「理」に近づく??

 コメントのなかで006さんが問われていること、
 「無意識を意識するっていう矛盾したこと。そんな「気付き」を繰り返して繰り返して様々なことを体得して「理」に近付いて、結局どこへ向かうんでしょうね。」について。

 私は、「理」から離れたモノが「理」に近づいていって、最終的に「理」そのものになるのだと思っています。
 そして、その「理」の桁を変えた更新の軌跡が、ミクロからマクロを貫く宇宙の構造になっているように思います。

 ここでは、人間のことを少し考えてみたいと思います。
 私は、「アダムの林檎」というのは、「自己意識(から生じる分別)」のことではないかと思っています。「自己意識(から生じる分別)」の林檎を食べた時から、恥の概念が生まれ、損得や後先のことを考える。そして、「カインとアベルの物語」のように、土地に線を引いて自分のものにする農耕民が呪われた人間としての宿業を背負う。
 さらに様々な「自己意識(から生じる分別)」によって、いっそう利口になり、ずるくなった。「ノアの大洪水」のような天災があると、なおさら神をあてにしなくなり、人間自身の手で何でもやるようになった。そして、「バビロンの塔」のように巨大な産業を発展させ、新たなモノをたくさん作り出し、そのモノの分だけ言葉が増え、言葉が乱れ、意思疎通が難しくなり、やがて「ソドムとゴモラ」で象徴されるように物質文明全盛の背徳と欲望渦巻く時代になり、「アブラハム」が現れる。
 「アブラハム」は、自分の土地を捨て、背徳のバビロンを出て荒野に行き、ありとあらゆるものを捨て、最後には、息子イサクに対する自己の執心さえ捨てる。
 アダムとイブからソドムとゴモラまでは、「自己意識(から生じる分別)」によってどんどん人間が「理」から離れていく。そして、アブラハムは、「自己意識(から生じる分別)」を捨て、どんどん「理」に近づいていく。
 人間は、人間だけが持つ「自己意識(から生じる分別)」によって、「理」から引き離される宿業がある。しかし、様々な経験を積み、経験を意識化していくことで、「自己意識(から生じる分別)」に勝る知恵を体得し、最終的に「理」に還っていく。人間は、古代から、桁の違いはあれど、同じ事を繰り返しているのだと思います。
 そして、「理」というのは、宇宙や生命の「システム(構造)」だと思います。
 また、「自然」というのは、その「システム(構造)」に則した現象、「理」の影絵というべきものではないかと思います。だから、自然界のどんなものの細部と全体に、宇宙の構造が宿っているのだと思います。
 宇宙的システムとでも言うべきモノは、宇宙のあらゆる場所に、地球上のあらゆる場所に、自分の似姿をどんどん作り出し、人間のように「自己意識(から生じる分別)」によって脱線するものは、回り道をさせながらでも、最終的に、自分の似姿へと至るように、働きかけているように思います。