ローヴの庭

 六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催されているフィリップスコレクション展を見る。「絵画の教科書」というキャッチフレーズのセンスが悪く、あまり期待していなかったのだけど、なかなかよかった。特に私はセザンヌの晩年の絵が好きなので、「ローヴの庭」を見られたのは嬉しかった。それ以外は、エル・グレコから、ゴヤシャルダンドーミエ、アングル、ドラクロワクールベ、コロー、コンスタブル、マネ、モネ、ルノワールシスレーゴッホドガゴーギャンピカソマチス、クレー、ブラック、ボナール、カンディンスキーデュフィ、ルソーに、ロダンジャコメッティの彫刻まであって、それぞれの点数は少ないけれど、総花的に、有名どころの特徴がわかるように、教科書的に展示されている。
 ルノワールの「船遊びの昼食」がメインで、一番人気らしいが、私は特にルノワールがいいとは感じない。コローも、風景画が何点か展示されていたが、私は、コローの人物画の方が断然好きだ。
 まあともかく、18世紀〜19世紀の重要な画家では、ターナー、ミレーが抜けているくらいで、だいたい網羅できている。20世紀の画家は、人によって評価がマチマチだが、鍵になる芸術家は、おさえられている。個人的に好きなブラマンクとかルオーがないが、このあたりは1,2点見るより、個人の特別展でしっかり見た方が良さがよくわかるだろう。
 だから、やっぱりこの展覧会は教科書的な選択になっていて、最初のグレコは例外として、18世紀以降の「絵画の歴史」の入門書のような構成なのだ。そのなかで、セザンヌの「ローヴの庭」が、異彩を放っている。
 今回の展示に、セザンヌの作品は4点ある。その中の人物2点と静物1点は、一目でセザンヌとわかるものだ。
 セザンヌに限らず、今日まで無数の画家が現れて消えていって、そのスタイルもいろいろあるのだけれど、一目で誰のものかわかるというのは、それだけでもう凄いことだと思う。二次元の制約された世界のなかで表現をしながら、その人ならではのものを確立できているのだから。自分らしさなどといって表面的な違いを追いかけても、とてもできるような芸当ではないだろう。自分の頭でものごとを考えに考え抜いた人々だけが達した境地なのだろう。
 フィリップスコレクション展覧会は、一目で誰の作品か歴然とわかるものばかりで構成されており、そういう意味でも教科書的なのだが、教科書という閉じた空間ではなく、広々とした場所で本物の個性の競演に触れることができるだけでも、素晴らしいことだ。
 そうしたなか、セザンヌの作品は「ローヴの庭」で突然ガラリと趣が変わるため、この作品の前に立つ多くの人が首をかしげ、「うーん、よくわからない」と呟いている。
 セザンヌは、誰しもがセザンヌとわかる境地の絵を完成させた後、考えに考え抜きながら自分のスタイルを次第に壊していく。わざと壊しているのではなく、見るということにさらに忠実であろうとして、壊れていく。
「ローヴの庭」は、塗り残された余白がとても多い。その余白が光を孕んでいる。知的情報で曇らされていない自然風景は、人間の認識の前で、究極、このような状態で揺らいでいるのだ。そういう魂の体験だけがここにあるように感じる。
 今回の展覧会で、セザンヌの「ローヴの庭」は、広く一般的な教科書にはなり得ないが、この作品の後の方に作品が展示されている20世紀の芸術家たちにとって教科書と言えるものだ。
 セザンヌが20世紀絵画の父であると言われる真意が、この作品のなかに秘められており、この作品が一つあるだけで、今回の展覧会の「絵画の教科書」というキャッチコピーの意味合いが、深みを増している。