「理」に近づく??

006さんの問いに対する私なりの考え(続き)

 宇宙は、人間に、自己意識(から生じる分別)」を発生させ、回り道をさせる。
 そうすると、「自己意識(から生じる分別)」って何だという疑問が最後に残る。
人間は、宇宙的システムから誕生したのだから、宇宙的システムを超えたものを作り出せるわけがない。そうすると、一見して「宇宙の摂理」から離れているように思える「自己意識(から生じる分別)」も、きっと、その宇宙的システムの一側面にすぎないように思えてくる。
 「風の旅人」のVol.10で河合雅雄さんが、ドリアンの種のことを説明している。ドリアンの種は、地面に落ちても発芽しません。自己の木の下がドリアンの若木で埋まってしまうことは子孫の拡大繁栄には不都合だからだ。
 ドリアンの種が発芽するためには、ドリアンを食べた動物の消化液によって、種の殻が溶かされなくてはならない。ドリアンは、動物に食べられ、遠くに運ばれ、消化され、糞となって地面に落ちてはじめて、新しいドリアンの生命をつないでいける。
 人間の「自己意識(から生じる分別)」というのは、このドリアンの種の殻のようなものではないか、と思うことがある。「自己意識(から生じる分別)」は、人間としての種を、同じ自己の木の下に次々と発芽させないシステムの一環に違いないと思う。
 ステレオタイプ的に、同じ場所に新しい木が発芽していくと、人間の種の可能性が、とても狭い範疇にとどめられるだけでなく、その群生状態のなかで、個々の木は生命力を退化させてしまう。
 人間は「自己意識(から生じる分別)」という殻によって簡単に発芽せず、様々なきっかけを利用して、できるだけ広範囲に生存の可能性を広げようとする。
 そのプロセスのなかで、外部環境にもまれ、消化液に溶かされるように「自己意識(から生じる分別)という殻が溶けていく。それが「経験」を積むということであり、硬い殻を持ち、かつ、その殻が溶けるというプロセスを踏むことではじめて、「発芽」という「理」に到達できる。
 「発芽」というのは、“人間”にとって、ただ子供を生むことだけを意味するのではなく、自己の木の下が若木で埋まってしまわないような、新しいイリュージョン(神話?)を創造することではないか。
 「実証主義科学=真実への道」も、「高学歴=立身出世」も、「公共メディア=真実の代弁者」も、「新しさ=よいもの」も神話だ。それ以外にも、「文学というもの」、「現実というもの」、「学問というもの」、「人生というもの」、「正義というもの」等々、今日の世界を息苦しいものにするメッキの剥げたイリュージョン(神話?)はいろいろある。
 古いイリュージョン(神話?)という自己の木の下の陰になって、若木が成長できず死に絶えていく状態は、もはや「理」から離れている。
「自己意識(から生じる分別)」の硬い殻を、何らかの方法で異なる時空間へと運び、経験という消化液で溶かし(知恵の体得)、新しいイリュージョン(神話)を創造しなければならない。それが「理」に適うこと。 
 新しいイリュージョン(神話?)というのは、おそらく、説得力のある新しい世界の掌握の仕方なのだろう。

 こんなんで、006さんの問いに対する答えになっているだろうか。