旅の記録メモのつもりでも、他の場所との関係で考えていくと、どうしても長くなってしまう。
現在、神社が国家の管理から離れているため、「神宮」を称するかどうかは各神社の判断に任せられ、かなりの数の神社が、神宮を名乗っているが、古事記での神宮の記載は、伊勢神宮と天理市の石上神宮のみ。日本書紀では、伊勢神宮、石上神宮、出雲大神宮の三社だけであり、平安時代の延喜式において、鹿島神宮、香取神宮の二社がくわわっている。
香取神宮は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)、鹿島神宮は武甕雷神(たけみかずち)の重要な聖域だが、この両神は、日本書紀において、葦原中国の平定のために高天原から遣わされた神だ。
葦原中国の平定は何を意味しているのか? 一般的には、他国からの新勢力による「侵略」と解釈している人が多いが、果たしてどうだろうか?
葦原中国の平定を他国からの侵略だとすると、それに関わった両神を祀る主要な聖域が、九州や近畿ではなく、なぜ東の端の千葉県や茨城県にあるのか理由を考える必要が出てくる。しかし、それについての十分な考察に私は出会ったことがない。
侵略があったかどうかはともかく、「新しい秩序」がもたらされた可能性は高いのだが、新しい秩序は、武力によるものとは限らない。
日本書紀の時代から、香取神宮と鹿島神宮が神宮として特別扱いとなる延喜式の時代まで約200年ほどの差がある。
平安時代初期、朝廷の東国支配の安定化のために桓武天皇の蝦夷征伐などが行われたが、東北への入り口にあたる鹿島神宮と香取神宮の位置が重要であることは地図を見れば明らかで、この場所に葦原中国の平定で重要な役割りを果たした二神を祀ったと考えれば、記紀が書かれた後に、この二つの聖域が「神宮」になったことを説明できる。
しかし、気になることがもう一つある。それは、香取神宮と鹿島神宮が、日本列島を南北に分断する中央構造線の東端に位置することだ。延喜式に記録されているもう一つの神宮である伊勢もまた、中央構造線上に位置している。
関東地方は、分厚い関東ローム層に覆われているため、長野や近畿や四国のように中央構造線の徴を地表から確認しづらいのだが、鹿島神宮と香取神宮には、要石と呼ばれるものがあり、これが、地震を鎮めるためのものとして大切に信仰されてきた。
この石は、地面の上に出ている部分は直径30センチほどだが、これは地中に埋まった巨大な岩の先端部分であり、江戸時代、水戸藩主・徳川光圀が鹿島神宮の要石の周囲を7日7晩掘り起こさせても、根元には届かなかったと記されている。つまり、要石は、降り積もった火山灰の大地の下の中央構造線を示す徴かもしれない。
そして、鹿島神宮の要石は凹型の形で、香取神宮は凸型となっており、この二つはペアとされている。
要石は、地震を引き起こす鯰を抑え込んでいるとされるが、地震と鯰の関係が論じられるようになったのは江戸時代くらいからで、それ以前は、鯰ではなく龍が大地震を引き起こすと考えられていた。
鹿島神宮の鳥居は、2011年の東日本大震災の時に倒壊してしまったが、中央構造線の東の端にあたるこの地域は、古代から地震の影響が大きかったのだろう。
三重県伊賀市阿保に鎮座する大村神社にも要石があるが、これもまた地震を鎮めるためのものとされる。この近くには名張断層が走り、推古天皇の時代に巨大地震があったことが記されている。大村神社の創建は767年で、鹿島神宮から武甕槌命、香取神宮から経津主命が勧請されているので、この両神と地震と要石の関係が、767年の時点では確立されていたのだろう。
そして、要石で気になる場所がもう一箇所あり、それは諏訪大社の前宮だ。
諏訪大社前宮は、4つの社で構成される諏訪大社のうち最も古く、ここが古代から祭祀の中心だった。
中でも重要な儀式が、前宮の聖域内にある鶏冠社の「要石」を中心に神殿を設け、その場所で諏訪の先住氏族とされる守矢氏の神長官が、神霊のミシャグジを降ろし、8歳の童子に憑依させて現人神とする儀式だった。
諏訪大社は、上社がタケミナカタの聖域で、二つの下社が、その妃とされる八坂刀売神(やさかとめのかみ)の聖域だが、祭祀の構造としては、タケミナカタ以前の洩矢(守矢)の宗教観と融合して引き継がれてきた。
タケミナカタは、国譲りの神話で最後まで抵抗し、タケミカヅチに敗れて、諏訪の地から出ないことを条件に許される神である。
この諏訪の地もまた中央構造線の上にあり、さらにここは、日本列島を東西に分断するフォッサマグナの糸魚川・静岡構造線の上にもある。
不可思議なことに、この諏訪大社と伊勢神宮のあいだは215kmだが、諏訪大社から東に215kmのところが香取神宮なのである。
さらに不可思議なことは重なり、香取神宮と伊勢神宮のあいだは380kmだが、伊勢神宮から島根の出雲大社までも380kmである。
つまり、古代、国譲りと関わりの深い神の聖域である出雲と香取と、国家神のアマテラス大神を祀る伊勢にある三つの神宮と、諏訪大社は、かなり精密な測量技術によって計画的に配置されている可能性が高い。
鹿島神宮ではなく香取神宮が精密な位置関係の対象となっている理由は、想像するしかないが、日本書紀では、葦原中国の平定のために選ばれたのはフツヌシ(香取神宮の祭神)だったが、タケミケヅチが自分もその役割に相応しいはずだと抗議したため、経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国に派遣したとあるので、国譲りにおいては経津主神が主だったからかもしれない。
日本は地震大国であり、地震をどう受け止めるかは、治世のため重要なことだったはずだ。
神の祟りとして恐れおののくだけなのか、それとも何らかの手を打てるのか?
とはいえ、地震は、どんな呪術を使ったとしても、人間の力によって防ぎようがなく、できるのは予兆くらいだ。だとすると、国の平定は、その予兆と関係しているのではないか?
つまり、当時の最先端の科学的予見が導入され、従来のように亀の甲羅や鹿の骨を焼いて占うだけでなく、合理的な判断ができるようになった可能性があるのではないだろうか?
上に述べた各聖域の位置関係にしても、当時の人間は、現代人の測量技術と遜色ない高度な技術をもっていた。
同時代の中国をはじめ世界中の古代遺跡からは、それを裏付ける証拠はいくらでも出ているので、日本も、それらの技術を取り入れることは十分に可能だったはずだ。
自分たちが生きている環境世界を観測するという視点の導入で、地震予兆の精度が格段に増した。葦原中国の平定のために派遣されたフツヌシとタケミカズチは、侵略戦争の軍神ではなく、だからといって地震を封じ込める神だったわけでもなく、新しい視点による新しい治政を象徴する存在だったのではないだろうか。
フツヌシとタケミカヅチは、イザナギがカグツチを切った時の十束剣と、カグツチの血と、岩との関係から生まれている。
イザナギが黄泉の国から逃げ帰る時、十束剣を後手(しりへで)に振って追っ手から逃れている。また、スサノオがヤマタノオロチ退治の時に十束剣を使っている。
さらに、葦原中国平定の時には、タケミカヅチらが大国主の前で、この剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇した。
十束剣は、神武天皇の東征の場面においては「布都御魂」(ふつのみたま)という名前となって神武天皇の手にわたり、熊野山中で危機に陥った時、その剣の霊力によって軍勢を毒気から覚醒させ、戦争を勝利に導いた。
「布都御魂」は、第10代崇神天皇の時、古代のもう一つの「神宮」である天理市の石上神宮で祀られ、それ以降、この神宮の御神体として現在に至る。
十束剣は、石上神宮やタケミカヅチの鹿島神宮など、古代の「神宮」ともつながっている。
十束剣は、イザナミを死に至らしめたカグツチを切り、黄泉の国の追っ手を祓い、ヤマタノオロチを切り、オオクニヌシに対して国譲りを迫る時に使われ、神武天皇の東征で、軍勢を毒気から覚醒させ、勝利に導いた。
こうして見ていくと、十束の剣は、単なる武器としての剣ではなく、黄泉の国でも有効で、軍勢を毒気から覚醒させたとあるように、破邪の剣であり、邪道、つまり誤った教えを正すものではないかと思われる。
なので、葦原中国平定のためにフツヌシとタケミカヅチが派遣されたのは、侵略戦争というよりは、誤った教えを正すための新しい知識や技術の啓蒙のことを指しているのではないか。
地震の発生が断層と関係していることや、その断層の位置関係などについて、かなり精密に知ることができるようになった時が、古代にもあった。
現代にも引き継がれている聖域の精密な配置は、その時に行われたのだろう。
神話というのは、単なる仮想の物語ではなく、史実を列挙しているだけでもなく、新しい知識や教養による世界観の転換を象徴的に記述する創造物だったのかもしれない。 だとすると、タケミナカタが諏訪の地から出ないことを条件に許されるという神話の記述が、いったい何を意味しているのかという疑問が残る。
諏訪の地では、守矢氏によるミシャクジ降ろしのような古くからの祭祀が、ずっと長いあいだ継承されてきた。
それは一体なぜなのだろう?
諏訪の地で、守矢氏の神長官が、神霊のミシャグジを降ろし、8歳の童子に憑依させて現人神とする儀式を行なった要石のある鶏冠社の「鶏冠」という地は、京都の向日山にもある。
鶏の冠は、楓の形のようでもあり、向日山では、鶏冠を「かいで」と呼ぶ。
真っ赤な血の色のような鶏冠は埴輪でも制作されているので、古代、聖なる意味を持っていたと思われるが、向日山の鶏冠町は、古代、銅鐸の製造場所だったことがわかっている。
この向日山は、第26代継体天皇が弟国宮を築き、第50代桓武天皇が長岡京を築いたところであり、縄文時代の石棒の製造場所も発見され、さらに3世紀の巨大な前方後方墳や、同時代の前方後円墳もある。また、向日山の上に鎮座する向日神社が、明治神宮のモデルであり、当社本殿を1.5倍にして拡大して設計されたのが、明治神宮である。
つまり、鶏冠という地名が残る向日山は、古代から連綿と続く聖域であり、継体天皇と桓武天皇という、先代から血統が変わって即位した天皇が、この場所を祭り事の中心にしたし、明治新政府においても、そのことが意識されていたのだ。
諏訪の鶏冠にも同じ意味があるかどうかはわからないが、日本という国は、時代環境に応じて新しい知識や教養によって世界観を変革したとしても、過去から連綿と受け継がれた精神をタイムカプセルのように継承していく体質があり、それは明治維新の時も変わらなかった。もしかしたら、律令制が整えられていく時代、諏訪の地が、その役割を象徴的に担うことになったのかもしれない。
諏訪大社の4宮の境内の四隅には、御柱が立てられていることはよく知られている。
そして、伊勢神宮の内宮と外宮にも心御柱がある。この柱は建築構造的には意味がなく、正殿の中央の地中に埋め込まれており、その真上の正殿の中央に神鏡が鎮座している。そして、20年ごとの遷宮においても、古殿地に覆屋(おおいや)を設けて保存されて、次にこの場所に社殿が建てられるまで、ここに存在する。
伊勢神宮の式年遷宮は、20年ごとに神様が新しく造替された社殿にうつるわけだが、神様がうつった後も、つなぎの20年間、心御柱は同じ場所に存在し続けるのだ。
柱というものが、建築物を支えるという実際的な役割りを持つだけではなく、天と地を結ぶ軸のように存在するのが諏訪の御柱であり、伊勢の心御柱は、さらに象徴性を増し、神の不在のあいだ、神が戻ってくるまで、その中心軸となる場所を示し続けている。
諏訪と伊勢は、国譲りと関わる聖域だが、対立的ではなく延長上に存在している。
新しい知識や技術などによって、世の姿は変わり、治政の手法も変わっていくが、軸となるものは変わらない。それが、日本の構造であることを、伊勢神宮は示している。
日本以外の国において、その国の軸となるものは、たとえばイスラム教とかキリスト教や儒教など、文化を統合するような絶対的な理念である場合が多いが、日本人の場合は、そうしたイデオロギーになりやすい絶対的な軸は、馴染みにくいところがあった。
それでいて、数千年前の縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
日本は、大陸とは海で隔てられた島国なため、他国による侵略や植民地化を受けたことがなく、大陸の進んだ知識や技術を吸収し、応用しながら、過去から受け継いだものと調和させることもできた。
そして自然が豊かでその恩恵を受けながらも、地震・津波・台風などの自然災害の被害も大きい。
こうした地理や風土的条件が、日本文化や日本人の思考の軸を作っている。
人間社会は変わるべくして変わるが、森羅万象の根本原理は変わらず、その根本原理に逆らっては生きていけない。
そのことが、この国の地理・風土から学び続けてきたことであり、精神文化の軸であり、縄文時代から数千年を超えて、明治維新の前までは大きく変わっていなかった。
現代人の多くは、神話を過去の絵空事としてとらえ、過去と現在のつながりを見失い、欧米式の善悪の絶対的基準で、ステレオタイプに判断を行うようになった。
複合性や重層性を軸にした思考ではなく、正否や勝ち負けや苦楽やイエスかノーを裁定するための理由探しの思考だけに陥ると、決断ごとに失われていくものが増えていき、結果的に、存在の豊かさとは、かけ離れていってしまう。
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