、あまりいない。

 とくにデジタルカメラが高機能化して、写真は、ドット(点)という物質の集まりとしての画像を、よりくっきりと、色鮮やかにする方向に進んでいる。

 しかし、光は、粒子であるとともに波であるというのは、科学界でも常識だ。

 写真もまた光学原理の産物なのだから、光が備えている波動の性質をそぎ落としていくと、キレイな写真になるかもしれないが、何かが欠けていく。

 その何かというのは、意識レベルではなく意識の深層に働きかけてくるものであり、人間は、当人は自覚していなくても、その何かによって触発されたり心惹かれたりしている。理由はよくわからないけれどなんとなく気になるものというのは、人生においても大事なポイントだ。

 人生のパートナーを選ぶ場合も、学歴も勤務先も貯金通帳の残高も家系も文句なしだけれど、なんとなく不吉という感覚があれば、やめといた方がいい場合が多いし、その反対のケースも多い。

 エバレットが試みている湿板写真も、私が試みているピンホール写真も、その”なんとなく”が、重視されている。

 しかし、その”なんとなく”というのは、意識を整えていないと、感じ取れないし、すぐに消えてしまう。だから、”なんとなくの気配”と向き合うための緊張感や集中力が必要になる。

 それらの写真を観る方も、雑念が多いと、波動は伝わらない。

 国籍とか出身とか、形あるものによる繋がりや区分けの時代は、過去のものとなり、これからは、波動が伝播していく時代になるだろう。そして、大事なことは、波動というのは現代のこの瞬間に限定されているものではなく、過去から未来にも伝播していくものであり、今という状況の中で区分けされたカテゴリー内の繋がりの数を意識し過ぎていると、過去からも未来からも断絶されてしまう。

 それは、そのカテゴリーから仲間はずれになることを恐れる不安心理、そのカテゴリーが消滅することを恐れる不安心理になる。

 現代の様々な歪みは、この不安心理によるところが非常に多い。

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域と、日本の歴史の考察。

2021年7月5日発行  sacerd world 日本の古層 vol.2   ホームページで販売中

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