100年前の蓄音機とシンクロ

 昨日、下北沢の骨董屋さんで、100年前の蓄音機で音楽を聞く機会に恵まれた。

 蓄音機の音楽を生で聞いたのは初めてだった。聞く前のイメージとして、蓄音機の音はしみじみと味わい深いだろうくらいの先入観は持っていた。その先入観としての”味わい”というのは、「冷たいイメージのあるデジタルに比べて、やはりアナログの方が温かみがあって落ち着くよなあ」などと、”質”の部分は暗黙のうちにCDに軍配にあげているのだけど、”質”を向上させる努力によって殺ぎ落としてしまった部分を懐かしむようなもので、「だからといって昔に戻りたいわけではないのだけど」という程度の、懐古趣味の”味わい”にすぎなかった。

 しかし、あの蓄音機は、そういうことではなかった。100年前であっても、レベルの高いものもそうでないものもある。レベルの低いものは、音の質は我慢して、温かみだけを得られることがあるかもしれないが、100年前のレベルの高い”音”は、私の想像を超えた圧倒的な力を持っていることをはじめて知って、愕然とした。

 それこそ、加工食品に慣れた舌が、いきなり丸かじりで素材の味を味わえと言われて戸惑うような体験。しかも、その素材の味というのが、太陽の恵みをいっぱいに受けて、一つ一つ愛情を込めて丁寧につくられているトマトのように、口に含んだ瞬間、脳髄から脊髄から全身に微弱な電流が走り抜けるようなもの。

 その”音”の素晴らしさは、音色とか音質といった分別ではなく、”音”がそこに歴然と在って、身体と世界とダイレクトに一体化する感覚。「つう」ー「かあ」 と反応するのではなく、”つう”と”かあ”が未分化で、”つう”があちらで鳴っている時に、既に”かあ”もこちらで鳴っていて、知らず知らず共鳴している。

 もちろん、生演奏も素晴らしいのだが、何かそれと異なった”ただならぬもの”を感じる。そこに演奏者がいて演奏していると、無意識のうちに先入観に支配されている。カザルスという凄い人の演奏を聴きに行くのだという心の準備から始まって、演奏する身体の動きを見ながら、(楽器は音が出るものだと思ってしまっているために)そこから出てくる”音”の素晴らしさを、心のどこかで当然のことと受けとめてしまっている節がある。

 蓄音機は、ただの箱で、レコードを回す動力はゼンマイだ。そして、針は竹で、数分間レコード判の上を走ると、使い捨てになる。そういうことは後から聞いたことだが、ただの箱の中にカザルスがいるような臨場感の再現の意外性が、まさに驚くべきことなのだ。再現してしまえるシステムの連なりーー録音時にカザルスの発する音を振動として捉える時、耳に直接聞こえにくい身体の震えなども捉えてその振動をレコード盤に刻み、そのレコード盤の溝の上を走る竹の針が微弱な振動の差を捉え、その差を、「聴覚の構造」を逆転させた原理で増幅させ、元の音をつくろうとする。そして音の大小は竹の太さを変えることで溝に対する圧力が変わることで変えるーーが隙間無く連続していて、まさに空気の中を音が伝わっていくのと同じなのだが、その空気の中の一つ一つのシステムに人間のデリケートな仕事が介在することによって、良い音が、ただものならぬ音になる。

 おそらく芸術の力も同じで、”自然”をそのまま見る感動と、”自然”に人間のデリケートな仕事が介在することによって”ただものならぬもの”になった時の感動は、まるで違う。芸術は、卓越な技術で対象をなぞって復元するものではない。”対象”の機微を拾い上げて、自分を介在させながら、見たり聞いたりして自分の身体が感じる感覚のメカニズムを、自分を起点に内から外に逆に辿り、出力していくこと。

 そのように外に出ていったものは、表現者が出会った対象から発生している「波」と同じ「波」の連続で、「波」の本質が損なわれないまま人間の身体の様々な感覚部分を通り抜けて伝達してきているのだが、それらの感覚部分でその都度構成された様々な感覚や微妙なノイズが微妙な息づかいのように「波」の上に重なってきて、その何重にもなった「波」が「波の厚み」となって「波」の受け手に伝わり、受け手の頭の中で新しいイメージが最構築される。

 そのイメージは、人間が日常を生きている時に出会う「三次元的な世界」で感じる感じ方とは、別の何かだ。

 つまり、三次元の世界で出会う「自然」を、同じ次元のなかで追体験するといった程度のことではなく、一人の表現者の諸感覚を通り抜けるプロセスによって、三次元世界に新たな次元が付け加えられている。その次元は、元の世界から少しだけ歪んで、微妙に軋んでいる。その軋みが、「祈り」のように胸を打つのだ。

 

 人間の能力の本当の凄さは、モノゴトを考える力とか、手先の器用さとかではない。それらは、本当の意味で<人間の能力の凄さ>を実現するための一部分でしかなく、一部分を一部分だけで使用してしまうと、まことにくだらないものに成り下がってしまう。

 <人間の能力の凄さ>は、一部分ではなく、トータルで実現すべきものなのだ。

 その凄さは、身体に入力してきた「波」を、入力のメカニズムを逆転させて、本来のモノの力を損なわないまま、出力に結びつけてしまえることなのではないか。

 真の意味で創造とは、世界を満たしている「波」が、一人の人間の身体に入った瞬間に損なわれたり止まったりして立ち消えてしまうのではなく、見事にくぐり抜けて、その過程で新たな次元を付け加えて出力されていくことなのではないだろうか。

 話しはこれと微妙に関連しているのだが、最近、私と私が出会う人との間で「シンクロ」のことが話題になることが多く、100年前の蓄音機と私を出会わせてくれた小説家とも、ビールやワインを飲んでいる間、「シンクロ」に関する話しが大半だった。その人との間で「シンクロ」の話しがでることじたいが私にとって既に「シンクロ」なのだけど、「シンクロ」は、「シンクロ」を感じなければ到底わからないような不思議な喜びに満たされる感覚がある。

 そして、100年前の蓄音機の素晴らしい”音”を聞いている時、「シンクロ」の喜びは、この”音”を聴いている時の感じと、とても似ているというか、まったく同じではないかと思ったのだ。

 この世界には様々な”波”がある。その”波”は、いろいろな障害物によって、すぐに損なわれたり、乱れたり、消えてしまったりする。人間の思考のなかにある夾雑物(先入観や固定観念など)もまた障害物になりうる。それらを出来るだけ取り払って、波を受信し、その波を自分の諸感覚の中で波立たせていると、その同じような波を自分の諸感覚を通して微妙に増幅させている別の人が「なぜか既にそこにいてこちらの諸感覚の波と連動している」という出会いがある。その時、地上の距離とか、時計の針で計れる時間とかが無化される。

 そういう時、私たちが生きる世界は、「昔と今」とか、「此処とあそこ」という差違はなくーーそれらは人間の思考分別にすぎずーー、ただ微細な波だけで満たされているのではないかと、現代社会のバイアスのかかった私の頭では鮮明に考えにくいことなのだけど、でもやはりそうなのではないかと薄ぼんやりと思うことがある。

 そして、私にとって薄ぼんやりなその感覚を、薄ぼんやりどころか、それ以外に考えられないと自明の真実として思い、そのように感じ、そのように世界が見えていた人間の時代もあったのではないかとも思う。

 100年前は、あの蓄音機の音が当たり前に存在し、あのような世界の掴み方や世界との付き合い方も当たり前だった。その感覚は、加工食品に馴れきった舌を基準に評価しようとしてもダメなのだ。そして、あの世界の掴みを奇跡的に実現している小説とか芸術作品を、加工食品で麻痺した舌で評論しても何にもならないし、その評論家の味付けで、作品の味が台無しになってしまうことも多い。にもかかわらず、そうした類の評論家が大勢いて重宝されてしまう。それが、悲しいかな、私たちの現代社会の極めて特徴的な現象であり、そうなる理由は、現代人が人間の能力の一部分を重視しすぎるからだ。その一部分の能力は、三次元世界への対応には優れているが、そこは世界全体のほんの一部でしかない。

 現代の私たちは、その一部を全体だとするパラダイムのなかにいる。そのことに気づき、新しいコンタクトを始めないと、いつまでたっても世界全体を生きることはできない、と理屈で言ってもダメで、そのことを示す「表現」こそが待ち望まれる、と他人事のように言っても、やはりダメなのである。

 そして、おそらくどの時代も、その時代が全体だと信じている一部の世界を、一部でしかないと気づき、全体を生きようとした表現者たちがいた。

 表現者が、「神」や「星」に向かって表現するというのは、おそらく、そういう態度を指すのだろうと思う。