第1264回 房総半島に秘められた歴史の謎

安房神社(千葉県館山市

 7世紀、日本で律令制が整えられていく段階の時期に、8箇所の神郡が定められた。一郡全体を特定の神社の所領・神域とし、郡からの収入は、その神社の修理・祭祀費用に充てられた。

 日本が一つの国として統一されていく段階において、この8箇所が、特に重要な聖域として認識されていたということになる。

 その8箇所は、伊勢に2箇所と、千葉の香取神宮、茨城の鹿島神宮、北九州の宗像大社、出雲の熊野大社(なぜか出雲大社ではない)、和歌山の日前神社・国懸神社、そして、今回の旅で訪れた房総半島の安房神社だった。

安房神社(千葉県館山市

 房総半島の安房神社の祭神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)で、古代の祭祀氏族である忌部氏の祖神である。

 安房神社の由緒は、忌部氏によって書かれた『古語拾遺』などを踏襲して、天太玉命の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)が、阿波地方(徳島県)の忌部を率いてこの地に移住し開発したとしている。

 天富命は、神武東征において、讃岐や紀伊の忌部を率いて橿原の御殿を作ったとあるので、徳島の忌部が房総半島に移住したのも、神話のとおりだとすれば、神武天皇の頃ということになる。

 忌部氏は、中臣氏とともに古代朝廷における祭祀を担っていたが、奈良時代頃より次第に中臣氏の力が増し、存在感を失っていったが、主に祭祀具の制作に関わっていたとされる。

 今でも、大嘗祭に用いられる麻織物の麁服(あらたえ)は、徳島の吉野川市忌部神社で織られる。

 しかし、歴史文献においては、忌部氏が房総半島の安房地域に足跡を残しているわけではなく、安房国の国造は大伴氏であり、安房神社の祭祀を担ったのは、その一族であったと考えられている。

 忌部氏と大伴氏の関係は、記紀などには見られないが、忌部氏の思い入れが強い『古語拾遺』の中では、忌部氏の祖神である天太玉命と、大伴氏の祖神である天忍日命(アメノオシヒ)が、兄弟とされている。

 『古語拾遺』が書かれたのは、平安時代の807年で、その当時、中央政権内の祭祀部門において、忌部氏は中臣氏におされて凋落しつつあったが、政治部門においては、大伴氏が、長岡京藤原種継暗殺事件などで、藤原氏によって失墜させられていた。

 ちなみに、中臣氏と藤原氏は、もともとは同じで、奈良時代に入ってから祭祀と政治の役割が明確に分かれ、中臣氏のなかで政治を担当するのが藤原氏となった。 

 つまり、大伴氏にとっても忌部氏にとっても、敵は同じということになる。

 ゆえに、『古語拾遺』において、忌部氏と大伴氏の祖神は兄弟であると、政治的な意図で工作されたのかもしれない。

 とはいえ、房総半島において、安房神社の祭神が忌部氏の祖神で、この神社の祭祀を執り行っていたのが大伴氏であるとすると、両氏に何らかのつながりがあるのかもしれない。

 大伴氏が房総半島に拠点を置いていたことは、史実の記録として残っているが、忌部氏の場合は、伝承をどう解釈するかということになるが、その前に、「あわ」と房総半島のつながりを考えなければならない。

 「あわ」という地名でも特に徳島との関係があると思われる場所が、房総と徳島のあいだに幾つかある。

 静岡県掛川南アルプス南端の粟ヶ岳の麓の阿波々神社、神津島阿波命神社伊豆半島の淡島に面した長浜神社である。

 これらは、天津羽羽神(別名が阿波姫)という、全国的にも数社だけが祭神としている神様を祀っているところなのだが、この神は、徳島の吉野川の日本一大きな中洲である善入寺島(かつての粟島)で、明治維新の頃まで祀られていたが、その聖域はダイナマイトで破壊され、今はその痕跡は残っていない。

 この場所は、阿波忌部が粟を植えたところよく実ったので粟島と名付けられ、それが粟国(阿波国)の由来になったと伝わる。

 そして、徳島において天津羽羽神は、八倉姫やオオゲツヒメと同じとされる。

 この神を祀っている聖域は、これ以外に、高知市の朝倉神社、和歌山の紀ノ川河口域の朝椋神社ぐらいだが、徳島、高知、紀ノ川、駿府伊豆半島神津島となると、海人の活動が重なってくる。

 特に神津島は、縄文時代から黒曜石の重要な産地で、この地の上質の黒曜石から石器が作られ、海上ルートで日本各地に運ばれていた。

安房神社(千葉県館山市

 1932年、房総半島の安房神社の境内で、海食洞窟が発見された。この場所は、古代、海面が今より高かった時、波による侵食を受けていた場所だった。そして、この洞窟からは、人骨22体、貝製の腕輪193個、小玉3個と土器が出土した。この土器は、縄文時代晩期終末頃の東海系土器であるとの見解がある。そして、22体の人骨のうち、15体に抜歯の痕跡が認められた。この洞窟は、その当時の墓地だったのだ。

 また安房神社から北に6kmほどの所にあるの大寺山洞窟遺跡も海食洞窟だが、1993年から1998年までの発掘調査で、丸木舟を棺に用いた「舟葬」という葬送儀礼のための舟棺が12基以上発見された。

大寺山洞窟遺跡(千葉県館山市)。

 これ以外に、土師器や須恵器などの土器、甲冑、大刀などの鉄製品、勾玉など、古墳時代の副葬品が多く発見されたが、縄文時代中・後期の土器なども見つかっており、この場所は、かなり長期にわたる聖域であった。

 また、大寺山洞窟遺跡の西4kmのところにある鉈切洞窟は、船越鉈切神社の拝殿の裏側にあるが、ここは、開口部から最奥部まで36.8mもある海食洞窟で、縄文時代後期初頭(約4,000年前)を中心とした土器や動物や魚の骨、鹿の角や動物の骨で作られた漁の道具が多数出土した。

 魚の種類はわかったもので約50種、漁具は釣針や刺突具、網の錘など内容が豊富で、縄文人が、多様な漁の方法を身につけ、多種類の魚を獲って暮らしていたことが判明した。とくに、マダイやマグロなど魚骨47種、大量のイルカの骨がみつかっており、海岸部にとどまらず、かなり遠方まで漁をしにいったことを裏付けている。そのほか、シカ、イノシシ、タヌキ、サルなどの骨も出土しており、山の猟も行っていた。

 この洞穴は、古墳時代に一部が墓として利用され、その後、丸木舟を社宝として海人の女神である豊玉姫を祀る神社となって今日まで伝えられてきた。本殿は、洞窟の中にある。

 丸木舟はクスノキ製で、全長約2.19m、幅約70㎝。江戸時代に、水戸黄門で知られる徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』において、この洞窟の奥に由来不明の10数艘の舟が置かれていたとの記録があり、現存している丸木舟は、そのうちの一艘であろうとされる。

 近年、大寺山洞窟遺跡で12基以上の舟棺が発見されたので、鉈切洞窟にも同様の舟棺が納められた可能性がある。

海食洞窟の鉈切洞窟(千葉県館山市)は、船越鉈切神社の拝殿の裏側にある。

 このように安房神社とその周辺地域は、縄文時代から海を舞台に活動する人々の痕跡が残っているだけでなく、古墳時代に、縄文時代からの聖域を再利用して、舟棺などを納めている。

 この地の海人は、数千年の時を超えたつながりを意識していたからだろうか。

 徳島から房総に忌部氏が移住したとされるのは、神話的には神武天皇の頃となるが、歴史段階としては、その数千年の期間のうち、どの時期なのだろうか。

 そして、なぜ、この房総半島の南端地域が、律令時代、神郡として特別な扱いを受けていたのだろうか。

 この謎を解く鍵は、海人ではないかと私は思う。

海食洞窟の鉈切洞窟のある船越鉈切神社のすぐそば、海側には海南刀切神社があり、こちらの方へ境内に巨岩がある。かつては、この二つの神社は一つだったとされる。

 海人は、はるか古代から日本列島各地で活動していたが、その海人が、日本が一つの国にまとまっていく段階において、中央政府のなかで役割を占めるようになっていった。

 なかでも重要な役割は、軍事や外交、神饌としての食物の準備、祭祀だった。

 島国において海人の水軍力は軍事面において必要不可欠なものであったし、大陸との行き来は海人の力なくして不可能だった。海産物は、神への供え物として、また朝廷内の祭祀においても重視された。

 そして宮中行事や儀式で行われる亀卜などの新しい形の卜占は、海を越えて伝えられ、壱岐島対馬、伊豆といった海人の活動域の卜部が、執り行った。

 大伴氏や忌部氏という氏族が、縄文時代弥生時代に遡って存在していたとは思えない。これらの氏族名は、中央集権化が進むことで政権内において役割分担が生じた結果、与えられたものだろう。軍事部門においては大伴氏、祭祀部門においては忌部氏といったように職掌の異なる者たちを統括する氏族へと枝分かれしていった。

 房総半島に、安房神社安房神社の関連神社以外に徳島の忌部氏の足跡が見当たらない理由として考えられるのは、阿波(徳島)と、房総半島の交流は、おそらく縄文時代から黒潮を通じて海人によって行われていたが、その時に、忌部氏という特定の名はなかった。そして、後に忌部という名を与えられたものが、祖先が行っていた遠方との交流を、神話的に残すことになったからではないだろうか。

 

_________________________

ピンホール写真で旅する日本の聖域。

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

www.kazetabi.jp

第1263回 日本文化の根本原理

 

香取神宮

 

 旅の記録メモのつもりでも、他の場所との関係で考えていくと、どうしても長くなってしまう。

 このたび、茨城県鹿島神宮と千葉県の香取神宮を訪問した。

 現在、神社が国家の管理から離れているため、「神宮」を称するかどうかは各神社の判断に任せられ、かなりの数の神社が、神宮を名乗っているが、古事記での神宮の記載は、伊勢神宮天理市石上神宮のみ。日本書紀では、伊勢神宮石上神宮出雲大神宮の三社だけであり、平安時代延喜式において、鹿島神宮香取神宮の二社がくわわっている。

鹿島神宮の奥宮

 香取神宮は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)、鹿島神宮は武甕雷神(たけみかずち)の重要な聖域だが、この両神は、日本書紀において、葦原中国の平定のために高天原から遣わされた神だ。

 葦原中国の平定は何を意味しているのか? 一般的には、他国からの新勢力による「侵略」と解釈している人が多いが、果たしてどうだろうか?

 葦原中国の平定を他国からの侵略だとすると、それに関わった両神を祀る主要な聖域が、九州や近畿ではなく、なぜ東の端の千葉県や茨城県にあるのか理由を考える必要が出てくる。しかし、それについての十分な考察に私は出会ったことがない。

 侵略があったかどうかはともかく、「新しい秩序」がもたらされた可能性は高いのだが、新しい秩序は、武力によるものとは限らない。

 日本書紀の時代から、香取神宮鹿島神宮が神宮として特別扱いとなる延喜式の時代まで約200年ほどの差がある。

 平安時代初期、朝廷の東国支配の安定化のために桓武天皇蝦夷征伐などが行われたが、東北への入り口にあたる鹿島神宮香取神宮の位置が重要であることは地図を見れば明らかで、この場所に葦原中国の平定で重要な役割りを果たした二神を祀ったと考えれば、記紀が書かれた後に、この二つの聖域が「神宮」になったことを説明できる。

 しかし、気になることがもう一つある。それは、香取神宮鹿島神宮が、日本列島を南北に分断する中央構造線の東端に位置することだ。延喜式に記録されているもう一つの神宮である伊勢もまた、中央構造線上に位置している。

 関東地方は、分厚い関東ローム層に覆われているため、長野や近畿や四国のように中央構造線の徴を地表から確認しづらいのだが、鹿島神宮香取神宮には、要石と呼ばれるものがあり、これが、地震を鎮めるためのものとして大切に信仰されてきた。

鹿島神宮の要石

 この石は、地面の上に出ている部分は直径30センチほどだが、これは地中に埋まった巨大な岩の先端部分であり、江戸時代、水戸藩主・徳川光圀鹿島神宮の要石の周囲を7日7晩掘り起こさせても、根元には届かなかったと記されている。つまり、要石は、降り積もった火山灰の大地の下の中央構造線を示す徴かもしれない。

 そして、鹿島神宮の要石は凹型の形で、香取神宮は凸型となっており、この二つはペアとされている。

香取神宮の要石

 要石は、地震を引き起こす鯰を抑え込んでいるとされるが、地震と鯰の関係が論じられるようになったのは江戸時代くらいからで、それ以前は、鯰ではなく龍が大地震を引き起こすと考えられていた。

 鹿島神宮の鳥居は、2011年の東日本大震災の時に倒壊してしまったが、中央構造線の東の端にあたるこの地域は、古代から地震の影響が大きかったのだろう。

 三重県伊賀市阿保に鎮座する大村神社にも要石があるが、これもまた地震を鎮めるためのものとされる。この近くには名張断層が走り、推古天皇の時代に巨大地震があったことが記されている。大村神社の創建は767年で、鹿島神宮から武甕槌命香取神宮から経津主命が勧請されているので、この両神地震と要石の関係が、767年の時点では確立されていたのだろう。

 そして、要石で気になる場所がもう一箇所あり、それは諏訪大社の前宮だ。

 諏訪大社前宮は、4つの社で構成される諏訪大社のうち最も古く、ここが古代から祭祀の中心だった。

 中でも重要な儀式が、前宮の聖域内にある鶏冠社の「要石」を中心に神殿を設け、その場所で諏訪の先住氏族とされる守矢氏の神長官が、神霊のミシャグジを降ろし、8歳の童子に憑依させて現人神とする儀式だった。

 諏訪大社は、上社がタケミナカタの聖域で、二つの下社が、その妃とされる八坂刀売神(やさかとめのかみ)の聖域だが、祭祀の構造としては、タケミナカタ以前の洩矢(守矢)の宗教観と融合して引き継がれてきた。

 タケミナカタは、国譲りの神話で最後まで抵抗し、タケミカヅチに敗れて、諏訪の地から出ないことを条件に許される神である。

 この諏訪の地もまた中央構造線の上にあり、さらにここは、日本列島を東西に分断するフォッサマグナ糸魚川・静岡構造線の上にもある。

 不可思議なことに、この諏訪大社伊勢神宮のあいだは215kmだが、諏訪大社から東に215kmのところが香取神宮なのである。

 さらに不可思議なことは重なり、香取神宮伊勢神宮のあいだは380kmだが、伊勢神宮から島根の出雲大社までも380kmである。

西から出雲大社伊勢神宮諏訪大社香取神宮鹿島神宮

 つまり、古代、国譲りと関わりの深い神の聖域である出雲と香取と、国家神のアマテラス大神を祀る伊勢にある三つの神宮と、諏訪大社は、かなり精密な測量技術によって計画的に配置されている可能性が高い。

 鹿島神宮ではなく香取神宮が精密な位置関係の対象となっている理由は、想像するしかないが、日本書紀では、葦原中国の平定のために選ばれたのはフツヌシ(香取神宮の祭神)だったが、タケミケヅチが自分もその役割に相応しいはずだと抗議したため、経津主神武甕槌神を副えて葦原中国に派遣したとあるので、国譲りにおいては経津主神が主だったからかもしれない。

 日本は地震大国であり、地震をどう受け止めるかは、治世のため重要なことだったはずだ。 

 神の祟りとして恐れおののくだけなのか、それとも何らかの手を打てるのか?

 とはいえ、地震は、どんな呪術を使ったとしても、人間の力によって防ぎようがなく、できるのは予兆くらいだ。だとすると、国の平定は、その予兆と関係しているのではないか?

 つまり、当時の最先端の科学的予見が導入され、従来のように亀の甲羅や鹿の骨を焼いて占うだけでなく、合理的な判断ができるようになった可能性があるのではないだろうか?

 上に述べた各聖域の位置関係にしても、当時の人間は、現代人の測量技術と遜色ない高度な技術をもっていた。

 同時代の中国をはじめ世界中の古代遺跡からは、それを裏付ける証拠はいくらでも出ているので、日本も、それらの技術を取り入れることは十分に可能だったはずだ。

 自分たちが生きている環境世界を観測するという視点の導入で、地震予兆の精度が格段に増した。葦原中国の平定のために派遣されたフツヌシとタケミカズチは、侵略戦争の軍神ではなく、だからといって地震を封じ込める神だったわけでもなく、新しい視点による新しい治政を象徴する存在だったのではないだろうか。

 フツヌシとタケミカヅチは、イザナギカグツチを切った時の十束剣と、カグツチの血と、岩との関係から生まれている。

 イザナギが黄泉の国から逃げ帰る時、十束剣を後手(しりへで)に振って追っ手から逃れている。また、スサノオヤマタノオロチ退治の時に十束剣を使っている。

 さらに、葦原中国平定の時には、タケミカヅチらが大国主の前で、この剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇した。

 十束剣は、神武天皇の東征の場面においては「布都御魂」(ふつのみたま)という名前となって神武天皇の手にわたり、熊野山中で危機に陥った時、その剣の霊力によって軍勢を毒気から覚醒させ、戦争を勝利に導いた。

布都御魂」は、第10代崇神天皇の時、古代のもう一つの「神宮」である天理市石上神宮で祀られ、それ以降、この神宮の御神体として現在に至る。

 十束剣は、石上神宮タケミカヅチ鹿島神宮など、古代の「神宮」ともつながっている。

 十束剣は、イザナミを死に至らしめたカグツチを切り、黄泉の国の追っ手を祓い、ヤマタノオロチを切り、オオクニヌシに対して国譲りを迫る時に使われ、神武天皇の東征で、軍勢を毒気から覚醒させ、勝利に導いた。

 こうして見ていくと、十束の剣は、単なる武器としての剣ではなく、黄泉の国でも有効で、軍勢を毒気から覚醒させたとあるように、破邪の剣であり、邪道、つまり誤った教えを正すものではないかと思われる。

 なので、葦原中国平定のためにフツヌシとタケミカヅチが派遣されたのは、侵略戦争というよりは、誤った教えを正すための新しい知識や技術の啓蒙のことを指しているのではないか。

 地震の発生が断層と関係していることや、その断層の位置関係などについて、かなり精密に知ることができるようになった時が、古代にもあった。

 現代にも引き継がれている聖域の精密な配置は、その時に行われたのだろう。

 神話というのは、単なる仮想の物語ではなく、史実を列挙しているだけでもなく、新しい知識や教養による世界観の転換を象徴的に記述する創造物だったのかもしれない。 だとすると、タケミナカタが諏訪の地から出ないことを条件に許されるという神話の記述が、いったい何を意味しているのかという疑問が残る。

 諏訪の地では、守矢氏によるミシャクジ降ろしのような古くからの祭祀が、ずっと長いあいだ継承されてきた。

 それは一体なぜなのだろう?

 諏訪の地で、守矢氏の神長官が、神霊のミシャグジを降ろし、8歳の童子に憑依させて現人神とする儀式を行なった要石のある鶏冠社の「鶏冠」という地は、京都の向日山にもある。

 鶏の冠は、楓の形のようでもあり、向日山では、鶏冠を「かいで」と呼ぶ。

 真っ赤な血の色のような鶏冠は埴輪でも制作されているので、古代、聖なる意味を持っていたと思われるが、向日山の鶏冠町は、古代、銅鐸の製造場所だったことがわかっている。

 この向日山は、第26代継体天皇が弟国宮を築き、第50代桓武天皇長岡京を築いたところであり、縄文時代の石棒の製造場所も発見され、さらに3世紀の巨大な前方後方墳や、同時代の前方後円墳もある。また、向日山の上に鎮座する向日神社が、明治神宮のモデルであり、当社本殿を1.5倍にして拡大して設計されたのが、明治神宮である。

 つまり、鶏冠という地名が残る向日山は、古代から連綿と続く聖域であり、継体天皇桓武天皇という、先代から血統が変わって即位した天皇が、この場所を祭り事の中心にしたし、明治新政府においても、そのことが意識されていたのだ。

 諏訪の鶏冠にも同じ意味があるかどうかはわからないが、日本という国は、時代環境に応じて新しい知識や教養によって世界観を変革したとしても、過去から連綿と受け継がれた精神をタイムカプセルのように継承していく体質があり、それは明治維新の時も変わらなかった。もしかしたら、律令制が整えられていく時代、諏訪の地が、その役割を象徴的に担うことになったのかもしれない。

 諏訪大社の4宮の境内の四隅には、御柱が立てられていることはよく知られている。

 そして、伊勢神宮の内宮と外宮にも心御柱がある。この柱は建築構造的には意味がなく、正殿の中央の地中に埋め込まれており、その真上の正殿の中央に神鏡が鎮座している。そして、20年ごとの遷宮においても、古殿地に覆屋(おおいや)を設けて保存されて、​​次にこの場所に社殿が建てられるまで、ここに存在する。

 伊勢神宮式年遷宮は、20年ごとに神様が新しく造替された社殿にうつるわけだが、神様がうつった後も、つなぎの20年間、心御柱は同じ場所に存在し続けるのだ。

 柱というものが、建築物を支えるという実際的な役割りを持つだけではなく、天と地を結ぶ軸のように存在するのが諏訪の御柱であり、伊勢の心御柱は、さらに象徴性を増し、神の不在のあいだ、神が戻ってくるまで、その中心軸となる場所を示し続けている。

 諏訪と伊勢は、国譲りと関わる聖域だが、対立的ではなく延長上に存在している。

 新しい知識や技術などによって、世の姿は変わり、治政の手法も変わっていくが、軸となるものは変わらない。それが、日本の構造であることを、伊勢神宮は示している。

 日本以外の国において、その国の軸となるものは、たとえばイスラム教とかキリスト教儒教など、文化を統合するような絶対的な理念である場合が多いが、日本人の場合は、そうしたイデオロギーになりやすい絶対的な軸は、馴染みにくいところがあった。

 それでいて、数千年前の縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

 日本は、大陸とは海で隔てられた島国なため、他国による侵略や植民地化を受けたことがなく、大陸の進んだ知識や技術を吸収し、応用しながら、過去から受け継いだものと調和させることもできた。

 そして自然が豊かでその恩恵を受けながらも、地震津波・台風などの自然災害の被害も大きい。

 こうした地理や風土的条件が、日本文化や日本人の思考の軸を作っている。

 人間社会は変わるべくして変わるが、森羅万象の根本原理は変わらず、その根本原理に逆らっては生きていけない。

 そのことが、この国の地理・風土から学び続けてきたことであり、精神文化の軸であり、縄文時代から数千年を超えて、明治維新の前までは大きく変わっていなかった。

 現代人の多くは、神話を過去の絵空事としてとらえ、過去と現在のつながりを見失い、欧米式の善悪の絶対的基準で、ステレオタイプに判断を行うようになった。

 複合性や重層性を軸にした思考ではなく、正否や勝ち負けや苦楽やイエスかノーを裁定するための理由探しの思考だけに陥ると、決断ごとに失われていくものが増えていき、結果的に、存在の豊かさとは、かけ離れていってしまう。

 

_________________________

ピンホール写真で旅する日本の聖域。

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

www.kazetabi.jp

第1262回 鬼海弘雄さんが広げてくれた領域

亡くなる2年前、今から4年前の秋、京都に来た時、亀岡とか神護寺とかを歩いた。この頃の体調は万全ではなかったが、癌であることはわからなかった。この半年後くらいに、体調が悪かったは癌のせいだとわかったと電話があった。

 今日、10月19日は、鬼海弘雄さんが亡くなって2回目の命日。

 1週間前、鬼海さんが元気な頃、一緒に飲んでいた池袋の硯屋に、映画監督の小栗康平さんと、思想家の前田英樹さんと集まった。

 硯屋というのは、うどん屋だが、酒の肴が充実していて、もう15年以上、私が京都に移住する前は一ヶ月に一度、移住後は、東京に来る時に集合場所になってきた。

 先週、その硯屋からの帰り道、小栗さんから、私が作った鬼海さんの写真集「 Tokyo View」の話が出た。 あの作品集こそが、まさに鬼海さんの真骨頂だと。

 https://www.kazetabi.jp/%E9%AC%BC%E6%B5%B7%E5%BC%98%E9%9B%84-%E5%86%99%E7%9C%9F%E9%9B%86-tokyo-view/

 もちろん、鬼海さんの代表作には、「Persona」とか「India」があって、よく知られている。

 ただ、それらの写真は、被写体の魅力も大きい。鬼海さんは、その魅力的な被写体を探すことと、その魅力を引き出すために膨大な時間をかけていた。鬼海さんは、カメラを構えていない時間のほうが圧倒的に長い写真家だった。

 それに対して「Tokyo view」は、被写体の魅力に一切頼ることなく、鬼海さんの「眼力」だけで構成された世界だ。それがゆえに、純粋に写真(映像)そのものを観る目が養われていない人には、その良さや面白さがわからない可能性もある。共感というのは、自分がすでに抱いているイメージに沿っているから生じる感覚であり、鬼海さんの Tokyo viewは、その眼力によって、既成のイメージを裏切ったり、再構築させる力がある。

 

 今から100年前、ウジェーヌ・アジェが撮った、当時のパリの街中の写真が、写真史の中に燦然と刻まれているが、鬼海さんの「 Tokyo view」は、それを超えると小栗さんは言う。二人の街中の写真は、同じように人が写っていないけれど、鬼海さんの写真は、人の気配がアジェの写真よりも濃厚であり、そこに住む人の会話までが聞こえてきそうだ。

 その一枚の写真と同じことを体験してみようと思えば、鬼海さんが撮った現場に足を運ぶだけではダメで、その場所に、しばらくの間、じっと佇んでいなければならないだろう。鬼海さんは、一枚の静止した写真の中に、そのように流れ行く時間を写し込んでいる。

 被写体の魅力に頼っていない写真は、プリントも完璧でなければ、その良さが伝わらない。そして、印刷もそうだった。鬼海さんのプリントと同じレベルの印刷が必要であり、だから、この「 Tokyo view」は、試し刷りで紙との相性を判断するために数種類の紙でテストを行い、本番でも印刷のやり直しが必要だった。写真集として作られたもののなかで最高品質の印刷を目指したのだ。

 なので、編集とデザインで1年くらいかけたが、印刷だけでも1年くらいかかってしまった。

 大変ではあったものの、鬼海さんと真剣な時間を共有していたことは、楽しいことでもあった。

 人生における恩人は、私の場合は、苦労や苦難から救ってくれた人というより、自分の人生の領域を、自分が意識していた範疇を超えたところに導いてくれた人と定義できるが、日野啓三さん、白川静さん、小栗康平さん、野町和嘉さん、そして鬼海弘雄さんということになる。

鬼海弘雄さんの笑顔が懐かしい。亡くなる2年前。体調はすぐれないところがあったが癌だとはわからなかった。このトークの時は、小栗康平さんと京都の私の家に数日宿泊し、ゆっくりゆっくりだけれど、紅葉の神護寺の坂を登ったり、桂川沿いを散歩していた。その滞在中に鬼海さんが作ってくれたカルボナーラのスパゲティが絶品だった。

  2019年の年末、リンパ腫の癌で鬼海さんは広尾の赤十字病院に入院しており、写真家の小池英文さんと一緒に面会に行った時、2016年の秋から取り組んでいたピンホール写真のプリントを見てもらった。初めてから3年だったが、風の旅人を休刊してからは、これだけに打ち込んでいたので、その量はかなりのものにはなっていた。私は編集人として写真を見て判断することを専門職としているが、自分が撮った写真は、写真の現場の記憶も濃密に脳裏に残っているから、客観視しずらい。

 それで、鬼海さんの目を通して、まだ全然ダメか、それなりか、判断できると思ったのだ。

 しかし、鬼海さんは、プリントを見るなり、突然、「本にしろ!」と言う。びっくりして、「まだ早いでしょ、10年くらい取り組んでからじゃないと」と答えると、真剣な顔で、「もう十分にその時期だ、今からやっていかないと、後で整理できなくなるよ」と言われた。

 私は、本にするというイメージをまったく持っていなかったので途方に暮れた。私は、編集人だから、ただ作品を寄せ集めても意味がないと思っており、本にするとしたら、どういう本にすべきかを、まず第一に考える癖がある。

 だから、鬼海さんに背中を押されて、どういう本にすべきかを考え始めた。

 考えているだけでは意味がないので、年があけてすぐ、自分で編集とデザインをしながら手探りで形を作っていった。やる前は、自分でも本になるかどうか疑心暗鬼だったが、朝から晩まで一心に打ち込んでいるうちに、私なりの本のスタイルが浮かび上がってきた。そして、あっという間に、「Sacred world 日本の古層」の全体像が構築できて、文章も書けて、3月末に印刷も終了したので、すぐに鬼海さんに送った。

 自分では意識できていなかったけれど、確かに、自分の中で準備は整っていたのだ。鬼海さんは、それを見抜いてくれた。

 私の本が完成した時、鬼海さんの症状は悪化していたけれど、意識ははっきりしていて、本の隅々まで写真も文章も目を通してくれ、何度も電話をかけてくれ、いろいろと感想とか、励ましの言葉をくれた。

 しかし、その三ヶ月後くらいから急激に容態が悪くなり、本も読めなくなっていった。その最後のタイミングで、「Sacred world 日本の古層」という一つの完成形を鬼海さんに見てもらえたのは、奇跡であり、宿命でもあるという気がした。 

 そして、鬼海さんに「本にしろ」と言われた時、「今やっておかないと後で整理できなくなる」とも言われていたわけだから、本にするのもプロセスにすぎないということは自覚していた。だから、編集段階で、この本をVol.1とした。鬼海さんにこれを送る時も、これから毎年、一冊ずつ作ると伝えた。

 鬼海さんに背中を押されたことは、奇跡であり、宿命であるという意識を持っているので、他のことには気持ちは流れず、これだけに打ち込むことができる。

 20年前の風の旅人の創刊の時は、野町和嘉さんが、3年前の鬼海さんのように、突然、私に対して、「今すぐグラフィック雑誌を作れ!」と、神の声のように言い、強引に背中を押されて作った企画書を、まず最初に白川静さんに送ったら。「あんた、こんな大それたこと、実現するのか? 実現するのだったら、引き受けるわ」というやりとりがあり、わけがわからないまま走り出したのだが、人生には、そういう自分の意識を超えた力が、突然、降りて来ることがある。

 もちろん、そういう時、怖気付く自分もいるが、自分の意識や意思の力では自分の想定内のことしかできないので、わけもわからないまま大きな力に乗ってしまうことの面白さはある。どうせ、ダメ元だし。

 鬼海さんは、大学の哲学科を卒業後、トラック運転手、造船所工員、遠洋マグロ漁船乗組員をしながら写真家を目指した。

 身体感覚を重視していた鬼海さんだが、癌に蝕まれて抗がん剤治療をして意識が朦朧としている状態でも、病院の枕元には文学書が積まれていたように、鬼海さんは、ずっと文学の人であり、それは鬼海さんが書いた文章に明確に現れている。 

 しかし鬼海さんは、哲学とか文学を、机の上だけで閉じて行うのではなく、身体を通して、実践し、形にしてきたのだ。

 身体というのは、想念に比べて限界が明確なものであり、だからこそ、その限界を超える何かに対するトキメキも強くなる。

 鬼海さんの写真というのは、その何かに出会った時の鬼海さんのトキメキが、じんわりと滲み出てくるものになっている。

_________________

 

鬼海弘雄 写真集 『TOKYO  VIEW』

残数わずかですが、オンラインで購入できます。

www.kazetabi.jp

第1261回 シベリア収容所を通して見るロシアとウクライナの現実

 昨日、新宿のオリンパスギャラリーで行われている野町和嘉さんの「シベリア収容所」の写真展において、野町さんとトークをさせていただいた。

 野町さんは、報道写真を撮っているわけではないので政治的な話になるのは嫌そうだったが、私なりに気になることがあったので、あえて、そのあたりの話にも少し踏み込んだ。

 というのは、冒頭の野町さんの挨拶で、今回の展示を見た人の中に、「シベリア収容所というから見に来たが、女性が化粧しているし小さな子供達もいるし云々で、こんなの収容所と言えるのか」といった類のクレームを入れた人がいたという話が出たからだ。

 そのクレームの人が問題だと言いたいわけではないが、世間には、見る人を誘導する政治的アイコンのような写真が多く出回っている。

 現在、ロシアとウクライナの戦争においても、連日、報道でロシアの暴挙が伝えられていて、ウクライナ側から、収容所経由で100万人以上の住民がロシアに強制連行されたという報道もあったり、第二次世界大戦後の日本兵捕虜のシベリアでの悲惨な収容所体験も伝えられているので、野町さんが撮った収容所も、そういうイメージのものであるはずと思いこんで会場に来たものの、展示されている写真は、そのイメージとは少し異なっているので、戸惑う人がいるかもしれない。

 しかし、人間が背負う哀しみとか辛さというのは、それほど単純なことではない。

 誠実なる眼差しでとらえた写真というのは、それほど単純ではないという事実こそを、きちんと伝えるものであり、人々があらかじめ抱いている観念にそって、それを強調するようなものは、世間に受け入れられやすいかもしれないが、誠実なる写真とは言えない。

 野町さんが取材した時の収容所にいる女性の囚人の1/3が殺人犯である。しかし、その女性たちは、夫や恋人からのDVの被害者で、自己を守るために衝動的に殺害に至った人が大半だ。そして、収容所にいる子供達は、暴力をふるっていた夫や恋人とのあいだの子が、DV相手を殺害後、収容所に服役中に生まれたからだ。また残りの2/3は窃盗が主だが、高価な貴金属ではなく、家電製品一つで7年もの長期間、抑留されたりして、そのあいだに夫が妻の出所まで待たずに離婚となったり、収容所の職員たちと囚人の女性が性関係になって子供が生まれたりしている。

 ロシアの収容所は、囚人を使った強制労働のための施設であり、アウシュビッツの収容所のように殺害を目的としたものではない。

 ロシアは、広大な国土を持ちながら人口は1億4500万人で、狭い島国の日本より2000万人多いだけだ。中国やインドの10分の1、アメリカと比較しても半分以下。にもかかわらず、未開発の土地はいくらでもある。

 収容所に抑留されている人たちが、土木工事や、資源開発などの重労働を行なってきた。第二次世界大戦後、ソ連は、急激に核大国となったが、核関連施設の建設と、ウランなど核物質の採掘には、数十万人の収容所抑留者が動員された。

 ソ連(ロシア)の体制は、人権ということに関して、私たちの常識感覚では計れないことを行なってきた。

 たとえば第二次世界大戦におけるソ連の戦死者は1450万人、民間人の戦死者は600万人とされる。

 ソ連の次に多いのがドイツで、戦死者は280万人、民間人は230万人、原爆を二つも落とされた日本の戦死者は230万人、民間人は80万人、英米仏など戦勝国は、それぞれ20万人台。ソ連戦勝国の側だが、他の戦勝国の100倍の人が亡くなっている。

 ナチスドイツを打ち負かしたのはソ連の功績だとされているが、勝ったソ連の方が、ドイツの4倍の人が亡くなっているのだ。

 なぜこうなるのか。普通に考えれば、1450万人の戦死者を出す規模の軍隊の一人ひとりに武器装備をさせて訓練ができるはずがない。なので、このソ連の戦死者は、ほとんど装備も持たず、訓練も受けず、身体を盾としてドイツ軍の進路を阻むために敵の最前線に送り込まれたからだろう。

 ロシアを旅行したことがある人は気がつくと思うが、一人の人間として接する時のロシア人と、公務の時のロシア人が、まるで別人格のように感じられることだ。

 もちろん、その違いは、どこの国でもあるが、ロシアという国における公務は、時に、人間の冷徹さ、頑なさ、狡さが、露骨に出るようにも思う。

 ロシアは、もともとは、1000年以上前、現在のロシアで言えば西の端の方に定住生活を始めた遊牧人だった。ウクライナベラルーシも同じだ。

 当時、現在のロシアの領土である中央アジアや極東など大部分は、モンゴル人など遊牧騎馬民族が支配する地域だった。彼らは、東では中国を攻め、西では、欧州を脅かした。そして、そのあいだのロシアは、蹂躙され、破壊され、男性は殺され、女性は強姦され、時には拉致されていた。かつて、モンゴル軍など遊牧騎馬民族の戦闘力は地球上最強だった。

 その局面が変化し始めたのは、15世紀から16世紀、ヨーロッパでルネッサンスが起こった後、大砲や銃が発明され使われるようになった時だ。

 同じ頃、日本では、その銃をいち早く取り入れた織田信長が、それまで最強だった武田の騎馬軍を打ち破った。

 ヨーロッパと接していたロシアもまた、新たな軍事力を取り入れ、それまで太刀打ちできなかったユーラシア大陸の遊牧騎馬民族を打ち破っていき、国土を東へと広げていった。

 とはいえ、広大な地域であり、遊牧騎馬民族の力が完全に衰えたわけではなく、たびたび襲撃を受け、略奪され、その防衛線の管理・警備には年間数万人の兵士の配備を要したとされる。

 そして、ヨーロッパが絶対王政の時代となる17世紀から、300年にわたるロマノフ王朝が始まる。

 しかし、ロシアの王政は、欧州の王政と決定的な違いがあった。

 欧州では、封建体制が崩れ、都市に出た農民が労働力となり、産業革命が起こり、資本主義が発達していくことになった。

 それに対してロシアの王政は、農奴制を強化した。欧州のように都市が発達していなかったということもある。

 そして、税制は、人頭税だった。土地の広さに対してではなく、人数に対して税金をかけるという日本の律令制のようなものだ。広大な領土で、土地を計測して税金を課すというのは、物理的に難しかったのかもしれない。

 人頭税だから、農奴が逃亡すれば収税額が減るから、それを厳しく罰する法律が作られ、地主もまた、農奴の逃亡に対して大きな責任を負うことになったので、農奴の管理を徹底した。

 農奴は移動の自由のみならず結婚の自由ももたず、領主裁判権支配下に置かれた。

 領主裁判権は殺人などの重罪をのぞき、領主または領地管理人が審判し、判決を下す制度であり、農奴たちは些細なことで鞭打ち刑や罰金刑に服さなければならなかった。

 そのようにして、ロシア人民の犠牲のもと、維持されてきたのがロシアの体制だった。

 17世紀半ばから19世紀の後半まで、農奴は基本的に移動が禁止され、土地に縛り付けられていた。そして、この農奴たちを売買することさえ可能であり、彼らの基本的人権は尊重されなかった。

 そうした厳しい締め付けでも、たとえば日本の平安時代などは、逃亡農民はいくらでもいて、彼らは海賊になるなど、他の生き方を選ぶことができたが、広大なロシアの大地では、逃亡さえ容易ではなく、逃亡先で生きていくための術も想像できなかっただろう。

 そうしたなかで、1789年のフランス革命などの影響を受けて人権意識が高まり、結果として起きたのが1917年のロシア革命だから、この革命は、マルクスが描いていた共産主義社会のための革命ではなかった。なぜなら、社会において生産性が向上し、プロレタリアートの力が十分に高まった状況での革命ではないからだ。

 つまり生産力向上のための技術革新などが十分に行われていない状態で起きた革命で誕生したソビエト連邦では、人民の自由意志による成長は望めなかった。

 だから、クレムリン政府は、人民を国家管理のもとにおいて、銃で脅し、強制する体制を作ることになった。自由競争による切磋琢磨と、それに伴う人権意識の熟成を奪い、国家の発展や、国家の危機に対しては、人民を駒や盾として使う政策となった。

 それは、帝政時代の農奴制が、ソ連社会のなかで、違う形で継承されたようなものだ。

 このように人民を盾にして国家を守る体制は、帝政時代の1812年、破竹の勢いだったナポレオンの軍勢を食い止めた戦争に象徴されており、現大統領のプーチンの演説でも、「若者も老人も国民皆が一斉に侵略者に対して武器を持って戦い、彼らの比類のない精神の勇気と力そして祖国愛が我が国に力を与えた大祖国戦争である」と力説をしている。

 このナポレオンとの戦争では、最新の軍隊組織を持つナポレオン軍に対して、民兵の動員も含めてほぼ同じくらいの数の兵力を準備し、退却を繰り返しながらロシアの奥へと誘い込み、厳寒の中、ナポレオン軍の疲弊や餓えや士気の低下や兵士の離脱を狙うという戦略がとられた。

 その罠にかかって侵攻を続けたナポレオン軍が、休息と食料調達を期待してようやく辿り着いたモスクワは、ロシア側によって、焼き払われていた。

 そのため、食糧も尽きて、極寒の中、安息地がどこにもないナポレオン軍は退却することになった。その退却路を、ロシア軍はゲリラ的に襲撃した。最終的にナポレオンの陸軍は当初の60万から5千まで減ったとされるが、戦闘によるロシアの死傷者も大差なかった。しかし、それよりも、戦線の通過で荒廃した地域の住民の被害は大きく、全体としておよそ数百万人が死亡したと見られている。

 第二次世界大戦の時も、上に述べたようにソ連の死者数が突出して多いが、プーチンは、この二つの戦いを、特別な祖国戦争と位置づけているのだ。

 話を冒頭に戻すが、ロシアの収容所の本質というのは、このように体制の管理下で、人民を捨て駒にするという帝政ロシア時代の農奴制の延長にある。

 だから、そこには、とりあえずの生活はあるし、抑圧状態にある人間の吐け口となる性に対しては、わりと寛容なところがある。どんな形でも人の数が増えればいいという事情もあるからだ。しかし、人権が奪われている。

 野町さんの「シベリア収容所」の写真展に映し出されているのは、その人権を奪われた人間の哀しみである。とくに女性たちの多くは、収容所の外の現実社会などでも暴力にさらされ、脅かされ、人権を奪われた状況で生きていた。そして、その極限状況のなかで身を守るために相手を殺傷するという事態となり、収容所に閉じ込められ、強制労働を強いられている。しかし、収容所の中は、人権は奪われていても、以前の外の世界のような暴力に晒されないということで、シェルターにもなっている。とくに、この撮影時は、1991年のソ連崩壊の翌年で、社会の混乱は甚だしいものがあり、食糧にありつけるかどうかもわからなかった。ゆえに、収容所内の女性たちには、哀しみとともに、安息感も漂っている。

 そして、ウクライナというのは、東スラブ人がルーツで民族的にはロシア人と同じだ。

 ウクライナという場所は、ロシア帝国の時代は小ロシア県だったが、ロシアの中でヨーロッパ世界と直接的に接する部分であり、それがゆえに、ヨーロッパの空気を肌で感じ、さらにヨーロッパとのあいだに確執が起きると、ロシア帝国の駒として真っ先に犠牲になるところだった。

 19世紀のナポレオン戦争、そして20世紀の二つの世界大戦でもドイツとの戦いの最前線だし、桁外れの数になったロシア国(ソ連国)の戦死者や民間人の死者の多くは、ウクライナの地にいた人々で占められている。

 そのため、ウクライナの地では、ロシア帝国時代から、ロシア中央政府の駒としてではなく、自決を求めた分離独立を求める空気が強く、1917年のロシア革命の時にはその可能性もあったのだが、新ソビエト政権によって、それを阻まれた。

 ロシア(ソ連)の中央政府にとってウクライナの場所は、絶対に手放したくない地政学的に最重要の場所だからだ。

 広大な国土を持つロシアだが、海に至るルートは、極東と北極海、フインランド湾と、黒海しかない。そのなかで地中海へとつながる黒海だけが、世界に開かれている。この黒海に面する大部分を占めるのがウクライナの地だ。だから今、ロシアは、ウクライナとの戦闘で奪った黒海沿岸地の領土化を正当化するための手を次々と打っている。

 さらに、ウクライナの地は、大経済圏であるヨーロッパと直接つながるルートであり、現在のロシア経済の柱であるエネルギー資源の輸出において、ウクライナの地をパイプラインが通っている。ウクライナの地にいる住民が、ロシアの国益に反することを決定することを、ロシアは当然ながら危惧する。ロシアにとってウクライナの地は、管理できる対象でなければ不安でならない。

 そうすると、これまでの歴史がそうであったように、人権は無視される。

 現在のロシアの非道に対して、当然ながら、暴君プーチンがクローズアップされるが、一人の個人の力だけで歴史が決まっていくということはありえない。

 1991年のソ連崩壊で混乱するロシア社会が、2000年以降、経済力を向上させ、賃金のアップと失業者の減少へと導いたプーチンの政策を、ロシア国民が支持したからこそ、プーチンの長期政権が実現した。反対者を殺害したから長期政権になったという単純なことではない。

 そして、なぜロシア経済が好転したかというと、プーチン外交政策によって、ロシアの資源を欧州に売る道筋がつけられたことが大きいが、そのパイプラインが、ウクライナの地を通っていたり、黒海から輸出されたりしているのだ。

 そのウクライナを管理するためのロシアの横暴に対するアメリカを中心とした制裁政策は、深刻なエネルギー危機と物価高につながり、欧州の首を締めており、このたびの戦争の影響が、全地球的なものになっているのも、プーチン外交政策の延長にある。

 ロシアの地が、東の遊牧民族によって蹂躙され、破壊され、殺され、強姦され、拉致され続けていたのは、そんなに昔のことではなく、わずか500年ほど前迄のことである。

 そうした悪夢のような日々から逃れるために、ロシアという国の体制づくりは進められて、その延長戦上にあるのが、ソ連であり、現在のロシアだ。

 そして、ナポレオンやドイツとの戦いにおいて、住民を捨て駒にすることで勝利したことで、世界の大国となり、大国としての権威を最大限に高めたのが、第二次世界大戦後のアメリカと対抗する核武装だが、これもまた自前の技術ではなく、マンハッタン計画に従事していた研究者たちの自主的スパイ活動によって、ソ連にもたらされたものだった。

 その技術を具現化するために、収容所に抑留されていた数十万という人たちが、各施設の建設と核関連物質の採掘に動員された。

 こうした歴史の詳細について、これは正しいとか間違っているとか議論するだけでは意味がない。

 歴史は大河の流れであり、現在起きていることは、その流れの一部だと認識するために、歴史を知る必要があると思う。

 もちろん、歴史を知ったからといって、現在起きていることが正当化されるわけではない。

 しかし、その背景を知らずして、自分が知っている断片的知識の中だけで物事を見て判断して善悪を論じても、それは自己本位に白黒を決めて自分をすっきり納得させるだけのことである。そうしたことだけを望む人たちには、告発的な狙いを意図した写真の方が、受け入れられやすい。

 野町さんの写真は、そういう告発を意図して現場を恣意的に切り取ったものではない。

 冒頭に書いた人のように、「こんなのは収容所ではない」というクレームは、自分が知っている断片的知識の中だけで物事を見て判断する癖がついているからだろう。

 それは、マスメディアの報道にも問題がある。マスメディアは、こうしたクレームを一番恐れているところがあり(クレームを受けて降板とか謝罪とかしょっちゅうだ)、人々が既に抱いているであろうイメージを、損なわないような情報操作をしがちだ。

 イラクアメリカの戦争などでも、悪の権現フセインというイメージが広まると、それを上塗りするような報道ばかりになる。

 野町さんの写真におけるスタンスは、「見る力」に徹することだ。つまり一切の観念にとらわれずに、見ることと、撮ることを一体化すること。これは簡単なことのように思われるかもしれないが、そうではない。通常、われわれ人間は、自分がもっている観念にそったものを無意識に目で選んでいる。目は、自分の見たいものを見て、見たくないものを見ていない。

 野町さんは、シベリア収容所の写真においても、そうした観念を一切取り除いた目力で、事物を見て、写真を撮っている。

 その結果、多くの人が何となくイメージを持っている「ソ連のシベリア収容所」のイメージとは異なる生の空気が写真に捉えられることになった。

 その生の空気には、ロシア社会の底流に流れ続けている哀しみが立ちこめており、その哀しみは、ロシアの歴史と深くつながっている。

 固定観念を捨てきって見ることに徹すること。そうしたスタンスで撮られた写真の力によって、人々の固定観念は揺らぎ、これは一体どういうことなんだろうと、その背景への思いをめぐらす端緒となる。

 こうした思索は何かしら具体的な解決につながるものではないと、結論ばかりを求める人は反論するかもしれない。

 しかし、性急な結論が、本質的な解決につながるとも思えない。

 現在、地球上でもっとも大きな国土を持つロシアの、亡国に対する恐怖を、理解し、実感することは難しい。

 仮に、ウクライナからロシアを追い出したとしても、この恐怖があるかぎり、ロシアは、住民を捨て駒にして、その恐怖から逃れるために違う手を売ってくる可能性が高い。この場合の住民は、ロシア国内の住民だけでなく、全世界の住民となる可能性だってある。

 10月8日のロシアのミサイルによるウクライナ全土攻撃に関して、ミサイルの精度がどうのこうのと矮小な議論が起きているが、この攻撃は、直接的な戦闘効果を期待しているものではなく、一つのデモンストレーションであることは明らかだ。

 ロシアは、自分を守るために、無差別に、どこに落ちるかわからないミサイルを発射する可能性がある。そして、ミサイルは、核爆弾を積んで発射することも可能である。

 10月13日、 ロシア連邦安全保障会議のアレクサンドル・ベネディクトフ副書記は、国営タス通信とのインタビューで、ウクライナ北大西洋条約機構NATO)加盟が第3次世界大戦を引き起こすと述べた。

 ウクライナNATO加盟は、ロシアにとって軍事的な恐怖だけでなく、パイプラインなど経済の命綱さえも、自分の思うままにならない可能性を意味する。

 この不安心理を、私たちは想像できていない。

 なので、ロシアの横暴を非難する心が、ウクライナNATO加盟を応援する心理につながって、それが広がる方が、より危険かもしれない。

 そして何よりも忘れてならないのは、ウクライナもロシアの歴史とともにあったということであり、ウクライナのゼレンスキー大統領が主張している祖国を守る戦いの正義は、プーチンナポレオン戦争やドイツとの戦争を引き合いに演説した時の、「若者も老人も国民皆が一斉に侵略者に対して武器を持って戦い、彼らの比類のない精神の勇気と力そして祖国愛が我が国に力を与えた大祖国戦争である」という言葉と同じであることだ。

 ウクライナ政府は、かつて、ロシアやソ連がナポレオン軍やドイツの侵攻に対抗した時と同じように、中央政府の体制を守るために、人民を盾にした消耗戦を、相手が根を上げるまで、ひたすら続けていくつもりなのだろう。しかし、その時代と現代で明確に異なるのは、相手が、どうしようもなく行き詰まった時に、大量破壊兵器を使える可能性を持っていることなのだ。

 

_________________________

ピンホール写真で旅する日本の聖域。

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

www.kazetabi.jp

第1260回 古代海人と太陽神の関係。淡路から伊勢へ。

 舟木 石上神社 

 淡路島の舟木にある石上神社は、小高い丘の上の巨石群が御神体となっている古くからの聖域。ここは、現代の日本とは思えない異界のような雰囲気が漂っているが、今でも女人禁制を守っている聖域である。

 女人禁制だからといって、女性を差別しているということではなく、この聖域は東を向いており、朝日に向かって祭事を行うことが男の役割であったことが、女人禁制の起源と考えられている。

 それは、おそらくただの太陽崇拝ではなく、もっと実際的な意味があるもので、舟木という地名が示しているように、船乗りと関係があったのではないかと思う。

 舟木という地名は、各地に残っているが、『住吉大社神代記』には、古代、住吉大社の祭祀を司った船木氏が、船を作ったという記録が残っている。

 記紀のなかで、第10代崇神天皇の時代、アマテラス大神の鎮座地を求めて倭姫命が、各地を彷徨い、最終的に伊勢の地に至るという話があり、伊勢の前に、一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社や場所が元伊勢として知られている。

 その倭姫命の巡幸の途中に立ち寄ったとされる場所で、美濃(岐阜)や尾張(愛知)、最終的な鎮座地の前の伊勢の瀧原宮に船木の地がある。

 船木氏という特定氏族がいたのか、船と木だから、海人が、倭姫命の元伊勢巡幸と関わっていたのか?

 いずれにしろ、太陽神をどこで正式に祀るかという旅に、海人が関わっていた可能性が高いということになる。

 興味深いのは、淡路の舟木の石上神社は、真東に行くと、奈良盆地の東西のランドマークである二上山三輪山を通り、伊勢に至るのだが、伊勢が、伊勢神宮ではなく、伊勢斎宮跡であることだ。

西から、舟木の石上神社、二上山三輪山、室生龍穴神社、伊勢の斎宮跡。

 斎宮というのは、伊勢神宮の祭祀を行うために皇室から派遣された斎王(未婚の皇族女子もしくは女王から選ばれる)がいた場所である。

 そして上に述べた元伊勢巡幸の倭姫命が、伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、このことが制度化されて後の斎宮となったとされる。

 上に述べたように、その倭姫命の元伊勢巡幸と船木氏の関わりは深いので、倭姫命を初代と位置付ける伊勢斎宮の拠点と、淡路の舟木が同緯度の東西ライン上にあるのは、偶然ではなく、計画的であるということになる。

 この東西ラインは、1980年のNHKで取り上げられたようだ。その時の放送では、このレイラインがなぜ配置されたのかという説明において、日神信仰と、大和朝廷の租税のためと仮説がつけられていたようだが、それから40年が経過し、そのあいだに重要な考古学的発見もあり、40年前の推理に合わなくなっている。

 重要な考古学的発見の一つが、2017年、淡路の舟木から、弥生時代後期の鉄製品57点と工房を含む竪穴建物跡4棟が見つかったことだ。その規模は、すでに発見されていた、ここから南西約6キロにある国内最大級の鉄器生産集落で国史跡の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡をしのぐ可能性があるものだった。

 つまり、五斗長垣内も含めて、淡路の舟木周辺は、ヤマト王権以前、弥生時代に遡る鉄関連地帯だった。

 それでは、その鉄資源は、いったいどこから運ばれてきたのか?

 アカデミックの世界では、日本最古の鉱山の発見は奈良時代までしか遡れていないので、それ以前は、海外から鉄資源を輸入して、それを日本国内で鍛治加工していただけだとされる。

 だから淡路の舟木の鍛治工房も、輸入された鉄の加工場所であるとされ、なぜこの場所になったかというと、鉄資源が、瀬戸内海を通って運ばれ、淡路が畿内の入り口だからだと説明される。

 しかし、奈良時代以前、ヤマト王権の時代だけでなく弥生時代の遺跡からも膨大な鉄製品が発見されており、それらを全て輸入鉄であるとするのは、どうにも無理がある。

 そのため専門が考古学ではない真弓常忠氏などは、日本にも縄文時代に遡る国産の鉄資源の利用があり、それは主に褐鉄鉱(水酸化鉄)だったという説を唱えている。

 淡路島の場合、舟木から北東に8kmのところに岩屋の絵島があり、本居宣長は、ここが、イザナギイザナミの国産みが行われたオノゴロ島だと断言しているのだが、それはともかく、この絵島とその周辺は、褐鉄鉱(水酸化鉄)の岩盤だ。

 

淡路の岩屋の絵島。本居宣長は、ここを、イザナギイザナミの国産みの舞台、オノゴロ島としている。

 私が気になるのは、淡路の舟木の対岸の播磨で、そこに加古川が流れている。

 加古川中流域にも舟木という地名が残るが、加古川を遡り、氷上あたりで由良川にアクセスすれば、日本海若狭湾へと通じる。瀬戸内海から日本海に抜けるこのルートは、本州で最も低い、標高わずか95mの中央分水界「水分れ」を通る。つまり、もっとも簡単に、太平洋側から日本海側に抜けるルートであり、しかも、その途中の福知山周辺は、大江山など産鉄地帯なのだ。

 このあたりに鉄資源が埋蔵されていることはわかっているのに、奈良時代以前の採掘跡などが発見されていないために、アカデミズムの世界では、古代日本は輸入鉄に頼っていたということになっているが、発見されていない=事実としてなかった、ということにはならないだろう。

 いずれにしろ、海岸近くではなく、かなり内陸部に舟木という地名があることからも、海と川の水上交通をになっていた人たちが拠点としていた場所が、舟木なのだろうと想像できる。

舟木の石上神社

 そして、遠い距離を移動し、離れた地を結ぶ彼らにとって、太陽は、重要な道しるべだった。

 興味深いのは、淡路の舟木から伊勢まで続く東西のライン、西の端の舟木の石上神社は、女人禁制だが、東の端は伊勢の斎宮跡の場所、つまり女性の聖域であることだ。

 そして、ここは大和から見れば太陽が昇る方向である。アマテラス大神は、記紀のなかで、女神として描かれているが、この神に仕える斎王が未婚の女性に限られるというのは、神との結婚のためでもあり、太陽神そのものは男神だった可能性がある。

 アマテラス大神は、「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」という別名を持つが、「ヒルメ(日孁)」の「孁」は「巫」と同義であるため、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられる。

 しかも記紀のなかで、アマテラス大神は、神御衣を織っているが、それは神ではなく巫女の役割であり、太陽神に仕える巫女それ自身が、特別の力を持つ神聖な存在として崇められていたということになる。

 魏志倭人伝の「ひみこ」の話にしても、特定人物ではなく、「日の巫女」によって束ねられていたクニということが伝えられているのかもしれない。

 淡路の舟木の地で、船乗りの男たちは、航海の道しるべとして太陽神を崇めていたが、その太陽が政治的な道しるべとなり、太陽に仕える巫女が、神の声を代弁することで男どもを束ね、クニを一つにまとめた。それが卑弥呼の時代だろう。

 そして記紀が書かれた時代、持統天皇元明天皇元正天皇の女帝が続くわけだが、それまで神に等しい大君に仕えていた女性を天皇にせざるを得ない状況だったわけで(おそらく、律令制の揺籃期に男どもの権力争いが尽きなかったため)、日の巫女=女性天皇を、太陽神そのものとして位置付ける必要性が生まれたのかもしれない。

 

_________________________

ピンホール写真で旅する日本の聖域。

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

www.kazetabi.jp

第1259回 海人と水銀ネットワークの関係

轟九十九滝(徳島県海部郡海陽町

 観光旅行と旅の違いは、前者が「点」の訪問であるのに対して、後者は「線」の移動であることだ。

 「点」の訪問の場合、自分の現実世界と訪問地が二項対立の関係になるが、「線」の移動は、自分の現実世界と各訪問先が、一つながりになってくる。

 旅は、印象に残る場所を訪れた時、それが楽しい思い出になるだけで終わらず、その場所と他の場所との関係が気にかかり、さらに現在との関係が気にかかり、次の旅へと自分を動かす。

 ところで、一つの場所から次の場所を目指す時、四国での移動ルートは、事前によく検討した方がいい。

 例えば四国南端の室戸岬から、内陸部の神山町への移動の場合、最短ルートは「酷道」193号線だが、たとえ距離が遠くなろうとも、四国東の海岸線を通り、吉野川河口域の沖積平野から内陸部に入った方が楽で安全だ。また西の剣山側から神山町を目指す「酷道」439号線もまた、想像を絶する酷い道のりとなる。

 つまり、近年、自然の真っ只中でもwifiが繋がるということでIT企業などを誘致して話題となった徳島県神山町は、北と東には開かれているが、南と西は、非常に行き来がしにくい場所ということになる。

 今回の四国の旅で、私は、阿南と室戸のあいだにある海部という地名と、剣山系の山々を源流とする海部川という名に引かれて、海部川の上流部にある轟の滝を目指してしまったため、次の予定地である神山への行程が、酷道193号線を通ることになってしまった。

 この道は、霧越峠を超えていくのだが、この名のとおり、下界では晴れていても小雨が降ったり深い霧に覆われる場所で、私の移動時もそうだった。

 海部川上流部の山岳地帯は、年間降雨量3,000ミリに達する全国有数の多雨地域であり、しかも、渓谷沿いの道でブラインドカーブが多く、狭隘で、ガードレールが無い区間も多い。さらに山側は剥き出しの岩がせり出しており、落石・倒木の危険性も大きい。

 対向車が来たら、どちらかがバックして、少しでも幅広のところに移動しなければならないが、そこまでの距離が遠いし、しかも曲がりくねってガードレールもないし、霧で後ろがまったく見えないので、私自身は、恐ろしくてバックはできない。幸いにというか信じられないことに、50kmを超える長距離を走っているあいだ、一台も対向車がなかった。

 この酷い国道は、時間40mmもしくは連続100mm以上の雨量を記録すると通行止めになるらしく、この日の天気予報は雨だったので、地元の人は当然ながら誰もこの道を走らなかったし、有名な観光地でもないから、他地域からは誰もこなかったからだ。

 落石の直撃を受けたら終わりだし、行政が知る前にどこかで落石があって通行不可能になっていたら、そこまで行って気がついても、霧の中、ガードレールのない狭い道を、方向転換のできるところまで車をバックさせるのは至難の技だ。

 そんな非常事態のなか、途中、落石が車体の下に引っかかって動かなくなった時には顔が引きつった。車から降りて大きな石を取り除こうとしてもビクともしない。しかたなくアクセルを強く踏んで馬力で脱出したが、石がマフラーに直撃して、マフラーがおかしくなった。しかし、走行には支障がなかった。でも、こんなところで故障したら JAFも来られないだろうと超不安な心理状態でトロトロ走っていると日が落ちてしまい、真っ暗闇と霧の中という二重苦で、あちら側を彷徨っているような気分だった。

 しかし、車にとって最悪の道の下の渓谷は、かつては重要な交通路だった。

 昔は、高瀬舟が行き交い、様々な物質を運んでいたのだが、とくに那珂川の上流でもある木頭という場所からは、茶、和紙、木材等が下流の海部地域へと運ばれていた。

 木頭は、今では日本で唯一、古代布の太布の製造技法が伝えられている場所で、太布は、和紙の原料でもあるコウゾの樹皮から糸をつむいだ布である。

 また、開発などの俗化を免れた海部川水系は、日本の河川では珍しくダムがなく、今でも清冽な水が流れており、環境省の調査で、全国で最も水がきれいな川36本の1つとの認定を受けている。豊かな植生を誇り、天然のヒラテナガエビ、鮎、アメゴ、ウナギなどの水生生物の宝庫でもある。

 この海部川を遡って、太平洋から山間部の木頭へと高瀬舟で移動すると、木頭から東は、那賀川で阿南へと至る。途中、丹生谷という場所があり、さらに下ると、弥生時代の辰砂(硫化水銀)の採掘遺跡が発見された若杉山である。そして阿南まで行くと、対岸は和歌山で、吉野川沖積平野とも近い。

 徳島県那珂川流域は、古代、辰砂生産の一大拠点であったことは間違いない。そして、海部川の上流部、このたび私が訪れた轟九十九滝は、神霊の坐すところとして現在に至るまで信仰されているが、豊臣秀吉朝鮮出兵の時、徳島藩の藩祖である蜂須賀家政が、海上安全を祈願した場所とも伝えられている。

轟九十九滝(徳島県海部郡海陽町

 そして、ここに鎮座する轟神社の祭神は、ミズハノメだ。ミズハノメは、水の神様と説明されることが多いが、吉野の丹生川上神社の祭神がミズハノメであり、この神社は、社伝によれば、神武天皇の東征の際に天神の教示により天神地祇を祀り戦勝を占った地であるが、その占いによって、丹(辰砂)の鉱脈の存在を知ったとあるように、辰砂と関係が深いのではないかと思う。

 また、上に述べた木頭は、古代から林業、太布、和紙などを生産する山中深い場所で、ここに鎮座する宇奈為神社は、平安時代に遡る古社だが、宇奈為(うない)は海居のこと。祭神は、豊玉彦命豊玉姫命玉依姫命の海神である。

 そもそも、海部という名前は、古代海人と関わりが深い。丹後、尾張、大分など、全国の海人の拠点にその名が残っており、だからこそ、私は、室戸から神山町に向かう道として、海部川沿いの酷道を選んだ。

 この徳島南部でも、海人は、あきらかに丹生(硫化水銀)とつながっている。

 そして、10代の時に四国の山岳地帯で修行をした空海と水銀のエピソードは多いが、高野山奥の院は、水銀鉱床の上であり、空海は、この高野山の領地を、麓の丹生都比売神社から譲られたことになっている。

 丹生都比売神社の第一殿には丹生都比売が祀られているが、第三殿には、オオゲツヒメが祀られている。

 オオゲツヒメは、前回のエントリーでも書いたが、神山町上一宮大粟神社の祭神である。

 オオゲツヒメは、イザナギイザナミの国産みで産み出される古い神だが、ずっと後から産み出されたスサノオによって、殺されてバラバラにされてしまう。

 このオオゲツヒメは、縄文時代の辰砂の精製場所であり弥生時代の銅鐸祭祀と関わりの深い矢野遺跡の近くに鎮座する八倉比売神社(徳島市国府町)の祭神、八倉比売と同一とされるが、さらに、天津羽羽神とも同一とされる。

 天津羽羽神を祭神とするところは数少ないが、白村江の戦いの前に斉明天皇が築いたとされる朝倉宮の候補地である朝倉神社(高知市)の祭神がそうであり、さらに神津島阿波命神社の祭神、阿波咩命がその別名とされる。

 阿波というのは、古代徳島のことでもあるが、神津島は、古代、黒曜石の産地であり、この石で作られた石器が日本各地に流通していた。

 その流通には、当然ながら海人が関わっていたはずであり、徳島の海人とのつながりが想像できる。

 しかし、話はそう単純でもなく、徳島の神山町上一宮大粟神社の社伝によれば、オオゲツヒメは、伊勢国丹生の郷(現 三重県多気多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。

 伊勢の多気は、奈良の吉野と徳島の若杉山とともに辰砂(硫化水銀)の重要生産地だった。

 オオゲツヒメが、辰砂と関わりの深い神であることを、神山町上一宮大粟神社の社伝は暗示している。

 興味深いことに、地図で確認すると、伊勢の多気町と、吉野の丹生川上神社と、丹生都比売神社・高野山のあいだを結んだラインの延長上が、神山町上一宮大粟神社である。

東から、伊勢の多気、吉野の丹生川上神社高野山と丹生都比売神社、オオゲツヒメを祀る上一宮大粟神社徳島県神山町)。 南からは、室戸岬海部川の河口、そして、山中に入り、轟の滝、那珂川沿いの木頭の宇奈為神社(祭神は、豊玉彦命豊玉姫命玉依姫命の海神)。その東の紫のマークは、那珂川沿いの丹生谷で、近くに、若杉山の辰砂(丹=硫化水銀)の古代採掘場所がある。

 伊勢、吉野、高野山は、中央構造線上にそった辰砂の鉱脈なので直線に並んでいることは不思議ではない(とはいえ鉱脈は幅があるので、神社の位置は計画的である可能性が高い)が、神山町上一宮大粟神社は、辰砂の鉱脈地帯のやや北であり、この地図では、神山町の南を流れる那珂川沿いの紫色のマークが、丹生谷であり、辰砂鉱山の若杉山もここから近い。

 私が車でトロトロと走った「酷道193号線」の絶壁の下は、古代、高瀬舟が行き交う交通の要路だった。

 日本は山に覆われており、山の道を行くことは困難を極めるが、河川が網の目のように行き渡っており、その水路を使えば、山の奥深くと海が割と簡単につながる。海人の活躍の舞台はそこにあった。

 そして、古代の文献によれば、海人は、どうやら辰砂の朱で身体にイレズミを施していた。魔除けの意味もあったのだろうか。実用的な面では、防腐剤、防水剤となる辰砂は、船作りにおいても有用だった。さらにその辰砂の採掘場所を知っていることは、後の時代、辰砂が金などの精錬やメッキにおいても重要な役割を果たすようになり、中央の権力者と海人が結びつく理由ともなっただろう。なによりも、大陸との交易や戦争で、船と船乗りの存在は必要不可欠のものだった。

 神話の中で、天孫降臨のニニギがコノハナサクヤヒメ(阿多隼人という海人の女神)と結ばれ、その子の山幸彦が、海神の娘、豊玉姫と結ばれたという記述からも、海人との連帯の重要性が暗示されている。

 空海は、唐に渡る前に、四国の山岳地帯で修行をしていた。そして、唐にわたってすぐ、当時の先端仏教である密教の奥義を体得し、密教の正当な後継者となった。

 空海が、単なる天才だったからそれができたのではなく、四国における修行で、十分にその素養を身につけ、準備ができていたからだろう。

 おそらく、後に丹生都比売との縁で高野山を開くことからも、四国の山岳地帯での修行は、辰砂に関係する人々とつながり、それは全国にネットワークを持つ海人ともつながっていた。辰砂(丹生)は、ただの鉱物ではなく、ネットワークの要であったはずだ。全国に、丹生という地名が残っていることが、そのことを示している。

 空海は、そのネットワークに深く通じていた。空海の実家である古代佐伯氏が、そのネットワークと関係していた可能性もある。(広島の厳島神社や北九州の住吉神社世襲神職は佐伯氏であり、播磨、安芸、讃岐、豊後など瀬戸内海交通の重要地に佐伯の地名が残る)。

 空海が、唐に渡ってすぐに密教の奥義を極められたのは、大日如来を中心にして叡智が放射状に広がる胎蔵曼荼羅で象徴される密教コスモロジーと、辰砂を要とする日本の古代ネットワークのあいだに、何かしら重なるものがあったからではないだろうか。

 

_________________________

ピンホール写真で旅する日本の聖域。

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

www.kazetabi.jp

第1258回 足摺岬と室戸岬の違いと、死生観の違い。

室戸岬は、断崖絶壁の足摺岬と異なって、海と地面がひと続きになっている。

 

 四国の室戸岬足摺岬は、太平洋に飛び出した先端なので、同じような雰囲気のところかと思ったら、まったく違っていた。

 足摺岬は、断崖絶壁の上で、海面ははるか下にあったが、室戸岬は、大地の水平方向に海が広がる。

 足摺岬は、地の果てだが、室戸岬は、向こう側とこちら側の行き交いができそうで、神様がやってきて去っていくニライカナイのイメージは、室戸岬の方が強い。

 足摺岬は、死の世界への入り口というイメージがある。実際に足摺岬は、福井の東尋坊と並んで自殺者が多い場所であり、自殺の名所としての歴史は古い。足摺岬の先端には、地獄に落ちた先祖の慰め供養のための地獄の穴まである。

 四国は、死国でもある。なぜ死国なのか? それはおそらく、補陀落信仰とも関係している。

 補陀洛は、観音菩薩がいるところで、西の極楽浄土とともに、南の補陀洛世界が、仏教徒のめざす霊場なのだが、補陀落の修行

は、即身成仏と同じで、生から死への一方通行だ。

 修行僧は、南の海の果てにある補陀落を目指して船出するが、それは決して辿り着けない場所であり、船を操舵することもなく、お経だけを唱え続け、観音浄土に生まれ変わることだけを願い、大海を流される船の上で死んでいく。それは、決してこちら側に戻ってこない修行の旅となる。

 足摺岬は、熊野とともに、この補陀落信仰の聖地であり、まさに地の果てから、この世の果てに向かう場所である。 

断崖絶壁の足摺岬は、昔から自殺者が多かった。

 それに対して室戸岬は、青年時代の空海が悟りを開いた場所とされる。悟りを開いた空海は、修行のために生きるのではなく、現

実世界のために生きる。日本各地に空海による土木事業の伝承が残り、雨が降らない時、空海は、都で祈雨の祈祷を行なった。

 空海の道は、浄土に生まれ変わるための道ではなく、人間の欲すらも生命の力と受け入れ、この世に生きて、生きながら神のような存在となる道だった。

 平安時代を代表する僧侶として最澄空海のことを学校で習うが、最澄が、一人の偉大な僧侶にすぎないのに対して、空海は、この世からいなくなってからも弘法さまとして、神に等しく祀られている。

 幼名が佐伯真魚であった彼は、室戸岬の目の前に広がる空と海を眺めながら、空海という名を得たとされる。

 まさに、室戸岬というのは、空と海が等しく分かれ、そのあいだに自分が位置していることを実感させられる場所だ。

 足摺岬室戸岬が、なぜこんなにも違っているのか?

 その理由は、二つの岬の地質の違いによるところが大きい。

 足摺岬は深成岩の花崗岩でできている。地中深くでマグマが冷えて固まり、隆起した岩盤が花崗岩だが、花崗岩は、水の侵食に弱く風化しやすい。

足摺岬は、足摺岬は海蝕による洞窟、洞門が多い。この白山洞門は高さ16m、幅17mの大きさがあり、花崗岩洞門では日本一の規模。

 足摺岬の先端は、長い歳月をかけて、海によって削られてきたので、海抜の低いところは侵食されて残りにくい。

 それに対して室戸岬は、かなり特殊な地質であり、先端部分は、タービダイトと呼ばれる海底堆積物だ。

 洪水、地震による海底地滑り、津波、海底火山の噴火などで海底に堆積したものが、さらに太平洋の深海に押しやられると水圧で硬い岩石になる。その岩石が、プレートの移動で日本列島に押し付けられて、それが隆起したところが室戸岬の先端だ。

室戸岬。先端部分のタービダイト(海底堆積岩)。押し付けられて、異なる時代の地層が垂直になっている。

 洪水や噴火など起きた出来事によって異なる物質の堆積が繰り返されているので、年代によって地層の色が異なる。さらに、押し付けられて隆起したため、本来は水平に分かれる地層が、奇妙な形に彎曲したり、垂直方向を向いていたりする。現在も、室戸岬は、プレートに押し付けられて少しずつ上昇をし続けている。

 そして、室戸岬の先端から少し歩いたところから、はんれい岩の大地になる。

室戸岬。はんれい岩(マグマが地中深くで冷えて固まった)でできたビシャゴ岩。

 はんれい岩は、花崗岩と同じく深成岩で、地中深くでマグマが冷えてできた岩盤が隆起したものだが、花崗岩とは構成物質が違う。この岩は、花崗岩よりは黒っぽく、硬く、風化しずらい。

 だから室戸岬周辺のはんれい岩の一帯は、風化されずに残った奇岩が多い。海のそばのビシャゴ岩は、はんれい岩の塊だが、すぐ近くに、青年時代の空海が、居住し、修行をしたとされる御厨人窟がある。

 この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の法名を得たとされるが、この場所で難行中に明星が口に飛び込み、この時に悟りが開けたと伝えられている。 

青年時代の空海が修行をした室戸岬御厨人窟

 室戸岬周辺は、ブラブラと歩くだけで、まったく異なる地質帯の岩石が作り出す奇怪な風景をいくつも見ることができる。それは、数千万年以上の歴史の痕跡であるが、それは、数万年しか歴史のない人類の心の深いところに働きかけるものがある。

 水平に均等に積み重なっていくのではなく、異なる事態が起きるたびに異なる層の積み重ねがあり、得体の知らない力によって激しく彎曲させられたり、波に削られるところと残るところがあったり、これ全体が、まるで歴史の形のよう。

 自分自身は、浜を埋め尽くす異なる種類の石ころの一つにすぎないが、それでも、その壮大な歴史の過程のなかで誕生したことは感じられる。

 足摺岬は、死の旅への出発点のようだが、室戸岬は、空と海のあいだに自分が位置することを悟る場所。

 

室戸岬のアコウの木。

 

_________________________

ピンホール写真で旅する日本の聖域。

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

www.kazetabi.jp