混沌から<かたち>へ

 今日は見事に晴れ上がってしまった。
 昨日の天気予報だと、一日中雨と予報が出ていたので、撮影を明日に変更しまった。
 長期予報ならまだしも、翌日の天気すら当たらないということが度々ある。
 異常気象で予報が難しくなっていると言うが、予報が当たらなくても何の責任をとることもなく、きっちり給料だけもらえる。自然が相手だからという理由で。
 でも、昔のお百姓さんや漁師さんは、自分自身がリスクを負う必要があるわけだから、たとえ相手が自然であっても、それを読む感覚を磨き抜かざるを得なかったのではないか。
 企業の場合だって、やはりリスクを負っているから、国民の消費動向が読めないとか、技術発展のスピードが読めないなどと言い訳をしても、何にもならない。ビジネスの場合、科学的分析だけでなく、「直観」とか「暗黙知」のようなものが、大きな力を持つ。難しい判断とか決断というのは、最終的には、そういう灰色の領域で決まっていく。そして、その結果に対して、言い訳をしても無意味だから、直観とか暗黙知を磨くしかない。
 直観とか暗黙知のようなものは科学的でないということで、データばかりを重視する企業があるかもしれないが、そういう企業からは、創造的な商品やサービスは出にくいだろう。結果として、その企業は衰亡していく。企業のあり方と気象予報は別ものだと言われるかもしれないが、そうでもないのではないか。確かに、自然は複雑系の動きをする。でも、人間心理だって、消費動向だってそうだ。
 この複雑系のものを相手にする場合、科学的分析だけではだめで、ある種の直観のようなものの働きが必要なのではないか。その直観の力は、それがある人にとっては当たり前のように存在し、無い人にとっては、あるという感覚がまったくわからないから、それを受け入れることはできない。
 しかし、その力は、心の持ちようによって、いっそう磨かれていくものだし、その逆に、ますます鈍くなってしまうものではないか。こうしたことは企業活動の先端で闘っている人は、当たり前のことのように感じているだろう。
 私が言いたいのは、気象予報に限らず、シビアな責任とかリスクを負わずに調査とか分析をしている団体が多くあるが、そこから出てくる報告とか予報とか予測は、どんどん当てにならないものになってきている。
 遺伝子の並び方を解明しても、けっきょく、その並び方が意味するものはわからない。重要なのは、その背後にある「理」を直観で覚ることなのだ。
 消費動向にしても、自然の法則でも、おそらく「理」に貫かれている。それは、分析して得られるのではなく、体得していくものなのだろう。その体得という感覚が、分析者には分析できないものだから、報告から排除されてしまう。
 「自然を読むこと」も「時代を読むこと」も、必要に迫られ、自らの存亡を賭けるしかない苦しい状況のなかで、集中力を高めて、深く沈潜し、そして勇気を持って「掌握」する。その繰り返しによって、身体的直観(心的エネルギー)が磨き抜かれ、「理」に近づいていく。
 世界の、無意識の混沌のエネルギーをそのままぎゅっと握りしめて、それを何らかの<かたち>に絞ること。企業にとって、経営判断というのはそういうものだ。自然を相手にする時も、きっと同じだろう。そして、芸術も。 非科学的なことを言っているようだが、人間が気付いていない人間の可能性は、もしかしたら、そういう領域に秘められているのではないだろうか。
 混沌から<かたち>へ。『風の旅人』の次号(2月1日発行)は、そういうことを意識したものだ。そういうことを意識していたのだなと、今になってようやくわかった。今まで、直観だけで編集していた。だから方向性としては、そういうものになるだろう。でも、意識が足りなかった分だけ、不完全な部分が残るかもしれない。