第1246回 「いのちの居場所」について

未来も過去も、無限に小さくしていくと現在となり、無限に大きくしていくと時の流れそのものになります。ズームインとズームアウトの振り子のような視点は、時間という概念に束縛されずに「わたしたちは現在をどう生きるかと考えるには大事なことだと思います。」 稲葉俊郎                                

 この夏に発行された『いのちの居場所』稲葉俊郎著は、久しぶりに、本気で人に勧めたくなる本だ。

 今から書く文章は、この本の紹介文というより、現在のコロナ禍のなか、是非とも多くの人々に読んでもらいたいという私の強い思いを反映したものである。

 この本は、現在、世界中を覆う天災、戦争、疫病という世紀末的状況のなかで、「バイブル」に値する内容を伴っていると思う。

 バイブルは、権威ある書物や自分が生きる指針となる座右の書というレベルで解釈されているが、古代に編纂されたバイブルに書かれている内容は、黙示録なども含め、人類が作り出した世界に様々な矛盾と軋轢と混乱が生じている極限期に、生きることの原点に立ち返ることによって魂の救済を求めようとする言葉である。

 このように書くと、なにやら宗教じみた説明になるが、統一教会の問題だけに限らず、本来は人間を救済するための宗教が、人間を、よりいっそう分断するために使われてしまう原因も同時に考えておかなくてはならず、その思考の鍵も、稲葉氏の『いのちの居場所」に秘められている。

 たとえば「いのち」という言葉一つとっても、世間に流通している「いのちの大切さ」という言葉の "いのち”と、稲葉氏が「いのちの居場所」で伝えようとする "いのち”は、質的にまったく異なるものだ。気をつけなければいけないのは、世間に蔓延している「いのちの大切さ」という言葉に対する認識をもとに、稲葉氏の『いのちの居場所」もまた、その「いのちの大切さ」を伝える本だと表層的に受け止め、気分的な共感にとどまってしまうと、それは、人を思考停止に導く宗教と似たものとなる。

 愛とか平和といった言葉も同じで、稲葉氏の「いのちの居場所」は、そのように世の中で消費され尽くして本来の意味が見失われた言葉の真意を、再認識、再発見するために創造された場でもあり、その真意を理解するためには、一つひとつの単語の定義よりも、文脈が大事になる。

 読む人が、その文脈の真意を少しでも深く理解しようという意識を持つことが、本当の理解につながる道であり、その理解へのステップが、自分の中に内在化している力の発動につながり、その力こそが、自分を救う力になる。

 だから私は、この『いのちの居場所』について書く際に、一般的な書評のように、本文中の言葉を抜粋して組み立てるということをしたくない。

 できるだけ文脈を読み解いて、その解釈を私の言葉で伝えるという努力をしたい。

 同じことを別の言葉で言い換えることができるかどうかで、その人の理解度がわかる。もしかしたら、理解のボタンの掛け違いを起こしているかもしれないが、大事なことは、すぐにわかったつもりになるのではなく、少しでも理解に近づこうとするプロセスであり、そのプロセスを踏むことが、表現されたもの、そして表現した人への敬意だと思う。その敬意に、正しいも間違いもない。とくに、芸術作品と向き合う時は、この敬意こそが、もっとも重要だろう。

 この本の著者、稲葉俊郎は、今この時点のおいても、1日に100人のコロナ感染者と向かい合う現役の医師である。

 この2年半のあいだ、医療の専門家から様々なメッセージが発信されてきた。眠る時間も惜しんで働いている人たちが訴える医療現場の困難や、感染予防のための呼びかけなどを、ほぼ毎日のように私たちは耳にしてきた。

 そして、コロナ問題の厳しい状況を訴えることは、一人でも多くの人の命を救うことにおいて大事なことでもあろうが、そうした訴えが、時には分断を生み出してきた。自粛によって多大なる犠牲を強いられる職種もあれば、逆に潤う職種もある。年齢や、日頃の健康状態によって明らかに重症度が違ってくる。立場が異なれば見解も異なり、一方が自分の立場を守ろうとすればするほど、別の立場の人と軋轢を生む。

 コロナの問題に限らず、似たようなケースは、私たちが生きる世界にたくさんあるが、この切羽詰まった状況のなか、医療現場の最前線で奮闘しながらも稲葉氏は、そうした対立概念や分断をいかにして解消していくかということに心を傾けていた。

 その鍵になる視点は全体性であり、自分が対峙しているものの全体性を掴むことが、問題解決の糸口になり、救いにつながるという確信を彼は持っている。

 誰しも人間は、苦境に陥った時に、視野が狭くなりがちで、目の前のことしか見えなくなり、今この瞬間の困難から逃れることに必死になる。

 自分を守ろうとする為、他のものを攻撃することもあるし、苦しみから逃れるために自らを殺してしまうこともある。

 自分を救おうとする行動が、裏目に出ることの方が多く、その負のスパイラルが、人間世界に様々な矛盾と軋轢を増大させていく。おしなべて、全体性を見失い局所的な領域に固執しがちな人間の性ゆえのことである。

 稲葉氏の念頭には、常に、この負のスパイラルからの脱出のことがある。だからこそ、自分が直面している目の前の嵐に巻き込まれて翻弄されてしまわず、コロナ禍の激烈なる医療現場で働きながら、この「いのちの居場所」を書き上げることができた。

 そのように、自分が置かれている苛烈な状況に囚われてしまわない意識の回路を持っていることが、彼自身においても、心の荒みに陥らない力となっている。どんな逆境においても、その逆境の現場である局所的な領域に心が囚われてしまうと、人間の心は荒む。その局所的な領域から、どのように意識を脱出させるかが肝要であり、自分一人ではできなくても、適切な案内人がいることで、それは、より多くの人にとって可能なことになる。

 医療従事者は、そのような案内人でなければならないと稲葉氏は信念を持っているし、『いのちの居場所」のような表現物が、この世に存在する理由も同じだと彼は考え、そのことが、この本を書くモチベーションになった。さらにそのモチベーションが、コロナ禍の混乱において彼の精神を平静に保たせる力となった。

 この本の中で、「全体性」という言葉が多く出てくるが、全体性は、広がりだけを指しているのではない。

 「前に進めないと思える時は、自分の足元を、自分の存在の底をとにかく掘り続けるしかない」と、稲葉氏は言う。

 深いところに降り立った時に、つながる全体性というものがあるのだ。

 また、困難に直面した時には、原因探しや犯人探しをしたり、あの時にこうしなければよかったという後悔など、過去に向かう意識に拘泥するのではなく、今自分に起きていることは、この先のどんなことのための準備なのかという未来に向けた視点を持つことができれば、人生の苦難は、人生の深い意味に転化するといった意味のことを書いている。

 この文章は、空間的な全体性ではなく、時の流れの全体性のことを伝えている。

 つまり彼の言葉の”全体性”は、地面の上の空間的広がり(目に見える領域)と、深さ(目に見えない領域)と、時間の流れを含んだ、4次元的な時空ということになる。

 稲葉氏は、東大医学部で学び、東大病院の緊急医療現場で働き、現在は軽井沢に移住し、地域医療の現場を自分の仕事のコアにしている。

 これまでの経歴から、彼が頭脳明晰であることは間違いないが、それとともに心臓カテーテルの技術においても絶大なる信頼を置かれている優れた専門家である。

 しかし彼は、頭や技術という物差しを重視しすぎることへの警戒心を強く持っており、身体の声や、人間の感じる力といった科学の範疇で説明できない領域を、とても大事にして、むしろそれらを自分の仕事の軸にしている。

 そして、従来の医療の固定概念の枠内で解決できないものがあると認識し、福祉や芸術、教育、家庭環境その他、あらゆる角度から人間を救う方法を見出そうとしている。そのため、彼は、忙しい医療業務の合間に、京都の能楽師のところに通い続けて稽古を続けているし、山形ビエンナーレでは、芸術監督をつとめた。軽井沢の地元でも、福祉関係その他の領域との連携を模索し、実践している。

 彼にとって、医療の仕事が主で、他は趣味とか気分転換というようなことではなく、全てが本気で深くつながっている。

 私は、稲葉氏が東大の医学生の時からの付き合いで、現在、彼は43歳だから20年近く、彼のことをよく知っている。

 彼は、東大医学部で授業を受けていた時から、医療に対する彼の考えと学習内容とのあいだに違和感を抱いており、当時、そういう話も聞いたことがあった。

 「自分がなりたい医療者のイメージとは違うと感じることが多々あった。いのちを理解することは、とてつもなく広大で深遠なものであるけれど、医学部という医療のプロを養成する場所では、そうした広大な世界の局所的な部分に固執しているように思っていた」と、新著のなかでも述べているが、彼の特別なところは、そうした自分の心の声にしたがって、必ず実践行動に結びつけるところだ。それは、彼が、自分の心の深いところから生じる声や、行動するという身体的実践を、無視できない体質をもっているからだろう。

 世の中を上手に生きていくだけであれば、そうした逸脱的行為は、逆に不利に作用することがある。アカデミズムをはじめ、権威的な組織においては特にそうだ。しかし、自分の心の声に蓋をすることは、何よりも不自由に生きることであり、稲葉氏にとって、その不自由こそが人間を蝕む原因であり、救いのためには、その不自由を取り除くことが、最善の”くすり”だと彼は考えている。

 東大時代の稲葉氏は、医学部で学びながらも、他の学部の授業でも学び、他の学部の学生と連携し、総合的な「生命学」のようなものを編もうとしていた。

 その当時、私が編集発行していた「風の旅人」は、ビジュアル面のことを賞賛してくれる人が多いが、文章コンテンツが重要で、創刊当初から、白川静さん、養老孟司さん、河合雅雄さん、川田順造さん、日高敏隆さん、松井孝典さん、安田喜憲さんなど、歴史、文明、脳科学、生物学、動物行動学、宇宙科学、環境学、人類学に深く通じる人々の言葉による文理融合を目指し、その通底するテーマは、森羅万象と人間だった。

 学生時代の稲葉氏も、この文理融合の精神を備えた人物だったので、風の旅人を、創刊号から毎号、丁寧に熟読してくれており、東大の仲間たちの集まりの場に私を呼んでくれたこともあった。お金がない時は、昼食を一回抜いてでも風の旅人を買った方がいいとも言ってくれた。

 私は、風の旅人という場において、専門領域が違う人たちでも、深い井戸を掘って地下水脈に到達している人は、その地下水脈でつながっているという考えをもとに編集を行っていた。そうした人たちの言葉は、理系と文系の違いは重要でなく、いずれにも、本当の意味で、「いのち」が宿っている。しかし、大半の人は、その本当の「いのち」の理解のプロセスを踏むことを、「難しい」からと忌避しがちで、そういう難しい努力をすることなく親しめる「いのち」と題されたもので安心する。しかし、その安心が救いとなればいいのだが、局所的なところへの安住欲求でしかない場合が多く、そうなると、その安易な安心と安住を脅かすものに対して敵意や嫌悪を感じるようになる。つまり、本来は、全体性を包み込むはずの「いのち」が、分断を生み出す原因となるという皮肉なことが起きてしまう。

 稲葉氏の「いのちの居場所」という本は、非常に洗練された美しい文章で、前向きな魂によって書かれているから、現在、前向きの状態でいられる人にとっては、とても共感しやすいものになっている。

 しかし、稲葉氏は、困難の大きさゆえに「後ろ向きの状態にならざるを得ない人」にも言葉を届けたいと願っているから、単なる共感で止まらないよう、具体性による説得力で、いのちのことを重層的に浮かび上がらせようと試みている。この重層性こそが、高次化であり、むしろ後ろ向きの状態の人の方が、わかったつもりになって安易に共感するということがなく、その重層性と高次化の過程を踏まないと納得感を得られないので、もし、その納得に達することができたら、「後ろ向きの状態の人」の方が、より深く理解しているということになる。 

 実は、このたびの稲葉俊郎の新著「いのちの居場所」を読む前、私は大きな期待を抱いていなかった。その理由は、稲葉氏との付き合いは長いし、対談なども行ったことがあるし、これまで彼の文章のいくつかを読んでいたので、自分にとってそれほど新しいものがあるとは思わなかったからだ。つまり、本を読む前から、彼に共感してしまっているので、その分、わかったつもりにもなっていた。

 私は、彼が20代の時、彼の文章を風の旅人でも掲載しようかと検討し、彼が気合を入れて書いた文章を読んだことがあった。

 しかし、20代の稲葉氏は、インプット力は凄まじいものがあったものの、アウトプットにおいて、そのインプットしたものを自分のものに消化できていなかった。

 それはしかたがないことで、その時点で彼は、自分の壮大なビジョンとフィロソフィーを具体的に実践する場を持たず、それゆえアウトプットが観念寄りにならざるを得なかったのだ。

 それでも彼は、東大病院の緊急医療現場で働き、東大病院の中で、医療に関する自分のフィロソフィーを具体化したいと願い続け、試みも行ったが、巨大組織ゆえに、その実現は困難だった。

 そのジレンマから彼を大きく転換させるきっかけとなったのが2011年の東北大震災だった。

 彼は、被災現場の人々のために働きながら、自らが求める医療の在り方を、身をもって捉え直し、それを具体化するために行動に出た。

 まず、その頃から彼は、能楽の稽古のために定期的に京都に通い始めた。能楽という、死の側から、こちらの世界を見る眼差しを獲得していくことが、いのちに対する彼の思考の奥行きを拡張した。

 その後、彼は軽井沢に拠点を移した。自然と切り離された対症療法の医療(リペアだけを目的としたファクトリーのような医療現場と、彼はたとえている)では、いのちの救済につながらないという自分自身の内面の声にしたがって。

  そこに、このコロナ禍が襲い、医療の現場は戦場のようになった。しかし、彼は、この困難な状況を、いのちに関する自分の実感と考察を深める場に昇華させた。

 こうした生身の経験が、彼の言葉を、より高次化へと導いた。

 稲葉氏が20代の時は、彼の明晰な頭脳が、彼の身体を上回っていた。しかし、今は、身体が頭脳に追いついて、抜いていこうとしている。「いのちの居場所」からは、そんな彼の質的な変化が伝わってくる。

 変化という言葉はふさわしくないかもしれない。彼は、20代の時から本質的には何も変わっていない。しかし、お米が目に見えない菌という「いのちの働き」によって、古代人が神との紐帯とした酒になるように、稲葉氏の言葉もまた、歳月を経て、熟成し、発酵し、向こう側の世界とつながるものになっていった。

 「いのちの居場所」を読みながら、驚きを感じていたのは、彼の言葉が、この高次化と深化を遂げていたからだった。

 そして私は、言葉の深さ、表現物の深さは、その人の生き様の深さを反映するということを再認識するとともに、言葉や表現の高次化は、その人が抱き続けているビジョンの高邁さを反映するのだということを再確認した。

 知識の量、技術の上手さだけでは、たどり着けない深さや高さがある。

 表現物の評価付けにおいて、新しさとか奇抜さ、面白さなど、わりと表層的なことが尺度になっている今日の世界だが、洞察の深さやビジョンの高邁さこそが最も重要である。しかし、その深さや高さを読み取れない選者が多い。

 これは、表現物における問題というより、科学を絶対的な基準としてきた社会の問題でもあった。

 稲葉氏は、この本の中で次のように述べる。

 「(学校の)先生が言っていることも正しいかどうかわからない、教科書にそって教えていても、その教科書自体が本当に正しいかどうかもわからない。科学的、客観的な証拠とされたものも、時代が変われば、その内容自体が変わってしまう。そうした変化しうるものが、あたかも絶対的な正しさの根拠として用いられている」と。

 科学的判断では、洞察の深さやビジョンの高邁さは測れない。それは、計測するものではなく感じ取るものだから。

 だから、感じる心よりも科学的な物差しを優先しがちな人は、表現物を評価する際においても、客観的な証拠のようなものを欲する。どれだけ多くの人が、いいね!をしているかとか、構図や文体が新しいかとか個性的かとか、テーマがこの時代にそっているかとかと。

 「未来も過去も、無限に小さくしていくと現在となり、無限に大きくしていくと時の流れそのものになります。ズームインとズームアウトの振り子のような視点は、時間という概念に束縛されずに「わたしたちは現在をどう生きるかと考えるには大事なことだと思います。」

 冒頭に掲げた稲葉氏の言葉。この短いセンテンスは、彼のフィロソフィーが到達した境地を端的に示している。

 彼は、さらりと書いているが、古今東西の東洋と西洋の哲学者が、存在論について膨大な言葉を駆使して書き連ねてきたが、その存在論の核心と、東西のフィロソフィーの融合が、稲葉氏のこの短い詩的なセンテンスの中に凝縮している。

 ここに抜き出したズームインとズームアウトのたとえは、ほんの一例であり、「いのちの居場所」という本の中には、稲葉氏の四次元的な広がりを持つ思考と実践の軌跡が織り込まれている。

 「いのちの居場所」は、世界中が新型コロナウィルスというミクロの生命体との付き合い方で大騒ぎになっている現代において、医療従事者から発信された、もっとも本質的に優れた、そしてもっとも重要な、言葉のアウトプットだと思う。 

 さらに、この『いのちの居場所」は、ミクロの生命体との付き合い方の問題が、病気の単なる予防や治療のことにとどまるのではなく、現在の、そしてこれからの人間の在り方の問題につながることを認識させる架け橋になっている。

 そう認識すると、現在、ミクロの生命体が世界を混乱に陥らせているのは、人間に、そのことを気づかせるためなのだと、心の持ち様に変化が起きる。

 政府主導の色々な対策によってコロナを封じ込めることができたとしても、その結果、近代の病といえる分断的思考が、より支配的になってしまうことを私たちは懸念しなければならない。

 上にも述べたが、個人も社会も、様々な問題の根本には、局所的なことへの執着による全体の分断がある。

 この分断された状態から全体性を回復することが病を治すことであると稲葉氏は考えているが、それを個人の力で成し遂げられる人は、極めて希である。

 個人の思考は、堂々巡りに陥りやすい。だからこそ、道先案内人が必要であり、医療従事者も、芸術家も、その道先案内人であることで共通している。

 「いのちの居場所」のような形ある表現物もまた、道先案内人になりうるもので、その使命を強く感じて、稲葉氏は、毎日、多数のコロナ感染者を診察しながら、必死でこの本を書き上げた。

 医療現場で働いている人も、コロナに怯えながら自分や身内を守ることだけに必死の人も、ぜひとも、「いのちの居場所」で示されている世界を体感していただきたい。

 人は誰でも自我の殻を幾層にも身にまとっている。その自我の殻を脱ぎ捨てていくことも高次化と深化だ。なぜなら、自我の殻を脱ぎ捨てていくことで、局所的な視点は面から立体、さらに時間を超えた世界へと広がり深められるからだ。その高次化と深化こそが、人間にとって真の意味で自由であり、救いの道である。

 この分断から全体性への視点の転換がなければ、真の意味で他者への寛容や愛も成り立たない。局所的な執着を愛だと錯覚してしまうのも人間の性だが、それは典型的なエゴである。

 稲葉氏も書いているように、今、私たちの目の前にあるものは、死者からの贈り物であり、長い歳月をかけたつながりの中で、多くの死者たちから渡されてきたものである。

 知識や文化だけでなく、水や空気や風景も。こうして使っている言葉もまた。

 いのちとは、生も死も含んだ全体性であるはずなのに、生の視点だけから見てしまうと全体性が把握できない。

 そして、自分も死者の側に回る時が必ずやってくる。その時、死者から受け取ったものを次の世代へと渡していくために自分が生きているということを、生きている時から悟っていないと、自分の死が、虚しいものになってしまう。そうしたつながりを考えないかぎり、なぜ命が大切なのかという謎は解けない。

 「いのちの大切さ」という言葉の意味が、「コロナという忌まわしき病気」のために人を死なせてはいけないということにすぎなければ、いのちを局所的にしか見ていないという視点を、より強化して固定するだけとなる。

 その局所的な視点こそが、人を救いから遠ざけるのだ。

 医療も芸術も、人間の、そして世界の、全体性を取り戻す営みである。

 

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